ここ数ヶ月、料理をする回数は僕の方が配偶者よりも圧倒的に多い。配偶者曰く、僕の方が料理が上手いからだそうだ。確かに僕の方が料理歴は配偶者よりも長い。というのも僕は10年以上前から料理をしてきたのに対して、配偶者は4年程度しか経験がない(ただし、結婚後の三分の一くらいは僕が料理していた)。
料理の腕前が経験で決まるというのは、ある意味では悲しい話である。家庭料理などというものは職人芸でも芸術でもなく、単なる習慣だ。惰性といってもよい。もちろん習慣が悪いという理由もないが、鋭敏な感覚をもってこれに臨めば失望すること間違いなしだ。
例えば僕は今週、ゴーヤチャンプルーをつくった。手間をかけるところなどどこにもない。単純にゴーヤを塩でもんで水で洗い、ちぎった豆腐と一緒にゴーヤを炒め、味をつけ、卵を火が通り過ぎないようにかけるだけだ(料理の道を知っている人は、この手抜きぶりに怒らないで欲しい)。例えばカボチャのポタージュをつくった。タマネギをバターで炒め、カボチャとタマネギを牛乳でゆっくりと煮て、フードプロセッサーにかけ、塩コショウで味をつける。少しアクセントにカリカリに油であげたパンを散らしたり、バジルなどのハーブを散らしたり、クリームを入れたりする。例えばひじきを煮た。ひじきと一晩水につけた大豆とニンジンを油で炒め、油揚を後から入れ、水をひたひたにはって、酒とみりんと醤油で味をつけ、水気がなくなるまでゆっくり煮る。
難しいところなどどこにもない。時間や分量を計ったりすることもなく、単に目分量と勘で適当にこなして、味をみて調整するだけだ。この目分量と勘が経験のなせるところであり、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。
仕事でも同じことがいえる。「ちょっとやっておいて」の「ちょっと」は、人によっては「たくさん」になることもあり、その人がその業務にどれだけ携わってきたかに依存する(例えば僕は事務作業を苦手としているが、配偶者は実にテキパキとこなす)。こうした仕事は往々にして創造でも自己実現でもなく、単なる作業だ。単なる作業が悪いはずもなく、天才的な人が創造的・芸術的仕事をするのでなければ、作業は仕事には必要な部分である。
こうした習慣をのみこめるものとそうでないものがある。先に例にあげたように、配偶者は料理のコツを一向に覚えないし、僕は事務作業のコツを覚えない。必要に迫られればやるが、そうでなければ避けて通るに越したことはないと、お互いに思っている。
しかし覚えておいて損はないだろう。どれもちょっとしたコツでうまくいくのならば、学習コストなど享受できるメリットに比べればたいしたことではない。しかしどう覚えるのか振り返ってみると、僕のちょっとしたコツはどのように身につけたのか説明できないことが多い。それこそ「ちょっとしたコツ」があればちょっとしたコツを身につけられる、としかいいようもない。
これは暗黙知の次元の話ではない。単なる与太話だ。
2007-09-25
ちょっとしたコツ
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