大方の予想を裏切って、息子がかわいくて仕方がない。不満そうな顔をしていてもよし、満足げな顔をしていてもよし、泣いてもよし、笑ってもよし。どうしようもない。
生後2ヶ月にならないような乳幼児の表情は、必ずしも本人の意思を反映したものではないとは思う。当人には複雑な感情が生まれているかどうか疑問だからだ。しかし顔面の筋肉を操ることに慣れていないためかどうか、実に多彩な表情をする。それを読み取るのはこちらの勝手だ。思慮深そうな顔もするし、途方にくれたような表情もする。こちらがどうにも解釈できない表情もする。
これは口から発せられる音と同じことだ。まだ言葉を覚えていないから、日本語にも英語にも(仏語にもその他にも)ないような音素の音を出す。そのうち神経回路が固定し、顔面の筋肉と感情とがリンクしたらそれなりに意味のある表情として他人の解釈と一致することだろうが、それも少し惜しいような気がする。
それにしても繰り返すが、かわいくて仕方がない。馬鹿と呼ばれてもよい。現状では快・不快程度ならかなり精度高く解釈できるが、抱っこをしないと不快な表情をするし、そのうち泣き出す。抱っこをしないとなかなか眠らない。したがってべったりと抱き続けるわけだが、こちらにもこちらの事情があるので解決策を探していた。バウンサーと呼ばれるものがよいらしいと聞いて、早速ベビービョルン ベビーシッター 1・2・3 なるものを購入した。これは乳幼児を少人数で育てる親には福音ではないかと思われるほど効果があった。とりあえずバウンサーに乗せて揺らしておくと、しばらくはご機嫌な様子だ。もちろんお腹がすく、お腹の調子が悪い、おしめがぬれているなどの生理的現象で不機嫌になったときには効かない。
なぜ揺れているとご機嫌なのかは不明なので、一考の価値がありそうだ。とにかくかわいい。
2007-11-28
息子がかわいすぎる件について
2007-11-26
東西の壁
僕は関東風の味付けで育ったが、自炊をするようになってからはもっぱら関西風になった。『ノルウェイの森』の登場人物ではないが、料理の参考に読んだ本が関西風だったからというのも理由のひとつだが、僕自身の好みがそうさせたということもある。しかしものによっては関東風の料理のほうが好きで、東西折衷という感じだ。
そしてうどんだが、断然関西風のうどんを好んでいる(これは幼いころからうどんが好きではなかったという「家庭の味」への恨みもあり)。これは常識の範疇にはいることかもしれないが、興味深いことに、カップめんでも東西で味が違うそうだ。日清どん兵衛の場合、関東ではカツオ、関西では昆布の味を強くしているそうな。
日清食品の東西の境界線を教えてくださいによると、
「味の境界線(日清のどん兵衛の場合)」は、名古屋地区を境界線とし、 ここより東(東:愛知県、岐阜県、三重県を含む)を東日本用、ここより西(福井県、富山県、石川県、を含む)西日本用として 販売しています。だそうだ。
この境界線が妥当かどうか、マーケティングの専門家が決めたのだろうからきっとそれなりの理由があるのだろうが、僕は関西風のものを入手したい。現在僕は関東に住んでいるが、関西に行ったら「どん兵衛」を食してみようと思う。関西在住の人に送ってもらうように頼むほどの厚かましさはない(そういえば先日「鶴橋風月 塩そば」というのを関西の人から送ってもらったけど)。
2007-11-25
復讐するは我にあり
巷で話題の「マンガ嫌韓流」を遅まきながら先日立ち読みした。僕はかの国の文化や風習などに多大な敬意を払っているつもりだし、日本の報道機関がどのような形であれ偏向していることも承知しているつもりなので、書いてあることは事実は事実(どこまで事実かは自分で検証してみないことにはなんともいえないけど)としておいて「嫌韓流」というまでのネーミングはどうかと思った。
読んでいて気になったのは、やたらと「日本」という枠にこだわることだ。当然のことながら、自分の国というのは他国がなければ成立しない。一般に言えることだがこれは、うそや裏切りは信頼が先行していないと存在しないのと同じことだ。そしてうそや裏切りと同じように、自国に対する信頼がなければ「愛国心」も存在しない。
常々不思議に思っていることだが、アメリカや中国のようなわずかな福祉しか提供していないような国ほど「愛国心」を国民に要求している。もっとも国家自体が抽象概念であり、たいていは戦争や強奪によって形成されたものだから、それを拡散させないためには宗教的忠誠心を要求するものかもしれないが。しかし「愛国心」は本来自発的に差し出されるものであり、誰かから要求されるものではない。裏切るという行為は信頼を前提にしているが、その信頼は強制されるものではないのに、個人や集団が裏切られたと感じるときには、集団内で他者を信頼する義務を負っているという前提がある(などと書くと妻帯者である僕は少し胸が痛むのはなぜだろう)。
現在の日本も、それなりに「愛国心」を要求する国になっているように感じる。誰もが知っている十七条憲法をウィキソースから引用すると「以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。」とある。超訳すると、「仲良くして争いごとを避けなさい。一般に内輪でかたまったり人格者が少なかったりするから、人に従わなかったりお隣さんと喧嘩するけど、みんな仲良く話し合えば自然と道理に適い、どんなこともうまくいくよ」という感じだ。
儒教には「和」という徳目がないとか、論語に似たような記述があるとかいろいろいわれているから、この考え方が限定された地域に飛鳥時代以前からある文化的特徴なのか、それともいつの時代にか文化的先進国から輸入されたものなのか(たとえば儒教文化圏)は専門家に任せる。しかし奈良近辺に昔生活していた天才(これも聖徳太子なのか日本書紀の編者なのかわからない)がこれを書いたことは確かだ。文化的遺産は国家のアイデンティティと同一ではないが、この概念は日本列島に生活する人に根強く残ったと思う。
そしてこうした「和」という徳目が徳目として機能しなくなると、「愛国心」の強制のようなものが台頭してくるのではないかと、漠然と思った。「嫌韓流」が成立するためには、すでに自らの属している集団内での信頼を所与のものとすることができなくなったためではないか、とマンガを立ち読みしながら思った。
2007-11-19
かくて方言は定着する
先日、接客がマニュアル化されていることで有名な某ハンバーガーチェーン店に行き、コーヒーを注文した際、店員から「お召し上がりですか?」と聞かれた。もちろんコーヒーはいただくので僕は「はい」と答えたが、正しい受け答えだっただろうか。
従来は「店内でお召し上がりですか?」とたずねられたものだが、気になったので(僕はこういう細かなくだらないことに多くの時間を使うのだ)その後30分ほどレジカウンターの声が届く範囲で耳をすませていた。その店には日本語を母語としない人もそれなりに訪れるのだが、驚くべきことに店員は全員が「店内で」を省略していたし、客は誰一人としておかしな受け答えはしなかった。
もちろん言語は簡略な言葉へと変化する。「左様なればおいとま致しましょう」は「さようなら」になるし、「今日は良いお日柄で何よりよろしいことです」は「こんにちは」になる(たぶん)。しかし「店内でお召し上がりですか」の「店内で」を省いたら、普通に解釈すれば「食べますか」と同義だ。こういう解釈の仕方は四角張っているので面白くないことは重々承知の上で言うが、食べますかと飲食店で聞かれたらほとんどの場合はYesと答えるだろう。
面白くないので違う解釈をしてみた。
1. そもそも「店内でお召し上がりですか」自体が省略された言葉である
これは「店内でお召し上がりですか、それともお持ち帰りいたしますか」の省略で、僕はその前提を知らないままこれまでの人生を過ごしてきた可能性がある。みんなこれくらいのことは社会常識として知っているのだ。ついでに言えば客が「お持ち帰りです」とか言うのも不愉快だが、これも体言として定着している可能性がある。「お持ち帰りJKを即GET」みたいな使われ方も一部ではするようだし。
2. 近頃は食べない客もいる
岡田斗司夫氏の『いつまでもデブと思うなよ』で「レコーディング・ダイエット」が有名になったが、注目すべき点は記録すること以外にもあり、食べずに捨てるということだ。ZAKZAKの記事「これぞ究極のオタクダイエット(9/5)」から引用するが、
メガマックは4つに切って3つを捨てる。ソフトクリームは3分の1だけ食べてポイ。ポテトチップスは5枚だけ選んで残りは水をかける。もっと欲しければ、また買いに行くというルールだという方法をさらに追求し、消費という性質を突き詰めて、購入したところで欲求が満たされるようにまで磨きをかけることができるかもしれない。
あれこれ書き連ねたところで、僕が阿吽の呼吸をわかっていない堅物である、という以外の結論は見えない。
2007-11-17
考えろ
ふとしたことから知り合った日本に留学を希望する人から、「入学に際する面接試験で『どのような出来事やニュースに興味があるか』という質問が良く出されるそうなので、どんなふうに答えたらよいか」と相談を受けた。
たとえば僕の場合は、CGMやSNSなどに興味を持っているし、仕事にもしているので、それらのニュースはできるだけチェックしている。ほかにもホワイトカラーの労働生産性をどのようにあげるか、といった問題意識は常に持っているので、そうしたニュースも入手する。それに情報技術関係のニュースも拾い集める。例えば最近のニュースで言うならmixiの社長の講演の「mixiが独り勝ちできたのはコンテンツが動的なためだ」という発言には感心した。ネットワークの外部性が働いたことが一番の原因ではないか、と思いながら。
大学の入学試験で聞かれるのは、それらのニュースを情報として受け止めたら、同じような情報を幅広く持っているかどうか、それらの情報を自分できちんと理解しているか、それらの情報に対する意見をきちんと持っているかどうか、そしてその意見に基づいて行動がおこせるかどうか、ということだと思うので、他人にどんなニュースがありますか、と聞いてもあまり意味はないと思う。
件の相談に関しては、「どんなことに関心を持っていますか? たとえば日本と中国の関係についてどう考えていますか? 流行や文化についてどんなことを感じていますか? どんなことが好きですか? 最近の経済や企業活動について怒ったりあきれたりしたことはありますか? そうしたことから自分なりに問題意識を掘り下げていくことが大学では求められると思います」とえらそうに答えたが、つまりきちんと考えることのできる人に大学に入ってほしいだろうと、大学関係者でもないくせに勝手に想像している。
アドバイスを求められた僕の意見ではなく、面接試験に臨む本人の意見が大切だということ。日頃感じたり思ったりすることとニュースを結びつけて考えることが必要だということ。安易な回答ではなくなってしまったが、真剣にアドバイスをするとなると僕の気になっているニュースを教えることではなく、どのように関心のあるニュースを見つけるか、というほうが大切だと思う。所詮他人事なので、そのように突き放した言い方ができるのかもしれないが、そうしたことは留学予備校では教えないのだろうか。件の留学希望者には、ぜひ張り切って考えてほしい。
2007-11-16
うつ病と社会復帰
よく言われていることだが、うつ病が発症したなら即休職すべきだと思う。うつ病の状態で働いたとしても、周りに迷惑が広まるだけだし、本人にとっても状況は悪化する一方だ。本人としては勤務環境が悪化するのは自分の責任だと考えがちだが、病気が原因と考えるほどの客観性を持っていないので、坂道転がる雪だるまよろしく、悪いほうへと偏ってしまう。
うつ病からの社会復帰に向けて--心の病と戦う技術者たち(3)という記事によると、
うつ病になると極端に悲観的になったり、理想化した観念を抱いたり、自分を過小評価したりと、客観的な視点が失われることもあるとのことだがまったく同感だ。
「コップの水が残り半分しかない」「まだ半分ある」という使い古されたたとえ話がある。他にも僻地の調査に赴いた靴のセールスマンが、ひとりは「靴のニーズがないので販売見込みなし」、ひとりは「誰も靴を履いていないので販売見込みあり」と報告する陳腐な話がある。こんなありきたりの話と同じことにしてしまうのも僕の自尊心が許さないが、実は同じことだ。見えている現実をどのように解釈するかはその人しだいであり、その人が病的な状況にいれば病的な現実が見えてしまう(僕は常に病的な現実を見ているかもしれない)。逆に冷静になってみれば、かなり悲惨な現実でもどうにか乗り切ってしまえるのも人間の常だ。
ただし、職場への復帰は難しいとしかいえない。うつ病は再発しやすいらしいし、うつ病の既往歴がある人を雇いたがる会社も正直なところ多くはないだろう。
早く病気に気づけばそれに越したことはないが、気づいたところで身動きの取れない悲しい現実がある。企業の人材を無駄に消費する就業環境と、職場を離れた人材をうまく掬い取れない採用環境の両方に歯軋りする思いがある。
2007-12-26追記
検索して訪れる人もいるので、参考までに自分だったらどのような職場復帰を望むか、ということを書き加える。まずは休職、安定してきたら職場の入り口まで出勤、次はデスクまで行ったら帰る。それができたら次は午前中だけデスクにいて勝手なことをする。さらに時間を延ばして同じことをし、徐々に簡単な仕事をするようにして職場に慣れていく。そしてそれを同僚も上司も含めて納得してもらうことが望ましい。あくまで希望だが。
2007-11-02
ベストセラーの罠
かつて『三色ボールペンで読む日本語』という本がベストセラーになった。近頃では『レバレッジ・リーディング
』という本が売れた。両者に共通する主張は「本を主体的に読むこと」にあり、本に書き込みを入れたりページを折り曲げたりすることを推奨している。
この読み方には決して反対はしない。僕も自分で読むときにはそれなりに本を汚して読むことも多いし、結果として本が汚れてしまうことも多い。しかし先日古書店を物色していて思ったのは、その手の本が古書店に並ぶことが少ない、ということだ。あくまで僕の主観的で限定的な感想ということは付け加えるべきだが。
ここに著者のさりげない策略があるのではないかと勘ぐってしまった。風がふけば桶屋が儲かるではないが、
- それらの本を読む
- まだ記憶が新しいうちに実践する(読みながら実践する)
- それらの本は汚れる
- 読み終えて、不要と思って古書店に持っていく
- 汚れているので買取価格は無きに等しくなる
- どうせなら売らずに手元においておこうかと思う
- 古本の流通量が減る
- 書店の流通量は古書の流通量に影響を受けにくくなる
- 本が売れる