昨今「KY(空気読め、あるいは空気嫁。間違えても朝日新聞の珊瑚ではない)」という言葉をよく見かける。他にも「JK(常識的に考えて)」あるいはそれを「常考」と書いたものも見かける(ごく一部の世界では、「JK」は「女子高生」という可能性もあるので、くれぐれも注意したい)。
さて、言われるほどに空気を読むことが求められているのはどういうことか、少し考えてみた。「常識」や「世間」や「空気」や「コモンセンス」や「コモンナレッジ」などはいろいろな人が研究をしているので、僕がそれに付け加えることはなにもない。単なる感想があるだけだ。
常識を相手に求めるのは、開かれた会話の場所ではある意味タブーとさえいえる。異なる文化にいる人がお互いに理解するにはお互いのバックグラウンドを理解しなければならない。そのバックグラウンドを理解する労力はとても大きいので、通常ならより普遍的な言葉や概念で話を進める。例えばプロテスタントの人と話をすると、ある部分ではどうしても一神教的なところと僕の多神教的な考え方がかみ合わないことがあるので、そうした話題を避ける、あるいはかみ合わないと思ったときに言葉をつくして説明をする。
同じ文化で社会化されていると感じる人たちでも、実はかなり違う現実を生きているはずだ。「最近の若いもの」という言葉に象徴されるように、世代間では見えている世界が違うし、どのような教育を受けてきたかでも違う。また職業によってもかなり違うだろう(僕の経験で言うと、「ログイン」とか「データベース」という言葉は通じない可能性がある)。
みんながある特定の同じ知識を持っていると想定するのは、かなり危うい橋を渡る行いだ。まず知識の質に関しての意味論を考えなければいけない。それにメタ認知的なところを考えなければならない。前者の意味論はとりあえずさておき、後者のメタ認知に関して少し説明を加えると、仮にみんなが同じ知識を持っている(例えば地球は自転していると知っている)としても、「それをみんなが知っていること」をみんなが知っていなければならない。さらに「みんなが知っていることをみんなが知っていること」をみんなが知っていなければならないので、きりがない。これをどこかに着地させようとしても、無限のストロークがあるのみだ。
現実的にはどこかで妥協をして、なんとなく空気が作られているものだが、きちんと考えるとそれこそ「空気が読めない」状態になってしまう。僕は空気を読まないことに関しては自信を持っているが、「空気読め」といわれたら「きちんと説明しろ」と言い返すくらいのことはしてもよいではないか。
2008-01-21
「空気読め」
登録:
コメントの投稿 (Atom)
2 件のコメント:
僕はちょっと逆のことを思います。
「空気読め」は常識の上にあるのではなく、
むしろ常識とは異なる「ローカルルール」が前提では?
例えば、広告の撮影にクライアントが立ち会ったとする。
クライアントは出資者なわけだから、
全てにおいて口出しする権利がある。それが常識。
クライアントがNGと言ったら、それは基本NG。
でも、現場の「空気」の中ではそれを超越することがままある。
監督も、カメラマンも、演者も、全員が理屈抜きに「芯喰った」と思える瞬間は、
多少商品がずれていようが、髪型が乱れようが、
いいものはいい。大OK!
ところが、完璧主義なのか、頭でっかちなのか、
そのタイミングでもクライアントがNGを出したとすると、
それは「空気読め」ない人になってしまう、みたいな。
この場合、本心では分からなくても、
「分かった振りをする」ことがその場面のみの
ローカルルールとして暗黙のうちに求められているわけです。
それが読めるか、常識にとらわれて読めないか。
そういう問題のような気がします。
> taiyo
逆ではなく、僕の考えていることとだいたい同じことのようだね。
常識は世間一般に通じるものではなく、実際にはもっと細分化されているもので、その場面に応じた常識(≒ローカルルール)がある、という風に考えているので。
コメントを投稿