2011-04-04

流言について

損害額が補償されるようなものなら程度問題としてまだましですが、噂とか流言とかって、ことによるとそれによって人を殺めてしまうくらいに危険なものですよね。直接的に人を殺すまではいかなくとも、ほんの十数年のあいだに、我々は何度もそのようなことを経験しています。ダイオキシンにしても、柏崎にしても、O-157にしても、東海村にしても。もっと昔にさかのぼれば、太平洋戦争(戦前・戦後を通じて)のときや関東大震災のときにも噂や流言は猛威をふるっています。

そのたびに似たことが繰り返されるのですが、いいかげん落ち着きませんかね。身の回りではまだまだ本当に深刻な話を聞きませんが、膨大な数の中小企業経営者たちはまさに今、資金繰りや事業の見通しに頭を悩ませているはずで、絶望感に打ちひしがれている人もいることでしょう。

流言蜚語について寺田寅彦が関東大震災後にエッセイを著し、以下のように結んでいます。

勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更(なおさら)である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察(せいさつ)の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝(さら)す事なくて済みはしないかと思われるのである。

寺田は、流言の源は不可避的に発生するとして、それでもそれを伝播させなければ流言は流言たり得ないとしています。伝播させるからこその流言蜚語だから、その責任は市民自身が負わなければならない、とも書いています。しかし過去に現れた幾多の流言をみると、寺田のいうように科学的常識を各人が持つことで流言の伝播が抑えられるかということには、僕は疑問を感じます。科学的常識を持つことは理想的な話ではあるものの、現実的には省察する態度も中学校レベルの知識も多くの人は身につけていません(怒らないでください。これを読んだあなたはおそらく例外です。そして僕が身につけているかは不明です)。

寺田の論点に抜けているものとして、ひとつは人間の心理状態があげられると思います。発生源にしても媒介者にしても、流言は不安・不満・願望などの感情を合理的に解決する道具として機能している面があります。精神的な緊張は緩和されなければ行き所を無くしますし、もやもやした思いは説明を必要とし、正当化されなければなりません。つまり、故事のいう混沌には目鼻をつけなければいられないように、「充分に合理的だからこそ非合理」だと僕は思うのです。

さらに面倒な話ですが、多くの人には社会的認知欲求があります。「当局が言わないこんなこともわかっちゃう自分スゲー」というようなものもありますし、善意に基づいて「おや大変、大切なあの人にも教えてあげなきゃ」というようなものもあります。また情報の伝達は主に信頼関係で成り立ちますので、「自分にはわからないけど、あのひとのいうことなら」というのもあります。意図的に一次情報を編集するケースはさておき、意図を持たずにも人は情報を編集しますから、伝播される情報は変質する可能性を常に持っています。こうしたものは実に人間的な行いで興味深いですが、合理的かつ冷静に流言を発生・伝播させたりする可能性もある、ということです。

もうひとつは判断の根拠とする情報量があげられると思います。流言は粗忽者が意図的に流すものばかりではありませんし、媒介者も同様です。流言の量は、問題の重要性と状況の曖昧性の積に比例するという、オルポートとポストマンの有名な定式があります。状況の曖昧性は言い換えれば、求められている情報量よりも提供されている情報量のほうが少ない状態ですから、重要な問題でかつ情報量が少なければ、寺田のいうような省察を行おうにもその精度は下がりますし、不充分ままで重要な判断をしなければなりません。そしてそれを伝播するときにも同様の判断が行われ、流言が発生します。情報が追加されればそれは修正されるかというと、世界はそれほど単純には構成されていません。修正されるものもあるでしょうし、より混乱するものもあるでしょう。

結局流言は発生するものです。それを単なる言葉のままにとどめておき、残念な現実を迎えないためには、寺田のエッセイは心にとどめておかねばならないことでしょう。それに僕が付け加えるなら、正確な一次情報を迅速に提供することと、手っ取り早く合理化することなく自分の感情を取り扱う方法を探すことくらいなものです。人間のスモールワールド・スケールフリー的なネットワークに適切に働きかけるような方法もあるかもしれませんが、それは僕が考えるに余るので、誰かに期待します。

えらそうにいろいろ書きましたが、この文章は僕が感情を合理化するために書いています。僕の仕事の一部は地震・津波・原発・停電の他にも風評やムードで大ダメージを受けていますので、一人の経営者として内心穏やかではありません。人にはそれぞれの事情がありますので自粛するなとは決して言いませんが、他人の行動をむやみに抑制させるなと、強く思います。願わくば僕の言いたいことが流言になりますように。

2011-01-25

お茶くみを知りそめし頃

これから書くのは煎茶の話で、抹茶はまた別。

いつからかは覚えがないけれど、僕はお茶をくむことができる。しかし今日お茶をいれて、実は大してわかっちゃいないことに気がついた。茶葉の量はどうするか、急須は温めるのか、一人分のお湯はどの程度か、お湯の温度はいかほどか、茶碗の温度はどうするか、茶葉はどのように選ぶのか、茶葉を急須に入れてお湯を注いだらどの程度待つのか。

はじめて煎茶をいれたのは、小学生の頃だと思う。あまりにも日常的に目にする飲み物なのに、小学生の僕は自分でお茶を飲むことはなかった。お茶をいれる必要が生じたのは、大人(親だったか祖父だったか)が留守の時に来客を待たせなければならなかったためだ。その時は見よう見まねでお茶をいれた。茶碗はどこにあったか、茶碗は同じのを揃えた方がよいのか、というか来客用の茶碗がいくつもあるがどれを使ったらよいのか、普段は使わないが受皿は使うべきか、お茶をいれてから持っていくべきか、それとも来客の目の前でお茶をいれるべきか、茶菓子はどうするか、などなど、大いに悩みながら形だけでもお茶を出したものだ。

長じて高校生の頃、年配の知人(どうでもよいことかも知れないが、京都の人である)から「うまいお茶をいれてやる」といわれた。微に入り細をうがつ説明をうけながら、頂いたお茶は確かにうまかった。それを再現しようと自分で何度も試みたが、その時の感動には及ぶことはない。いまだにお茶を飲む習慣がない僕は、たまにお茶をくむときにはその時のことを思い出しながら精進するのだが、いまだ途は遠いようである。

自分の職場でも訪問先でも、飲み物が振る舞われることがあるが、多少飲み物の味がわかるようになってくると、お茶やコーヒーなどをおいしくいれることのできる人はごく少数であることに気づく。そうした達人は、正しい知識を誰かから授かり、自分の舌で試行錯誤しながら現在の技術を身につけたのだろうが、それは厳しくも幸せな修行だったのではないか。

かつては多くの職場で女子社員がお茶くみを担当していた。性別や仕事内容としてその是非はさておき、正しいお茶くみを知ることなく大人になるより、きちんと教わったうえで毎日お茶をくみながらフィードバックを重ねる経験を積んだ方が、ある意味では幸せかも知れない。少なくともお茶くみを知りそめし頃に、なんとなく行うよりは意識しておいしいお茶をいれるようにすべきだろう。潜在的においしいはずのものを、喉を湿らせる程度にしか役立たないものに変えてしまうのは、もったいないことだ。

2010-12-08

なんちゃって『嵐が丘』

最近は、乗用車で移動することが多くなっています。「多い」というのは、運転している時間が一週間で15時間くらい。2009年3月に買った車の走行距離が、現時点で37,000キロくらい。その運転している時間が何となくもったいなくて、運転中に何かを聞くようにしています。例えばとある講義録を音声だけ流したり、好きな音楽を聴いたり(細かいところまで判らないので、流すだけになります)、Podcastとか落語とか。

そんな風に運転中に聞く王道、オーディオブックを図書館で借りてみました。ひとまずは既読で、ドラマティックなものとして、『嵐が丘』を選びました。『嵐が丘』なら舞台にも映画にもなっているから、オーディオブックも面白かろうと思ったのです。

オーディオブックまたは朗読CDって、原文をそのまま読み上げるタイプのものしか知りませんでした。ところがこの嵐が丘は当然のことながら脚色されたもので、どことなくクスッと笑ってしまいそうな感じなのです。ラジオドラマに似た恥ずかしさというか、舞台役者が体で表現することを禁じられたらこうなるのかな、という恥ずかしさというか。かの『嵐が丘』ではなくて、二昔前のソープオペラのように聞こえ、深夜の運転でも眠気に襲われずにすみました。

俳優に疎い僕にはまったくわかりませんが、「石橋蓮司、広瀬彩、坂本貞美、宮沢彰、前田倫子、中村元則、宇津木真、諏訪善平、二木てるみ」といった面々が出演しています。「サウンド文学館パルナス」というシリーズで他にもたくさんありましたので、怖いもの見たさ半分、また借りてみようと思います。

2010-12-05

『アーキテクチャの生態系』

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』(濱野智史)を読みました。本書はこの手の本にありがちなフォーマットを踏襲し、序論があり、全体の理論的枠組みを説明し、各論を展開し、結論があるというものでしたが、もっとも面白かったのはタイトルにもなっているような総論あるいは理論的枠組みではなく、2ちゃんねるの分析という「各論」にあたるところでした。

本書の出版は2008年なのですが、本書の中でもたくさん言及されている梅田望夫さんの『ウェブ進化論』に対抗している感がひしひしと伝わってきます。梅田さんはアメリカ的なウェブのあり方を称揚して、日本的なあり方を批判(というか、低く見ている)していましたが、濱野さんはそれを相対化します。「生態系」という言葉でうまく言い切れるか微妙だと思いますが、検索可能性の上に乗っかってつくられるウェブサービスの流れと、そうではないものの流れを綺麗に説明しているように感じました。

その中でも2チャンネル、はてなダイアリー、ニコニコ動画のコメント機能の分析は素敵でした。情報のフローを重視してコミュニティの閉鎖性を排するということや、機械的にゆるくリンクされるために匿名的なコミュニティーが形成されるということ、擬似的な同時性を形成することなど、はたと膝を打ちます。

日本のウェブサービスや情報端末製品は、「ガラパゴス」として揶揄されることが多いですが(ガラパゴスに失礼だと僕は思います)、局地的に発展する機能はその中心ユーザのニーズによって変化すると考えれば、日本のサービスや製品は上手く適応していると考えられるのですよね。本書はそんな価値観の逆転というか、多文化主義というか、そんなところが素敵でした。

ただ、もう少し詳細に見ればまた少し違ったことも言えるのではないかな、と僕は思います。本書の視点は基本的に、アメリカ発祥のサービス対日本発祥のサービスというものでしたが、アメリカ発祥のサービスであってもユーザの偏りがあることはすでに知られたことです。Facebookはフランス・ドイツ・イタリア・スペインといった非英語圏でもトップシェアですが、日本ではやっぱりmixiです。中国ではQQだし、もっともSNSのヘビーユーザが多いといわれるロシアではVKontakte、ブラジルでは不思議なことにOrkut。こうしたシェアの偏りは、決してサービス形態(本書の言葉ならアーキテクチャ)に左右されるものだけでもないと思うのです。