2007-09-29

健康にこしたことはないが

ブログヘラルドの投稿経由で、23 Simple Health Tips For Bloggersという記事を読んだ。僕はBloggerではないと自認しているが、健康には関心があるので期待して読んだ。その手のものに関心のある人は、読んでみるのも一興だろう。

面白いのはブログヘラルドにも書かれているとおり、

12. If you're in a healthy relationship, have sex at least once every 3 days. I'm dead serious about this. It can be critical to both mental and physical stability.
というところだ。おおいに参考にさせていただきたいところだが、やはり首を傾げてしまう。そんなに重要だろうか。また個人的なことを話しにくい事柄だが、男性でも女性でも同じことがいえるのだろうか。

話は変わってこの手のTipsは星の数ほどあり、主観的かつ大雑把に観察するところ、多くは健康・モティベーション・生産性などだ。その人が何を大切とするかは「何について語られるか」あるいは「何について語られないか」で若干ながら把握できるものだが、現代的な人たちは上記の事柄に関心が高く、かつ人前で語っても問題のないことと認識しているのだろう。

しかし健康について語ること(しかもセックスしなさいとまで!)は、場合によっては他人を不快にさせやしないかと、僕は躊躇している。ところが一方、不健康について語ることはそれほど躊躇しない。この個人的判断の理由は、第一に人は望んで不健康になるわけではないこと、第二にいわゆる「健康」になりたくともなれない人たちがいること、第三にいわゆる「不健康」が常態となっている人たちがいることなどだ。

同じことが他の事柄にも多少なりともいえる。僕が意気消沈しているときにはモティベーション関連の文章など読みたくもないし、僕が仕事ができないでいるときに生産性をあげるTipsを読んでも時間を浪費するだけで腹が立つ(読まなければよいのだから、文章を読むというのは、実に個人の裁量に任された優れた行為だと思う)。そんなことを考えていると、どんなことも他人様に向かって語ることができなくなってしまうから、ある程度の妥協と割り切りや自分の棚上げをしているのが一般的なスタイルだろう。

だが、自分を蚊帳の外においていることを本当に意識しているだろうか。他人を思いやることを忘れてはいないだろうか。僕自身が傲慢なものだから、できれば意識したいと思っている。大抵はそんなこと忘れているのだが。

2007-09-28

集合知の虚像?

またタイトルに惹かれて読んでしまった。「集合知の虚像ドコモ2.0。みんなの意見はそんなに正しくない」というコラムだ。

コラムの最後にあげられているポイントを引用すると、

「クラスのみんな」で挙げられるのは都合の良い友人。
みんなの意見は条件次第でどうにでもなる。
とのことだ。

この引用だけ読んでもわけがわからないと思うので、多少補足する。このコラムでは、ドコモのCMは好感度が高いのに、契約者数は純減となっていることをあげ、CMの好感度を決める「みんなの意見」と契約者数を決める「みんなの意見」は違う、という当たり前なことを、おもしろおかしく書いている。ぜひ読んでみてほしい。

さて、結局のところ「みんなの意見」は正しかったのか、それとも正しくなかったのか。両方とも正しい、というのが僕の考えだ。当然なことだが、CMの好感度がよいことで高く評価されるのは広告代理店や製作会社、俳優などであり、また場合によっては企業イメージである。昨今の世の中の傾向では、テレビCMが売り上げに直接は結び付きにくい、という例も多く見られるという(参考:“テレビCM崩壊”時代、ネット広告の役割とは)。

とすると、CMの好感度の高いドコモは、ドコモで広告に関わっている部署の人間や広告代理店、製作会社が褒められるべきであり、契約者数が減っているのは経営や営業に関わる部署の人間が責められるべきであり、両者は別に矛盾しない。

特に集合知が有効にはたらくための条件などという話や、理論と現実のギャップの話などをしなくとも、すんなりと納得できる(ちなみに食い逃げの話は会計的見方を強調するための詭弁だと思っている)。「集合知の虚像」というタイトルに惹かれた僕はだまされやすいお人好し、という結論だ。

2007-09-27

利己的な遺伝子とネオテニー

ヒトはネオテニーとして生まれるという記事がどのように「SEは中流を目指せ」と関連するのかよくわからないが、とにかくタイトルに惹かれて読んだ。著者の主張には賛成するが、論旨には賛成できない。

1. 利己的な遺伝子
リチャード・ドーキンスは、遺伝子自体が計画や企図をするとはいっていないし、遺伝子が意識的に自己を保存しようとするよう個体に働きかけるとはいっていない。竹内某女史のようにセンセーショナルでエキサイティングなことを書く人もいるが、利己的な遺伝子は行為者に働きかけるわけではない。あくまでも進化は変異を前提とするし、変異する単位は遺伝子だ。生物の個体は進化をするのではなく、成長して繁殖して死ぬだけだ。


2. ネオテニー
常識的なことだと思っていたが、人類は確かにネオテニー的な動物である。それと能の発育とは少し文脈が異なる。頭蓋の形を見ると、ヒトの胎児はチンパンジーの胎児とほとんど同じである。そして霊長類は哺乳類の中でも発育の速度が遅いほうだが、ヒトはその中でも発育速度が極端に遅い。さらにチンパンジーと比べると、ヒトの大人は幼児とそれほど変わらない特徴を持っている(ヒトは大人でもチンパンジーの幼児と良く似ている)。こうしたことがネオテニーの原因となっているが、ネオテニーとして生まれる、という言いかたでは上手く馴染まない。ヒトの大人は幼形成熟して猿の赤ん坊と似た形の大人になる、というくらいに理解しておいたほうがよいと思う。

つまり、発育の速度が遅いことと、脳の発育のタイミングが遅い(サルと比べると幼少期が長い)ことは別の話である、ということ。またヒトの特異な性質として、柔軟な行動や遊びが幼少期を過ぎても見られることがあげられる。これもまたネオテニー的性格の所以だ。個性云々や人格云々はネオテニーをもって語るにはおかしい、ということだ。

2007-09-26

自分の価値

京極夏彦の小説を読んでいて、以下のような文があった。

社会を大海とするならば、個人はそこに漂う藻屑に過ぎない。歴史を砂漠とするならば、人生は一粒の砂でしかない。それでも人にとっては、己の人生だけが世界の凡てである。己の眼を通じて知る世界だけが唯一絶対の世界である。だから一粒の砂と砂漠とを、藻屑と海原とを等価なものとして規定しないと、人は立ち行かない。己は永遠に己としてあるのだと、どうしても信じたいのだ。個の否定は個人にとっては世界の否定に等しい。だから個人は常に主張する。私は私だ−−と。


本当は自分には価値がない、と思うことは、エヴァ的中二病の危険な兆候だ。実際のところは上記のように、社会と比較するならほとんど個人は無価値だろう。ハートマン軍曹は的確に表している。
人種差別は許さん 黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見下さん! すべて…平等に価値がない!
(『フルメタル・ジャケット』の台詞だけど、Googleで検索したら引っかかったので、ハートマン軍曹から学ぶ人材教育より引用。このサイトはポップアップや何かがうるさいけど面白い)

しかし社会と個人を比較するまでもない。個人は自分一人で完結するものではなく、自分の周囲の物理的他者・環境や、自分の関係してきた他者を含んだ過去から現在までの記憶の総体が個人としてのアイデンティティかなにかであり、個人と社会(あるいは世界)との境界線は極めて曖昧だ。さらに戯言をいえば、個人と他者の区別さえ曖昧になってくる。というわけで、あえて物理的な個人に限定するなら無価値だし、境界を世界側に広げるとほとんど社会と区別はつかずに極大の価値をもつ(かもしれない)。

こんなことを考えるのは、僕が中二病にかかっているからであるが、決してヱヴァンゲリヲンなんか観ていない。

2007-09-25

ちょっとしたコツ

ここ数ヶ月、料理をする回数は僕の方が配偶者よりも圧倒的に多い。配偶者曰く、僕の方が料理が上手いからだそうだ。確かに僕の方が料理歴は配偶者よりも長い。というのも僕は10年以上前から料理をしてきたのに対して、配偶者は4年程度しか経験がない(ただし、結婚後の三分の一くらいは僕が料理していた)。

料理の腕前が経験で決まるというのは、ある意味では悲しい話である。家庭料理などというものは職人芸でも芸術でもなく、単なる習慣だ。惰性といってもよい。もちろん習慣が悪いという理由もないが、鋭敏な感覚をもってこれに臨めば失望すること間違いなしだ。

例えば僕は今週、ゴーヤチャンプルーをつくった。手間をかけるところなどどこにもない。単純にゴーヤを塩でもんで水で洗い、ちぎった豆腐と一緒にゴーヤを炒め、味をつけ、卵を火が通り過ぎないようにかけるだけだ(料理の道を知っている人は、この手抜きぶりに怒らないで欲しい)。例えばカボチャのポタージュをつくった。タマネギをバターで炒め、カボチャとタマネギを牛乳でゆっくりと煮て、フードプロセッサーにかけ、塩コショウで味をつける。少しアクセントにカリカリに油であげたパンを散らしたり、バジルなどのハーブを散らしたり、クリームを入れたりする。例えばひじきを煮た。ひじきと一晩水につけた大豆とニンジンを油で炒め、油揚を後から入れ、水をひたひたにはって、酒とみりんと醤油で味をつけ、水気がなくなるまでゆっくり煮る。

難しいところなどどこにもない。時間や分量を計ったりすることもなく、単に目分量と勘で適当にこなして、味をみて調整するだけだ。この目分量と勘が経験のなせるところであり、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。

仕事でも同じことがいえる。「ちょっとやっておいて」の「ちょっと」は、人によっては「たくさん」になることもあり、その人がその業務にどれだけ携わってきたかに依存する(例えば僕は事務作業を苦手としているが、配偶者は実にテキパキとこなす)。こうした仕事は往々にして創造でも自己実現でもなく、単なる作業だ。単なる作業が悪いはずもなく、天才的な人が創造的・芸術的仕事をするのでなければ、作業は仕事には必要な部分である。

こうした習慣をのみこめるものとそうでないものがある。先に例にあげたように、配偶者は料理のコツを一向に覚えないし、僕は事務作業のコツを覚えない。必要に迫られればやるが、そうでなければ避けて通るに越したことはないと、お互いに思っている。

しかし覚えておいて損はないだろう。どれもちょっとしたコツでうまくいくのならば、学習コストなど享受できるメリットに比べればたいしたことではない。しかしどう覚えるのか振り返ってみると、僕のちょっとしたコツはどのように身につけたのか説明できないことが多い。それこそ「ちょっとしたコツ」があればちょっとしたコツを身につけられる、としかいいようもない。

これは暗黙知の次元の話ではない。単なる与太話だ。

2007-09-22

学校裏サイトでのいじめ

「学校裏サイト」で広がるいじめというコラムを読んだ。筆者の言を僕なりに要約すると、

  1. 裏サイトでは加害者の匿名意識がいじめを増長させる
  2. 保護者、学校、警察、ISP、携帯キャリアなど各関係機関は対応をするべきである
  3. いじめている子どもには親子関係の愛情問題がある
  4. 教師は全ての生徒に目をやれるよう、小人数学級にするべきである
という感じだ。こうまとめるとかなりとりとめもないが、まさにとりとめもない記事である。そもそも「いじめ」という難しい話の原因を特定することが僕にはほぼ不可能なのではないかと思うくらいだ。それなのにいじめの原因を愛情不足や匿名性の問題に集約したり、対応策として身元割り出しや教師の監視強化をあげる時点で、そのほかの雑多なものをばっさりと切捨てている。短いコラムだからしょうがないともいえるが、それでは「いじめの原因は主に匿名性と愛情不足にあるのか」と問えば、間違いなくNoだろう。

まずは匿名性について考える。いじめる側の身元がわかりにくいからいじめる側のハードルが低くなり、いじめに参入しやすい、と筆者は書いているように読める。この対応として関係機関が身元割り出しをするとか、ネットに触れることを親やISPやキャリアが規制する、というものを筆者はあげている。

この対応は「本来子どもはいじめに加担しない」という前提がなければうまく機能しない。どのような対応・規制をしようとも「本来子どもはいじめに加担する」ならば、どのような形かわからないがいじめは依然として行われるだろう。そして新たに行われるいじめに対して後から対応を追加していくと、結果としてがんじがらめの規制・監視をする羽目になり、対応する側の負担が上限を越えるだろう。

次に愛情についてだが、「子どもによせる愛情が足りないと、その子どもはいじめをするようになる」という話には、かなり違和感を覚える。これも全ての親が充分な愛情を子どもによせなければわからないが、それでもいじめがなくならなかったらどうなるだろう。そうまでいわなくとも、一人の親が充分な愛情を子どもによせていて、それでもその子どもが他人をいじめるようになったらどうだろう。

現在の学校教育制度の中では、いじめは必然的におこるものだ、という前提をたてるべきではないかと思う。どのような社会関係であろうともいじめ(と呼ばないかもしれないが)は行われる。いじめという言葉を使わないでいじめを説明すると、おそらく社会的力関係の強弱に基づいて行われる身体的・精神的・経済的暴力ということになるとおもうが、大人の社会でもそれは行われている。ただし大人の社会でそれが「いじめ」と呼ばれないのは、大人は複雑な社会関係を持っていて、また社会を構成する個々人が多様な価値観を持っているからだ。それに比して子どもは単純な社会関係しか持っていない上、社会関係やその社会内で共有される価値観が固定的である。

つまり普通に学校にいく限り、いじめは行われる。学校を監獄と見立てる人が数多くいるが、その監獄のような学校にいき、その学校の子供たち・教師たちは他の社会や他の価値観を知らず、いじめられないようにするための多大な努力に興味を持たないか、あるいはいじめられない努力をしない子どもは必然的にいじめられるのだ。

親の愛情不足にすると「親力」を宣伝するために都合がよいだろうし、もちろん親の力は子どもにあたえる影響は大きい。しかし親子関係だけで学校教育を語ることができないのは当然の理というもので、さらに教師-生徒関係、生徒-生徒関係だけで教育を語ることもできない。本当にいじめが問題なら、学校をふくめた社会の総体を検討するべきであり、生徒や教師や親といった学校教育の主要な登場人物に話をしぼるべきではない。それを検討することが面倒だったり困難ならば、まだいじめは本当の問題ではないのだろう。

例えば交通事故は当事者にとっては非常に大きな問題である。不幸にして亡くなられたかたや、不幸にして加害者になってしまった方もいると思うが、そうした方々に申し訳ないが交通事故はいわば計算済みの「やむを得ない」事柄なのである。本当に交通事故をなくそうと思ったら交通行政の抜本的な変更が必要とされるが、その利害関係者をふくめて検討すると、現状の交通事故数はきっと「しょうがない」レベルである。

学校教育に携わる人は、ほとんど全ての子どもと、ほとんど全てのかつて子どもだった人、そしてほとんど全ての親である。そうした人たちは当然学校教育には関心が深い。それでもなおいじめがなくならないのなら、それは利害関係者にとって「しょうがない」レベルでしかないという可能性もある。もちろん関係各者には真剣に検討をしてほしいが、残酷な結論となることも想像しておくべきだろう。

イマドコ

「イマドコかんたんサーチ」サービスを提供開始

この報道を見て、DoCoMoを解約しようかと思い始めた友人や恋人も数多いことだろう。常に見られるのは誰だって不快だろうと思うし、どこにいるか知られたくないことだって数多い。探される側の許可が毎回必要とのことだが、許可しない場面を想像すると、なんとなく不快だ。

僕が後ろめたいことをしているわけではないので、念のため。

と書いてから、全く自分の頭の硬さに思い至った。「ドコモ、「恋人の居場所がわかる」新サービスに問い合わせ殺到」というくらいの柔軟さがあると、生きていることが愉しくなれそうだ。

2007-09-21

携帯電話の必要性

時代錯誤と思われるかもしれないが、僕は未だに財布の中にテレフォンカードを忍ばせている。しかも絶滅危惧種とされるICテレフォンカードまで用意してあるという周到ぶりだ。

それでいながら携帯電話も契約している。月々3000円弱の「納税」を行っているわけだ。真剣に考えてみたら、僕個人としては携帯電話は必要ないのではないかと思えた。僕の携帯電話の利用形態を鑑みるに、連絡が必要なら大抵の場合は携帯電話よりもメールの方が確実だ。電車の中では通話はできない、人との待ち合わせには時間・場所をはっきりさせて遅れない、携帯電話でメールを打つのは苦痛と感じる、待ち時間は苦痛ではない、常に何か作業や本を持ち歩いている。

つまり携帯電話の必要性は、僕以外の誰かが必要としているから僕が費用を負担しているわけだ。というわけで、僕に連絡をとりたい人は「asm携帯基金」を作って、そこから賄うことにしたい。

などといっても誰も聞いてはくれないだろう。

2007-09-20

道具に拘る文化

例えば金融業ならその道の、運輸業ならその道の、さらにいってしまえばホワイトワーカーならホワイトワーカーなりの、仕事のやりかたがあるはずだと思う。それなのに、IT屋さん達はそれぞれの会社にそれぞれスクラッチから作ったようなものを納品したりする。受け入れる側も自分たち流にカスタマイズできないような製品は受け入れなかったりする。

それは現状の費用対効果を考えると無駄なことだ。しかしかつては無駄ではなかったのだろう。仕事の道具や流儀に拘ることで、その仕事や成果を洗練させてきた歴史があるからだ。

例えば出刃包丁があれば大体どんな魚もおろせるとか、鉋ひとつでどんな木もかけられるとか、汎用性の高い道具を使う場合にはそれは芸術といえるほどに洗練された技術がある。仕事の流儀にしても、少しずつ改善していく上で、比類なき完成度にまで至る仕事の流れを作ったりしてきた。

しかしそうした考え方は、もうそろそろやめたほうがよいのではないか、と思う。特にホワイトワーカーの働きかたが、他社に移ったら一からやりなおしになってしまうのは無駄だ。昨今の人材の流動化を見る限り、道具に仕事をあわせるとか、道具に沿うように仕事のやりかたを変えるとかしてもよい頃だと思う。とくにその道具が効率のよい物であればなおさらだ。

例えばviは優れたエディタだと思う。慣れるとこんなによい道具はないと感じられたりする(僕はemacs派だ)。しかしそれはIDEの隆盛を見るとまるで旋盤機に鑢で立ち向かうかのように見えたりもする。本当は鑢の方がよいのかもしれない。鑢は既に完成された道具で、長い使用実績があり、なにより手に馴染むうえ仕事も愉しくストレスなくできたりする。それでもその域に達するまでに長い道を通ってきたことは間違いないだろう。いまここに初めて鑢を使う人間と旋盤機を初めて使う人間がいたら、後者の方が圧倒的に効率がよいはずだ。例え話を元に戻すと、達人でなければviを使うよりeclipseを使ったほうが効率的だったりする。

最もミクロな視点、つまり人間と他者とのインタフェースは(例えるなら包丁の柄、キーボード、話し言葉、車のブレーキ、スイッチ類など)枯れた物、自分に馴染む物を使うのがよいだろうが、もう少しマクロな視点、つまり系と系のインタフェース(例えにくいけど仕事のやりかたとか、機械化できるような作業とか)は道具に人をあわせたってよいのだ。

伝統の職人芸でもない限り、道具に拘り続けて他に遅れをとるよりは、道具は最新の物に敏感に反応してもよさそうなものだ。そもそも「拘る」というのはあまり美しいことではないと思っているし。

訳あってブログ開始

諸般の事情により、ブログを開設しようと思い、今日に至る。

mixiなどSNSの中でいろいろと書いたりしてきたものを、ひとところにしようと思いつづけて幾星霜。自分用のメモの数も数知れず。そんななんやかんやで、最も手っ取り早い方法としてbloggerに開設することにした。

そのうちにまた引っ越すかもしれないが、とりあえずその時まではこのままで。

2007-09-18

光あれ

なんとなく覚え書き。

僕の持っている聖書の創世記には以下のように書いてある。元は旧字だが新字にかえ、一部ひらがなにして引用する。

元始に神天地を創造たまへり 地は定型なくむなしくして黒暗淵の面にあり神の霊水の面を覆たりき 神光あれと言たまひければ光ありき 神光を善と観たまへり神光と暗を分ちたまへり 神光を昼と名け暗を夜と名けたまへり夕あり朝ありき是首の日なり

僕の気に入っているのは光あれ、というところだ。一切の無の状態に神がいる。天地を作る。そして光がある。さて、この光を光と認識したのは誰だろう。神が神ではない異物(光)を生み出し、それによってさらに異物(闇)が生まれ、天地を見ることができた。神自身には、この神ではない何か(光と闇)を認識することができないのではないか、という風に僕は思う。

神は単体では神であることができない。光が生まれた時点で、その光を認識した何者か(神自身の中にいる他者かもしれない)がいなければ、世界は神だけで終わってしまう。それなのにきちんと光があり、闇があるのは、神以外の何かがそこにあったからであり、つまりは一切無が「あった」からか、神が他者を内包していたかのどちらかだったり。

もしもこの創世記の冒頭を読んですんなりと納得できる人がいたら、その人が光を認識できる人であり、神以外の何かである。つまりこの場面には「私」がいるわけだ。

こんなことを書いたら信心深い人に怒られるだろうと思うが、これを読む人には信心深い人がいないと想像する。まあ、単なる本好きの想像と落書きでしかないので、目くじらを立てられることもあるまい。

2007-09-16

自転車生活の愉しみ

疋田智著『自転車生活の愉しみ』を読んだ。

僕は人並みに(おそらく人並み以上に。だけど比較したことがないからわからない)自転車を好んでいる。それなりにまともな自転車を愛用し、以前は通勤にも使ったりし、メンテナンスもそれなりに自分でする。が、本書の感想を単純に言うと、前半面白く、後半面白くない。

前半部分では自転車という乗物についてのみ書いてある。自転車の選びかたやメンテナンスのしかた、乗りかたなどなど、読みものとしても面白いし、役に立つ。

後半(というより後三分の一)はヨーロッパの自転車事情見聞記のようなものだが、ヨーロッパの自転車事情や道路行政と日本のそれとを比較しても、単純にどうといえないところを、筆者は単純に言いきってしまっている。「日本の道路行政をこのように変えるべきである」という明確なイメージは、単純に自転車先進国のそれとは重ならないはずだ。地形も違えば風土も違う。

日本の道路行政の明確なビジョンを、僕も含めた多くの人が納得する形で著者が描いてくれたら、僕は大満足するところだ。あるいはそれを描くことが困難なら、日本の道路行政について言及せず、前半のノリで全てを貫いてくれると読むほうとしては気持ちがよい。

偉そうなことを書いたが、僕も明確なビジョンを持っていない。筆者にこちらが勝手に期待したのは、筆者の社会的立場もあってのことだ。

2007-09-14

植物イデオロギー

中国思想に関する諸橋轍次の本を読んでいて、以下のような文章があった。

東洋は、わが国でも中国でも、古来、植物の姿を見て、イデオロギーを立てる傾向が強いのです。「めずる」ということばは人や物を愛することであり、「めぐむ」ということばは、同胞愛を表したものです。そしてそれはいずれも木の「芽」をはぐくみ育てる原義からできたことばです。そのめずること、めぐむことが故障なく行われれば、それが「芽でたい」ことにもなり、「めずらしい」ことにもなるのです。

漢学の大家がいうことだからもっともらしいけど、まるで恩師O先生のことばを聞いている思いだった。一言でいうと、「本当ですか?」だ。本当だったら面白いのだけど。

自分で確認するほどの知識や能力はないので、他力本願で誰か確認よろしく。

2007-09-11

胡散臭い

総務省、「ブロードバンド・ゼロ地域」解消へ戦略会議

上記の記事によると「デジタル・ディバイド解消戦略会議」というものが開かれるそうだけど、広い帯域を利用できたり携帯電話の電波が届いたりすることはもちろん大切だとおもうが、情報リテラシーをどうにかするほうがもっと喫緊の話ではないかと思う。

まずブロードバンドである必要はない。ナローバンドであろうとも、基本的にはテキストがネットワーク上で交換されれば最低条件は満たされると思う。何かのジョークに、カタツムリにDVDを運ばせたほうが効率がよいというような話もあるように、またRFCのジョークで鳥類キャリアによるIPデータグラムの伝送規格がある(RFC1149)ように、例えば郵便などの既存の情報伝達方法でまにあうのではないかと考えるためだ。

もしもまにあわなかったら、それはその時に考えればよいこと。そもそもブロードバンドの普及は政府主導で行われたことではないし。あれば便利となければならないを混同してはいないか、と疑う次第だ。

次に携帯電話だが、これもブロードバンドと同じように、なければならないものではない。そもそも電話自体が、なければならないものではない。

「早稲田大学や東京理科大学の教授、北海道、岩手県、和歌山県などブロードバンド・携帯電話が利用できない地域を持つ自治体、NTT東西地域会社やNTTドコモ、ソフトバンクモバイル、KDDIなどの事業者が参加する」と記事にあったが、どうにも胡散臭さを感じてしまう。かつて八丈島にブロードバンドをもたらしたときと同じような。

2007-09-09

窓雑感

飛行機の窓に思いを馳せた。まず第一のとりとめもない思いは、飛行機の窓はどうして座席数とシンクロしないのだろうということだ。電車や乗用車、バスの窓はシートとシンクロしている。しかし航空機の窓はシートとシートの間にあったり、なんだか中途半端だ。

そもそも飛行機に窓をつけるということ自体、非常に無理がある。機体は様々な力を各方向から受けるため、窓のような構造の弱いものをつける余裕があるなら、その分剛性を高めたいだろう。

地球の自転方向と並行に移動する飛行機なら、それほど窓の必要性があるとも思えない。いつだって昼だったり夜だったりする窓の外の風景を見ても、それほど刺激的ではない。離着陸時の風景は確かに楽しいが、高度1万メートル近くで水平飛行する時の風景はそれほど楽しくない(僕の主観だ)。しかし人間の窓を望む欲求は時に合理性よりも優先される。例えるならば、特異な業務形態にあわせてパッケージソフトを大幅に改変するような不条理さを、航空機設計エンジニアたちは覚えていることだろう。

その不条理さを押しのけて作られた窓の形態は、諸賢がご存知のように角の丸い方形だ。そこから第二のとりとめもない思いが始まった。川原正敏の漫画で『海皇紀』という作品があるが、その中で帆船やガレー船で窓の丸いものがあったような記憶がある(砲門は四角だったが)。記憶の間違いかもしれないが、木造船は舷窓を丸くする必要はない。木材、特に水分を含んだ木材は弾性に富み、波によってきしんでも、きしみを船体全体で分散させることができるからだ(この認識は間違っているかもしれない)。しかし金属は負荷のかかる部分から金属疲労を起こし、舷窓が四角ければ四隅から劣化していく。

航空機の窓も同じ理屈で、力の分散をはかるために窓に角をつけていない。人間の不条理な要求に対する譲歩として、優れたソリューションである。しかしその優れた解決も、まだ人間の要求に完全に応えていない。シートひとつにたいして窓ひとつ(あるいはふたつ、それ以上)という要求は非常に贅沢なものだ。このあたりからはエンジニア的発想よりは経営的発想になってしまうが、最大積載重量とシート数の折り合い、一人の人間がどれだけのシート間隔なら苦痛を感じなくともすむかという費用対効果、などなどの兼ね合いから、窓をシートとシンクロさせることが別なロジックで不可能になっているのだろうと想像する。

まあ、飛行機に乗って存分に窓の外を眺めたいなら、設計エンジニアたちの苦労を偲びつつ、ちょうどよいシートになる幸運を祈るかビジネスクラス以上の料金を払うことだ。

ついでに思い出したが、高校生の頃に某航空会社の某国内線に乗ったとき、乗客は数えるほどしかいなかった。古き良き時代であったろうか、それとも現在でも同様な状況だろうか、確認はしていない。

2007-09-08

日向の読書

僕はよく本を読む。もちろん研究者やなにかではないので、読むのは本当に雑多な本だ。例えば今週読んだ本はニコルソン・ベイカーの小説(読みかけ)、エリアス・カネッティのエッセイ、ビジネス本2冊、鈴木大拙の評伝(読みかけ)、ミステリ、技術本といったように、とりとめがない。

それらの本を、持ち歩き用・まとまった時間に読む用・空き時間に読む用などと分けて、並行して読んでいる。そのなかの「空き時間用」の本は、ベランダで喫煙しながら読む場合が多い。しかしベランダで本を読むと、直射日光の下で読むことになるので、部屋に戻ったときには瞳孔の暗順応が速やかに行われず、少しの間不愉快になる。

以前は直射日光の下で本を読むときにはサングラスをかけたりした。しかしここに、画期的なソリューションがあることを最近発見したので、諸賢にご報告したい。

片目を瞑って読む、それだけだ。そんな単純なことにこの歳になって気がついた自分の不昧さに恥じつつ、まだこのシンプルで便利な方法を試したことのない人に、ぜひ試してほしいために報告する次第だ。

2007-09-02

宇宙世紀まで持ち越し予定

実家には相当数のレコード盤が眠っている。それらコレクションのなかで僕の好みにあうのはある種のタンゴと極小数のジャズくらいなもので、かねてより親との趣味の差を見せつけられたものだ。レコードは主に両親の世代が購入したものだから、彼らの好みが最優先される。僕の好みなんて下らないものは、僕がちょっとした生産活動に入ってから自分で買った。彼らの好みはアルゼンチンタンゴ、ワーグナー、ブラームス、琴曲などが中心だ。

しかし先日実家にいった折、古いLPを漁っていたら『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』のサウンドトラックを見つけた。他にも『砂の十字架 / スターチルドレン』も見つけたが、こちらはEP。これはひょっとしたらちょっとした価値があるのではないかと思い、とりあえずターンテーブルにのせた。期待したとおり盤面に傷はなく、きちんと保管されている。

放すつもりはないが、もしもいま購入しようと思ったらいくらくらいになるのかgoogle様と相談してみたら、800円から3000円くらい。








愛着はお金で換算できないのだと自分を説得した。

2007-09-01

宗教行事にいった

祖母が亡くなってから50日経ったので、「五十日祭」というものをとりおこなった。それ系の習慣になじみのない人のためにその一連の流れを蛇足ながら説明するが、神主さんに祭詞(祝詞みたいなものだ)をあげてもらい、○○家累代之奥都城(おくつき)に骨を納め、飲み食いをした。

四十九日と違って坊さまは来ないし、経文もあげられない。お経好きの僕からしたら祝詞はお経よりも音楽的面白みがたりないが、意味がわかりやすいので、その部分は祝詞の方が面白いような気がする。

そもそも神道には葬式はないという話を読んだことがある。死は穢れであり、神職につくものといえ穢れを扱うことはしなかったのだとかなんだとか。しかし祖霊信仰の習慣と仏教が交わったときから(そもそも仏教には死者を弔う術もないはずだが)葬式は仏教の役割となり、神道の葬式は神仏習合の考え方から生じた神社の中にある寺院、つまり神宮寺でとりおこなうことになったという。本当の話かどうかは確認していない。

まあとにかく、明治維新とか廃仏棄釈とかいろいろな政治的絡みもあり、僕の祖母の家では神道式である。そのお祭りで神主さんと話をして、いろいろとこれまでに知らなかったことも聞けた。

例えば仏教でいうところの戒名。仏教では人は死んだら仏になるとかならないとか(そもそも輪廻転生だろうから、仏様になるようなことはないのではないか。即身成仏、命あるものみな仏だと個人的には思う)。神道には戒名がない代わり尊称があり、人は死んだら神になる。八百万のこちらは仏教式の「仏になる」というよりはいろいろと習慣とかみ合うように合理的に思える。

その尊称は年端もいかずに亡くなった方であればasm命(asmのみこと)のようになり、きちんと年齢を重ねて亡くなったかたはasm大人命(うしのみこと)と呼ぶ。女性であれば○○刀自命(とじのみこと)という感じだ。さらに90とか100とか年齢を重ねると、尊称の頭に「大」がつくとか「翁」がつくとかいろいろ聞いたけど、正確にはよく覚えていない。そもそも正確なきまりはないのだろうと思う。

また、神道式で葬式をする家がどこそこの地方に多い理由はこれこれだ、というような話を聞いたが、その中で面白かったことがふたつ。ひとつは檀家制を施行したときに某地方の寺の住職が嫌な奴だったから、近隣のものはみな神道式にしたということ。もうひとつは神道式の葬式の方が費用がかからないから神道式にした例があったということ。人それぞれだし、地域色のディープな話題だった。

ついでながら、親族の最長老の車(彼は自分で運転する)に魅せられた。HONDAの初代LIFE(どんなに新しくても1974年以前の製造)であるが、ここまで長生きすればまさに「LIFE」という感じだ。あえてピンぼけで撮った写真がその車だが、まだ車検を通っているところがすごい。ナンバーは『カリオストロの城』で有名な埼玉ナンバーだった。現役で走るアンティックカーを長老が運転している様は、実に堂々たるものだった。