2010-12-04

『虐殺器官』

異様なまでに絶賛される(ように僕には思える)『虐殺器官』(伊藤計劃)を、ようやく読みました。といっても読み終えたのは少し前のことなのですが。

どうも上手く感想が書けないのですが、じっくり考えればもやが晴れるようになるかも知れません。とにかく今のところ、僕はあまり好意的な感想を持てませんし、個人として高く評価できません。

非常にドライな世界観だと思うのですよね。単に戦場であるとか、テクノロジーで諸感覚が制御されているとか、主人公がきわめて内省的であるとか、そういったところは二の次に思えるほどに。

(以下、核心に触れるネタバレにつき、白文字)そのドライなところのなかでも特に世界の終末観に関して、どうしてもジョン・ポールと主人公の言動のあたり、作中での整合性が見えません。どこかの会話や独白で、自分でも本当と信じている類の嘘を言っているかも知れませんが、もしそうだとしたら、それはまた主要テーマに近いところでねじれてしまいます。先進諸国の住民やら愛やらを取り上げる事なんて、なにも必要ないはずです。単にそこ(終末、あるいは死)に惹かれていったからそうする。それだけで充分だったはずなのに、妙にそれっぽい理由付けをしています。その理由付けだって一巡りして陳腐なプロパガンダになることくらい、本書の中でも示されています。(ネタバレここまで)

というわけで、ドライに徹し切れていないところを想像で補わないと、僕には納得ができませんでした。既読の方で僕と同じような引っかかりを感じた人はいませんか?

2010-12-01

『正しく決める力』

『正しく決める力―「大事なコト」から考え、話し、実行する一番シンプルな方法』(三谷宏治)を読みました。するするっと読めてしまう本でしたが、その理由が平易な文体にあるのか、それとも書かれていることになじみが深いためか、あまり判別したくありません。

本書の要旨といえば、正しく決めるためのフレームワークが書かれていて、その枠組みは
・『重要思考』:差よりも重さに注意し、大事なことから考えること
・『Q&A力』:効率よく正しく理解・説明をして、大事なことを問い、答えること
・『喜捨法』:大事でないことを刈り込み、捨てること
という感じです。

この手の本を読み慣れると、書いてあることは既知のものばかりに感じますが、再確認するのもまたよいものです。しかし僕がいつまでたっても正しく決められないのは、正しく決めて正しく実行する力を正しく身につけていないのではないかと、どこまでもさかのぼってしまいます。ですから欠陥の多い我々(少なくとも僕)に向けて、なぜわかっちゃいるけど変われないのかを平易に解説する本があったら、喜んで読みますね。

あと、どうにも腑に落ちないこととして、本当に正しいと言い切れるのかという疑問がつきまといます。仮に256個の選択肢があるとして、この手の本ではそのうちのただひとつが正しいとされるかのような印象を受けますが、僕の感覚では明らかに正しい選択肢と明らかに正しくないのはそれぞれ26個くらいのように思えます。その26個くらいの選択肢のうちどれかひとつを疑いなく選べるのなら世界は幸せに感じられるでしょう。しかし経験から言えば、顔では自信たっぷりに決定をしていても背中には冷汗がダラダラと流れていて、かといって不安そうにしているわけにもいかないのでやせ我慢している、というのが実情ではないでしょうか。

ものごとを単純化すると気持ちよいし、シンプルな理解は強力な実行力を生みそうな気もします。ですが僕は世界の単純さよりも複雑さを信じていて、大事ではないと思って切り捨てた蝶の羽ばたきがどこでハリケーンを起こすかわからないと思っていたいのです。結果として、自信を持って言いきれないということは自信を持って言える、という変なことになり、こうして韜晦していくのです。

2010-11-30

「子どもサッカー」雑感

新聞を読んだら、就職に関するシンポジウムの記事がありました。その中での勝間和代さんの発言に、「子どもサッカーをやめて、大人のサッカーに移行すべきだ」というものがありました。新聞紙上に抄録されたものですから真意はよくわかりませんが、就職活動をする学生が、限られたリソースに全員が集中してしまうのではなく、効率よく目的を達成させるためにフォーメーションや戦術を工夫して、自分のポジションを確立するように、ということだと思います。

比喩が適切かどうかはともかく(僕は不適切だと思います)、勝間さんの日頃の発言もともかく、「子どもサッカー」ということだけを思い返しました。

僕が小学生の頃、やっぱりボールに全員が集中してしまうサッカーをしていました。そうすると個人の能力ばかりが決め手になってしまい、勝てる相手にはいつも勝てるし、負ける相手にはいつも負けます。ですから我々のチームは変な作戦を立てました。その作戦とは、1.自分たちよりも地力の弱い相手ならばいつも通りにする。 2.自分たちより地力の強い相手なら、ボールをすぐに外に蹴り出す。というものでした。

みんなでよってたかって外に蹴り出し、スローインされたボールにもまた群がって外に蹴り出す。これで時間を稼いでPKに持ち込むのです。PKなら、普通に試合をするよりも運任せだったり身体能力に左右される度合いが小さかったりで、勝てる見込みが大きくなりそうだったからです。

対戦相手や学校の先生からは、ものすごい不評でした。試合がとてもつまらないし。でも子どもなりに頭を使い、基礎体力の向上を図ったり戦術的な練習もしなくてすみ(そんなのは充分な時間と指導者が必要です)、しかも実際に勝つ可能性を高めるのですから、やり方としてはよかったと思うのです。これを勝間さんの就職に関する発言に無理矢理絡めると、どういう事になるのでしょうね。

2010-11-29

結婚式と手袋と決闘と

先日、会社の同僚の結婚式に出席しました。新郎(同僚)は40歳で新婦が26歳という年の差に少しびっくりしましたが、出席者の振る舞いの違いにも興味深いものがありました。新郎は会社で役員を務めるせいか、取引先の方も多く出席してくれていました。一方新婦側で仕事関係の出席者は職場の同僚のみで、幼児教育関係ということもあってかあまりギラギラしたところがありません。

結婚の儀式が終わり、偉いひとの祝辞を聞いて乾杯したら、新郎側の出席者(男性ばっかりで、黒々としています)は各々席を立って他のテーブルへ飲み物をついで回り、名刺を交換したりします。その時に新婦側の出席者は(女性ばかりで、色とりどりに鮮やかです)料理に手をつけ、テーブル内で話をしたり、新婦と写真を撮ったりしています。見た目の色の違いも含め、こうも対照的な結婚披露宴は久しぶりでした。

結婚式がプライベートなものだけではないことはわかっているつもりです。血縁関係の同族を認める儀式で、社会的つながりを強化する舞台で、たとえ人前式であっても宗教的な通過儀礼です。経済的に見れば財の交換だったり、離婚コストを高めるための保険だったり、バタイユの言う消尽や蕩尽だったりするかも知れません。様々な習俗が混ざり合ってしまい、昨今の結婚式では「それは一体どんな意味があるのか?」と疑問に思うことも難しくなりがちですし、かなり怪しい曰くをつけることもありますが、由来を辿ればきっとどこかに行き着くことでしょう。

そんなことを気にしながら食事をしていて、新郎の白手袋に目がとまりました。この手袋って、実際には使いませんよね。実に儀礼的で美しいものですが、意味が重すぎます。自衛隊に勤務している友人の結婚式ではサーベルを着用していましたが、それと同じようなもので、宗教的な穢れとかに配慮すると同時に、衣装で上下関係を表すものなのでしょう。そう考えているうちに、決闘の申込みに手袋を使う事を思い出しました。

どうして手袋なのだろうと前から疑問に思っていたのです。手袋を投げつけたり、手袋で叩いたりするには、まずは常時手袋を持っていなければなりませんしね。ところが結婚式における手袋の意味を考えたら、結構すんなりと解釈できそうです。決闘の第一義は個人間のいざこざを解決することでしょうが、法制史の流れと同様、社会的に同意の得られる取り決めとして各人が了解していなければ成り立ちません。

それで、決闘の歴史に興味が湧きました。ひとまず検索して引っかかった、『決闘裁判―ヨーロッパ法精神の原風景』と『図説 決闘全書』に目を通すつもりですが、どなたかおすすめがあったら教えて下さい。