2008-01-06

顔の見えるコミュニティ

三人寄れば文殊の知恵とはいうものの、「みんなの意見」は案外正しいわけでもない場合がある。

日経ビジネスオンラインからの引用だが、

集団思考とは、凝集性の高い(まとまりが強い)内集団で、意見の一致を重視するあまり、取り得る可能性があるすべての行動の現実的な評価を無視する思考様式である
らしい。つまりわかりやすい例で言えばナチスドイツがどのようにして多数の支持者を得て行ったかということだし、良くあげられる例ではケネディ政権のキューバ侵攻だ。

みんなの意見が案外正しいための条件はいくつかある。たとえば各個人が充分に独立していること、各個人の性質はあまり似ていないこと、各個人は充分なばらつきがあることなどで、そのときには各個人の意思決定の集合(統計処理した結果)は案外正しい、ということだ。たとえばビンに1円玉をびっしり詰めて大学生の前におき「いくら入っているか」と聞いたときには答えの平均値がもっとも正しいけど、「支持する政党はどこか」ということを多数決で決めても必ずしももっとも正しいとはいえない。

そうした条件を外れたとき、「集団浅慮」「集団思考」と呼ばれる意思決定が行われたりする。マーシャル・マクルーハンではないが、どのメディアを使うかによって五感の反応は異なり、新しいメディアは感覚の異なる拡張された人間をつくる。そしてマスメディアは「国家」をつくり、「顔の見えない群衆」をつくる。

「顔の見えるコミュニティ」を擁護する(というか復権を叫ぶというか)ことにそれほど異議を唱えるわけではないが、卑近な例で会議を考えると、顔の見える会議からは組織の膿を絞りだすことはできない。というのも一般的に、「顔が見える」と自己開示は抑圧され、「顔が見えない」と自己開示は促進されるからだ。まだ規模の小さかったmixi.jpと2ch.netとを例にとると、mixiは前者で2chは後者だ。組織の内部告発をしたりアイデアだしをするなら圧倒的に後者のほうが適しているし、下手をすると前者では先に書いた集団浅慮の状態になりうる。

「顔の見えるコミュニティ」をつくるときには複数のペルソナを発現させられないと、コンセンサスをむやみに重視する(2chでも空気を読むことが求められるけど)息苦しい世界になりうる。ちょっと前に武蔵野市の調査で、「地域におけるコミュニティへの期待は」という質問に対する答えは、地域の課題解決を求めること(形式知の要求)と地域の親睦を求めること(感情的一体感の要求)が同じくらいの回答数だったことがあった(ソースは失念)。この結果はある意味ではいわゆる社会的紐帯を求める動きとも取れるが、ある意味では集団のコンセンサスを求め、結果として愚かな行動を求める動きとも取れる。

企業内で何らかのコミュニティをつくる場合にも同じことが言える。企業内なら当然顔の見えるコミュニティをと考えるかもしれないが、企業内だからこそみんなの意見が案外正しくなるような、顔の見えないコミュニティを検討しても良いはずだ。

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