2007-09-18

光あれ

なんとなく覚え書き。

僕の持っている聖書の創世記には以下のように書いてある。元は旧字だが新字にかえ、一部ひらがなにして引用する。

元始に神天地を創造たまへり 地は定型なくむなしくして黒暗淵の面にあり神の霊水の面を覆たりき 神光あれと言たまひければ光ありき 神光を善と観たまへり神光と暗を分ちたまへり 神光を昼と名け暗を夜と名けたまへり夕あり朝ありき是首の日なり

僕の気に入っているのは光あれ、というところだ。一切の無の状態に神がいる。天地を作る。そして光がある。さて、この光を光と認識したのは誰だろう。神が神ではない異物(光)を生み出し、それによってさらに異物(闇)が生まれ、天地を見ることができた。神自身には、この神ではない何か(光と闇)を認識することができないのではないか、という風に僕は思う。

神は単体では神であることができない。光が生まれた時点で、その光を認識した何者か(神自身の中にいる他者かもしれない)がいなければ、世界は神だけで終わってしまう。それなのにきちんと光があり、闇があるのは、神以外の何かがそこにあったからであり、つまりは一切無が「あった」からか、神が他者を内包していたかのどちらかだったり。

もしもこの創世記の冒頭を読んですんなりと納得できる人がいたら、その人が光を認識できる人であり、神以外の何かである。つまりこの場面には「私」がいるわけだ。

こんなことを書いたら信心深い人に怒られるだろうと思うが、これを読む人には信心深い人がいないと想像する。まあ、単なる本好きの想像と落書きでしかないので、目くじらを立てられることもあるまい。

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