2007-12-30

社長がメッセージを発信する効果

ITバブルと言われたころの企業のウェブサイトには、まず最初に「ごあいさつ」として企業トップからの害はないが薬にもならない公式見解が載せられていた(今でもそうしているところが多いが、決して貶しているわけではない。公式見解も場合によっては役に立つ。実際僕は役に立てている)。公式見解を読んでなるほどすばらしい会社だなどと思う人もいるが、大して関心がないほうが多いだろう。

以前僕が勤務していた会社でも、トップからのメッセージは時々流された。それは社内向けの場合、あまり人には読まれなかったようである(少なくとも僕の周りでは、という条件つきなので、これを一般化しようとは思わない)。社外向けの場合いろいろな受け止め方があるが、投資家やリサーチャーではないエンドユーザにとってはそれほど重要な情報ではない場合が多い。

昨今の会社では、社長が積極的に情報発信している例もある。これの効果にも経営という面から見たらよしあしはある。まず企業理念がトップダウン式にコンセンサスになってしまう。トップダウン式に形成された企業理念は、末端の社員にとっては精神的負担となることもあれば、モティベーション向上に役立つこともある。たとえばカリスマ的な経営者のいる会社では、「この人についていこう」という考え方も「こんなメッセージはうざい」という考え方もあるはずだ。

次に、企業が属人的要素に依存してしまう。たとえばソフトバンクの社長が交代したらどのような企業になるかあまり想像できないのに対して、トヨタの社長が交代してもどのような企業になるかはある程度は想像しやすい。50年生きる組織を作ろうとしたら、ひょっとしたら後者のほうが組織として強いかもしれない(まだ良くわからないが)。極端な例を言うとライブドアのようなこともあるし。ただし当然のことながら、クセが強いかどうかはともかく、社長が自分の言葉で情報発信できないような企業は強くはないだろうし、ディスクロージャーという流れから見ても情報発信はある程度は必要である。

とりあえず、企業トップが自分の言葉で情報発信するのは良いことだとは思うけど、何事も中庸を選びがちな僕の感覚からすると、あまり不用意にブログとかを書かないほうが良いと思うような例もある。ほどほどに。

2007-12-27

「寂しさ再生産」再び


12月24日近辺のmixi.jpと2ch.netのページビューを比較してみた。24日のページビューは決して落ち込んでいないどころか、むしろ増えている。2ch.netはいつもどおりだ。寂しい人間が多いのだろうか、それともネット上での誕生祭というスタイルが生まれつつあるのだろうか。かつていわれた(そしてあまりいわれなくなった)「寂しさ再生産」について考えた。

携帯電話のコミュニケーションは、用を足せればそれでよいというものではない。もちろんこれは携帯電話に限った話ではなく、ほとんどすべてのコミュニケーションが実利一辺倒ではない。ビジネスメールでさえ、相手のことを持ち上げたり簡単な挨拶をしたりする。歴史的に見れば中世の手紙など、風流の極致だ。

しかし携帯電話やIM、SNSに代表される今日的なコミュニケーションツールが特徴的なかたちをとっているのは、即時性(レスポンスの速さ)と限られた人との短く単純な情報を頻繁にやり取りすることである。それが音声情報であれ文字情報であれ、話は同じことだ。

対面的なコミュニケーションはそうした情報のやり取りの延長線上にもある。自分の人間関係を広めようという人にとっても、またごく限られた人との密接なコミュニケーションをとろうという人にとっても、それはそれで使い道のあるものだろう。そして情報のやり取りが緊密になるほど、そのノード間の情報はより流れやすくなる。まるで細い水の流れがあるものは消え、あるものは川になるように。あるいは神経細胞がシナプスを介して接合し、使う神経回路を残して使わない神経回路を除くことによってシグナルが伝わりやすくなるように。

この結果、寂しいがゆえにコミュニケーションをとったところ、より密接なコミュニケーションによって充足されることなくさらにコミュニケーションをとりたくなる。言い方をかえると「つながり」を維持したくなる。僕にとってのタバコのようなものだ。

こうしたツールを使うと、「選択的な友人関係」が見出せるということが報告されている。コミュニケーションは広くも狭くも、浅くも深くも、接触可能な人が増大することにより、友人関係を重要度に応じてランク付けしたり状況に応じて使い分けることができる。こうしたことがいわゆる「寂しさ再生産」の話だ。

今後のSNSでは仮想社会・実社会との連携がキーポイントになる(と僕は予想している)。実際アメリカでは「クリスマスソーシャルネットワーキング」ということさえ言われた。アメリカの流れがそのまま世界の流れになるというのは腹立たしいが、おそらく日本ではアメリカの流れを追従するだろう。ショッピングはエンタテイメントである、とは楽天のキャッチフレーズだが、贔屓目に見ても楽天のショッピングはエンタテイメント性とはまだまだ距離がある。その距離をSNSなどのコミュニケーションツールを使って埋めることになるだろう、というのが僕の予想だ。

ショッピングに限った話ではない。12月24日にmixi.jpへのアクセスが減らなかったところを見ると、寂しさ(あるいは暇やコミュニケーション欲求)を解消するツールとしてのmixi.jpは健在であると、とりあえずいえるかもしれない。そのコミュニケーション欲求を仮想社会や実社会でどのように満たしていくか、SNS業界は課題としても良いだろう。

2007-12-24

格差社会を擁護してみる

「格差社会」が悪者扱いされているようだから、少し格差を擁護してみたい。明日になったら格差を糾弾するかもしれないが、これは気まぐれのようなものだ。

格差は悪いものではない。少なくとも平等に貧しいよりは。また、格差が生じる原因としては根本的には技術の進歩があると思われる。例えば生産性の向上による余剰生産物があってこそ富の集中がうまれた。それを指標にする限りは、正当に生じた格差は歓迎すべきものでさえある。昨今の風潮を見る限りでは、正当に生じていない格差は縮小しているとさえ見える。

生産手法が閉ざされている場合には残念だったと思ってもらうしかないが、富は生産できる。他人にとって有益であると考えられるもの(例えば生産物やサービス)は何らかの働きによって生み出すことができる。現在廃村になってしまったようなところでも、何らかの技術革新や創意工夫があれば、ひょっとしたらとてつもない富を生み出すかもしれない。

より多くの富を生産できるのは、ひとつの能力である。僕はどれだけがんばってもビル・ゲイツには実業の面で及ばないが、少なくとも日本語の処理能力に関しては彼よりも勝っているし、ひょっとしたら僕は彼より足が速いかもしれない。能力以外の要素も含んではいるものの、富を生み出すのは基本的には能力である。ほとんどすべての日本人はオリンピックの短距離走者に100メートル競走では敵わないし、何度挑戦しても結果は同じだろう。同じようにほとんどすべての労働者(マルクス風な階級の話ではない)は、世界的大富豪には富を生産する能力では敵わないだろう。

本当に大富豪たちはそれに見合うだけの富を生産しているのだろうか、という疑問にはYesとしか答えられない。資本主義社会では基本的には他人がより望むものに多くの価値が与えられるし、その結果を見れば一目瞭然と多くの富を生産したひとがわかる。ある社長が新入社員の100倍の給料を取っていたとしても(僕が取締役をしている会社はせいぜい5倍でしかないが)、100人の新入社員よりも多くの仕事をしあげていることくらい想像に難くない。他にも例えば放送や広告などの大企業では社員の平均給与が高いが、市場が彼らの生み出すものを求めるのだから、結果としてそうなっていようが外から文句を言えることではない。文句を言うなら全員がTVを消して広告を見なければ良いし、快適な生活を送るための家電を使わず、電気・ガス・水道を極力節約して近隣の知り合いから食物を分けてもらえばよいのだ(規制された市場であることはさておき)。

スタートラインが違う、という批判も成り立つ。確かに現在の日本には機会の不平等があるが、本人の働きあるいは文化資本を持っている人間による資産継承の多寡により、多少はカバーされる。少なくとも完全に貧しい状態よりはまだましだ(例えばエチオピア、北朝鮮、バングラデシュなどと比較すればまし、ということ)。

それに格差社会といいながら、携帯電話を持ち、衣食足りている人が多数を占めている状態がすでに、国際的な格差から見れば贅沢な話だ。将来の不安など、今日明日の不安に比べれば悠長な話である。

決して僕が「勝ち組」なわけではないので、あしからず。

2007-12-19

名作はあとで読む

喫煙が体にいいといいたいわけではない。でも毎日犯されている政治的、社会的な非道に比べれば、喫煙なんてたいした問題ではない

ポール・オースターの何かに書いてあったのだということはぼんやりと覚えているのだけど、何にあったか思い出せない。これを皮切りにあれこれ思い出そうとすると、かつて名作といわれる小説やら哲学書やらを大量に読んでいながら、それらを思い出せることが少ないことに愕然とした。

高校生のときに太宰やら安吾やらの文庫本を端から全部読んだ。漱石全集を1巻から順番に全部読んだ。そのころは岩波文庫の赤と青はとにかく読んだし、新潮文庫の古いものも1冊10円の古本屋で山のように入手しては読んだ。それでいながら何から何まで思い出せない。

思うにそれらの背伸びをした読書は、僕にとっての通過儀礼でしかなかったのではないか。今から思うともったいない。よく「若いうちにたくさんの名作に触れていたほうが良い」と言われるけれど、今はそう思わない。読むべき価値のある本は、読むべき価値のあるときに読んだほうが良いと思うのだ。つまり未熟な頭と心をもって偉大な作品にあたっても、吸収できるものが少なすぎるのではないか、消化不良をおこすのではないか、と思う。

もちろん何らかの形で偉大な作品に接することは、きちんとした形にならなくとも大切なことだと少しは思う。でも僕のように読み殴ってしまうと、文字面をなぞるだけでそこに秘められている叡智を汲み取れない。せめて僕程度の凡庸な頭の持ち主は、10代のうちは少数の名作をじっくりと読むほうが良いのではないか。もっと頭も心もこなれてきてから名作に触れたほうが味わいが深いはずだ。もちろん10代のころのほうが時間が有り余っているということはあるにしても。

と思いながら、いまだに読み殴っている。さすがに小説の斜め読みはしなくなったけれど。

2008-02-15追記
ポール・オースターの言葉が気になったので、きちんと読んでみた。"Three Films: Smoke/Blue in the Face/Lulu on the Bridge" に書いてあった。以下、引用
I'm not saying that smoking is good for you, but compared to the political and social and ecological outrages committed every day, tabacco is a minor issue. People smoke. That's a fact. People smoke, and they enjoy it, even if it isn't good for them.

2007-12-18

バタラ氏退任

ミクシィ、衛藤バタラCTOが12月で退任という記事にショックを受けるひとはどれくらいいるのだろうか。210人いる会社で技術者が何人いるか不明だが(30人程度と聞いている)、それなりな開発体制を取っていることだろう。その会社で

開発部の組織も大きくなり、一技術者として技術をゼロから追求し、新たなサービスを生み出すことに挑戦したいとの本人の意向を汲んでこの度の退任に至った
というから、本人の意向には敬意を覚える。すでに確立された地位を放り投げる様、見事だ。

技術者としては尊敬に値する行動だが、経営サイドから見たら(僕はどういうわけだか両方の気持ちを想像してしまう)由々しき問題なのではないか。これまでのCTO抜きで開発の方向性や事業展開をすることの難しさは、なんとなく大変そうだな、という感想しかもてない。内実を知らないから無責任に書けないが、今後のバタラ氏の方向はどうなるだろうと想像すると、1) 別会社に移る 2) 事業を起こす くらいしか考えられない。引き抜き競争は起こるだろうか。

2007-12-17

ブログに派閥を

CNET Japanのブログには(あるいはブログには)派閥を導入したほうが良いというポストを読んだ。

CNET Japanブログもそういう派閥を作った方がいい時かもしれない。読者ブログは、150ほどあると今日のアワード表彰式で知ったのだが、とても覚えきれる数ではなく、コミュニティとしての一体感を持ちにくい。

もしくは、外部ブログに書いてもいいのだが、その時にも何かのブログネットワークを作って共同でRSSを購読できるような仕組みを提供できれば、読者獲得や、相乗効果を持つブログとして書いている側の楽しみ、読み手としての面白みが味わいやすくなりそうだ。

いかにも時流に乗った「派閥」という言葉を使うところを除けば、主張にはおおむね納得できるし、賛成もできる。確かに共同体は適切な大きさになっていたほうが良い。

情報を利用する人にとって、情報には濃度や重み付けやがあったほうが楽だし、類似情報への距離がわかると楽しそうだ。また情報を発信するひとにとって、自身がカテゴライズされていたほうが密接なコミュニケーションが図れるだろう。それがたとえオープン型SNSに近いものだとしても、ブログがSNSと同じような要求に応えてはいけない法はない。今後のSNSは外部に対してもっと開かれていくという予想を僕はしているが、それと似たことだと思う。

ただし、情報のカスケード現象が起こるのではないかと心配する。例えばslashdotedという言葉も一部にあるように、某所で話題になった情報にアクセスが集中する。slashdot.orgなどは一般の話題に上らないが、ほかにも「はてブ衆愚論」などもある。それまでは利用者にとって有益かつ刺激的だったものも、利用人数が増えることによって有益ではなく凡庸になってしまう、というようなものだ。ほかにも「晒し」「祭り」などもある。アクセスの集中という意味だけではなく、情報の重み付けにも雪崩式に偏りが生じるのではないかという心配がある。とりあえず現時点で、主として被リンク数に基づいた検索エンジンでは、誤った知識であろうともページランクが上になってしまうことが観察される。だから「簡単にぐぐるな」「ぐぐるな危険」という警告もそれなりに説得力を持つのだが、それと同様のことがブログに派閥が生じたときに起こるのではないか。もっともすでにグーグルゾン化されつつある世界では心配するまでもないことかもしれないが。

また、いわゆる派閥の人間関係は現状のブログのような人間関係とは異なり、認知・感情・行動の総合的判断によって選択的注意がはらわれる。またブログを書く動機として自己開示も一面ではあると思うが、その自己開示は派閥内でのポジションによって抑圧される可能性もある。それに派閥としてカテゴライズされた情報はそのカテゴリーの枠を超えて利用されにくくなってしまうのではないかとも思う。

僕の結論として、あまり効率化せず、ある程度は人力による情報の取捨選択があったほうが、健全なのではないかと。すでにトラックバックやコメントが実装されているうえ、オフ会も開催されていることだし。もちろんCNET Japanがどのような運営をしようとも、僕にはさほどの関係はない

2007-12-11

ブートキャンプ

巷で話題となっているらしい「Basic Training Bootcamp(ビリーズブートキャンプ)」を人から借りた。

僕は基本的にテンションが低いが、貸してくれた人いわく「これを朝に見てから出社したら、いきなりテンション高く仕事できるかも知れませんよ」とのことだ。早速興味本位で見た。

ここをどこだと思っているんだ(ここはブートキャンプだ)!
もっと声を出して(聞こえないぞ)!
苦しいが結果は必ずついてくる!
笑顔を忘れずに!
カウント!
声を出して!
(おぼろげな記憶で意訳)


15分くらい見ただけで(運動もしないで)疲れたので見るのをやめた。僕には向いていないが、「フルメタル・ジャケット」のハートマン軍曹ファンなので、引き続き見ようと思う(運動しようとはなかなか思えない)。ちなみに僕の体脂肪率は10%くらいだ。

2007-12-09

合法的殺人

どうも僕は、錦の御旗が振られたあとの殺人行為に対して鈍感になっているようだ。僕はテレビを見ないし、新聞も読まないので、巷にあふれる殺人情報はめったに耳にしない。おおよそ世間の耳目を集める情報は嘆かわしいことばかりなので(レッサーパンダが立ったとか、そんなニュースばかりでも僕はいいと思う)、自分で耳を閉ざしているようなものだ。誰それが誰それを殺したとか、僕の知らない人であれば僕には関係ないし、僕の知っている人が自殺をしたけれどもニュースにはならなかった。

交通事故で不幸にも亡くなったかたや自ら命を絶ってしまったかたのほとんどは、注目を集めることができないからニュースにならない。当然といってしまえば当然のことだけど死ぬこと自体にはたいした意味がなく、「どのような経緯で死んだか」という物語に意味がある。というか、まわりがよってたかって意味をつける。そうした意味の押し付けに僕は食傷しているので、耳を閉ざしているわけだ。たとえばの話だが、別に複雑な家庭環境が父親を殺す理由になるのではなく、父親を殺した人を調べてみたら複雑な家庭環境があっただけだろう、とか思う。

そんな風に考えているとそのうちに心が荒み、「別に誰が誰を殺そうが勝手だろう」とかの極論に偏るが、しかしそれは違うのだろうと思う。人を殺すのは誰かの勝手でも僕は一向に構わないが、人が本人の意に反して殺されるのは絶対にいやだ。だから僕はカテゴライズすると死刑反対に与するわけだが、それでは重大な犯罪を犯した人間に相応しい罰はなにか、という当然の疑問に応えなければならない。

重大な犯罪を犯した人間が合法的に殺されるのは、ある意味では救済でもあると僕には感じられる。有名な『1984年』や『時計じかけのオレンジ』のように、きちんと洗脳して後々まで生かすほうがより残酷なのではないかと考えているし、犯罪の被害者にとっても加害者が殺されようがなんら解決にはならないと考えている。被害者の関係者にはどうしたって澱が残るし。

合法的殺人に話は戻って、殺人をする人が許せないのなら国家による殺人も許せなかろう。それでいて国家による殺人は案外許せたりするのだから、許せないのは殺人ではなく、慣習的な法に触れる行いなのではないかと想像する。

(未完)

2007-12-05

単なる道具としてのブログ

そもそもブログはだれが何のために書いているんだろう--消化局面が見えたブログ界というCNetの記事があった。

記事いわく、ブログの数は増えているものの、収益をあげている数は非常に少ない。筆者はブログの種類として、職業としてのブログ、趣味のためのブログ(少しの収益で足しにする)、政治や宗教などの思想信条のためのブログ、自己表現のためのブログ、スパムブログとあげている。

結論では

では、ブログ界では何が起ころうとしているのだろうか。今後も現在の成長率を維持できるのだろうか。職業的ブログの成長は続かないだろうが、ブログ界全体は成長を続ける可能性が高い(少なくとも、スパムの量が増加していくだろう)。しかし、変化が起こる可能性が高い。ブログ界のロングテール部分は危機にあるかもしれない。スパムはその危機の一部に過ぎず、むしろソーシャルネットワークやマイクロブログプラットフォームとの競争が大きく影響する。どうなるかは時間が経たないとわからないだろう。

読者がブログを書いている理由を教えてほしい。読者にとってお金は重要だろうか。ブログ界の未来はどうなると思うだろうか。ブログ界は消化局面に入ろうとしているのだろうか。
と締めている。

自分がブログ(?)を書く理由は自己満足 + 知人への生存報告だが、そもそもブログ界を意識したこともなく、収益もない。それほど他人の目にとまらなくともよいと考えている。それなのになぜブログを書き、他人様に害毒となりうる情報を垂れ流しているのか。なぜSNSをメインにしないのか。なぜマイクロブログを使わないのか。

コミュニケーションツールとして手紙、電報、電話、電子メール、IMなどと、どんどん各シチュエーションに応じた選択肢が増えているが、情報発信のツールとしては静的HTMLサイト、ブログ、SNSもその流れの中に入ると思う。現在メールは古くなりつつあり、IMの利用のほうが増えているそうだが、そうはいってもメールは依然として使われる。音声通話だってなくならないし、たまには肉筆で手紙も書く。どれかのツールしか使わないなどというのは、偏ったライフスタイルを送っている証拠だ(偏っていて普通だと思うが)。

同じように、より簡易な情報発信を好むならマイクロブログを選択するだろうし、よりコミュニケーションに注視するならSNSを選択する。より凝ったことをしたいなら自分でサーバを立ち上げてアプリケーションを作る。その人がどのような情報伝達ツールを使うかという選択は、その人の情報生活がどのようになっているか、ということとほとんど同義だ。

今後日本ではSNSの情報が外部に対して開かれていくと僕は想像している。また僕は、SNSの情報を発信する機能に関しては現状では不満がある。また自己表現や社会に開かれた活動を通じた個人のアイデンティティの形成は、より流動的かつ活発になると予想している。

ブログは単なる道具である。それは電報と同じようなもので、ほかの何かに取って代わられる可能性もある(特に日本語のサービスを提供しているSNSが外部に対して開かれるなら、それはブログを飲み込む可能性が高い)。しかし愛好家は残るだろうし、定着もするだろう(いまだにIRCを愛用している人もいるのだし、アマチュア無線を利用している人も多い)。適材を適所に使うだけのことだ。それ以上の何かを求めるのは、ブログに対して何かの幻想を抱いているだけだ。

道具には幻想を抱きやすい。そもそも道具というのはそこにあるだけでは意味も何もないくせに、人がそれに対面したときに何らかの意味を付与して価値を作り出す。価値を創造する行為を一般には持ち上げる傾向があるが、価値は創造されるだけではなく捏造もされる。ブログに対して価値を捏造していたのなら、適切な価値にまで引き下げられるだろうし、そこにあるだけのものとしてみるならば今後も変わらずそこに(同様のサービスは)あるだろう。

師走の怪人

先生も走り回るという月である。よくコーヒーを飲みにいく店にも、師走に相応しく店内の音楽がお祭り一辺倒になってしまっている(偉大な音楽家の演奏のほうが僕は好ましく思うが、偉大な音楽を流されると会話や読書に支障をきたすし、お祭りということもあり、聴き流す事にしている)。しかし前から気になっている曲が流れたので、つらつらと思うことを書きなぐる。

気になっている歌詞は以下のとおり。

He's making a list,
And checking it twice;
Gonna find out Who's naughty and nice.
Santa Claus is coming to town

なんと、よい子にしていないといけないし、かの怪人は入念にも2回もチェックして悪い子を締め出そうとしているというのだ。

レヴィ=ストロースにサンタクロースの秘密という本があるが、なるほど面白い怪人ではある。あんなに太るために摂取するカロリーはどれ程かとか、なまはげとの共通項とか、贈与をベースに考えるよりも交換をベースに考えたほうが現代的には整合性が高いのではないかとか、成人病は大丈夫だろうかとか。

ところでコカ・コーラ社が現在のサンタクロースのイメージを定着させた、という噂話もあるが、コカ・コーラのサンタクロース広告はハッドン・サンドブロムによるイラストで1931年のサタデー・イブニング・ポストに出たらしい。有名なノーマン・ロックウェルのサンタクロースは1939年。いちいちサンタクロースのことを書くよりはWikipediaによる記述を読めば一目瞭然、コカコーラ社が定着させ普及させたイメージかもしれないが、赤白の衣装と太っちょのイメージはオリジナルではない。もちろんSaint Nicolasのイメージとはかけ離れている。

聖ニコラスがどのような人であったかとか、キリストが誕生した日が聖書に書かれていないとか、そんな些細なことはどうでもよい。もっと土俗の季節の変わり目か何か(冬至とか)に根ざしていたほうが僕にとっては親しみがもてるし、消費社会のお祭り騒ぎには敬虔な由来などないほうが何かと都合がよい。何より僕は個人的に4月8日を祝うことにしているので傍観している。

決して一緒にすごす妙齢の女性がいないわけではない。

2007-12-03

絶望した

一昔前に流行したフレーズだが、絶望した。僕は日頃音楽をCDで聞くことが一番多い。ステレオ機器にお金をかける道楽はないので、BOSEのAM-5の古いやつをベースにしたセット(当時10万円程度で組んだ)を使っている。音源を圧縮するときには、mp3かoggにしている。mp3のビットレートは少し高めだ。ポータブル音楽プレイヤーの音質にはあまり満足していないが、所詮ポータブルと割り切っている。生音の場合、他人様に聞かせられるレベルなら(僕の許容範囲は結構広い)満足する。

僕は音楽を好むと自負している。実際拙いながらも幼少時から筝曲・ジャズ・ポップス・クラシック・ファンク・ロックなどで楽器をたしなんできたし、聴くことも好きだ。ただし条件つきで、僕の主観により心地よい音のみを好んでいる。しかし個人的には巷に流れる音楽は大体心地よいものだ。可聴領域がどうの、とこだわることは気持ちとしてはわかるが、音楽は想像力でいかようにでも楽しめると考えている。たとえば擦り切れたレコードやソノシートでもそれなりに楽しいものだし、ある程度なら劣悪に非可逆圧縮された音源でも楽しい。YouTubeにアップロードされているものや、オンラインの楽曲配信サービスくらいなら許容範囲だ。また、好きなジャンルやスタイルはもちろんあるが、それほど排他的ではない。

しかし絶望した。先日街中を歩いていたとき、パチンコ店の店頭で僕の好きな作曲家が作った音楽が流されているのを聴いたときだ。ちなみにその曲(アニメの主題歌なのだが、僕はそのアニメを見たことがないしパチンコもしたことがない)、YouTubeで検索してみると(著作権を思い切り侵害しているが)たくさん見つかるように、ひとつの文化とでもいえるほどにさまざまなバージョンがある。フルバージョン、アニメ放映用に短くカットされたもの、英語版、リコーダーでの演奏、アカペラ、カラオケ、四重奏編曲、オーケストラ編曲、初音ミク、逆再生などなど、ある意味「インスパイア」された二次創作も盛んだ。聴いたことはないが、YAMAHAのMySoundにも多数アップロードされている

飲食店などの店内に流れるものは、それなりに音響設備にお金をかけているせいか「とても聴けたものではない」とまでのものにはあまり出会わない。また前に書いたように、僕は音響機器にはこだわらない。それにしても件のパチンコ店の店頭ではちゃちなポータブルステレオであまり質のよくない音源を最大音量にしてがなりたてていた。これは許せない。

前々から思っているが、騒音規制の条例は音質にも言及できないものだろうか。もちろん無理だとは思っているが。

2007-12-01

これはひどい

はてなブックマークで「これはひどい」というタグのついたものを興味本位で眺めていた。どんなものがひどいのだろうと気になったためだ。その過程で非常に胸がふさがる思いをした。

前回の参院選で、在日韓国人2世で障害をもつ候補(彼は日本国籍を持っている)が出馬した。彼の出馬に反対する人が多数いる、ということは想像に難くないが、その根拠がいかにも嫌悪感まるだしなものであることに嘆かされた。事実は事実(それが誰にとっての事実かは多少違ったりするが)として、候補者は候補者として判断するべきであると僕は考えている。僕は彼と直接話しをしたことがあるし、彼の人となりは多少ならわかっているつもりだ。その上で、彼を批判する根拠が薄いと思った。

根拠薄弱なうちに批判(誹謗と呼んでもよいくらいだ)することは多々あることだ。確かに在日韓国・朝鮮人への日本政府の対応はいろいろと問題があるし、さまざまな利害関係もある。在日韓国・朝鮮人が一方的に優遇されることはおかしいと思うし、障害者が全面的に何不自由ないレベルまで支援されることもおかしいと思う。それにしても現状では一部の例外を除いて、圧倒的に不利な状況に彼らがいることは少し調べればわかるような気がする。もちろん一部の例外はいるが、その例外をもってすべてを語ることは蒙昧としか言いようがない。

また批判する人たちの脊椎反射的な批判には、日本の国政は日本の利益につながるような人を、というようなものが多かったが、ほかの帰化した候補者に対するそのような批判は寡聞にして聞いたことがない。日本と東アジア一部地域の関係に問題があることは承知しているが、それ以外にも何か妙に感情的な問題があるとしか思えない。

話は飛ぶが、人種とは外見と歴史的背景を根拠にした社会・文化・政治的概念であって、生物学的事実とは違う。DNAを調べてみれば、僕(ちなみに祖先は10代以上前から北関東に住んでいた)と配偶者との差と、僕とその候補者との差には有意な違いは見られないだろう。人種差別で有名なヒトラーでさえ、科学的な意味では人種など存在しない、ということをわかっていた。国家間の関係は国家間の関係として、人種間の関係はとりあえず考えないほうが無難である。

僕は理性を根拠は薄いながらも信頼していて、相対主義をあまり信頼していない。理性の代替物であるようなもの、例えば神性、精神、感情、直感、欲求などだが、それらはいずれにせよ暴走の可能性がある。反証の可能性を常に残しておいた理性は、それらに比べると暴走の可能性は少ないだろう。理性的な判断は確かに間違うかもしれない。しかしその間違いの程度は理性的ではない場合と比べると小さいだろうと信頼しているし、いずれよりよい判断ができるだろうと信頼している。

理性的に判断して、低所得者層あるいは低年齢層にとって、どのような候補者がもっとも自分の利益を代弁するか、という判断をするなら、在日韓国人2世の障害者を誹謗する理由などないに等しいと思う。