飛行機の窓に思いを馳せた。まず第一のとりとめもない思いは、飛行機の窓はどうして座席数とシンクロしないのだろうということだ。電車や乗用車、バスの窓はシートとシンクロしている。しかし航空機の窓はシートとシートの間にあったり、なんだか中途半端だ。
そもそも飛行機に窓をつけるということ自体、非常に無理がある。機体は様々な力を各方向から受けるため、窓のような構造の弱いものをつける余裕があるなら、その分剛性を高めたいだろう。
地球の自転方向と並行に移動する飛行機なら、それほど窓の必要性があるとも思えない。いつだって昼だったり夜だったりする窓の外の風景を見ても、それほど刺激的ではない。離着陸時の風景は確かに楽しいが、高度1万メートル近くで水平飛行する時の風景はそれほど楽しくない(僕の主観だ)。しかし人間の窓を望む欲求は時に合理性よりも優先される。例えるならば、特異な業務形態にあわせてパッケージソフトを大幅に改変するような不条理さを、航空機設計エンジニアたちは覚えていることだろう。
その不条理さを押しのけて作られた窓の形態は、諸賢がご存知のように角の丸い方形だ。そこから第二のとりとめもない思いが始まった。川原正敏の漫画で『海皇紀』という作品があるが、その中で帆船やガレー船で窓の丸いものがあったような記憶がある(砲門は四角だったが)。記憶の間違いかもしれないが、木造船は舷窓を丸くする必要はない。木材、特に水分を含んだ木材は弾性に富み、波によってきしんでも、きしみを船体全体で分散させることができるからだ(この認識は間違っているかもしれない)。しかし金属は負荷のかかる部分から金属疲労を起こし、舷窓が四角ければ四隅から劣化していく。
航空機の窓も同じ理屈で、力の分散をはかるために窓に角をつけていない。人間の不条理な要求に対する譲歩として、優れたソリューションである。しかしその優れた解決も、まだ人間の要求に完全に応えていない。シートひとつにたいして窓ひとつ(あるいはふたつ、それ以上)という要求は非常に贅沢なものだ。このあたりからはエンジニア的発想よりは経営的発想になってしまうが、最大積載重量とシート数の折り合い、一人の人間がどれだけのシート間隔なら苦痛を感じなくともすむかという費用対効果、などなどの兼ね合いから、窓をシートとシンクロさせることが別なロジックで不可能になっているのだろうと想像する。
まあ、飛行機に乗って存分に窓の外を眺めたいなら、設計エンジニアたちの苦労を偲びつつ、ちょうどよいシートになる幸運を祈るかビジネスクラス以上の料金を払うことだ。
ついでに思い出したが、高校生の頃に某航空会社の某国内線に乗ったとき、乗客は数えるほどしかいなかった。古き良き時代であったろうか、それとも現在でも同様な状況だろうか、確認はしていない。
2007-09-09
窓雑感
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