「学校裏サイト」で広がるいじめというコラムを読んだ。筆者の言を僕なりに要約すると、
- 裏サイトでは加害者の匿名意識がいじめを増長させる
- 保護者、学校、警察、ISP、携帯キャリアなど各関係機関は対応をするべきである
- いじめている子どもには親子関係の愛情問題がある
- 教師は全ての生徒に目をやれるよう、小人数学級にするべきである
まずは匿名性について考える。いじめる側の身元がわかりにくいからいじめる側のハードルが低くなり、いじめに参入しやすい、と筆者は書いているように読める。この対応として関係機関が身元割り出しをするとか、ネットに触れることを親やISPやキャリアが規制する、というものを筆者はあげている。
この対応は「本来子どもはいじめに加担しない」という前提がなければうまく機能しない。どのような対応・規制をしようとも「本来子どもはいじめに加担する」ならば、どのような形かわからないがいじめは依然として行われるだろう。そして新たに行われるいじめに対して後から対応を追加していくと、結果としてがんじがらめの規制・監視をする羽目になり、対応する側の負担が上限を越えるだろう。
次に愛情についてだが、「子どもによせる愛情が足りないと、その子どもはいじめをするようになる」という話には、かなり違和感を覚える。これも全ての親が充分な愛情を子どもによせなければわからないが、それでもいじめがなくならなかったらどうなるだろう。そうまでいわなくとも、一人の親が充分な愛情を子どもによせていて、それでもその子どもが他人をいじめるようになったらどうだろう。
現在の学校教育制度の中では、いじめは必然的におこるものだ、という前提をたてるべきではないかと思う。どのような社会関係であろうともいじめ(と呼ばないかもしれないが)は行われる。いじめという言葉を使わないでいじめを説明すると、おそらく社会的力関係の強弱に基づいて行われる身体的・精神的・経済的暴力ということになるとおもうが、大人の社会でもそれは行われている。ただし大人の社会でそれが「いじめ」と呼ばれないのは、大人は複雑な社会関係を持っていて、また社会を構成する個々人が多様な価値観を持っているからだ。それに比して子どもは単純な社会関係しか持っていない上、社会関係やその社会内で共有される価値観が固定的である。
つまり普通に学校にいく限り、いじめは行われる。学校を監獄と見立てる人が数多くいるが、その監獄のような学校にいき、その学校の子供たち・教師たちは他の社会や他の価値観を知らず、いじめられないようにするための多大な努力に興味を持たないか、あるいはいじめられない努力をしない子どもは必然的にいじめられるのだ。
親の愛情不足にすると「親力」を宣伝するために都合がよいだろうし、もちろん親の力は子どもにあたえる影響は大きい。しかし親子関係だけで学校教育を語ることができないのは当然の理というもので、さらに教師-生徒関係、生徒-生徒関係だけで教育を語ることもできない。本当にいじめが問題なら、学校をふくめた社会の総体を検討するべきであり、生徒や教師や親といった学校教育の主要な登場人物に話をしぼるべきではない。それを検討することが面倒だったり困難ならば、まだいじめは本当の問題ではないのだろう。
例えば交通事故は当事者にとっては非常に大きな問題である。不幸にして亡くなられたかたや、不幸にして加害者になってしまった方もいると思うが、そうした方々に申し訳ないが交通事故はいわば計算済みの「やむを得ない」事柄なのである。本当に交通事故をなくそうと思ったら交通行政の抜本的な変更が必要とされるが、その利害関係者をふくめて検討すると、現状の交通事故数はきっと「しょうがない」レベルである。
学校教育に携わる人は、ほとんど全ての子どもと、ほとんど全てのかつて子どもだった人、そしてほとんど全ての親である。そうした人たちは当然学校教育には関心が深い。それでもなおいじめがなくならないのなら、それは利害関係者にとって「しょうがない」レベルでしかないという可能性もある。もちろん関係各者には真剣に検討をしてほしいが、残酷な結論となることも想像しておくべきだろう。
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