あえて書名はあかさないが、ある社会学者の書いた本を読んだ。その本は細部を見るととても面白いのだが、全体を俯瞰するとなんとなくしっくり来ない。
「わたし」という存在が、蓄積された個人情報の方に代表されるようになり、そしてその「情報としてのわたし」があらゆる場所に、わたしを先回りして立ち現れるようになる
こういう文章を読むと「何を当たり前なことを」と思う。情報とは電子記録されたものばかりではなく、他者の五感で感知できて意味をつけることのできるすべてのものと、他者には感知できないけれども個人が発していてそこに意味をつけることのできるすべてのものを指す。そもそもわたしの実態は、他者にとっては情報の集積でしかない。電子情報の比重が重くなったからといって、基本的な図式は変わらないのではないか。
最も確からしい予期は、過去に蓄積された情報からの推測である。したがって過去の情報が参照しやすい状況にあれば未来も推測しやすい。しかし推測するロジックはあくまでも現在の状況に準拠していて、原則的には宿命論や決定論に偏ることはない。
本書では、宿命は「可能性を限定し、それを正当化する根拠」というような定義となっているが、それは電子情報の蓄積された社会でなくとも存在する。例えば代々医者の家系の息子が医学部を受験するのは宿命か。例えば日本に生まれ育ったひとが日本の小学校に入学するのは宿命か。それは宿命の拡大解釈というものだろう。
「わたし」には複数のペルソナがあり、「わたし」は状況に応じて役割を演じるものだ。その「わたし」は統一的な自我をもつと錯覚されつつも、実際には状況によってかなりの部分を規定されている。たとえは僕は社会人として、降りる人を優先して電車に乗る。たとえば僕は一児の父として、子どもと過ごす時間はきちんと遊ぶ。僕は自分の作った仮面によって、わがままを言わないようにしている。その規定を飛び越えることができるのがいわゆる「バーチャル」な世界である。
バーチャルとリアルの境目は、もともと曖昧なものであるが、電子情報として個人情報が蓄積されれば「個人」は以前よりトレースしやすくなる。他者とわたし、国家や自治体とわたし、雇用者とわたし、被雇用者と雇用者であるわたし、生産者と消費者であるわたし、消費者と生産者であるわたしなど、いろいろなケースでわたしをトレースして、それぞれの交渉場面で情報を双方ともに有意義に使うことができるだろう。それは今までも行われてきた「情報によるわたしの特性定位」ことが、形を変えて行われるのではなく、密度を変えて行われるだけだ。
近頃『その数学が戦略を決める』というとても面白い本を読んだが、そこでは大量データ分析による意思決定の話はされていながら、技術決定論のような話はされていない。単に大量のデータを分析して、統計的に確からしいことを導くと意思決定はより確からしくなる、というだけの話であり、社会構造の変容や自我の変容までは語られていない。データの計算結果をどのように社会的に意味づけるか、またはどのようなデータをどのように抽出するかは、これまでどおり人間が考えることであり、もともと可能性は限定されているし、多数の可能性が潜在的には開かれている。
なんて考えたりした。つっこみ無用。
0 件のコメント:
コメントを投稿