ヒトはネオテニーとして生まれるという記事がどのように「SEは中流を目指せ」と関連するのかよくわからないが、とにかくタイトルに惹かれて読んだ。著者の主張には賛成するが、論旨には賛成できない。
1. 利己的な遺伝子
リチャード・ドーキンスは、遺伝子自体が計画や企図をするとはいっていないし、遺伝子が意識的に自己を保存しようとするよう個体に働きかけるとはいっていない。竹内某女史のようにセンセーショナルでエキサイティングなことを書く人もいるが、利己的な遺伝子は行為者に働きかけるわけではない。あくまでも進化は変異を前提とするし、変異する単位は遺伝子だ。生物の個体は進化をするのではなく、成長して繁殖して死ぬだけだ。
2. ネオテニー
常識的なことだと思っていたが、人類は確かにネオテニー的な動物である。それと能の発育とは少し文脈が異なる。頭蓋の形を見ると、ヒトの胎児はチンパンジーの胎児とほとんど同じである。そして霊長類は哺乳類の中でも発育の速度が遅いほうだが、ヒトはその中でも発育速度が極端に遅い。さらにチンパンジーと比べると、ヒトの大人は幼児とそれほど変わらない特徴を持っている(ヒトは大人でもチンパンジーの幼児と良く似ている)。こうしたことがネオテニーの原因となっているが、ネオテニーとして生まれる、という言いかたでは上手く馴染まない。ヒトの大人は幼形成熟して猿の赤ん坊と似た形の大人になる、というくらいに理解しておいたほうがよいと思う。
つまり、発育の速度が遅いことと、脳の発育のタイミングが遅い(サルと比べると幼少期が長い)ことは別の話である、ということ。またヒトの特異な性質として、柔軟な行動や遊びが幼少期を過ぎても見られることがあげられる。これもまたネオテニー的性格の所以だ。個性云々や人格云々はネオテニーをもって語るにはおかしい、ということだ。
2007-09-27
利己的な遺伝子とネオテニー
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