2008-10-30

『"文学少女"と慟哭の巡礼者』

"文学少女"と慟哭の巡礼者 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。"文学少女"シリーズの5作目です。

不覚にも感心(感動ともいう)してしまったではないですか。作者はシリーズ中でこれまでに取り上げてきたどの作品よりも、宮澤賢治の作品が好きなのでしょうか。本作では宮澤賢治の色々な作品を下敷きにしているようですが、中心となるのは『銀河鉄道の夜』でした。

僕も宮澤賢治の作品は大好きでした(あるいは大好きです)。はじめて触れたのは多分幼稚園に行っている頃ですし、長期入院をしていたときには朗読のテープを繰り返し聞きました。宮澤賢治の伝記や作品研究なども読み漁り、学生の時には筑摩書房からでていた全集を買ってしまったくらいです。

本作に感心したのは、とても宮澤賢治の作品をよく織り込んでいるなと思ったことも関係してくるのかも知れません。シリーズこれまでの作品よりも、プロットなどを下敷きにする度合いは少ないのですが、それでも上手く宮澤賢治の作品や生涯に乗っかっています。例えるなら、これまでの作品では原作と併走していたところが、本作では原作の肩の上から地平を見る感じです。色々な意味で痛々しい話であることには変わりませんが、本作ではほとんど萌え要素が顔を見せません。強いていうなら某登場人物の女王様ぶりくらいでしょうか。

それにしても"文学少女"。シリーズがすすむにつれて何かを思い出させると思ったら、京極堂によく似ているのです。事件に隠れる物語を読み解き、最後にその物語を解き明かして、関係者一同の憑きを落とす。まるでカンッと高い音を立てて鴉のような漆黒の男が登場し、「誰です、あなたは」「世界を騙るものです」とか言いながら憑き物落としが不思議な事件を解きほぐすように、「あなたは誰?」「見ての通り、"文学少女"よ」とか言いながら、想像で物語を読み解く制服姿の遠子先輩が登場するのです。

6作目(番外編)は既に確保しているのですが、7作目以降はまだ図書館で返却待ちです。シリーズの終末がどういう場所に落ち着くのか楽しみですが(かなり想像はできますが)、それを知るのは少し先になりそうです。

問題は「数字センス」で8割解決する

問題は「数字センス」で8割解決する』(望月実)を読みました。この本を読んでも僕の数字センスは良くなりませんでしたが、内容は非常にやさしくてわかりやすく、ビジネスをしている人の一部にとって、本書は有意義であり得るとは思います。

本書では「数字センス」的な力を「数字を読む力」「数字で考える力」「数字で伝える力」の三つに分けて、それぞれケーススタディをしていますが、日々経営的な仕事に従事している人としてみれば、御説ごもっともという感じです。なんだか満足感がないのですよね。その理由を考えてみました。

第一点に、内容がやさしすぎる(既知のことがほとんどである)ことがあげられると思います。この本は一体誰にむけて書かれた本なのでしょうか。少なくとも経営に携わる人間ではないのではないかと思いました。会計にまったく馴染みのない人や、プレゼンテーションの経験が少ない人にむけて書かれた本なのかな、と。わかりやすく書かれているため、必然的に物事を非常に単純化していますので、真剣に経営に悩んでいる人だと逆に怒り出してしまうのではないかとさえ思いました。

第二点に、統計やグラフのトリックを使って「数字で伝える力」を伸ばすようなことが書かれているのに不満です。「数字を読む力」と表裏一体ですが、騙されるのと騙すのはおなじ手法です。なんだか「騙す方にまわりましょうね」みたいな感じがして、少しいやな印象を受けました。もしも僕が本書の「数字で伝える力」に出てくるようなレポートを読んだら、絶対にその正当性について突っ込みをいれます。また、僕が他人に社内的なレポートを要求する場合には、本書のすすめる方法はできるだけ避けるよう忠告するでしょう。

とはいえ、わかりやすい本を書くことはとても難しいので、著者はいい仕事をしています。ただし、自分の事務所を持つ公認会計士の書いた本だからきっと経営者にとって素敵な内容が書かれているだろうと期待するのは間違いで、あくまでも数字を道具として使うのが苦手で使ったこともない人にとって素敵な内容が書かれている本でした。

2008-10-29

『「負けるが勝ち」の生き残り戦略』

「負けるが勝ち」の生き残り戦略―なぜ自分のことばかり考えるやつは滅びるか (ベスト新書)』(泰中啓一)を読みました。

タイトルだけ見るとまるで経営論か自己啓発本のような印象を受けますが、本書の中心部分は「生物進化をゲーム論的モデルでシミュレートすると、長期的には利他行動が最適解となるケースがある」という内容です。

ですが、生物界はそんなに単純な系ではありません。本書の中でも述べられているように、複雑系の短期予想は比較的容易だけれども、長期予想はほとんど不可能です。そのために本書は上記のような内容のみではなく、かなり雑多な内容からなっています。

目次を引用します。

第1章 スキャンダル候補が選挙で生き残る
第2章 じゃんけんゲーム
第3章 進化とは最適化のプロセス丕ケ丕ケ自然選択ということ
第4章 「負けるが勝ち」の進化論
第5章 近親婚を避ける生物界のシステム
第6章 なぜ男の子の出生率が高いのか


第1章では複数者間のゲームでの、外的要因による影響を短期的に予想する際のパラドキシカルな例を紹介しています。第2章では循環的バランスの中での平衡状態をモデル化するために、集団の中の2者間でゲームが行われる条件を「気体分子モデル」でのグローバル相互作用と「格子モデル」のローカル相互作用とでシミュレーションを比較すると、ローカル相互作用が働いているとみなすほうが自然界にはより順当なモデルであろうということが書かれています。第3章では自然選択の例をあげ、自然界での「サバイバル・オブ・フィットネス」、つまり生物種が環境にどのように適応してきたかを説明しています。ここでは本書の主な内容とは反対に、集団選択(利他行動)よりも個人選択(利己行動)が優先される例をあげています。第4章は本書の題名ともなっている内容で、利他行動が最適となるシミュレーションを紹介しています。第5章と第6章では「最小生存個体数」をめぐる戦略と「進化的に安定な戦略」「進化的に持続可能な戦略」を紹介しています。

つまり、本書は各章でかなり独立した内容となっていて、それぞれ短い論文やエッセイを集めたような構成の本です。各章間の整合性はそれほどなく、少しばらばらな印象も受けますが、生物の進化や生き残り戦略という複雑な現象を扱うにはひとつの小さな部分を取り出しても複雑系を説明することはできませんので、しょうがないことだとは思います。

それでも本書は内容が多岐にわたるのに記述量が少なく(新書ですから仕方ないですが、それでも本書は167ページしかありません)、説明不足の感も否めません。わかる人にはゲーム論の説明など不要ですし、わからない人にはこれだけの説明では足りないでしょう。詳しくは筆者の論文を読めということでしょうが、あまり親切な本ではありませんでした。出版物としてみると、ターゲットとしている読者層がよくわかりません。

それでも面白いと思ったのは、やっぱり中心となる内容が優れているからだと思います。こうしたモデルを生物種の進化に適用させるのも面白いけれども、人間の相互行為にも、このモデルを援用してみると面白いな、と思いました。

『秘密結社』

秘密結社―世界を動かす「闇の権力」 (中公新書ラクレ)』(桐生操)を読みました。世の中が大きく動くときには、その裏で秘密結社が動いているということを縷々書き綴っています。ここまでトンデモな内容の新書は他にはないだろうと思いました。

本書の序章は次のようにはじまっています。

秘密結社ほど、謎と神秘に包まれたものはない。これまで日本では、イルミナティ、フリーメーソン、三百人委員会、円卓会議などなど、秘密結社について興味本位に扱われることはあっても、それについて表向きに語られることはあまりなかった。だが、これほどの巨大勢力がこれまで表面に顔を出さなかったのは、むしろ不思議なくらいである。

世の中に陰謀論は多いけれども、秘密結社による陰謀という話は事欠きません。そしてそれらは大抵ソースをたどると訳のわからないことになってしまい、結局は秘密なのか妄想なのか判断できないものです。本書も「興味本位に扱われることはあっても」と序章のはじめで書かれていながら、結局は興味本位に秘密結社を扱い、その情報のソースは明らかではありません。巻末の参考文献を見ると色々と参照しているようですが、どの記述は何を参照しているということが本文中では一切明記されていませんし、参考文献の記述が正しいかどうかもきわめてあやふやです。

ですが本書の優れた点は、文末かセンテンスの最後のほとんどが「という」「といわれる」「と思われる」などと書かれていることで、つまりはほとんど何もはっきりと書かれていないことです。決して嘘ではないので、正直な態度と言えば正直です。

本書は小説などを構想するにはかなりよい資料かも知れません。話のネタにするにはよい本だと思いますが、あくまでネタであり、真か偽かと言われれば「判断不能」としかいえません。この「判断不能」というのは陰謀論などのトンデモ説には都合のよい結論で、「ない」ことを証明することは難しいからとりあえず「ある」ということになってしまうのですね。本書には歴史的事実もおそらく多く書かれていることでしょう。そしてレトリックは優れていますので、肝心の結論は決して論証できないようになっています。ですからトンデモ説がとりあえず「ある」ことになってしまっています。

こういう陰謀論を論駁するのは難しいことですが、好例は「フライング・スパゲティ・モンスター教」だと思います。ラーメン。

2008-10-27

『"文学少女"と穢名の天使』

"文学少女"と穢名の天使 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。もう完全に"文学少女"シリーズの虜です。

今回の下敷きは『オペラ座の怪人』でした。オペラ座の怪人は映画にしてもミュージカルにしても色々なアレンジがあるので、この作品はどんなアレンジだろうと興味深く読みました。といいつつ、僕は原作の翻訳と映画数本(アーサー・ルービン監督、ドワイト・H・リトル監督、ジョエル・シュマッカー監督くらいかな?)に触れているくらいの未熟なオペラ座の怪人鑑賞者です。スーザン・ケイの『ファントム』なども読んでいないし。そもそも何故オペラ座の怪人はこれほどまでに多くのリメイクをつくるのか、その肝心なところがわかっていないのですね。それでも原作の翻訳には耽溺した覚えもあります。

さて、本書はこれまでの文学少女シリーズとは少し色合いが違いました。文学少女である遠子先輩があまり活躍しないからなのか、キャピキャピワキワキという雰囲気ではなく、うっすら暗くて重くてシリアスなストーリーでした(いや、これまでの作品もそれなりにはシリアスなところもあるのですが、大雑把に見るとキャピキャピだと思います)。『オペラ座の怪人』の色合いをなぞっているのだとは思いますが、陰鬱な話の最後には光明が見える、そんな感想を持ちました。

本書を一作品のみとして見ると、ずいぶん作者の筆がすべっているような印象も持ちました。あまりにも都合のよすぎる偶然やら、耽美耽美しようとして失敗しちゃったかなという文章やらが散見されますし、本書で登場する人物の描写は平板な感じです。これまでの作品でもそういう部分は多々見られましたが、本書ではそれが目立つのです。もっとも偶然は小説には必要不可欠なものだし、現実はとてつもない偶然から成り立っているとは思いますし、文体や人物の描写などと言ったことは僕にきちんと味わうことができるかどうか疑問ですが。

作者がどのように『オペラ座の怪人』を解釈しているか端的にあらわすのは、「この物語は哀しみにあふれていて、美しいわ。/暗く退廃的な美に彩られたゴシック小説が、ファントムが見せた真実によって、最後の最後に、胸が震えるような、透明な物語に変わってゆく」という遠子先輩の台詞だと思います。この解釈に異を唱えるわけではありませんが、この解釈をもとに描かれた本書の中心的なテーマかも知れない「真実は人を幸福にするのか、それとも不幸にするのか」と言ったところは、冷静に読むと僕の価値観とは合いません。真実はディスクールの数だけ存在する、というようなポストモダン的な観点は、僕に巣くっている客観性を希求する性質とは相容れないのです。確かに人間の数だけ立脚点があり、各々が本当の物語を紡いでいるだろうけれども、そういうものは「真実」とは言い得ないものではないか、と僕などは考えてしまうのです。むしろそうした本当の物語が多数同時に存在し得るからこそ、オペラ座の怪人はたくさんのアレンジがつくられるし、人文・社会科学が普遍性を持ち得るのではないかな、と。つまり僕は人間の行為については信頼性のある客観的なデータだけが真実で、そうでないものは物語であると考えているのです。カール・ポパーによる科学哲学の影響をものすごく受けていますが、反証不可能なものについてはそれが「真実」であるかどうかを語ることさえナンセンスであるということです。

と、後からそんな感想も持ちましたが、そうした感想は本書を読んでいるときにはあまり持ちませんでした。痛い話だけれども甘酸っぱくて、それはそれで素敵、という感じで読んだのは、これまでの作品があるからだろうと思っています。シリーズ作というものはそういうところで得をしますね。それはともあれ、ツンデレの見本である琴吹さんが大活躍するので、少し安心しつつヤキモキさせられました。僕は既にこのシリーズの罠にはまっていますので、今後の展開が楽しみです。

『"文学少女"と繋がれた愚者』

"文学少女"と繋がれた愚者 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。

シリーズ3作目にして、僕は作者にしてやられた感じがします。もうこのシリーズは最後まで読まずにはいられません。これからどんな展開になるのか、僕の年齢や性別にもかかわらず、わくわくどきどきです。

それにしてもこの作品(繋がれた愚者)一冊だけをとってみると、なんと恥ずかしい作品だろうと思います。僕は偏見により武者小路実篤の作品をひとつも読んだことがないのですが、多分似たような恥ずかしさが僕をして氏の作品から遠ざけているのではないかと思っています。そう、武者小路作品は僕にとって、まるで『走れメロス』を濃縮したかのように恥ずかしいのです。もちろんこれは偏見だとは思いますが。

なにしろそれほど上手くもない絵を描いて「仲良きことは美しき哉」なんて言葉を添えたりするのですよ。むやみに熱い登場人物たちが手に手を取り合って叫んだり、罵ったり、友情や愛を育んでしまうのですよ。妙に理想化された世界観でひたすらに生き抜いてしまうのですよ。「新しき村」には、「この門に入るものは自己と他人の生命を尊重しなければならない」とか「この道より我を生かす道なし」とか高々と掲げているのですよ。こうしたことをシニカルに見たらかなり恥ずかしいです。

下敷きとなっている作品(『友情』だと思います)を読んでいないので、この作品との絡ませ具合などを楽しむことはできなかったのですが、僕が偏見を持っているその恥ずかしさもこの作品くらいまできっちりと恥ずかしくしてくれるといっそ清々しく感じられました。作者が決して目を尖らせながら描いている風ではないからかも知れませんし、シリーズ中でここかしこと披露される萌え要素のせいかもしれません。同じように武者小路作品を読めば、ひょっとしたら清々しいのではないか、と思わされました。食わず嫌いを脱するチャンスかも知れません。

続きがとっても気になります。個人的にはツンデレの見本のような琴吹さんの行く末も気になります。ああ、ライトノベルにはまった。

余談ですが、イラストに描かれる制服姿の遠子先輩は、いつでもスカートからペティコートが覗いて見えますが、1作目(死にたがりの道化)のカバーイラストだけはペティコートを着けていないのです(本文イラストでは着けています)。それが気になって気になって。

2008-10-26

『"文学少女"と死にたがりの道化』

"文学少女"と死にたがりの道化 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。今更ながらの選択ですが。

まず1ページ目の最初の文が「恥の多い生涯を送ってきました」からはじまりますので、「おお、『人間失格』か」と思わされます。高校生の頃に太宰治の文庫本を手に入る限り手に入れて、没頭していた時期もありました(誰しもそういう時期があると思います)ので、うしうしと読み始めたのです。どのように料理してあるのかな、と。

感想としては、それなりに満足です。途中かなり強引な展開もありますが、まあ妖怪やら幽霊やらの出てくるシリーズだと思っていますので、あまり気にはしません。それよりも前回読んだシリーズ二作目の『飢え渇く幽霊』と同じ感想ですが、見事に思った通りの展開と思った通りのベタなキャラクターが素敵です。こういう種類のものは近い将来は伝統芸能になるのではないか、と思うくらいにベタです。

まるで「悪党(何故見ただけでわかる?)に絡まれている女性を救ったら、実はその女性はやんごとなき方で……」とか「転校初日に遅刻しそうになったのでパンを咥えながら学校に走っていると、曲がり角でゴツンと同じクラスの異性にぶつかってしまう(そして下着が見えてしまう)……」といった感じです。もちろんそうしたお約束だけでは作品になりませんので、きちんとストーリーはつくってありますし、文学ネタも所々にちりばめられていて結構お勉強にもなりますし(それにしてもお約束の名作が多い)、『人間失格』の本歌取りにもなっていますので、それなりに満足なのです。

作品のラストの方で、ある場面である説得をする遠子先輩の台詞が素敵すぎました。最後のところだけ引用すると「少なくとも、太宰治全集を隅から隅まで繰り返し百回以上読んで、太宰のレポートを千枚くらい書くまで、生きなきゃいけないわ!」とのことです。世の中のほとんどの人が死ねませんね。

ちょっと追記しますと、僕が『人間失格』を最後に読んだ時期ははっきり覚えていて、高校2年生の2月第1週の土曜日でした。当時お付きあいをしていた女の子に振られて1ヶ月だったのです。いや、なんと恥ずかしい本の選択。

2008-10-24

『すべての女は痩せすぎである』

すべての女は痩せすぎである (集英社文庫)』(姫野カオルコ)を読みました。内容は至って正論で、著者自身かなり自身の偏見と感覚からとても論理的に文章を書き綴っています。著者自身の尖ったところもそれほど目につきませんでした。

内容は目次を読めばおおよその見当はつきそうなので、目次を引き写します。

第一章 まぼろしの美人論
 美人は京都に住んでいるのか?
 パツキン美女の産地はどこか
 美人の地域差は?
 美人は肌がきれいか?
 世界一の美人は誰か?
 美人は男性差別ではないか?
 美男美女の内面に迫れるか?
 「美男と思う=好き」なのか?
 他人の顔を査定したバチか?
第二章 すべての女は痩せすぎである
 美人とは痩せていることなのか?
 数字マジック
 筋肉と脂肪の関係
 食欲女王
 田舎に住んでいてはダイエットもできない
 漢字マジック
 セックスできれいになる、はもう古い
 セックスできれいになったにちがいないと思わせる女
第三章 ルックス&性格=見かけ&中身
 ヘアヌードのゆくへ
 看板に偽りあり
 スをつけないといけないっス
 裸になるのは怖い
 自己プレゼン・その1
 自己プレゼン・その2
第四章 すべての男はマザコンである
 自宅ボーイからパラサイトボーイへ
 自宅ボーイに未来はあるか
 聖職の碑
 男性差別
 真マザ男と脱マザ男
 ヒロシの場合
第五章 すべての人に好かれる方法
 わざとらしい女
 かわいそうな水野真紀
 サヤカちゃん
 急募! コピー、お茶くみできる人
 少女、それは清く、少女、それはかよわく
 沖田総司さま
第六章 彼の声


僕としては、やはり多くの男性と同じく女性顔評論家ですので、第一章の美人論は面白く読みました。女性の描く美人論は男性の描く美人論とも少し異なり、何よりもジェンダー的な視点が混じり込んでいますので、それはそれで興味深いです。結論としては美の定義は不可能であると言うことですが、歴史的な考察を積み重ねればそれなりの共通項が見いだせるはずですので、普遍的な美ではなく、その当時の美なら語りようもあるかな、と僕は思いました(実際そういう研究もなされていますし)。あとは著者が「エロには理解を示せるけれども、エロスにはまったく理解が及ばない」というのも、作品(『ツ、イ、ラ、ク』)を読んでみると何となく納得してしまいました。

それはともかく、特に興味深くて読み応えのあるのは第六章でした。ここでは高校生だった著者が吉行淳之介さんに三ヶ月に一度ほど電話をかけた話が、かなり自虐的に暴露されています。吉行さんはまさに洒脱の受け答えをしているのですが、高校生である著者はそれに一方的に寄りかかっています。こうした高校生ならではの恥ずかしい行いというのは、文章にして世間の目にさらすというのは勇気のいることですね。僕など絶対にかつて文通していた人とのやりとりなど公にはできません。

著者の文章はこの本でもやはり文庫化に当たって全面的に書き直したそうです。雑誌などの初出の文章はその文脈に沿った文体を選んだり、時事に即して例を挙げたり隠喩を用いたりするので、どうしても文庫化するには内容と現実の齟齬が目立ってしまいます。職業作家らしい入念な仕事ですが、これは言うに優しく行うに難しというもので、全面的に感服しました。

『没落のすすめ』

没落のすすめ―英国病讃歌』(G・ミケシュ)を読みました。『ボートの三人男』を読んで、むらむらと再読したくなったのです。

著者のミケシュはハンガリー生まれで、第二次世界大戦頃にイギリスに帰化した人です。英国人以上に英国人らしい人だと言うことです。この本は1977年に『How to be DECADENT』として出版されましたが、茶目っ気と皮肉たっぷりに当時のイギリスの没落ぶりと過ぎし日の大英帝国の繁栄を賞賛しています。

つまり、かつて世界の三分の二を支配した大英帝国は、公平と平等とバランス感覚を尊重しているので、今度は諸君ら非英国民が世界を支配し、大英帝国は優雅に没落しよう、ということです。優雅に没落するためには非常に高度な技術が必要で、その技術は在りし日の英国人的振る舞いを英国民全てが続けていることで身につけることができるとうわけですね。もちろんこれは冗談で「英国人たる者、いたずらに英国人であるのではない。没落という永遠の栄光にむけて、われらはいま勝利の行進をしているのである」というように。

著者自身が英国人的になるのには非常に苦労をしたようですが、一度エスタブリッシュメントの一員になったからには、今度はそれを周りに分け与えてあげようという、とても親切な本です。偏見たっぷりのイギリス的ユーモアに充ち満ちていますので、「英国人的」なことを過剰に誇張して賛美しますし、極度に卑下しています。その両極を持つからこの本も面白く読めるのだろうと思いますが。

極端な一文を引用します。

わたしも変ったし、英国も変った。

まず言えることは、わたしは英国民以上に英国民的になった一方で、英国民はより非英国民的になってきた、ということ。三十年昔の年若き亡命者の身分にくらべて、わたしの暮らしむきは多少よくなってきた一方で、英国民はますます貧乏になってきた、ということ。わたしがハシゴを数段上った一方で、英国民は何段も何段もおりていった、ということ。わたしの中のヨーロッパ性が薄らぐ他方、英国はますますヨーロッパ色を濃くしてきたことである。それに、英国は帝国を失ったかわりにこのわたしを得た、という点を見逃すわけにはゆかない(思うに正直な話、この得失は微少なものではあろう)。


この本をはじめて読んだのは高校生の頃でしたが、naturalizeという言葉で「帰化」を意味することに気づかされました。つまり日本国籍を持っている僕などは、自然ではなく、生来のものではなく、まともではなく、人工的で、作為的で、超自然的な存在だと言うことです。

2008-10-23

ボートの三人男

ボートの三人男』(ジェローム・K・ジェローム)を読みました。

第一章を読み終えるまでに思わず声に出して笑ってしまったのが3回。その後は「こういう本を読むときには、世界の終わりが明日に迫っているときのようにしかつめらしい顔をして読むのが正しい」と気持ちをあらためて、ニコリともせずに読み終えました。

さすがに長く生き残っている本だけあって、面白いです。面白いと言うだけではその面白さは決して伝わらないのが常ですが、この本の解説に井上ひさしさんが書いている以上にその面白さを伝えることは難しいので、無駄な努力は早々と放棄することにします。

この本を読むときに気をつけたいことは、ゆっくり読む、ということでした。面白いあまりについつい先走ってしまうのですが、過剰な美文で描かれるテムズ河畔の情景やその歴史的背景もじっくり味わうことで、その他のスラプスティック・コメディが引き立つというものでしょうか。僕は訳者の丸谷才一さんのように英文学への造詣は深くないのですが、丸谷さんの書かれたように「奇妙なことだが、『ボートの三人男』はユーモア小説として着手されたのではなかった。テムズ河についての歴史的および地理的な展望の書として目論まれたのである」ということを鵜呑みにはできません。単純に面白可笑しく読んだだけです。

庭木をなぎ倒すような嵐の夜に「ちょっと涼しいようですな」という英国人。とにかく責務を回避することを第一の責務と信じる英国人。7シリング6ペンスの持ち金で6シリング11ペンスの買い物をするといくら残るかについて、いささかの不便も感じない英国人。1クラウン貨が流通していないのに半クラウン貨が流通する不条理を許容する英国人。摩訶不思議なシステムである華氏を採用している英国人。僕が偏見とともに知っている昔の英国人はこんな感じですが、その他色々の19世紀の類型的英国人の所作が大げさに誇張され、過小に抑制されて描かれているので、これほどまでに面白く読めるのでしょう。

いまは既に、こうした面白さはよほど誇張しなければ存在しなかろうかとも思うのですが、「どくとるマンボウ」はじめの頃の北杜夫さんはこれに似た面白さだったな、と思い出しました。

2008-10-22

『妖女サイベルの呼び声』

妖女サイベルの呼び声』(パトリシア・A・マキリップ)を読みました。前々から気になっていた本に手を出した次第です。

感想は……。完璧です。完璧な世界、完璧な登場人物、完璧なストーリー、その他色々。もしも無人島にこの作品だけを持って行ったら、きっとあれこれ文句が言えなかったり、修正したりできなくて退屈してしまうでしょう。それくらいに完成されています。完成されているからこその欠点もあり、もっと長い話で世界を味わいたい方には不向きでしょうし、ストーリーはきちんと一筋の流れになっていますので、読んだ後に広がりを持ちたい読者にも不向きだと思いました。だから面白く読める人が限られてしまいますね。

この作品ひとつにどっぷりと浸れば、これほど素敵な読書体験をさせてくれる本には久しく出会っていませんでした。ファンタジー作品の枝葉末節に関しては、大抵の場合「そういうものだ」と割り切れるから、読書の要はまさに浸れるかどうかです。で、僕は頭のてっぺんまですっかり浸ってしまったのです。もっと早くに読めば良かった。

内容の紹介など無用です。もしもゲルマン系・ケルト系の剣と魔法のファンタジーが好きなら「読め、浸れ」というだけで充分。とはいうものの僕が少しだけ違和感を持ったのが、ドラゴンの描写でした。僕はこの作品を読むまでドラゴンはずっとトカゲかイグアナのような幻想動物だと思っていたのですが(ついでに言えばユーラシア大陸東側の龍は蛇みたいな神獣で、南アジアでは単なるナーガと思っていました)、気になって調べてみたら各種の伝承や叙事詩の原語では「蛇」を語幹としているようです。ドラゴンは蛇のような幻想動物だったのですね。思わぬところで勉強になってしまいました。ということは、僕がこれまで思い込んでいたドラゴンの姿は一体何だったのだろうと記憶をさかのぼると、中学生の頃に読んだ『幻獣図鑑』(出版社も編者も忘れました)でした。そこに描かれていたドラゴンはウェールズのドラゴンだったようです。

つまらぬ蘊蓄はさておき、面白かったの一言で済ませられる本でした。人生に対して考えることや、歴史に思いをはせることや、その他色々の夾雑物とは無縁の本だと思います。

2008-10-20

忘却の河

忘却の河 (新潮文庫)』(福永武彦)を読みました。読み終えたのは2日前なのですが、なかなか感想が書けないほどに重いです。深いです。構成が見事です。有名な作品なので内容の紹介をするまでもないと思いますので、感想だけ。

とにかく文学が男で知識階層の人たちのものだった頃の小説なのだな、という感想です。それにしては僕としては納得のいかないことも多く、大学中退の中年男性は長子でありながら、昭和17年に徴兵されて東南アジア方面の前線に配属されたようですが、どうも僕にはこれがなかなか想像できないのですね。それに中年男性の娘が大学進学を当然のようにしているのも、当時の大学進学率から考えると想像しにくいです。また、ルース・ベネディクトの「恥の文化」を表明した著作(『菊と刀』)が発表されて十数年経っている頃の小説ですが、日本人の心性として罪や愛の概念やがそれほどに重みを持つかどうか、実感が湧かなかったのです。

とはいえ小説としての完成度は別格で、本当に見事の一言に尽きます。小説が人称をここまで自由に使いこなし、複合的な視点から多くの肉声を重ね合わせ、それでいて統一した一織りの物語として精密に編み上げているのは、読んでいて心底感心させられました。

福永文学の中心的なテーマとなる愛や孤独や罪になじめないのは、僕の性格なのでしょう。しかし愛の概念が根付かないためにキリスト教宣教師たちが「御大切」という訳語を普及させようとしていましたが、仏教徒の僕(日本人で無宗教と自称する人たちも)としては、こちらの方がしっくりくるのではないか、と思ってしまうのです。つまり福永文学は福永さんのフランス文学に裏付けされた知的レベルにまで高まらないと、じっくりと味わえないのではないかと。そして僕やその周りの人たち、特に父や祖父は、いわば大衆でしかないのです(みな高等教育は受けてはいますが)。

現在進行形で生きている個人として見ると、愛の形は大きく変わっています。同じように罪の概念も当時とは趣が異なるでしょう。しかし小説のテーマから概念型のみを抽出するならば、むしろ現在のほうが読み込むのは意義深いと思います。僕は僕の目を通して読んだときに、大変重くて深い小説だと感じました(詳細はなかなか文章にできないのですが)。ですから僕の感想はこの小説の価値を疑うものではありません。ただ、かつては男の知識階層のためのものであり、今は違う、というだけです。

2008-10-16

羞恥心はどこへ消えた?

羞恥心はどこへ消えた? (光文社新書)』(菅原健介)を読みました。まあそうだろうな、という程度の感想です。

正直なところ、あまり感心できる内容ではありませんでした。社会心理学という、日常をフィールドとした学問分野が常に抱える問題ですが、注意深く身のまわりを眺めたり考えたりした結果の「常識」と、学問として調査・分析した結果とがあまり違わないのです。「一般常識」とは違うかも知れませんが、一般常識とは思考停止状態のことであって、考えればわかるだろう、という内容です。この本では特にその傾向が顕著で、僕にとって新しい発見はありませんでした。あくまで「僕にとって」なので、新しい発見をする人もいるとは思いますが。

内容を簡単に紹介すると、「ジブン本位」は「恥ずかしさ」を抑制し、「地域的セケン」は「恥ずかしさ」を促進する一方、「せまいセケン」は「恥ずかしさ」を通り越して「逸脱行為」を促進する、ということです。そして現代日本では「せまいセケン」が常態化して街中での迷惑行為などが散見される、というのですね。

新書に求めるのは酷な注文かも知れませんが、調査の結果や分析内容を紹介するのではなく、調査方法自体をもう少し本書の中で述べてもらわないと、その分析内容の妥当性は評価できません。僕が分析内容に対して持った感想は、「それは都市部の現象であり、日本全体の現象ではないのでは?」というものです。どんな人でも何らかの形で社会化されて生きていますが、その社会化の内容や方法は、地理的にも風土的にも文化的にも、あるいは伝統やらイデオロギーやらなんやかやの非常に複雑なシステムによって規定されることが予期されます。その複雑さをあまりにも単純化しすぎているのではないかと僕は思いました。

ついでに思ったことですが、参照している文献として、著者自身の論文が多すぎでした。

ほんとに「いい」と思ってる?

ほんとに「いい」と思ってる? (角川文庫)』(姫野カオルコ)を読みました。以前『ツ、イ、ラ、ク』を読んで「この作者はただ者ではない」と感じたので、新古書店に行って105円の棚に並んでいる本を全て買ってきたのです。まずは処女作から読もうかと思うのが常ですが、『ひと呼んでミツコ』がなかったので、とりあえず軽くジャブでもというつもりでエッセイである本書を読みました。

想像していた以上に濃い人でした。映画にしても本にしても、嗜虐的マニアックというか、とにかくディープ。そして『ツ、イ、ラ、ク』を読んだときに僕の感じた違和感も解消されました。僕の違和感は、小中学生がよくこんな事を考えているものだ、というものでしたが、姫野さんは子どもの頃のご自分を非常によく覚えているのですね。僕は忘れたり作り話をしたりしていますが、姫野さんはどうやら生々しく記憶しているようです。それに年齢や性に対する感受性もずいぶん僕とは異なっていることがわかって(当たり前ですね)、感心した次第です。

僕もよく他人や身内からマニアックだの気難しいだの扱い難いだの感性が変だの言われますが、姫野さんのエッセイを読むと、僕がものすごく凡庸な人間であることを思わされます。単なる考え方の違いかも知れませんが、僕は中庸を尊重するけれども姫野さんはものすごく尖っているからこそ、小説あるいは創作活動という道を選んだのかも知れないな、などと我が身を鑑みてしまいます。いや、器が違うのは重々承知で。

で、ようやく本書の話ですが、エッセイの常としてあっという間に読み終わってしまいました。うんうん、なるほど、そう考えているのね、という感じです。尖ってはいますが、理解できないほどには尖っていませんし、とても理路整然とした文章ですので理解はしやすいです。共感できるかどうかはさておき(ちなみに結構同じ意見が多かった)。小説家だからこそなのか、文庫書き下ろしエッセイにしてはとても手がこんでいますので、著者の苦労が偲ばれました。

2008-10-15

日本の女が好きである。

日本の女が好きである。』(井上章一)を読みました。著者の『美人論』を再読したいなと思っていたところ、本書のサブタイトルが「新・美人論」なので読んでみました。

『美人論』の精密さには及びませんが、より率直になったというか、より著者のエッチさが増したというか、より現代的になったというか、俗っぽくなったというか、とにかくとても読みやすい本でした。『美人論』を書き直すためのラフスケッチというのが本書の位置づけなので、まさにラフです。

Amazonの内容紹介から引用をすると、

賛否の両論を巻き起こした問題の書『美人論』から17年。再び挑む、美しい人とそうでない人の研究。なぜ日本人は、女性のうなじや脚首に魅力を感じるのか? 小野小町はほんとうに「美人」だったのか? 不美人ほど不倫をすると言われた理由は? 「秋田美人」「新潟美人」が生まれた深い事情とは? ミス・ユニバースとK-1の共通点とは?……フェミニストとの心理戦の裏話や、美人の研究を始めるきっかけとなった自らのコンプレックスなど、美人研究にまつわるさまざまな豆知識やこぼれ話を紹介する1冊。楊貴妃からかぐや姫、ミス・ユニバースに女子大生、さらにはアニメの美少女キャラまで、古今東西の資料に基づき、「美人」「美女」ついでに「美男」について、マジメに深く深く考察します。人はほんとうに「見た目」がすべてなのか?
という本です。著者のかつての主張通り「全ての男性は女性顔評論家である」を地でいっています。

人の顔について何かをいうことは、僕の倫理意識からは想定できません。とはいうものの身内は別で、配偶者は「綺麗でかわいくて優しくて機知に富んでいてetc.(といわないと怒られます)」ですし、僕は一言で形容すればイケメンです。しかし考えてみれば、人の能力についてあれこれ論じることも測定することもしているのだから、僕の倫理意識など基盤は脆弱なものです。その脆弱さを揺すられる著者の率直な物言いには頭が下がります。これは『美人論』でも同じ事を感じましたが。

率直なだけでなく、かなり鋭いのではないかと思わされる洞察もありますし、著者の博識さを証明するような蘊蓄も、資料に基づいた実証も多いです。特に女性の社会参加がすすむことにより、美人がより得をするようになってきたという主張には、著者の鋭さを感じられます。

ちなみに本書で「秋田美人」「新潟美人」の生まれた理由として、日本海側の経済的なものや遊郭などでの田舎者たちを弄する宣伝文句があげられていますが、僕の聞いた与太話では違いました。日本の中央から外れたところに美人が多い理由は、参勤交代に端を発するというのです。国許にまで連れ帰るのは美人であり、そうでない者は途上で捨て置く、というのですね。だから関東周辺では不美人が多いのだ、という妄説です。北関東出身の僕としては著者の説に与します。

他には、壁画・絵巻物・浮世絵などに描かれる美人をもって当時の美人とするのは単純にすぎる、という主張が面白かったです。それらはいわばカリカチュアライズされた美人像であり、骨相的に見ても当時の人間にそのような極端な顔をした人はいなかった、というのです。例えるなら昨今の美少女イラストを1000年後に考証したら、当時は顔面積の2割を目が占めるような顔がもてはやされていた、とするようなものである、ということです。この主張には、僕は少しだけ異を唱えたいです。徳川将軍家代々の頭骨を調べると、ほんの300年で、明らかに当時の標準的な頭骨よりも面長で顎が貧弱になっているという事実がありますので、壁画・絵巻物・浮世絵などは異形なカリカチュアライズではなく、貴人を憧憬する心情から描かれているのではないか、と僕は思うのですけどね。

あとはうなじや足首に魅力を感じることの説明として、視線をそらしつつのぞき見できるパーツとして淫靡な好色文化を育んできたのではないかとしていますが、これにはものすごく同意。まさに我が意を得たりという感じでしたが、1990年代くらいから肌の露出度が高かったり、体の線がはっきりと現れる服が罷り通っていますし、職場でもそこそこ見受けられますので、そのうち変わってくるのだろうな、と思いました。

他にも読む人によってはツッコミどころ満載な本ですが、著者はぜひ苛めて欲しいようなので、女性の顔について云々している本書に嫌悪感を持つ人は、一読をして著者を苛めてください。エッチな男性の僕としては、とても楽しめる本でした。

2008-10-14

日本に古代はあったのか

日本に古代はあったのか』(井上章一)を読みました。

すごく単純に著者の主張を要約すると、「日本に古代はなかった」ということになります。一般常識として、邪馬台国や大和朝廷や平城京、平安京は一体どうなってしまうのだ、というと、これは中世であるというのです。普通の感覚だと、日本の中世は鎌倉時代くらいから始まった、と言うふうになりがちですが、そうではないというのですね。

これが身も蓋もない主張ではないことは、本書の中で詳細に述べられていますが、ユーラシア大陸の歴史の中に日本を位置づけると、どうやらその方が都合がよい、というのです。そもそも中世などという時代区分には色々な意味づけが可能ですが、土地と褒章の結びつきだとか、生産様式であるとか、法制度であるとか、色々な観点から論じられます。そこで、本書では律令制やら荘園制やら封建制やらを考察して、日本に古代はなかった、という事になっています。

それではどうして日本の中世は鎌倉幕府の成立からはじまったという一般常識があるのかというと、関東を中心にした歴史観を持ちたがった人が明治以降にたくさん現れたとか、東大の歴史学と京大の歴史学とでは異なった歴史観を持っていたとか、様々な理由が挙げられています。そのあたりは著者の文献収集によって誰がいつどう言ったかということを傍証にあげていますが、それを見ると、いかに時代背景が研究者の思考を限定しているか、ということがわかります。逆にとれば、研究者の思考がいかに時代背景を脚色するか、ともいえます。著者は京大に思い入れが強すぎるのではないでしょうか。

信じる信じないは別として、ユーラシア大陸の歴史という面で見れば、著者の主張は細部を詰めればとてもまっとうなものに思えます。中国史でいえば、漢帝国の終わりを持って中世に入ったとする主張もあるようですし。ヨーロッパ史と中国史が断絶していたものを一つにまとめ上げたのは宮崎市定ですが、その流れを汲んでいると言って良いでしょうし、それ以前の京大を中心とした学派の歴史観の流れにも沿っています。それにヨーロッパではゲルマン系やケルト系のところでは古代(ギリシア・ローマ帝国期)と言われる時代区分はなく、中世から有史が始まっているのが定説だそうですから。

著者も言うように、著者は歴史の専門家ではありません(何の専門家なのでしょうね? 今は風俗やら女性やらの研究家か何かなのでしょうか)。素人の思いつきとして書き上げていますが、とても知的な刺激を受ける本でした。ヨーロッパ史、中国史、朝鮮半島史、日本史、ベトナム史、モンゴル史、インド史などなど、別々に研究されているものを一つの整合性のあるものとして捉えようとしたときに、こうした視点はとても魅力的に映ります。

"文学少女"と飢え乾く幽霊

"文学少女"と飢え渇く幽霊 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。僕にとって初めてのファミ通文庫です。

以前から気になっていたシリーズなのですが、まとめて図書館に予約をしておいたら2作目が一番先に届いたので、順番を無視して本作から読み始めました。前作(死にたがりの道化)を読んでからならもっと設定を簡単に理解できたことでしょう。

僕もかつての文学少年として、本作品に出てくる古典的名作のほとんど(童話を除く)を読んでいましたので、途中からこの話はある名作をなぞっていると気がつきましたし、暗号の解読は趣味としているので、数字の羅列も(いちいち対応表をつくりながら)理解できました。だからといってこの「飢え乾く幽霊」がつまらないわけではありません。

魅力的なところは、非常にストレートなところでしょう。こんなシチュエーションあり得ないよ、と思いながら、そんなシチュエーションに憧れているものをそのまま書き出してくれたり、典型的と僕たちが見なすけれども、決して現実で見かけることはない行動と反応そのままの描写とか、まあ妄想系の喜びというか。

遠子先輩の文学蘊蓄は、僕にとってはそれほど役に立ちませんでした。テキストそのものが味覚に還元されてしまうので、僕の興味であるテキストの社会的背景を語ってはくれなかったからです。それにしても高校三年生で、こんな正統派文学的名作を今更読むのか、という感じも少しだけしましたけれど、本と人の出会いは色々ですからね。僕も未読の名作は多いですし。

でもまあ面白かったし、連続して図書館に予約してあるものが届く予定なので、このままシリーズを読み続けてしまおうかと思っています。ただし順番はごちゃごちゃになるかも知れないけれど。

2008-10-11

新宗教の解読

新宗教の解読 (ちくま学芸文庫)』(井上順孝)を読みました。

内容紹介を、「BOOK」データベースから引用します。

社会の矛盾や歪みを映し出し、また民衆の欲求を吸いあげる新宗教。天理教、創価学会から幸福の科学、オウム真理教にいたるまで、時代や社会を反映する「近代日本に出現した新しい宗教システム」としての新宗教を読み解き、宗教史的・社会学的な観点で洞察する。新宗教はなぜ生まれ、どのような道をたどってきたのか…150年にわたり激しく息づき、現在もなお多様な活動を展開しているこれらの現象を追究・分析する。「混迷の時代とオウム真理教」を加筆。


やっぱりこの引用からだけではよくわからないですね。要するに新宗教の歴史(宗教史としても社会史としても)を分析しています。新宗教が成立するためには社会状況の変化や法的環境の変化の影響を大きく受けますが、それに対する新宗教の組織形態や活動内容などの変化を検討してる本です。

どのような宗教であろうと、宗教にはそもそも信者を集めるためのシステムが必要です。信心は新宗教にありがちな超常体験や治療から得られたとしても、それが組織化され、継続されるためには集合的な意識が働かなければなりません。その点、新宗教はその時点での社会状況の影として成立するという観点から本書は論述されています。

影は決して後ろ向きにのみ伸びるものではなく、横にも、ひょっとしたら前にも伸びます。新宗教は時代の求めているものを先取りしている可能性もあるという主張がなされていますが、著者は本書で学者らしさを決して失うことはありません。つまり新宗教に対してきわめて客観的で冷静に接しています。その分主観的で扇情的に新宗教に接するジャーナリズムに対する著者の態度は辛辣ですが、マスメディアも時代の求めているものを提供する社会的機能を持っていますから、マスメディア論を別に考えなければならない本でした。

2008-10-10

美人の時代

美人の時代 (文春文庫)』(井上章一)を読みました。『おんな学事始』として文春から出ていた単行本が、文庫化で改題になった著作です。色々な雑誌に載せたエッセイをまとめたもので、初出は1990年前後ですから、エッセイに描かれる社会背景も言葉や風俗もかなり古い感じがします。

井上章一さんといえば、博識かつ頭脳明晰で、なおかつとてもエッチなおじさんですが、彼の『美人論』を読んで衝撃を受けたのは大学生の頃でした。『美人論』は歴史研究として書かれたものですが、この本がフェミニズム系の攻撃を受けなかったのは「こういう事が歴史的に事実と考えられる」と実証しているだけだからだと思います。

そして本書は『美人論』とはうって変わって、笑いをとることを密かに狙ったエッセイ集です。著者の欲望や妄想や何やらが丸出しで、学術書ではないから論理的破綻も多く、議論も終始一貫していません。それでもなるほど納得と思わせてしまうのが、著者の頭の良さなのか、僕が男性でなおかつエッチだからなのか。

内容紹介を「BOOK」データベースから引用します。

男はなぜセーラー服に欲情するのか、白衣の天使・看護婦のエッチサービスは解禁すべきか等々、誰もが悩んだ永遠のテーマを真面目に考察し、男のホンネ(女はやっぱり美人に限る、面喰いのどこが悪い)に知的かつ歴史的根拠(美人なくして近代化なし)を与えてくれる痛快丸かじりのエッセイ集。井上美人学の原点、ここにあり。


笑いをとるといっても、単なる冷笑ではなく、著者はフェミニズム陣営からマゾ的な蔑み笑いを求めています。例えば美人コンテスト紛糾の座談会に、美人コンテスト賛成者側として参加して欲しいと上野千鶴子さんからお誘いがあったそうです。「絶対に論破される。もしかしたら謝罪を要求される」と覚悟をしていながら、本音では参加したがっていたようです。というのも、論破され、謝罪を要求され、改宗を迫られて、その後に「それでも、私は美人が好きだ」と呟きたかったからだそうで。もちろんガリレオのパロディです。

読んだのは男性の僕だし、書かれたのが古いからきちんと笑えましたが、笑えない人もいるでしょう。それでも真実の一面は書かれている本です。『美人論』を再読したくなりました。

2008-10-09

当たると痛い

雑談です。

某所で、米の大きさを決定する遺伝子が特定されたことが話題になっていました。それに関することを色々読んでいるうちに関係のないことを調べはじめてしまったのですが、そのうちに驚愕のSF知識を手に入れてしまいました。


レールガン:すごい武器。当たると痛い。
ビーム:すごい武器。見た目が派手。


神坂一さんの『幻夢 目覚める (ロスト・ユニバース)』のあとがきに書かれているそうですが、恐るべき単純化と、それにしては作品を楽しむのに必要充分と思われる説明です。

神坂さんを笑うつもりはありません。僕は彼の「スレイヤーズ」の最初のほうしか読んだことがないという、善良ではない読者ですが、「スレイヤーズ」のような調子(指輪物語から続くソーズ・アンド・ソーサリーの伝統とは結構違うファンタジーです)で作品を多数ものしていくと、こういう事にもなるだろうな、というのが感想の一つです。

また別の感想もあります。僕がSFを読むときには自然科学やら工業やらに関する、自分の持っている知識を総動員して読むのですが、実はこの程度の理解でもOKという、なんだか吹っ切れた態度の著者に、いたく感動したのです。どうも僕は、フィクションの中に現実を持ち込んで読みがちですが、フィクションはフィクション。説明不可能な超常現象が起こって当たり前ですし、SFといえどもそれは同じ事。目から鱗が落ちました。

といっても僕の性格はそうそう変わりませんけどね。

2008-10-08

セラピー文化の社会学

セラピー文化の社会学 ネットワークビジネス・自己啓発・トラウマ』(小池靖)を読みました。

実に丁寧に書かれている本だという感想を持ちました。著者の博士論文がベースとなっているのですが、フィールドワークをもとにしていますし、身近な題材を扱っているので、社会学の専門書としては非常に読みやすいと思いますし、普通の読書好きにもおすすめできます。

本書の内容を要約するのが面倒なので、Amazonの「内容紹介」から引用します。


ポジティブシンキング、心理療法、自助グループ、スピリチュアル…現代社会を席巻する心理主義=ポップ心理学。その実態を長年のフィールド調査から明らかにする。

心理学的な発想によって私たちは生き方を決めることがあるのだろうか?販売員ネットワーク、自己啓発セミナー、アダルトチルドレン・ブームなどを題材に、社会学の立場から現代の「セラピー文化」を分析する。前向き思考、人格改造、トラウマ説は、現代人にとって何であるのか。文化社会学、宗教社会学の双方にまたがる意欲作。
これだけでは何が書いてあるのかよくわからないでしょうけれども、まあ興味をひかれたら本書を手にとっていただければ良いと思います。ちょっとしたしがらみがあることがわかりまして、購入していただけるとより良いです。

どうも宗教社会学の本にしてはすんなりと理解できすぎると思ったら、僕とものすごく色々なところがかぶっていることが、あとがきで判明しました。すんなり理解できるのも道理です。

何となく気後れして、あまり詳しくは感想を書けません。ただ著者は、トラウマ・サバイバーの運動をアルコール中毒者のセルフヘルプグループをして代表させていますが、これは他の二者(ネットワークビジネス、自己啓発セミナー)とは大きく異なる性質を持っているので、「セラピー文化」の重層性としてとらえていますが、確かにそうだなと一面では思います。

ただし、もっと政治的・文化的に先鋭化しているセルフヘルプグループもあります。例えば障害者運動の一側面などですが、これを著者に伝えるべきかどうか。この三つ目のトラウマ・サバイバー運動に関しては記述が薄いと感じましたし、その脱近代的な性質やアルベルト・メルッチがいうような「新しい社会運動」としての位置づけが本書の論述の中では接ぎ木されているような印象を受けました。

とにかく気後れして、詳しくは書けないのです。いやはや。

2008-10-06

騙されること色々

雑談かつ独り言です。

まるで自分は馬鹿であると宣言するようですが、騙されることにはちょっとした自信があります。タイトルにひかれて読む本の内容が、期待と全然違うなんて日常茶飯事ですし。

小学生のころに兄から「中国語でタイヤがパンクすることを『アナーキー』っていうんだぞ」と教えられ、中学生になるまで信じていました。他にも兄からは「ピートマック・ジュニアは奥田民生だ」ととんでもないことを吹き込まれ、信じかけました。「ウルトラセブンの歌には尾崎紀世彦の声が入っている」ということを言われ、これは本当だったから少し信頼していたのです。

最近騙されたのは、バンド関連です。

僕の入っているバンドが10月末頃に出演を予定しているライブは、一般向けではなくて大学サークルの同窓会ライブだったようです。そしてさらにその対バン(同じ日に同じライブハウスで演奏するバンド)のビッグバンドにも誘われたのです。サークルの現役大学生と卒業生が入り交じったビッグバンドだそうで、「若くてピチピチした連中と一緒に演奏ができるよ」という甘言に唆されて、よこしまな心からほいほいと承諾したのです。

練習にいってみたら、確かに若くてピチピチした人もいるのですが、残念なことに男性ばかり。僕を誘った人間を詐欺罪で訴えようかと思いましたよ。

もう一つ騙されたのは、やっぱり音楽です。

そろそろライブに向けてきちんと準備しないといけないと思い、ようやく重い腰を上げて演奏予定の曲を、雑音をシャットアウトして高音質で「きちんと」聴きました(いままでは移動中に聴いたり、子どもと遊びながら聴いたりしていたのです)。渡された楽譜が暗号状態なので、自分用の楽譜を書こうと耳コピ(聞こえた音を音符にする作業)すると、渡された楽譜とすごく違っていて、今まで練習していた曲は一体何だったんだ、という思いに駆られました。さらに、きちんと聴くまでは「結構かっこいい曲じゃない」とか思っていたところを、丹念に何度も聴いてみると「実はダサイ?」という疑念が。原曲のソロをコピーしてみると、すっかりその曲に対する親しく優しい気持ちは消え失せて、ただ客観的で分析的にリズム・メロディ・ハーモニーを追認するだけとなってしまいました。

やっぱり愛情を持続させるには、「奥ゆかしい」くらいに留めておくのが秘訣の様です。これに関しては音楽に責任はありません。僕が迂闊でした。

闇の左手

闇の左手』(アーシュラ・K・ル・グィン)を今更ながら読みました。ずっと気にはなっていたのですが手に取れなくて、ようやく読んだ次第です。なんだか最近SFづいているような気もしますが、そのうち揺り戻しもくるでしょうから、とりあえず気の向くままに読書をしています。

既に名作の名が高い本に対して、あらためて何かをいい加えるのはとても難しいし、作品や既に何かをいってきた人に失礼になってしまうのではないかと危惧するのですが、言ってしまうと名作として残るのはやっぱりそれなりの理由があるのだな、という単純な感想です。現代的なSFとはずいぶん味わいは違いますが、一つの世界として見事でした。

既に散々いわれていることだけれども、両性具有の登場人物が男性にしか思えない点はやっぱり気になります。萩尾望都さんの漫画によく似ている(というか、萩尾さんが影響を受けている)けれども、萩尾さんの漫画もやっぱり両性具有者は男性っぽくなりますし、ここには何か人間の想像力を限定する何かがあるのかな、と思ってしまいます。

僕の読める本の冊数には限りがあるのに、素敵な本の冊数にはほとんど限りがないというのは、幸せでもあるし不幸でもあるな、と思います。それでも「名作」と言われないものも読んでしまうのですが。

2008-10-05

象られた力

象られた力』(飛浩隆)を読みました。「デュオ」「呪界のほとり」「夜と泥の」「象られた力」の四つの中短編が収められています。

個人的には「デュオ」が一番気に入ったのですが、それはさておき作者の緻密で固い感じのする文章には圧倒されます。「呪界のほとり」はほんの少し毛色が違いますが、基本的にはどの作品も華美で退廃的で、優しくて残酷で。滅んでゆく何かを捉まえようとするときに、するりと手からこぼれ落ちる何かを、丁寧にすくい取り直すような印象を受けます。

そしてどの作品でも色や音、におい、手触り、味覚、かたちなどが鮮やかにイメージできて、まさに文章の力を見せつけられる気がします。僕はまったく無知にして、先日『グラン・ヴァカンス』を読むまで飛浩隆さんという作家を知らなかったのですが、SFというジャンルを考慮しなくても、すばらしい作品をつくる作家です。僕のような疎い人間があらためて言うことでもないとは思いますが。

SF好きではない人にもおすすめしたいのですが、ちょっとした癖があって、作品の官能性(特に性的官能)に引っかかるところもあります。また残酷すぎるきらいもありますので、そういうのが苦手ではない方はぜひ。

2008-10-04

テレビ霊能者を斬る

テレビ霊能者を斬る メディアとスピリチュアルの蜜月』(小池靖)を読みました。著者の書いた『セラピー文化の社会学』を読もうと思って、その肩慣らしに。

江原啓介さんや細木数子さんらのテレビでの活躍ぶりは僕はまったく知りませんが(僕はテレビ・ラジオ・新聞・雑誌に触れないのです)、その二人を中心に、過去30年間にわたってテレビなどで話題になった霊能者を本書では取り上げています。

著者は宗教社会学者だから、霊能者たちの行いや能力について、真偽の判断は下しません。あくまでその人たちのレトリック、方法論、既存の宗教観との類似や差異、経歴、パフォーマンス、その人たちに対する評価・批判などを紹介して、霊能者たちが活躍する社会やメディアを論じています。非常に冷静というか突き放したというか、とにかくクールな書き方で、決して霊能者たちを一方的に非難するものではありません。しかし結果的に冷静な観察から導き出せるものは、メディアで活躍する霊能者たちの、多くの矛盾や信憑性の欠如です。まあどんな人間でも矛盾を多く含んでいますし、全幅の信頼を寄せられるような人も少ないでしょうが。

著者の主張を端的に言ってしまうと、社会的な格差や家族形態の崩壊、伝統的宗教の機能不全といった現象(それらがあるかどうかはさておき)が、メディアで霊能者たちを活躍させる背景となっている、ということです。

メディアが霊能者たちを活躍させる理由を突き詰めて言えば、視聴率がとれて、大金が動くからでしょう。なぜ視聴率がとれるかというと、多くの人が興味本位であったとしてもそれを見るからでしょう。公共放送でもない限り、メディアは霊能者を礼賛する番組を作成したところで問題視するものではありませんが、霊能者たちを無批判に賛美しているメディアにはどこか危険なものがあることは、本書でも指摘されています。

霊的なものに対する関心は、世界のどこでも見られます。もちろん関心があるだけではなく、先進諸国ではメディアに取り上げられたりもします。特に日本が顕著かも知れませんが(知りません)世界のどこでも、そして過去30年間にわたってテレビで取り上げられたにしては、霊能者の活躍と社会背景の相関性に関する著者の分析が的を射ているかどうか、僕には少し疑問です。

遠い過去からずっと、霊的なものは人間を魅了してきました。世界的宗教はみな2000年程度の歴史を持っていますし、それ以前の土俗宗教となるとほぼ人類史と同じ長さになることでしょう。それらはさておき、もっと単純でテレビ受けするような霊能者たちについていえば著者の分析は非常に優れていると思います。しかしそれでも霊的なものに惹かれてしまうことには言及できませんし、本書でも言及されていません。宗教社会学的にまっとうな態度です。

それにしても、このご時世でドル箱である占いやらスピリチュアルやらを俎上にのせた新書がでる、ということ自体が驚きです。利害関係が対立していたり「トリックを暴く」的な扇情的なものならともかく、少なくとも売れている人をあれこれいじるのは、出版社にとっても冒険だったと思います。

ちなみに僕は信仰を持っているつもりなので、霊的なものは信じていることになっていますが、それを信じるのと現実的に真実であるかどうかというのはまた別の話だと思っています。それよりもバナナの品薄をどうにかして欲しい。ああいうのも充分宗教的実践だと思うのだけど。

2008-10-03

ケータイ小説的。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』(速水健朗)を読みました。ふ~ん、という感じで、目次を読めば大体予想がつく内容でした。参考までに著者のサイトの書籍紹介をあげておきます。

本書ではケータイ小説がどのようなものなのか、というよりもケータイ小説を生んだ社会はどのようなものか、という視点で書かれています。これはきっと著者には荷の重いテーマだったのではないかと思います。

ヤンキー系雑誌・漫画と浜崎あゆみさんの歌詞の関連性は、本書で指摘されてはじめて気がつきました。その具体性を欠く抽象的(あるいは曖昧な)表現や、不幸自慢や不幸体験をもとに現在を語るスタンスなど、ここが本書で最もよく書かれている部分でしょう。つまりヤンキー系雑誌がケータイ小説のルーツと考えられる、という点です。

しかしその考え方も突き詰めると無理があります。ヤンキー系雑誌や浜崎さんの音楽は全国に流通していますし、仮にヤンキーと呼ばれる人たちが都市中心ではなく地方部を中心として活動していたとしても、それがケータイ小説の書籍の売れ行きと関連性があるとは言い切れません。はっきり言って偽相関でしょう。もしも相関があるというならば、社会調査の作法に則り、きちんとしたデータを示して欲しいところですが、本書で参照されるデータはせいぜいが都道府県別ケータイ小説書籍の売れ行きのみです。

この偽相関をあたかも相関であるとさせているのは、著者が参照する評論家や学者(残念なことに社会学者が多いです)の「ファスト風土化」「郊外化」などといった言葉や概念のみです。言葉や概念で世相を斬ってみせるのは格好がよいですが、ただそれだけです。ですから著者が書いているような、地方経済で完結する社会や相互扶助の共同体といったものは、論じられてはいるものの(現実に存在するとしても)、この本では説得力を持ちません。

もう一つ読んでいて疑問に感じたのは、ケータイ小説の「リアル」とケータイ小説に描かれる「リアリティ」の関係です。本書では例えば援助交際やドラッグや妊娠人工中絶やなにやら、とにかく「リアル」ではないだろう、としています。そしてそれはヤンキー系雑誌の読者投稿欄に見られる不幸自慢や不幸体験の不幸スパイラルがルーツと考えられるそうです。すると本書の中で書かれていることですが、恋人同士の暴力や過剰な拘束が説明できなくなってしまいます。デートDVは読者の妄想ではなく、現実の問題(あるいはケータイ小説作者の問題)として考えた方がより整合性は高いのではないかと、僕は思いました。

つまり妄想の世界(セックス、ドラッグ、レイプ、などなどのケータイ小説的要素)の問題と現実の問題は、ケータイ小説を経由して現実化しなければ、本書は論理破綻してしまいます。しかしケータイ小説がなくとも存在する問題ですから、はっきり論理破綻しています。

厳しい感想になってしまいましたが、大雑把に読めばよく書けているな、という感想です。ただし社会批評としてはあまりにも調査不足で、流行の言説に乗っかって口先だけの評論を試みているようです。先日読んだ『ケータイ小説のリアル』のほうがよく調査してあるし、分析も適切だと感じました。

なお、本書では最新のケータイ小説事情には触れられていませんし(『恋空』や『赤い糸』くらいまでです)、携帯電話で読まれる本来のケータイ小説も扱っていません。あくまで書籍化されたケータイ小説のみを扱っています。

ケータイ小説はカウンター・カルチャーではなく、オルタナティブ・カルチャーであると、小飼弾さんがブログで書いていたような気がしますが、僕も同感です。異文化に接する場合には理解して尊重する努力をするべきでしょうが、接することがなければ何も知らなくても良いでしょう。

2008-10-02

傀儡后

傀儡后』(牧野修)を読みました。新古書店にて105円で売っているのを見かけて、衝動買いしてからしばらく積んでおいたものを消化した感じです。

全体の雰囲気は悪くありません。ただしSFだと思って読むとあまりサイエンス・フィクションではないので拍子抜けするかも知れません。まあ著者の作風を知っているならそういう勘違いも少ないでしょうが、本書はどちらかというとファンタジック・ホラーに属する作品ではないでしょうか。自然科学的に説明不可能なことばかりですし。

全体的にはおぞましく、心胆寒からしめる物語です。連載小説だったせいもあってか、各章は結構分断されていて、一連のストーリーとしてつかみにくいです。雰囲気や全体を統一するテーマ(おそらく「つながり」とか「皮膚感覚」といったところでしょう)は決して悪くないのですが、登場人物たちを描き切れていないような。

もちろんキャラクターは個性的に描かれています。ただし、丹念に書き込んで描くのではなく、既にある何らかの要素(SF的なガジェットや既存のテンプレートみたいなもの)を与えてキャラクター化する感じがしました。登場人物たちは数多く、それぞれに錯綜する思いを持っているのですが、登場するとすぐに死んでしまったり、しばらく登場しなかったり、いつの間にやらずいぶん違う人になっていたりします。整合性を求める読者には耐えられないでしょう(個人的にはマーシー・アナーキーと二人の護衛にはもっと活躍して欲しかった)。

日本SF大賞受賞作だそうですが、僕個人の感想としては、他の受賞作より少し物足りなく感じました。人それぞれでしょうけれども。物足りないと言うだけでは建設的ではないので、どうしたら僕がもっと満足できるのかを考えてみました。少しネタバレするかも知れません。

・この作品に登場する、五感を極限まで研ぎ澄ませるドラッグと、ロラン・バルトの言うようなモードの思想が上手くリンクできると面白い。つまり「衣服は人間の第二の皮膚である」「人間の肉体表面には既に自然なものなどない」といった思想とがリンクされれば、衣服によって人間は世界とつながっている、というところを掘り下げられるのではないか、と。

・この作品に登場する、全身の皮膚がゼリー化する奇病と前述のモードの思想ともリンクできると面白い。できればそれとドラッグとの関係をもう少し丹念に描いて欲しい。

・登場人物たちの思惑や関係をもっと丁寧に描いて欲しい。学園、若者集団、街の破落戸、暴力団、巨大財閥の長、親子、探偵などなど。

・隕石の墜落とエンディングにもう少しつながりを持たせて欲しかった。もちろん作中に書かれていることから僕が想像することはできますが。