2007-11-25

復讐するは我にあり

巷で話題の「マンガ嫌韓流」を遅まきながら先日立ち読みした。僕はかの国の文化や風習などに多大な敬意を払っているつもりだし、日本の報道機関がどのような形であれ偏向していることも承知しているつもりなので、書いてあることは事実は事実(どこまで事実かは自分で検証してみないことにはなんともいえないけど)としておいて「嫌韓流」というまでのネーミングはどうかと思った。

読んでいて気になったのは、やたらと「日本」という枠にこだわることだ。当然のことながら、自分の国というのは他国がなければ成立しない。一般に言えることだがこれは、うそや裏切りは信頼が先行していないと存在しないのと同じことだ。そしてうそや裏切りと同じように、自国に対する信頼がなければ「愛国心」も存在しない。

常々不思議に思っていることだが、アメリカや中国のようなわずかな福祉しか提供していないような国ほど「愛国心」を国民に要求している。もっとも国家自体が抽象概念であり、たいていは戦争や強奪によって形成されたものだから、それを拡散させないためには宗教的忠誠心を要求するものかもしれないが。しかし「愛国心」は本来自発的に差し出されるものであり、誰かから要求されるものではない。裏切るという行為は信頼を前提にしているが、その信頼は強制されるものではないのに、個人や集団が裏切られたと感じるときには、集団内で他者を信頼する義務を負っているという前提がある(などと書くと妻帯者である僕は少し胸が痛むのはなぜだろう)。

現在の日本も、それなりに「愛国心」を要求する国になっているように感じる。誰もが知っている十七条憲法をウィキソースから引用すると「以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。」とある。超訳すると、「仲良くして争いごとを避けなさい。一般に内輪でかたまったり人格者が少なかったりするから、人に従わなかったりお隣さんと喧嘩するけど、みんな仲良く話し合えば自然と道理に適い、どんなこともうまくいくよ」という感じだ。

儒教には「和」という徳目がないとか、論語に似たような記述があるとかいろいろいわれているから、この考え方が限定された地域に飛鳥時代以前からある文化的特徴なのか、それともいつの時代にか文化的先進国から輸入されたものなのか(たとえば儒教文化圏)は専門家に任せる。しかし奈良近辺に昔生活していた天才(これも聖徳太子なのか日本書紀の編者なのかわからない)がこれを書いたことは確かだ。文化的遺産は国家のアイデンティティと同一ではないが、この概念は日本列島に生活する人に根強く残ったと思う。

そしてこうした「和」という徳目が徳目として機能しなくなると、「愛国心」の強制のようなものが台頭してくるのではないかと、漠然と思った。「嫌韓流」が成立するためには、すでに自らの属している集団内での信頼を所与のものとすることができなくなったためではないか、とマンガを立ち読みしながら思った。

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