どうも近頃「本当の自分」とか「人生の目標」とかが気になってしかたがない。僕自身の考えは、それらのことを考えるのはナンセンスである、というように一貫しているが、そうは考えない人も多数いることは承知している。
特に経営層(起業家含む)や管理者層によく見受けられるが、「夢を実現する」とか「目標があってこそ行動がある」とか読んだり聞いたりする。確かにそれらのことは正しいと思う。しかし僕が気になるのは、そもそもその夢や目標はどこから来たのか、ということだ。特に人事評価に「目標管理」が込められていたりすると話は厄介だ。
目標を達成することは、日頃の業務を行う上で様々な制約がなければ比較的たやすい。もちろんたやすく達成できる目標を設定した場合だが、このような目標なら立てる必要もなく、形式的なものになってしまう。逆に達成困難な目標を設定した場合、達成の障害となるのは外的要因もさることながら組織の内部的要因なことも多々ある。つまり企業活動で目標管理を個人の業績評価に用いる場合、その個人にどれだけの裁量権があるかによって、目標管理の有用度が異なる。もちろん経営層には目標管理が有用だろうが、一般的な社員には飾り物でしかなくなってしまう。
次に、そもそも目標を設定する事自体が非常に難しいということだ。取ってつけたような目標ならば比較的たやすく設定できるが、果たしてその目標は立てた本人の幸福に結びつくだろうか。例えば僕が金融資産10億円を生涯の目標にしたとする(これが妥当な数字かどうかは問わない)。しかしそのために払う犠牲は大きいだろうし、そもそも僕は10億円も使う必要も使える自信もない。
取ってつけたような目標(没個人的な目標)を立てる意味がないならば、目標は何を根拠にして立てればよいのか。僕が思うにはその人がどのような経験をしてきたかに依存する、としか言えない。企業活動の中でも家庭生活でも、その人が何を快く感じ、何に嫌悪するかがそのまま(あるいはまったく逆のことが)目標の根拠になるのではないかと思う。これを言い換えると、自分の幼年期から現在に至るまでどのような経験をしたか、自分が収入を得るようになってからこれまでにどのような経験をしてきたか、そうした蓄積をきっちりと記憶している(あるいは意識的に思い返す)ことが目標設定の根拠になるのだ。
また企業内に話を戻して、個人の業績評価に目標管理を盛り込むことに、僕はそれほど異議を唱えない。しかしそれはある程度の経験のある人間にのみ適用させてこそ意味があるし、指示される人間に適用させるのは無駄というものだ。
かく言う僕は、それほど目標を持っていない。とりあえず「できること」しかしないつもりだし、「できないこと」はなるべく避けるようにしている。そしてできるだけ「やりたいこと」をするようにして、それが「やるべきこと」と沿うようにこっそりと画策している。その程度でも充分役に立つ「目標管理」なのではないかと自画自賛している。なにも大上段に構える必要はないのだ。
2007-10-30
目標と経験
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