京極夏彦の小説を読んでいて、以下のような文があった。
社会を大海とするならば、個人はそこに漂う藻屑に過ぎない。歴史を砂漠とするならば、人生は一粒の砂でしかない。それでも人にとっては、己の人生だけが世界の凡てである。己の眼を通じて知る世界だけが唯一絶対の世界である。だから一粒の砂と砂漠とを、藻屑と海原とを等価なものとして規定しないと、人は立ち行かない。己は永遠に己としてあるのだと、どうしても信じたいのだ。個の否定は個人にとっては世界の否定に等しい。だから個人は常に主張する。私は私だ−−と。
本当は自分には価値がない、と思うことは、エヴァ的中二病の危険な兆候だ。実際のところは上記のように、社会と比較するならほとんど個人は無価値だろう。ハートマン軍曹は的確に表している。
人種差別は許さん 黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見下さん! すべて…平等に価値がない!(『フルメタル・ジャケット』の台詞だけど、Googleで検索したら引っかかったので、ハートマン軍曹から学ぶ人材教育より引用。このサイトはポップアップや何かがうるさいけど面白い)
しかし社会と個人を比較するまでもない。個人は自分一人で完結するものではなく、自分の周囲の物理的他者・環境や、自分の関係してきた他者を含んだ過去から現在までの記憶の総体が個人としてのアイデンティティかなにかであり、個人と社会(あるいは世界)との境界線は極めて曖昧だ。さらに戯言をいえば、個人と他者の区別さえ曖昧になってくる。というわけで、あえて物理的な個人に限定するなら無価値だし、境界を世界側に広げるとほとんど社会と区別はつかずに極大の価値をもつ(かもしれない)。
こんなことを考えるのは、僕が中二病にかかっているからであるが、決してヱヴァンゲリヲンなんか観ていない。
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