2007-09-20

道具に拘る文化

例えば金融業ならその道の、運輸業ならその道の、さらにいってしまえばホワイトワーカーならホワイトワーカーなりの、仕事のやりかたがあるはずだと思う。それなのに、IT屋さん達はそれぞれの会社にそれぞれスクラッチから作ったようなものを納品したりする。受け入れる側も自分たち流にカスタマイズできないような製品は受け入れなかったりする。

それは現状の費用対効果を考えると無駄なことだ。しかしかつては無駄ではなかったのだろう。仕事の道具や流儀に拘ることで、その仕事や成果を洗練させてきた歴史があるからだ。

例えば出刃包丁があれば大体どんな魚もおろせるとか、鉋ひとつでどんな木もかけられるとか、汎用性の高い道具を使う場合にはそれは芸術といえるほどに洗練された技術がある。仕事の流儀にしても、少しずつ改善していく上で、比類なき完成度にまで至る仕事の流れを作ったりしてきた。

しかしそうした考え方は、もうそろそろやめたほうがよいのではないか、と思う。特にホワイトワーカーの働きかたが、他社に移ったら一からやりなおしになってしまうのは無駄だ。昨今の人材の流動化を見る限り、道具に仕事をあわせるとか、道具に沿うように仕事のやりかたを変えるとかしてもよい頃だと思う。とくにその道具が効率のよい物であればなおさらだ。

例えばviは優れたエディタだと思う。慣れるとこんなによい道具はないと感じられたりする(僕はemacs派だ)。しかしそれはIDEの隆盛を見るとまるで旋盤機に鑢で立ち向かうかのように見えたりもする。本当は鑢の方がよいのかもしれない。鑢は既に完成された道具で、長い使用実績があり、なにより手に馴染むうえ仕事も愉しくストレスなくできたりする。それでもその域に達するまでに長い道を通ってきたことは間違いないだろう。いまここに初めて鑢を使う人間と旋盤機を初めて使う人間がいたら、後者の方が圧倒的に効率がよいはずだ。例え話を元に戻すと、達人でなければviを使うよりeclipseを使ったほうが効率的だったりする。

最もミクロな視点、つまり人間と他者とのインタフェースは(例えるなら包丁の柄、キーボード、話し言葉、車のブレーキ、スイッチ類など)枯れた物、自分に馴染む物を使うのがよいだろうが、もう少しマクロな視点、つまり系と系のインタフェース(例えにくいけど仕事のやりかたとか、機械化できるような作業とか)は道具に人をあわせたってよいのだ。

伝統の職人芸でもない限り、道具に拘り続けて他に遅れをとるよりは、道具は最新の物に敏感に反応してもよさそうなものだ。そもそも「拘る」というのはあまり美しいことではないと思っているし。

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