2009-12-27

『〈本の姫〉は謳う』

<本の姫>は謳う』(全4巻、多崎礼)を読み終えました。『煌夜祭』に大いに感心して、多崎さんの作品を他に読んでみたいと思っていたので手に取った次第です。

『煌夜祭』の雰囲気とはとっても違うと感じました。『煌夜祭』から感じたのは独特な世界で展開されるしんしんとした悲しみと、静かに抑制された雰囲気だったのですが、この作品はライトノベル回帰とでもいおうか、いかにもな行動・いかにもな舞台設定・いかにもなボケ、つまり軽くなったとでもいいましょうか。決して嫌いではないです。

嫌いではないと言っても、詰めの甘さをいろいろなところで感じました。この物語の重要な要素は文字と本なのですが、文字(「スペル」)の源泉は結局のところ何かとか、文字(「スタンプ」)の技術はどのように継承されるかとか。でも文字や本を使って描かれる物語には魅力的なものがあり、著者は本がとっても好きなのだろうな、という印象を受けます。

その他にも、登場人物たちは魅力的と言えば魅力的なのですが、一面では類型的なキャラクターを当てはめているだけではないかとか、台詞の語尾を特徴的にすればキャラクターがたつと勘違いしているのではないかとか、(以下少しネタバレ)物語の時間軸が3つあるのですが、それらの相互の関わり方が不思議な力で強引にまとめられているとか(ネタバレここまで)、各種名称の作り込みが安直すぎるとか、魔法の関わらない工業的技術がかなり曖昧になっているとか、まあいろいろと。

文句はつけたくなるけれども、4巻まで読ませるおもしろさがあったのでしょうね。物語の終盤になっても、このお話は収束するのだろうかというハラハラドキドキ感は格別でした。読み進めるほどにその先が気になる質の作品でした。でも僕は『煌夜祭』の方がずっと好きです。

本書を読んで、不覚にも目頭の熱くなるシーンがありました。自覚はしているのですが、僕は音楽が絡むと涙腺がゆるみます。特に音楽で大勢をあおり立てるような場面に弱いです。

2009-12-25

核兵器廃絶都市宣言

雑談です。

クリスマスに"Happy Xmas (War Is Over)"を聴いて思わず涙ぐみました。それのついでで思い出したのですが、大小いろいろな自治体が掲げている「核兵器廃絶都市宣言」っていったい何なのでしょうね。以前から気にはなっていたのですが、オバマ大統領のノーベル平和賞のように、実態が全くわからないものだと思っていたのです。

Googleで検索して上位に表示されたものを引用しますが、川崎市の核兵器廃絶平和都市宣言だと、

「真の恒久平和と安全を実現することは、人類共通の念願である。」
人類が本当に平和を実現しようと思ったのか疑問です。人類という規模で平和を実現しようとした時代は僕の知る限りありません。

「しかるに、核軍備の拡張は依然として行われ、人類の生存に深刻な脅威を与えている。」
人類は核軍備以外の原因でも生存に深刻な脅威を与えられています。人類という規模ならば、核軍備などよりもむしろ貧困の方が問題でしょう(貧困と平和はかなり密接な関係がありますが)。

「わが国は、世界唯一の被爆国として、被爆の恐ろしさ、被爆者の苦しみを声を大にして全世界の人々に訴え、再びこの地球上に広島、長崎の、あの惨禍を繰り返させてはならない。」
まったくですが、川崎市が声を大にしてもあまり説得力がなさそうですし、川崎市が「わが国」のなすべきことを決めてしまってよいのでしょうか。

「このことは、人類が遵守しなければならない普遍的な理念であり、我々が子孫に残す唯一の遺産である。」
唯一の遺産とはずいぶん大きく出たものです。「このこと」の範囲が不明ですが、普遍的な理念でもなければ唯一の遺産でもないでしょう。

「川崎市は、わが国の非核三原則が完全に実施されることを願い、すべての核保有国に対し、核兵器の廃絶と軍縮を求め、国際社会の連帯と民主主義の原点に立って、核兵器廃絶の世論を喚起するため、ここに核兵器廃絶平和都市となることを宣言する。」
目標となる状態を実現させるために何をするかが政策というものと思われますが、ここではいくつもの状態が提起されているので、読む方としては困ります。結局のところ「世論を喚起する」だけが実質的目標なのではないでしょうか。

いくつかの自治体の宣言を眺めたうえで言えば
  • (自治体が)核兵器を持たない宣言をする
  • (世界中で)核兵器を持たないよう求める
  • 核兵器を存在させないよう(自治体の)住民を啓蒙する
というあたりが共通項のようです。核兵器廃絶をする主体は自治体なのかというとそうでもなくて、国や世界全体に対しても物申すような宣言ぶりです。よくわからないのは、それでは核反応の研究機関は設置してもよいのだろうかとか、兵器以外の用途で核反応を利用することはできないのだろうかとか、核兵器を運搬してもよいのだろうかとか、自治体に管理責任のない土地に核兵器を保管してもよいのだろうかとか、訳がわかりません。それに宣言をした地方自治体が独自に核兵器事業を行うなど予算的に考えにくいですから、地方自治体の仕事だとは考えられません。啓蒙だって「核兵器を廃絶しましょう」と言ったところで、どれほど実効があるかわかりません。

そもそもその宣言で平和をうたうことが多いのですが、核兵器の有無と平和とは関係はありません。平和を願うなら平和宣言にすればよいでしょう(それも意味のなさそうなことですが)。

効果のほとんど期待できない事業と見えるのですよね。情緒的に反対しにくいですが、無駄な労力だと思うし、生物兵器や化学兵器の扱いはどうなのかとか考えると核兵器に限定する理由は情緒的なものでしょう。この宣言のおかげで誰かが得をするのかも知れません。

2009-12-15

『つかぬことをうかがいますが…』

つかぬことをうかがいますが…―科学者も思わず苦笑した102の質問』(ニュー・サイエンティスト編集部編)を読みました。「ニュー・サイエンティスト」のQ&Aコーナーを編集したもので、楽しかったです。

雑誌のQ&Aといっても専門家が答えるのではなく、読者の質問に読者が答えるのです。答えるのがどのような人かは様々ですが、科学に造詣の深そうなひともそうでなさそうな人もいます。明らかに間違った回答もあるし、回答に寄せる補足的回答もあるし、ジョークの回答もあります。こう書くと巷のQ&Aサイト(OKWaveのようなの)を想像するかも知れませんが、まあそれに近いですね。違いは編集されたものということもありますが、質問(と回答)がある程度は科学的な内容であることくらいですかね。

ごくわずかですが、目次からいくつか抜粋します。

  • あの祝砲ってやつは、ほんとは弾丸が落ちてきたとき危険なんじゃないですか?
  • 羊はなぜ、横によければいいものを、いつまでも車の前を走るのでしょうか?
  • 冷凍庫では冷たい水より温かい水のほうが早く凍るって、ほんとうですか?
  • もしもタイムマシンでいつだかわからない時代へ送られてしまったら、どうしたらいまが何年何月何日かわかりますか?
  • 写真を見るだけで、日が昇るところか沈むところか見わけることはできますか?
  • ティア・マリアというコーヒーリキュールにクリームを薄い層になるよう注ぐと、表面に活発なドーナツ形の循環パターンが表れます。どういうわけですか?
こういった質問に興味を持ったら、それに対する侃々諤々とした回答を追っていくと、まるで自分もその議論に加わったかのような感覚を味わえます。先に挙げた祝砲の質問に対して、王立陸軍理科大学のかたが弾丸の初速と到達高度と地表に落ちてきたときの垂直速度を答えると、メルボルン在住のかたが各種の弾丸によって変わることを数字をあげて説明し、それに加えて垂直に弾丸を発射した後にどれだけ付近に落ちてくるかを実験した結果をロンドンのかたが解説し、ファイフ州(スコットランド)のかたが第二次世界大戦中に戦闘機の機関砲から排出される薬莢を拾った経験を語ります。

特におもしろいのは、回答が正解ではない可能性を秘めていること、回答が結ばれていないところです。あれやこれやと寄せられる回答を読んで、どの答えを採用するかは読者次第というところも多少あり、唯一無二の「答え」は保留されるあたり、まさに科学的です。

2009-12-12

ハイリホー

かなり雑談です。

はじめての現代数学』(瀬山士郎)を読みました。古典的な数学体系からはじまって非ユークリッド幾何学やら無限やらが問題にされてきたところを語り、集合論、位相幾何学、論理学(特に不完全性定理)、ファジイ理論、フラクタル理論、カタストロフィー理論などを解説しています。

最近読んだガウアーズの『1冊でわかる数学』もおもしろかったけれども、そっちは言葉を尽くしてエッセンスを伝えようとするのに対して、こちらはわかりやすい比喩で(単純化した表やら式やら図やらで)エッセンスを伝えるような趣があり、どちらも軽くて楽しいです。ついでにいうと、ガウアーズの本は耳目を集めやすい不完全性定理やカオス理論をあえて避けていましたが、こちらにはそういうこだわりはなく、きわめて広い範囲を俯瞰しています。

著者は微妙なジョークのセンスをお持ちのようで、横書きの数学啓蒙書にしては珍しく、頻繁に他愛もない冗談が入っています。その中で僕の琴線に触れたのが、ε-δ法の解説で「ここにもあの、時代の叫び声、ハイリホーがかすかに響いてくるが(後略)」というところです。こんな他愛もない軽口ですが、なぜかツボにはまってしまいました。

本書は1988年の出版です。丸大ハンバーグのCMはちょうどその頃だったはずで、いまでも「ハイリハイリフレハイリホー ハイリハイリフレッホッホー」の曲が耳にこびりついています。嘉門達夫が「はいれ風呂」と歌ったのもなぜかよく覚えています。これが「背理法」になってしまう情けないセンスに脱帽しました。本当にお気軽な感じです。

でも僕が読んだのは2009年に早川で文庫化されたものですから、訳のわからない人もきっと多いのだろうな、と。まるでガンダムのようなおっさんホイホイですね。

2009-12-09

腐っても鯛(の骨)

雑談です。今日は生家にお邪魔しているのですが、晩ご飯はエボダイ(西ではボウゼとか全国的にはイボダイとか)の干物でした。「エボダイは鯛なのか」という父の疑問から話が発展して、「腐っても鯛」の話になりました。

僕は小学生の時に「腐っても鯛の骨」と教わりました。腐ったとしても鯛の骨は硬いまま残るという意味で、優れたものが表面的にはだめになっても、芯には優れたものが残るということを表すそうです。小学生の時の記憶なのですが、それを家に帰って話したら「腐っても鯛」だと母からバカにされたのです。意味は腐ったとしても品格が残るということで、没落貴族とかに使うのだと。それ以来僕も「腐っても鯛」と使うようになりました。

その話を今日混ぜ返したら、やっぱり母は「腐っても鯛の骨」とはいわない、とのことです。ここで僕が思い出したのは、北大路魯山人の何かで、「腐っても鯛というけれども、それはとんだ了見違いである。季節外れだったり活きがよくなかったりする鯛は、新鮮な鰯に遙かに劣るのだ」というようなことが書かれていたことでした。それもなるほどと思うので、「腐っても鯛」より「腐っても鯛の骨」のほうが理屈には合っているなと思うのです。ことわざ辞典とかをひいても鯛の骨は出てきませんが、腐ったらやっぱり品格も何もないと思うし、骨はやっぱり硬いと思うのですよね。

父は「腐っても鯛」「腐っても鯛の骨」の両方使うようでしたけれど、どうなっているのでしょうね。ちなみにエボダイはスズキ目・イボダイ科でした。

2009-12-05

『科学』『学習』休刊について

雑談です。かつての愛読者として寂しい話だけれど、売れないのならばしょうがない。なぜあれほどまでに多くの読者をつかんでいたものが休刊になるのか、つらつらと想像してみました。

・販売の問題
学研のおばちゃんが個別宅配をするコストは非常に大きいです。かつて書籍類の流通がそれほど統合されていなかった頃には、出版社-取次-書店の流れの中で、取次に比較すると出版社と書店の数が圧倒的に多かったため、そのどちらかにボトルネックが生じていました。特に書店が各世帯の近くにない場合、出版社としては訪問販売員を使った方が営業機会を逃さないことでしょう。しかし今は流通がかなり効率的になったため、さほどの障害はありません(離島や僻地はのぞく)。

それから、昨今の世帯状況も訪問販売員の足かせとなっています。小学生の子供がいる家庭で昼間に誰かがいるようなところは、きっと80年代と比べると少なくなっていることでしょう(どこかに統計資料があるはず)。学研のおばちゃんが各世帯を回るより、商品の配達は郵送や宅配便で、営業活動はダイレクトメールで、というほうが合理的になっていると思われます。

・制作の問題
昨今の『科学』や『学習』は、以前と比べると12ヶ月でループするような編集が多くなっています。以前の内容は学校の学習内容とはさほど関係なく作られていたのに対し、あくまで比較的ですが、昨今は学校に準ずるような(いってみれば通信教育のような)内容となっていました。学校と関係ないものでもやはり1年でループするならば、興味のあるところだけ買えばよい、ということになってしまいます。つまり、雑誌という形態よりも単行本に近くなってしまい、また通信教育との差別化がうまく図れないようなものとなってしまっていました。それでも出版社は単行本のように在庫を置きませんので、定期購読していないと欲しいものが手に入らず、定期購読していると欲しくないところも送られてくる、という中途半端さ。


おそらくこういったところだろうと想像します。『科学』は僕がかつてわくわくした雑誌なので、自分の子供にもわくわくして欲しいのですが、これから先はどのようなものがあるだろうかと探しています。ベネッセは個人的に楽しくない(学校の内容とおなじものでしょ)ので、『大人の科学』とかデアゴスティーニの何かとか、そのあたりが候補となりそうなのですが、いかんせん幼い子供だけで楽しめるようなものが見あたりません。困りました。

2009-11-28

SEEDSその他

雑談です。

田村由美さんの『7SEEDS』という漫画がありますが、その漫画の1/4スペースだった表紙見返しだったかに「7SEAS」というレストランだかカフェだかがある、という話が書いてありました。それを思い出したのは、先日車で国道を走っていたら、「SEEDS」という名前のブティックホテルを見つけたためです。名前として少し微妙な感じがしませんか。種ですよ、種。その手のホテルで種といえば種なんです。

村上朝日堂のどれかで、変な名前のラブホテルを集めた回があり、その中で「あそこ」というのがあがっていました。村上さんは「あそこっていえば、あそこでしょ。やばいよな」みたいなことを書いていましたが、事情を知るものにとってはそんなに深読みしない名前なのです。ホテル「あそこ」の経営者は釣り堀もやっていて、その名前も「あそこ」です。

村上さんといえば、『回転木馬のデッド・ヒート』を再読して、いくつか引っかかることがありました。「レーダーホーゼン」の娘と母親が再会するのは離婚して3年後の親類の葬儀、ということになっていましたが、親類ってどんな親類なのでしょう。母親は父親を捨てるように離婚して、娘は父親と一緒にいます。このような関係の二人が共通で現在でも親類であるような人は、難しい血脈なのか、それともどちらか片方にとっての親類、ということでしょ。だとすると僕には不思議に思えたのが、仮に父方(あるいは母方でも同じこと)の親類だとしたら一方的な離婚をされた(した)人がそちらの葬式に参列するのは大変なことだろうに、どうして参列したのだろうということ。

配偶者にこの疑問を話したら、asmは人情がわかっていない、とたしなめられました。お世話になった方ならば自分たちの個人的な問題や法的な立場はさておき、葬式には参列したいだろう、とのことです。僕の方が田舎の育ちなので、親族づきあいが因習的になっているせいか、配偶者のようには考えられませんでした。一親等ならともかく、もう少し離れると出入り禁止にさえなりうる、と思うのですよね。

2009-10-06

『パズルランドのアリス I』

パズルランドのアリス1』(レイモンド・M・スマリヤン)を読みました。論理パズルの本というと日本では小野田博一さんの著作が多く、どれも素敵にひねくれていて楽しいのですが、小野田さんのはパズルそのものを楽しむべき本なのですよね。その点、同じように多くの論理パズル関連の著作をものしているスマリヤンのものは、物語り仕立てになっていたりパロディになっていたり、パズル以外の部分も楽しめます。ただし翻訳というハードルがありますけどね。

本書の読み方としては、一つずつパズルを解いていってもよいですし、問題を解かずに流し読みをして、後でまとめて解答編を読んでもそれなりに面白いです。僕のとった方式は見慣れた問題は解き方だけ思い浮かべて、見慣れないものは実際に解いて、という折衷案で読み進めました。本書のパズルは簡単なものが多く、問題になれている人ならばそれほど頭を悩ませるものはないでしょう(でも最後の問題は面倒だった)。パズルを解かない人でも、アリスでおなじみの登場人物が、本書でもいかにもそれっぽいことををするので、そっち方面できっとにやりとします(僕はにせ海亀が気に入った)。

2009-09-28

『アンティキテラ』

アンティキテラ古代ギリシアのコンピュータ』(ジョー・マーチャント)を読みました。お酒の席でコンピュータ理論の話をしていたら、オーパーツのようなものとして「アンティキティラの機械」が話題に上ったのですが、浅学ながら僕はこの機械を知らなかったのです。

話を聞いてはじめに想像をしていたのは、計算尺のようなものでした。「コンピュータ」の定義にもよりますが、最も広い意味で言うなら、ある状態を出力するための遷移関数が定義されているもの、というようなことになるでしょう。なんと言ってもこの機械は紀元前100年頃につくられたという話でしたので、そうそう複雑なものではあるまいと思っていたので、せいぜい目盛りに工夫があるくらいなのだろうと想像しました。ところが本を読んでみると驚くことに、なんと青銅製の歯車式なのですね。機械の目的は確定された説ではないようですが、おおよそは天体の運行をシミュレートするものです(惑星の運行をモデル化したものとか、日食や月食を計算するものとか、諸説あります)。こんなに複雑なものが作成されたこと、作成できたことに単純に驚きました。

本書を読んでまず感じたのは、科学の営みが脈々と引き継がれている(あるいは引き継がれていた)ことに対する尊敬の念です。天体の観測が数百年というオーダーで続けられ、記録されていなければ、精度の高い天体モデルはできません。バビロニアで営まれた観測結果がギリシャでモデル化されるなんて、素敵ではありませんか。

次に感じたのは科学者たちの人間性が多様なことです。この機械が見つかってから100年、様々な科学者や技術者がこの機械を読み解こうとしたようですが、その中には名誉をもとめて協力者を裏切ったり、事業の成功のために技術的な大ばくちを打ったり色々です。

それから機械のありように関して、多いに考えさせられました。アーサー・C・クラークは、この機械をつくった科学や技術が引き継がれていれば、今頃(アポロ計画の頃)人類は月どころではなく別の恒星系に旅立っているだろう、とか言ったそうですが、著者は違うものを機械に見いだしているようです。まず、この技術は引き継がれていたのではないかという事。機械式時計の発展にはミッシングリンクのようなところがありますが、それはヨーロッパ世界ではないところに流れていた技術的伝統だったのではないか、というようなことが示唆されています。この見解の多くは恐らく、この機械の研究者だったプライスの意見なのではないかと思われますが、6世紀頃の出所不明な歯車式機械という傍証らしきものもあるようです。それからモデル化する、という思想について。天体のモデルをつくることによって、ギリシャ人たちは創造主に近づいていった、というのです。科学の多くの部分は自然のモデル化であることは現代でも変わりませんが、その背景にある思想は全く違って、「私の心に深く残るのは、私たちと古代人との距離の近さではなく、遠さだ」とまで著者は書いています。

世界認識や宗教の絡みになってしまいますが、天体を観測し、理論を練って、それに基づいた模型をつくることに何を見いだすかというところは、僕などは古代人も現代人もさほど変わらないのではないかと思ってしまうのですけどね。理論系の科学と神学って、それにむけて人を動かす情動は、凡人的には結構近いものに感じます。

ついでに、本書にも登場するこの機械の研究者、マイケル・ライトによる復元モデルの解説がYoutubeにありました。ナレータはこの本の著者のジョー・マーチャントです。本を読んで仕組みがわかりにくいところは動画でかなり補えますが、あくまでライトの説、という気持ちで。

2009-08-27

趣味について思い煩っていたら泣けてきた

雑談です。

お金儲けに役立つかもという助平心から、某資格を受けようと思い立ちました。そこで毎日のスケジュールを見直して勉強時間を捻出しようとしてみたのですが、今までしていた何かをやめるというのは心苦しいものですね。

休日は家族と時間を過ごす。これは省くことができません。近頃では平日の余暇的な時間は、読書をしているか楽器の練習をしているかですので、削るとしたらこれらです。しかし僕にとってこれらの時間は生活に必要な時間なのではないか、という大いなる心理的葛藤に悩まされます。自己弁護とも言いますが。

そこで、僕は読書と楽器を心から楽しんでいるだろうか、これらに染まった頃は何を思っていただろうか、と思い返してみました。難癖をつけるのは得意ですので(特に他人につけるのは得意です)、きっと批判的に眺めれば勉強よりも優先順位が下がるだろうと予感したのです。目論見は予想以上に的中して、僕は一体何のために時間を浪費していたのだろうと絶望しました。本を読んでもブチブチと文句をつけたくなるし、楽器の練習をすると自分の拙さのあまり玉川上水に身投げでもしてみたくなります。さらに悪いことに、著者のあれこれに不満を覚えたり、一緒に演奏する人の粗を探したりしています。染まった動機も結構不純なものがあるようで、人からよく見られたいとか、実力以上に背伸びをしたいとか(向上心を否定するわけではありませんが、見栄っ張りなのです)、結局第三者の目がなければ僕が趣味に時間を割くこともなかったのではないかと暗い気分になりました。

あんまりやるせない気持ちになったので、軌道修正をすべく趣味に時間を割いていてよかったという思い出を辿ると、ぽちぽちと出てきます。こうしたことを思い出して、ここのところの僕の荒みようと比べると、知らずに目頭が熱くなります。そこで以前見た大道芸風サックスアンサンブルを思い出して、YouTubeで探したらなお涙腺がゆるみます。他人を楽しませようとするのって、なんて尊いことなんだろう、と。



(ポニョだけだと単なる色物にみえてしまうので、少しシリアスなものも)


当初の目論見としては趣味に時間を費やすことを抑えて勉強するつもりだったのですが、感情を抑えるといつかしら無理が来るなと思い直して、ぼちぼちと勉強をすることに方針を変えました。以前目的達成のために無理して仕事を続けたらてきめんに病気になった経験もあるので、資格だってなるようになるさと軽い気持ちで付き合っていくことにします(サムライ業をなめるな、という意見は甘受します)。あとは趣味をきちんと楽しめるように態度を改めようと反省した次第です。落ち込みましたが、トン・コープマンの「チェンバロ協奏曲 ニ短調 BWV1052」を大音量で聴いていたら、平常心を取り戻しつつあります。不思議。

ついでに近頃読んだ本。
リキッド・ライフ―現代における生の諸相』(ジグムント・バウマン
なぜビジネス書は間違うのか ハロー効果という妄想』フィル・ローゼンツワイグ
事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?』ジェフリーフェファー、ロバート・I・サットン
どれも大変面白かった。僕がお世話になったさる人物のポリシーは「生きることが社会科学である」なのですが、『リキッド・ライフ』はそれを地でいっている社会学理論の本です。この本までくると理論書と言うより芸の域に達していますが。『なぜビジネス書は~』と『事実に基づいた経営』は似た内容で、企業の行動を評価したり決定したりする際に相関関係と因果関係を混同しないようにとか、バイアスのかかった視点を持たずに合理的に観察するようにとかいう議論でした。タイトルの通り(原題は"The Halo Effect"と"Hard Facts, Dangerous Half-Truths, and Total Nonsense: Profiting from Evidence-Based Management"です)「ハロー効果」と「事実に基づく」がこれらの本のほとんどすべてです。

2009-08-19

『そこにシワがあるから』

エクストリーム・アイロニングって知ってますか? 山頂・水中などのありえないような場所や、サーフィン中・ジャンプ中などのありえないような状況でアイロン掛けをするのです。僕がこのスポーツを知った時は「ウケ狙いで無茶をしているんだろう」程度の認識でしたが、『そこにシワがあるから──エクストリーム・アイロニング奮闘記』(松澤等)を読んで考えを改めました。どんな剃刀にも哲学はあるように、どんなスポーツにも哲学はあるのですね。このスポーツと真剣に格闘している著者の姿勢には頭が下がります。また本書には写真がたくさん掲載されているのですが、大まじめにやっているからこそなお笑えます。

考えてみれば、アイロン掛けは危険な家事で、登山(など)は危険なスポーツです。僕の左手にはアイロン掛けの不注意でできた一生ものの火傷痕がありますし、スポーツは少し気を抜けば命を失ってもおかしくありません。その二つの組み合わせが普及する方が不思議なくらいですが、本書によるとエクストリーム・アイロニングには究極の癒し効果があるそうです。登山(など)で達成感を得ることは想像に難くありませんが、それに加えてアイロン掛けの腕前があがるほど、癒し効果は増すと書かれています。著者は肉体能力を常に磨いて様々なスポーツに打ち込んでいるようですが、さらにアイロン掛けにも打ち込み、相乗効果を得ているらしいです。こんな奇特な人が世界に何百人もいるのは僕にとっては不思議なことですが、体験するときっと何かすごい魅力があるのでしょう。

残念なことに僕は日常的にスポーツをしていませんし、アイロン掛けも未熟な上にさぼりがちですので、エクストリーム・アイロニングの癒し効果に興味を持っても、それを体験するには長い長い道のりが必要なようです。僕がやったらそれこそ一発芸になってしまう。意味をはき違えて、エクストリーム・プログラミングをスポーツにしたらどうかなどと妄想しましたが、僕はスポーツ全般にさほど興味がないので、実験さえできません。

2009-08-10

『クラウドソーシング』

クラウドソーシング―みんなのパワーが世界を動かす (ハヤカワ新書juice)』(ジェフ・ハウ)を読みました。クラウドソーシングという言葉は耳に馴染みがありませんが、クラウド(群衆)から創造力を調達するというようなものだろうと見当をつけて読み始め、期待通りの本でした。

ネット界隈の新事情を解説する本は大抵、「それが僕には楽しかったから」という理由や自己実現目的での参加が語られ、その結果としての「貢献」やら「仲間からの評価」が語られ、趣味や余暇の枠を超えてビジネス界にも一大転換を促す潮流が出現しているというストーリーが語られます。こうしたものに対して、ステレオタイプなのではないか、過大評価なのではないかという疑問を、僕はいつも持っているのです。本書にもあげられている「スタージョンの法則」に則るならば、「クラウドソーシング」事例の90%もカスであって然るべきでしょう。

なるほど、成功事例は世界にいくつもあります。しかしそれらがなぜ成功したのか、類似する別サービスの何が原因で成功しなかったのかといったことに関して詳細な分析があれば、これからのメインストリームにおおいに参考となるでしょう。しかし残念なことに、柳の下の泥鰌を狙ったものは雨後の筍状態ですが、ビジネス的な意味での成功事例は世界でも一握りです。その一握りがあまりにも輝かしいので忘れられがちですが、今のところの成功企業は従来通りのビジネスを続けている方が多数派です。確かに変化しつつあるのでしょうし、その変化がどのようなものなのかわかりにくいので成功事例を観察するのは当然のことですが、だからといって変化のかたちを確認するには時期尚早と僕には思えるのです。

オープンソース界に目を向ければ、それはバラ色の未来や既存の価値観を転覆させる革新ではなくて、普段僕が生活して経験するものとさほどかわりのない確執やら便宜やらが垣間見られます。例えば言語の壁(英語とその他言語)を超えたとしても時差は超えられませんので、素早いコミュニケーションや対応をするにはアメリカの活動時間が有利です。カリスマ的なリーダーがコミュニティへの不満から関与を取りやめたりもしますし、猛烈な主義主張のために別のコミュニティと軋轢も生じさせます。

今のところオープンソースは有用ではあっても銀の弾丸ではないし、今のところロングテールは儲かるかも知れないけれど既存ビジネスを一変させるものではないし、集団的知性は適切なプラットフォーム作りに苦労します(「はてな」や「OKWave」などを眺めれば、びっくりするほど不適切な答えも、何を得たいのかわからない質問もあります)。インターネットがジャーナリズムを変えると言われながら10年以上経ちますが、トラフィックを稼ぐにはテレビネタが一番です。さて、これからどうなることやら。

本書は面白いのですが、少し夢見がちでセンセーショナルな書き方をしているのではないか、という感想をぬぐいきれませんでした。「クラウド」がバズワードの仲間入りをしないと、僕は断言できません。あと、翻訳に少々難ありです。Scott E. Pageの表記で「ページ」と「ペイジ」が混在していたり、"REBEL CODE"の訳書が『反乱のコード』になっていたり(正しくは『ソースコードの反逆』)。さらに余談ですが、本書は「ハヤカワ新書juice」というレーベルなのですが、巻末にあるレーベル紹介文が感動的です。

2009-08-04

『サックス上達100の裏ワザ』

気鬱にとりつかれてもテムズ河が近所にないので、サックスを練習しています。ところがサックスを練習しても、(自分の)練習がマンネリ化したり、演奏に対してやけっぱちになったり、ぶちぶちと不平不満はわき上がってきます。

そんな現状にカンフル剤をと思い『サックス上達100の裏ワザ 知ってトクする効果的な練習法&ヒント集』(藤田絢三)を読みました。満足です。「裏ワザ」とタイトルに謳っていながら、上達に近道はないということをいやというほど思い知らされますが、刺激にはなります。練習経験の長い人が読んでも目新しいことは書いてないと思いますが、そもそも楽器の練習には目新しいことなんてほとんどありませんしね。

そういえば渡辺貞夫さんの言葉に「メシ喰ってるときも風呂入っているときもジャズだ」というようなものがあったことを、この本を読みながら思い出しました(裏ワザ40「生きることが音楽」)。

2009-08-03

微分・積分を知らずに経営を語るな

微分・積分を知らずに経営を語るな (PHP新書)』(内山力)を読みました。今回は流され型の読書で、目的地まで2時間電車に乗らなければいけないのに、車中で読む本をデスクに置き忘れたため、駅ビルの本屋さんでささっと選びました。

感想。う~ん、エッセンスはとっても素敵だと思うし、多いに共感するのです。経験と勘と度胸に頼る予算や予測や見積もり(KKD法と呼ばれ、世間で最も広く採用されている方法です)が世の中に満ちあふれていますし、本当にこれが現時点でのベストな決断か、という疑問にはいつもつきまとわれています。だから最適解を導く方法論として、すごく有効なやり方だな、と思うのです。僕自身の得意なツールは統計なので、微分・積分は手法として使わざるを得ない、という事もあります。

でも本書はエッセンスのみなのです。ターゲットはあくまでも「微分・積分って何?」な人のようなので、こういう事を新書に求めるのは筋違いかも知れませんが、もっとつっこんだ内容になっていると「使えるかも知れないな」というレベルから「うん、こいつはいい!」というレベルになるような気がしてなりません。それに計算の理屈に関する説明がほとんどないので(例えば「パソコンがすべて計算してくれます」と頻出します)、実務上どう計算するかを理解していないと、結局は魔法の数字になってしまいます。でも本書の目的は「使えるかも知れないな」と思わせるところ、つまりは入口まで連れて行くことにあるなら、おおいに成功していると思いました。

ツッコミ所もたくさんありました。まずは理系・文系とわけすぎなのが鼻につきます。文系と言われる学問領域でも、ジャンルによっては数学的な操作は必須の手法ですから。それから説明ミスが目につきました。その一例を引用すると、発注点発注法について書いている場面で、「この工場の1ヶ月間のネジの使用量を調べてみると、1日平均200本使っていました。そこで3日分の需要として600本を発注点とするとどうなるでしょうか。(どうでも良い部分を中略)これでは2日に1回欠品してしまいます」とありますが、「欠品」は筆がすべったとしか思えません。正確には、総じて言えば2日に1回は平均使用量を上回る、というくらいなものです。欠品するわけないでしょうに。その他、平面散布図から最小二乗法で1次方程式を導いた時の点と直線の関係について、「距離」と書いてしまっていたり(素人考えですが、「距離」だとしたら、垂線を求めるのが筋というものではなかろうか)、うっかり感が漂います。

でも楽しい本だったのですよ。

2009-07-31

未成年者の喫煙

先日、とある外食チェーン店の喫煙席に座ったら、隣に挙動の落ち着かない若い女性が座っていた。少し気になったのでちらりと見たら目があって、彼女から話しかけられた。曰く「煙草を吸っていること、店の人に言わないでくださいね」とのこと。僕が私服警官や店の人だったらどうするつもりだったのだろう。

誰もが知っているように、未成年者の喫煙は法律(未成年者喫煙防止法)で禁じられている。しかし本人に対しては、せいぜい喫煙器具や煙草を没収できるくらいで、罰することができないのは案外知られていないように思われる。罰を問えるのは、親権者やそれに代わる監督者、未成年と知りながら販売した者くらいだ。

僕はどうしたか。もしも彼女の年齢を確認して未成年だったら何か言わなければいけないだろうから、絶対にその手の質問を避けた。チキンだ。その上で、未成年者喫煙防止法のあらましを話して、僕は親権者でも監督者でも販売者でもないので彼女がもしも未成年でも何かをすることはできないことを伝えた。そしてこれは道義的な話だが、煙草をやめようと思っても習慣(中毒)になってからでは遅いことを伝えた。

軽度の法律違反に対して、まっとうなオトナとしてどのように対応すればよいのかわからなくなりつつある。よく知っている人ならば小言をし、お節介を焼くところだろうがこの場合は見も知らぬ人だ。ネット上ではそうした軽い法律違反がもとで「炎上」しているところも多々見られるので、あまり大ごとにはしたくない。駐車違反やスピード超過やちょっとした器物破損などで、大きすぎる社会的制裁を受けることだってあり得るからだ。

善いことと悪いことは、実際にはそれほどはっきり分かれるわけではない。法律にしても、それを判断するのは正確には司法の役割だし、そもそも法自体が揺らいでいる(民主党が成人を18歳に引き下げようとしているという話を聞いたが、飲酒や喫煙はどうなるのだろう?)。それでもなお「善いこと」を錦の御旗のようにして正論を振りかざすのは、少しファナティックに感じることもある。しかし確かに悪いことは悪いので、正論を退ける根拠もない。

結局のところオトナな対処の方法は、社会生活を営む上で他者とどのような関係性を持っているかに依存するとしか言いようがない。

2009-07-30

お台場のガンダム

あちこちで話題になっているお台場の1/1ガンダム、僕が18歳の時に知り合ったA君の同僚が企画に携わったらしいです。その話を配偶者(配偶者とA君も、18歳の時に知り合いました)にしたら、それじゃあA君にさらなる企画を持ちかけてみようか、という事になりました。

地域経済の発展に寄与するよう、東京のみならず各都道府県に1体のモビルスーツを置くのです。広告媒体にしてもよし、観光資源にしてもよし、使い方は自治体任せ。47種類のモビルスーツをどう選ぶかを妄想すると楽しいです(関係する地域の方、僕の個人的な妄想ですので怒らないでください)。

例えば大阪府。話題の知事はコスト削減に熱心ですから、ぴったりのモビルスーツと言えばジオングです。「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」という名言をもっとも効果的に実践できそうな自治体ですから。

例えば茨城県。牛久の大仏(約100m)と並んでビグ・ザム(約60m)が立てば、信心も深まろうというものです。ビグ・ザムはモビルスーツではなくモビルアーマーだというツッコミが来ても、阿弥陀如来の徳の前ではどうと言うことありません。

例えば鳥取県。島根と並び称される偉大な県ですから、同じような偉大なモビルスーツがふさわしいです。となるとザクレロ(これはモビルアーマーですが)も捨てがたいところですが、僕がプラモデルを買ったという理由から、アッグガイだと断言します。

逆にどのモビルスーツがどこに行くのかを妄想するのも楽しいです。8月31日でお台場のガンダムはおしまいだそうですから、そういう華々しいモビルスーツは埼玉県か千葉県あたりに譲っていただき、東京都はアッガイにしましょう。シャア専用機はどの自治体にもふさわしくありません。陸戦型ドムは徳島・香川・愛媛・高知のどこか三県において仲間はずれをつくるなんてどうでしょう。

A君に話をしよう。一笑に付されるでしょうが。

2009-07-27

『仏教ではこう考える』他

仏教ではこう考える (学研新書)』(釈徹宗)を読みました。不真面目な真言宗徒として仏教の考え方を何となく知ってはいるのですが、こういう本には食指が伸びます。表紙カバーを開いたところにある惹句に、ちょっと気になる文句があったのですよ。曰く、まさにこの人は「仏教の白石さん」だ、とのこと。白石さんはもちろん「あの」生協の方ですが、当意即妙の回答があるのかな、と期待して読んだところ、期待が裏切られることはありませんでした。

釈さん(本名なのでしょうかね。できすぎた名前です)は、この本を読む限りでは人に法話をするのも人から頼られるのもできれば避けたいタイプのようで、確固として半ば盲目的な信仰をお持ちの方ではないようです。そんなお坊さんだからこそなのか、ご本人が比較宗教思想を研究なさっているからか、仏教(浄土真宗)にどっぷりとはまった話ではなくて、どうやら真宗ではこうしているっぽい、というようなニュアンスが漂います。寄せられた質問に回答するにしても、「~しなさい」というのではなく、仏教的な立場から「たぶん~ということなのでしょうね」といった感じです。

だからといって当事者の立場にも身を置いていますので、完全に突き放すわけでもなく、基本軸がすごくしっかりしている回答なのです。著者曰く仏教的な態度とは、問題の根本まで解体して、関係性から読み解いていく、というようなものだそうです(それは仏教的な態度と言うよりもむしろあるジャンルの哲学的な態度だと僕は思います)。仏教がわかりにくいのは精緻な教学やら膨大な経典やらにあるのではなく、宗派や教えがあまりにも多様だから、と僕は考えているのですが、本書では仏教者のあいだではおそらく共通して尊重される考え方で、雑多な日常的な疑問に答えています。

でもこの本で答えているのは日常的な疑問ですから、宗教性の高いものではありませんね。宗教のある部分は極めて非合理で非社会的なもの(さらに言えば狂っているもの)だと僕は思いますが、この本からそうした要素を感じることはできません。信仰云々を言うよりも、叡智としての仏教思想や東洋哲学の手法を紹介する、という趣でした。

その他、近頃読んだ本。
会社のお金はどこへ消えた?』児玉尚彦
新入社員のための経理マン入門 (日経文庫)』中村輝夫
原価計算の知識 (日経文庫)』加登豊、山本浩二

弊社で労務関連を担当してくれている従業員さんがあまりにも会計関係に疎いので、どの本のどのあたりを紹介すると良いだろうな、と思いながらずいぶん前に読んだ日経文庫を再読。日商簿記のテキストでも良いかも知れないけど、もう少し読むのに面白くて入手しやすくて情報が古びないようなものはないかな、と探しています。『会社のお金は~』はちょっとした興味で。

2009-07-23

小股の切れ上がった

雑談です。えっちな男性の僕ですから、多少ジェンダーバイアスがあります。

先日は、僕が高校時代を過ごした土地が関東一の祇園と自称しているお祭りでした。僕は仕事でこの街にいたのですが、数えてみれば15年ぶりにこのお祭りに遭遇したのです。

ノスタルジーの波にさらわれそうになりましたね。はじめて意中の女の子と二人きりでデートしたのはこのお祭り。そんな感傷に浸りながら車を運転していると、浴衣の女性(高校生くらいかな)が自転車に乗っているのを見ました。これは美しくない。僕は一部友人のあいだでは冷やかしの対照になるほどの袴好き(弓道着がもっとも好き)なので、袴姿の自転車は多いに奨励するものの、浴衣はいけません。なぜ美しくないかをあれこれ考えるに、裾の乱れが一番の要因だと結論しました。僕の語感では「小股の切れ上がった」というのは裾捌きに尽きるのです。

そこで疑問。僕の「小股」は裾からのぞく部分で、「切れ上がった」は上手く説明がつかないけれどもシャープにぴしりと立っているような感覚ですが、他の人はどんな語感を持っているのでしょうか。また、語源は何なのでしょうか。Google様にお伺いを立ててみると諸説紛々で何とも言い難いのですが、皆さんえっちな男性なのか、多いに考えているのですね。その中でも「知の関節技」というサイトの「小股ってどこか」 よりも大切なことという記事が比較検証といい、結論を出さない結論といい、多いに感服しました。

ここに引用されている諸説には心惹かれる素敵なものが多いです。坂口安吾のなんと可愛いこと。太宰治のきっぱりとした物言いのなんと潔いこと。吉行淳之介の観察のなんとみずみずしいこと(僕の語感は強いて言えば吉行流でした)。その他その他。

上記サイトでいう結論らしきところの、積極的に曖昧なままにしておく美意識。素晴らしいですね。粋ですね。そして、何とも言えずエロいですね。

2009-07-22

架空請求

久しぶりの架空請求が来ました。

件名:【重要なお知らせ】

(株)リードシステムの広田と申します。
弊社は総合情報サイトを提供している(株)ファインネットより利用規約違反に至ったお客様のデータベースの抹消、退会事務手続き並びにそれに伴う身辺調査の依頼を受託し、この通達を発行致しております。
この度、お客様がご使用のPC、携帯端末より以前ご登録頂いた【総合情報サイト】から無料お試し期間中に退会手続きの処理がされていなかった為に、登録料金、利用料金が発生し現状未払いとなった状態のまま長期放置が続いております。 本件に関しましては利用規約違反に該当する為、現在利用規約第三条二項に基づき情報管理センターにおける不正利用者データベースにお客様の端末情報が登録されている状態でございます。
これ以上現在の状態が続きますと利用規約第四条一項に基づき、法的手段による未払い金、別途三十万円の違約金請求となります。
本通達から翌日の正午までにご連絡を頂けない場合、認可ネットワーク認証事業者センターを介入し、発信者端末電子名義認証を行い利用規約に伴い、法的措置を行う為のお客様の身辺調査に入らせていただきます。
このような手続きを行いますと調査費用などは利用規約どおり、お客様の全額負担となります。

退会処理、データベースの抹消手続き、並びに料金の詳細につきましては下記番号へ翌日正午までにお問い合わせ下さいます様お願い致します。


(株)リードシステム
ご相談窓口
TEL03-6457-7402
担当 広田
営業時間 9:30~19:00定休日 日曜日
(電話番号は、お間違いのないようご注意下さい。)

尚、ご連絡なき場合明日の正午より手続き開始となりますのでご了承下さい。


ツッコミどころとしては、会社名と電話番号が不整合なところ、「総合情報サイト」が何なのかはっきりしないこと、「利用規約」がどの利用規約か明記していないところ、「認可ネットワーク認証事業者センター」が不明なところ、「発信者端末電子名義認証」は携帯電話なら技術的に可能かも知れないけれど(認証、とまでは言いすぎ)、PCではほとんど不可能なところ、「ご相談窓口」は担当違いではないかというところ、などなどですね。

2009-07-21

ドラゴンランス新装版

ずいぶん前の話ですが、富士見書房から全6巻で出ていた『ドラゴンランス戦記』やその他のドラゴンランスシリーズを楽しく読んだものです。このシリーズはTRPGのAD&Dをベースにしているようですが、僕はAD&Dをやったことがないにもかかわらず、既知の似たTRPGで補いつつ(D&DやRQやT&Tなど)熱心に読みました。その後『ロードス島戦記』とかソードワールドのリプレイとか流行ったけれども、その手のは軟派なものと決めつけて(いや、ほんと決めつけなんですけどね)、一途にアメリカ発祥の剣と魔法の世界を追いかけていました(そのおかげで英語が少し読めるようになったというおまけ付き)。

その『ドラゴンランス』、特に僕が親しんだ富士見書房の旧版は絶版になり、僕ももう少し違った種類のファンタジーに興味が移ったこともあり、記憶の片隅に追いやられたのですが、角川つばさ文庫から新装版がでる模様。

気になるのは、旧版の「アメリカン!」なイラストではレイストリン・マジェーレが小室哲哉さんそっくりだったのに、今回のはなんというか今風。レーベルの角川つばさ文庫といい、かつておおいに楽しんだ世代向けではなく、これから楽しむ人向けのものかと半ば納得したのですが(それでも安田均さんの翻訳はあまりライトではないような気がします)、買おうかどうしようか。

3日前に『大菩薩峠』全巻揃いを古本屋さんで買ってしまったので、しばらく本を買うのは控えようかと思いつつも、逡巡。

2009-07-15

ひとがみなわれより○○に見ゆる日よ

毒を吐きたくなる時もあります。というか、今がまさにその時で、悪意と自己憐憫と独善に溢れて夜郎自大になっています。

誰も彼も、仕事上で思い通りには動けないというのは重々承知しているのですが、中小企業の代表なんぞをしていると従業員の皆様に対して「もう少しきちんとできるだろう?」と思うことしきり。その内容というのは決して本人以外には話せるようなものではなく、本人に話をしても暖簾に腕押しだったりすると、もう飲み屋のサラリーマン状態が恋しくてたまらなくなります。もちろん誰にも話しませんが。

愚痴を言いたい。とはいうものの、上司の悪口ならばたいして害はないけれども、働いてくれている従業員の悪口すなわち経営者の悪口ですから言えるようなものではないし、言ってもさらに悲しくなるだけです。

「王様の耳はロバの耳」のかわりに、サックスを吹きました。今の活動拠点となっている田舎の市民吹奏楽団にお邪魔して(僕は楽器も奏法も音もジャズ風なので、はっきり言って邪魔です)憂さを晴らそうとしたところ、ここでもまた「もう少しきちんとできるだろう?」が発生。べらぼうに上手い人もいるのですが、楽団全体としてみるとリズム・メロディ・ハーモニーのすべてが拙いのです。別の日に馴染みのバンドで練習をすると、実に安心して演奏をすることができて、その心地よさは月とすっぽん・谷崎潤一郎と2ch.netの書き込み・スタン・ゲッツと僕くらいの差がありました。

そんななかで読書に逃避しています。かつて読んだ『現在に生きる遊牧民(ノマド)―新しい公共空間の創出に向けて』(アルベルト・メルッチ)を手に取りました。今回久々に本書を読んだのも、現代社会の分析みたいな論文を読んで、そういえば同じようなことを読んだことがあるな、と思ってのことです。ところが日本語訳を読むととても難しいことが書いてあって、さっぱりわけがわからない。僕の理解力が低下しているのが最大の理由と思いますが、訳文も「もう少しどうにかなるだろう?」な感じです。いちいち付き合わせてはいませんが、「新しい社会運動」界隈の社会学的術語がいまいちきちんと訳されていないような気がします。あと副題は意訳しすぎ。

外出時に読み終え、読むものなしの非常事態に陥ったので、コンビニに飛び込んで本を買うという初体験をしました。買ったのは『人間関係のしきたり (PHP新書)』(川北義則)です。おじいさんの知恵袋や人生の先輩の教訓といった感じの内容で、じつにすんなりと理解できてしまい(納得はできませんでしたが)、別の意味で鬱々としてしまいました。複雑で緻密な論理を追うことができないのに、短くて感覚的な訓話はふんふんと読み流してしまうという僕の態度は何かおかしいのではないか、というわけのわからない自己嫌悪です。オトナになりきれていない僕は内容にも文句を言いたくなり、人間関係のような相対的なものをどのように語ろうとも中庸に優る叡智なしなどと偉そうな感想を持ちました。

意気消沈して別の本に目を向けます。あまり気分が文学ではないので『万物理論 (創元SF文庫)』(グレッグ・イーガン)を読みましたが、期待が大きすぎたせいか何となくがっかりな読後感。エドワード・サイードの焼き直しをSF風味のガジェットにくるんで物理学で味付けをしたような印象を持ちました。未来世界には満足したのですが、その背景にある認識論や形而上学にずっと引っかかってしまい、物語の進行にいちいち「もう少しどうにかなるだろう?」とツッコミを入れてしまいました。デカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウアーの説あり)はかなり死語かもしれませんが、まだまだ考え方は生きていますね。未来の物理学も少しがっかりでした。

ああ! もう! 何様のつもりなのか、毒を吐きまくりですね。花を買わなきゃ

2009-06-30

定本ハナモゲラの研究

定本ハナモゲラの研究』を読みました。読み終えた僕は多いに影響を受けたので感想をハナモゲラで書いてみようかとも思いましたが、僕には難しすぎる言語で操ることができません。

 けめせ奸穴のひらまけてはなく、媾翫に猥ぬられた。
「みねはれたか。け」
 そも婢のらけてか。起てか。妖奮の濡れ子の陰たまままちばけると、淫実にか核かとけめた。ほのめらかんだ妖むらかんだ媚の襞そろれはけて嬉桃亀の嬌は紅姦の臭いられにまとらないぞ。

筒井さんによるこの文は「どうにかポルノであることがわかる程度であって、自己完結性はあるものの詳細が理解できる読者は少ない」ということです。ハナモゲラ文学は日常言語へ回帰することなく虚構内で自己完結しなければならないといいますが、なにがなにやら。こうして遊んでいるぶんには面白いのでしょうけど。

ポーランドに旅した際、日本語の至極堪能なるガイドのハンナ嬢に
 さてました ですかここゆく もしあんな なんじくるする ささそれするか

この三十一文字は「もろすどおしの法」を駆使して詠まれているそうです。これくらいなら何となく鑑賞できますが、

ピットインの五日間。多くのゲストを迎えて演奏した際に
 あまがする かえるのこぎる あほもいる らんどりすぐる もけてふやけば

となると僕の鑑賞能力を超えています。この歌は枕詞に似た「ぴろづみの法」を使っていて、はじめの二十九文字が「けば」にかかるとのことです。

坂田明さんによれば「ハナモゲラの精神は口からほと走り出てくる即興にある。わかりやすく説明するならば、フリー・ジャズの方法論に基づく、出鱈目とシリアスとの相克の間隙を縫って傷だらけになってしまう覚悟が必要なのである」とのことですから、ジャズなのですね。

ジャズのアドリブ演奏について話をすると、頻繁に言語のアナロジーが使われます。イディオムだとかシラブルだとか、はたまた演奏を会話のように喩えます。ハナモゲラもそのようなものの発展型なのでしょうか。

2009-06-24

1Q84入手

雑談です。

幼なじみと久しぶりにあって、本の話をしました。彼女は旦那様が現代アメリカ文学研究者ということもあってか英米文学に詳しいので、面白い話をたくさん聞かせてもらえたのですが、村上春樹さんの新刊の話を振ってみたところ、「もう読まないからあげる」とのこと。

届きました。初版一刷です。しばらく読まないと思っていたところ、予想外の棚からぼた餅です。ところが今は併読している本がたくさんあるので、すぐさま手をつけるというわけにも行きません。

併読中の本は
・『20世紀SF』
全6巻のアンソロジー。1940年代から10年単位で1冊ずつ、その時代を象徴するSF短編を載せるという魅力的な本です。2巻まで読了。
(カバーの好みで4巻へのリンクを)

・『アインシュタインとピカソ―二人の天才は時間と空間をどうとらえたのか
人から教えていただいた本。19世紀初頭の芸術と科学の巨頭のお話。半分伝記で、半分時代考察のような本ですが、二人を並べてその似ているところを論じているあたりが素敵です。7章まで読了。

・『定本ハナモゲラの研究
この上なくばかばかしく、この上なく真剣にハナモゲラを研究しています。第1部読了。

これらを読み終えたら、『1Q84』にとりかかるかもしれません。ちなみに好物は最後に食べる派ですが、それとこれとは多分関係ありません。

2009-06-13

吹奏楽のサックスって難しい

雑談です。

僕はサックスを趣味で弄びます。現在二つのバンドに所属してはいるものの、バンドの練習は片方(ビッグバンド)は年に4回、もう片方(ファンク風バンド)は月に1~2回なので、もう少し楽器を練習する機会を持ちたいな、と思いたって田舎の市民吹奏楽団に入団してしまいました。サックスを触るようになってはじめての非ポピュラー音楽経験です。

ビッグバンドの同僚にいわせると、僕の音質も奏法も楽器もポップスよりのものなので、僕は吹奏楽団には入れないそうです。僕にサックスを教えてくれた先生はサックス教師ではなくてプロの演奏家だったのですが、その方はジャズしか演奏しませんし、それ以外の奏法は教えませんでした。その上、楽器もマウスピースもその先生に選んでいただいたものを気に入って使い続けています。

さて、吹奏楽団に入団したものの、サックスで吹奏楽を演奏するのははじめてですから、その練習には困惑しています。まずは楽譜がわかりにくい。一体ワタクシは何をしているのだろうか、という感じでアルト・テナー・バリトンのそれぞれがまったく違うことをしていたり。ビッグバンドの常識からすると、基本的にはサックスセクションは5パートでひとまとまりですし、テナーサックス奏者が演奏中にもっとも気にする管楽器はアルトサックスとバリトンサックスです。それがなにやら、くくりとすれば中音楽器ということになろうかと思いますが、テナーサックスの僕はトロンボーンやユーフォニアムと同じセクションになったのではなかろうかと錯覚するほどにアルトサックスとは交わりません。バリトンサックスは隣に座っているにもかかわらず、ベースラインを演奏していたりします。近くに座る意味ないじゃないと文句もつけたくなりますが、僕はこの世界の初心者なので黙っています。

アレンジや作曲によって異なる話ですが、多くの場合の難点は音質も演奏のニュアンスも違う楽器と全く同じフレーズを演奏することです。全楽器のユニゾンなら話はわかりますが、オーケストラでいえばチェロや金管楽器が担当するようなフレーズを色々な楽器がやるのですから、サックスも弦楽器のような演奏をすることを強いられますし、ときには金管楽器のようになる必要があります。奏者の配置といい、演奏を担当する部分といい、ひょっとして吹奏楽におけるアルト以外のサックスは、なければない方がいいものくらいではなかろうかと思ってしまいます。

2009-06-12

『ウェブはバカと暇人のもの』

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)』(中川淳一郎)を読みました。タイトルがすべてを物語っています。Webとのつきあい方で結論的に言えることは、過大な期待も失望も避けた方がよさそう、という程度です。それにしてもタイトル商法はすごいですね。

先日話題になった、梅田望夫さんのインタビュー記事(日本のWebは「残念」)と対極をなす内容です。本書の切り分けではWebで情報を消費する人の立場に立っていて、情報をつくり出すあるいは活用する人の立場には立っていません。

まあ刺激的に「バカと暇人」と書かれていますけど、ネットニュースサイトを運営していたりすると信じられないようなバカと暇人を目にしますから、Webが彼らのものというわけではなくて、著者に関係する領域のWebで非常に目立つ行動をしている人たちはバカと暇人というくらいのものでしょう。バカも暇人も、それで責めを負うようなものではありません。僕から見たら新聞の投書欄はバカと暇人のものですし(暇に関してなら合理的に推測可能な統計をとれます)、業界団体の会議なんていうのもかなりバカと暇人のものです。

ではどうしてバカと暇人のものになっているように見えるのでしょう。話を単純にするために情報消費系のコンテンツに限ると、スポンサーがバカと暇人に有利になるようなビジネスモデルをつくっているから(そしてそれくらいしか成功していないから)ということと、マスを対象にした情報は必然的に欲求を直接充足させるようなものとなるからではないかと考えました。つまり著者の立場でものを書いたら、Webがバカと暇人のものになっているように見えるのは必然、ということですね。これが必然とまでなったのはそれだけ人口に膾炙していることの表れで、ハード業者、インフラ業者、ネットワーク業者、サービス・コンテンツ提供業者のたゆまぬ努力が讃えられるべきだと思います。

もちろん情報消費系ではないコンテンツは山ほどあります。もっともわかりやすいところなら、Wikipediaなんてバカと暇人と賢人と多忙な人とどれでもない人によって有象無象に編集されている感があります。日本語版で情報量の豊富さが目立つのは芸能・アニメ・鉄道ですし、記事の質についてあれやこれやと言われていますが、ひとまず役立つサイトであるのは認められていることでしょう。

2009-06-08

某新古書店チェーンの話

雑談です。

本を読むことが好きな人には某新古書店チェーンの店内環境は我慢ならないことが多いような気がします。少なくとも僕は、頻繁に訪れようとは思いません。

例えば店内の音楽。本を扱っているなら店内に音楽は必要ないどころか、本を選ぶためのノイズになりがちなので、BGMはその名の通りバックグラウンドに留めておくに越したことはないでしょう。音楽には店内の話し声などをかき消す効果があるので、流すなとまではいわないけれども、音楽を鑑賞しろといわれているかのような音量は不愉快です。

そしてあの挨拶。じっくりと本を選んでいる隣でいきなり店員さんの大声が連続して聞こえると、それまでの集中は途切れます。客商売だから店に入ってきた人にはいらっしゃいませ、店から出て行く人にはありがとうございましたと声をかけるのはわかりますが、客本人が見えもしないところで大声を出されても、「なんだそれは」という感想くらいしか持てません。牛丼屋さんではないのだから。

かのチェーン店は古本をじっくりと選ぶ場所ではないのだな、と感じます。大きな声を上げ、職場を活性化させる(ように見せる)のは社員のモティベーションをあげるための方法として一理あるのでしょう。しかし冷たい考え方をするなら、現場で一番嬉しいのは、給料が高いこと、という調査もあります。もちろん仕事のやりがいとかそういう要素をあげる人や場合もあるでしょうけれども、それはある種の従業員(決して少数派とは思えません)にとってはあくまでメインとはならない要素で、どんな綺麗なことをいおうとも、就業の魅力とはやはり賃金を得ることです。そのほかの職場に魅力を感じる要素をあげるなら、例えばかのチェーン店では声を出すこと、店舗の雰囲気、評価方法、成功経験を数値的に把握できることなどがあげられると僕は想像しています。かのチェーン店はそれほど給与水準が高くないので。

僕が本を探すのではなく、コミック・CD・DVDを探しに店に入ったならば、それほど気になることもないのでしょう。でも普通の古本屋さんでは考えられないような価格で売っているものもあるから、ついつい覗いてしまうのですよね。

2009-06-06

『シロクマのことだけは考えるな』

シロクマのことだけは考えるな!』(植木理恵)を読みました。

認知心理学の成果をこういう風に伝わりやすく伝えるやり方があるのだな、と感心しました。字面通りそのまま本書を読めば、とても下世話な本です。他人をコントロールする方法、他人に好かれる方法などなど、俗流心理学でも扱いそうな話題ですが、それがきちんとした研究に基づいた内容ですので読み応えはあります。まあ俗であることに変わりはありませんが。

本書のタイトルに文句をつける人もいるでしょうが、それは無知というものでしょう。有名な実験です。

2009-06-03

最後の砦

関東鉄道常総線の終点は取手(とりで)。

それだけです。

2009-05-28

独特な文体の作家が翻訳すると

いま『カメレオンのための音楽 (ハヤカワepi文庫)』(トルーマン・カポーティ)を読んでいるのですが、翻訳は野坂昭如さんなのです。

カポーティ自体、独特な文体だと思っているのですが、それに輪をかけて野坂さんも独特な文体。まあ野坂さんは作品によって大きく変えてはいますが。

しかし読んでみると、これはカポーティらしいというよりも野坂節。はて、カポーティが生涯をかけて追求した小説技法は、この翻訳文を読む限りでは、題材や内容はともかく言語表現方法としては疑問符がついているように僕は感じました。

とはいうものの、野坂さんの文体は、僕は好きなのですよ。

2009-05-27

『アインシュタインの夢』

アインシュタインの夢 (ハヤカワepi文庫)』(アラン・ライトマン)を読みました。

本書では、奇跡の年と呼ばれる1905年(の特殊相対性理論を発表する前)に、アインシュタインが見たかも知れない30の夢を、短編小説の連続のように綴っています。夢ものなので多少幻想小説的ですが、本書の憎いところは夢の設定がすべて時間に関連したものというところ。一定普遍の時間と空間というニュートン的世界からはみ出して、時間が様々なかたちをとっている世界が夢の舞台となっています。

人や場所によって時間の流れ方が違う世界、相対的速度によって時間が変わる世界、時間が延びたり縮んだり、時間が目に見えたり、未来が決まっていたり、時間が逆行していたり、円環になっていたり、エントロピーが減少したり。

夢で時間の流れ方が違うのはありきたりなことですが、様々なかたちをとっているところが魅力でしょう。僕は読み始めは戸惑いましたが、だんだん引き込まれていきました。夢の空間的舞台は19世紀初頭のスイスを基にしていて、現代の目から見たら幻想的な味わいはいや増します。ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』みたいな味わいだな、と少し思いましたが、物理学的なエッセンスが大量に加えられているので、不思議不思議と思うばかりではなく少し納得もしてしまいます。ちなみに著者は物理学者・天文学者だそうで。

2009-05-19

キス・接吻・くちづけ

安斎育郎さんの『人はなぜ騙されるのか―非科学を科学する』を読み終えたのですが、本の趣旨とは全く関係なく大変興味深い知識を得ました。

「弓状筋肉の収縮状態における構造的並列」

これが、ある医学研究者によるキスの定義だそうです。

2009-05-18

知識の詰め込みについて

雑談です。

ある日、予定よりも早く仕事先に着いたので、駅のそばにあるドーナツ屋に入ってコーヒーを飲み、煙草を吸いながら本を読んでいました。そこでゆったりと楽しんでいると、隣のテーブルに座った男女が怪しげな話をしているのが聞こえてきました。盗み聞きするつもりはありませんでしたが、声の大きな二人の会話は店中に聞こえていましたし、その話し声で集中できないために僕は読書を諦めたのです。

どう見ても成人している女性(煙草を吸っていました)が、何のためだかわかりませんが英語の宿題があったようで、それを男性にやってもらっていました。男性はこんなに簡単なら一日もあれば楽勝、みたいなことをいっています。ところがその男性、"Dose you ~"とか、"You wants ~" とか問題を解きながらいうのですよ。"Do you wants apple ?"(その男性は"wants"が妙に好きなようです)の日本語訳を「あなたはリンゴを食べることができますか」といったり。男性は、こんなこと絶対日常会話ではいわないよな、といいます。僕も同感。「あなたのお母さんはピアノを弾きますか」などと聞くのは、かなり限られたシチュエーションだと思います。

他にも、相田みつをさんは知的障害者だとか、彼が四肢の麻痺のために口で書いていたとか、実に楽しげな話題です。山下清さんや星野富弘さんと混同しているのかな。

無知をあげつらうつもりはそれほどありません。別に外国語ができなくとも、日本の現状では生活に困ることは滅多にありません。しかし僕はスノッブな性向がありますので、多少は思うところもあります。まず外国語の初期の練習段階では、決まり事をひたすら繰り返して身につけなければ、おかしな口調になってしまいます。動詞や助動詞の変化は、論理的に何かが間違っているというわけではなく、単にその言葉が話されてきたこれまでの歴史ではそういわない、というだけの話です。それを無視するのは言葉とそれを使ってきた人に対して失礼というものでしょうし、そうしたところを間違えたまま話をすると聞き取りにくいばかりではなく、知性を疑われてしまったりします。たぶん通じますけどね。

次に日常会話でよく使う言い回しを練習しない理由ですが、基本となる型を練習するとなると、しゃちほこばった言葉になってしまうというのは確かにあります。それでも、例えば野球の基礎を練習するために素振りをしたりキャッチボールをしたりする理由と同じように、試合での動作を要素に分解して練習した方が効率がよいということを考えておくべきでしょう。僕もかつて同じ不満を持っていましたが、長じるにつれて必要なことと割り切るようになりました。かといって「それは本ですか?」「いいえ、これはリンゴです」というような例文はいまだに許容できませんが(指示代名詞の練習とわかってはいますが、本とリンゴを間違える人がいるのでしょうか)。

従兄弟が僕の出身高校に入学して、どうやら数学で出遅れてしまったとのことです。従兄弟はこれから色々なことを頭に詰め込むわけですが、ものを知ったからといって順風満帆な生活が待っているわけではありません。それでも僕はものを知らないよりは知ったほうが良かろうと思っているし、数学の初歩的な部分は理解してすすめるよりも身体感覚として身につけるようなものだろうと思っているので、ひとまず詰め込めるものは詰め込んでおけば良かろうと忠告しました。

僕の考えは価値判断でしかないので、間違っているかも知れませんし、人によっては通じないでしょう。しかし自分の子供を今後育てていく上でも同じような方針をとろうと思っています。

2009-04-24

『ダイバーシティ』

ダイバーシティ』(山口一男)を読みました。タイトルの「ダイバーシティ」という単語は経済学や経営学などで最近よく使われています。けれどもその使われ方はいたって即物的に、「経済発展のために多様な人材を活用する」というような解釈となっています。それに対して本書ではもう少し広い意味で、多様性を肯定的に考える思想として紹介されています。

本書の前半は、社会学のいくつかの概念を肴にしたファンタジー風の物語です。ここで取り扱われている概念は「囚人のジレンマ」「共有地の悲劇」「予言の自己成就」「アイデンティティ」「ダイバーシティ」「カントの道徳哲学」「規範と自由」「統計の選択バイアス」「事後確率」といったものです。こうした概念がベースにありますが、物語はいたって平易な語り口ですので、馴染みがなくともすいすいと読めると思います(逆に馴染みがあると退屈に感じるでしょう)。物語形式にして学術的な話題を取り扱うものは多数ありますが、本書はそのなかでもよい作品だなと僕は感じました。似ていると感じるものをあえてあげるなら、レイモンド・スマリアンが哲学や論理学を扱った物語でしょうか。大抵の物語風解説書というものは、いつの間にか講義形式になったり、ソクラテスもかくやという高度な対話をしてしまったりするものですが、本書は肴になっている概念を大胆に単純化して、すごくすっきりと仕上がっています。

ところで「ダイバーシティ」ですが、本書でも述べられているように、金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」でこれ以上なく見事に表現されているのですよね。カタカナとしては新参の言葉ですが、何を今さらという気も少しします。

後半は著者が担当するゼミでの対話(著者の一人称形式)のような形をとっています。ここで取り扱われるのは一言でいえば日米文化比較ですが、規範や罪の意識を内面化する(あるいは社会化する)基準の違い、というようなことを扱っていて、それをイソップ物語の日米での違いから語りおこしていくのは読んでいて面白いです。この手の本の例にもれず、スペシャルな学生たちが登場しますが。

2009-04-20

中・高生の恥ずかしい頃

"文学少女"と恋する挿話集 1 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。本書よりはこれまでのシリーズ本編のほうが僕の心をぐっと掴んではなさないようです。この短編集は本歌取りではないし、肝心の物語を読み解く場面がないうえ、本編との絡みがあまりないので、シリーズものであることのメリットをあまり享受していないような気がしました。それに心葉くんのことを「受け」だなんていう遠子先輩はちょっと。

それでも、読むとむずむずさせられ、中学生や高校生の恥ずかしい頃をしきりに思い出させられました。僕も中学生の頃はバレンタインデーにワキワキしたりしたものです(結局中学生のときにもらったことはありませんでしたし、高校は男子校だったので無縁でした)。恋らしきものもしたような気がするし、恥の多い10代をおくってきました。

お酒の席などが延々と続くと、いつしか話題に隙間がうまれたりします。そうしたときにうってつけなのが恥ずかしい話。もちろん自分の恥ずかしい話などこれといって披露したいわけでもないのですが、話しているうちに「僕はもっと恥ずかしいことをしていたに違いない」などと自分の恥部を探し、曝してしまったりするのです。マゾっ気というのとは少し違うでしょうけれども、皆が自分の恥ずかしい話をさらけ出すという快感。本書はこういうのに似ています。

その他の近頃読み終えた本。
ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)』(池田信夫)
哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)』冨田恭彦
資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言』中谷巌

『ハイエク』と『資本主義はなぜ自壊したのか』は真っ向から衝突するような内容。よくいわれる「新自由主義」の定義が経済学ではっきりしていないからか、後者は新自由主義を批判するし、前者はハイエクを紹介しながらその経済学的な重要性を解説しています。いずれにせよ、人間が理性的な存在であるということに疑問符をつけているのは両者とも同じで、あとは自由をどう見積もるかというだけのような気がします。

二者の視点がもっとも対立しているのは、日本社会で経済格差は広がっているのかそうではないのか、もし広がっているならそれに対してとることのできるアクションは何かというところ。よく目にする話題だけれど、格差って本当のところはどうなっているのでしょうね。僕にはどうもよくわかりません。

2009-04-08

『日本語が亡びるとき』

文学作品ではない分野でのよい本を読むと、良きにせよ悪しきにせよ色々な感想を持ちます。逆のことを言えば、散々悪いことを言われる本は実はよい本ではないかと思うわけです。今回読んだ『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(水村美苗)は、僕にとってのよい本でした。どこかの誰かみたいに「すべての日本人が読むべき」とかは思いませんが、日本語や文学や科学や情報流通に興味があるなら、ぜひ読むべき本でしょう。

すでに読んだ人にもまだ読んでいない人にも迷惑でしょうが、僕なりに本書の骨子を要約すると、近代以前にラテン語や漢語が特権的に占めていた「普遍語」による叡智の蓄積は、現在英語によってなされているので、近代を通じて表現力が鍛えられてきた「国語」は否応なしに(亡びるとまでは言わなくとも)変質する、というようなことです。その変質は、著者によると質的衰退なのかも知れません。

もう少し長く言い換えます。この「普遍語」は、歴史的には「現地語」で情報が流通していた時代の後に、ある程度同一な世界で共通言語を用いる必要から選択されたが(これが近代以前のラテン語など)、この言語はおおよそ複数言語を用いる者によって使われてきた。さらに時代がくだると、国民国家の形成と並行して叡智となりうる情報量の増大により、「現地語」をもとにつくられた言語である「国語」で情報が流通するようになり、普遍的な情報も複数の「国語」で語られた(これが英語・フランス語・ドイツ語など)。この時代に様々な歴史的偶然と先人の努力により、日本語も普遍的情報を表現する言語として日本人によって用いられた。しかし現在はかつての単なる「国語」だった英語が「普遍語」として用いられているので、叡智は英語で蓄積されるだろう。かつて日本語など各「国語」が使われてきたのは様々な物理的制約と思想的な恣意性によるものだったが、現在はそうした障壁が低くなっているので、隔絶された言語としての日本語を用いて普遍的情報を語るコストが高くなっている。したがって今後は日本語を用いるよりも英語を用いる方が普遍的情報を扱うには便利になり、日本語の知的・質的水準が低くなるといった内容でした。

著者の議論は論旨が明快で、日本語に関して憂えているところにもいちいち共感してしまうのですが、さてさて、本書に色々なツッコミどころはありそうです。細かなところはさておき、僕は3つくらいの論点に対して違和感を持ちました。

まずは現地語について。僕は、現地語の文学的重要性は薄められたとしても必ず残ると思っています。本書の中でも述べられているように、叡智には文脈に依存しないものとするものがあります。前者を代表するのは科学でしょうし、後者を代表するのは文学でしょう。前者が普遍性や論理性を重視するならば、後者は呪術性や情念を重視するかも知れません。そして現地語のもとになる話し言葉は、共同体の情報伝達に有意義であることを最重視していると僕は思っています。現地語は普遍的な情報を扱うには不向きですが、同一の社会的背景を持っている人とのあいだで情報を伝達させるにはとても便利です。例えば色の名前を翻訳するのはときとして非常に困難が伴うでしょうし、情感の表現は現地語に勝るものはありません。しかしこれらの表現されるものは共通の文脈を持っていなければ他人には理解が難しいものであり、普遍的に流通されるものではありません。

ですから現地語による文学は、なにはともあれその現地語を用いる人たちの生活や社会や環境に根ざしたものとなっていることでしょう。ならば、すでに「大きな物語」の有効性が疑われている現在、そうした「小さな物語」の重要性はさほど減じることはないのではないかと思うのです。問題は優れた知性がそうした現地語による芸術表現をするかという点ですが、日本語が「現地語」と化しても、日本のような社会形態の中で表現される内容ならば、日本語で表現せざるを得ない状況は残るのではないかな、と思うのです。こう考えたときに、日本語で表現せざるを得ない状況がなくなるのは社会形態がフラットになった場合ですが、いくら情報が世界的に流通する環境になったとしても、身体性に由来するような暗黙的な知性は極めて情報伝達が難しいので、まだまだ完全にフラットになる状況は遠いだろうと思うわけです。

次に日本語で使われる文字に関して。著者は日本語の文字について「漢字・ひらがな・カタカナ」があり、それぞれ使い方によって表現される内容は異なるといっています。例として萩原朔太郎の「ふらんすへ行きたしと思へども」を「フランス」に変えたり、現代語にかえたりして見せます。確かに受け取れるもの・表現されるものはおおいに変わるのですが、僕としては文字そのものの持つ呪術性や文化的重層性に触れてくれるとなお嬉しかったです。

日本で使われる文字は中国で使われる文字と同じく、古くは占いのためにつくられました。さらには占いを司り、まつりごと(祭・政)を執り行う権力者の用に益するものとして、その一文字一文字に多くの意味を与えられてきました。この分野に僕は詳しくはありませんが、文字の歴史を繙けば表意文字でなおかつ表音文字であるような存在は他にもあるとして、いまだに象形文字的な性質も持っているものはそう多くはないでしょう。文字自体が異界とのつながりを持つもので、さらにはその文字によって記されたものが発音されたときに呪となるような文字体系は、単に表される内容のみの話ではありません。文字を使うことによって、壮大な言い方をしてしまえば鬼神をも哭かしているのです。

そして書き言葉と手書き文字に関して。著者は日本語が亡びつつあると警鐘を鳴らしていますが、著者が言うように日本語の叡智の主なものが書かれたものだとするならば、すでに亡びています。その証拠に、ほとんどの人は100年昔に手書きで書かれたものさえ読めなくなっているではないですか。なるほど活字ならば100年前の文章でも容易に読めるでしょうが、その頃の肉筆は仮にペンで書かれていようと、ほとんど読めたものではありません。その点アルファベットのような簡単な記号ならばかなり古いものでも判別可能です。

日本語(中国語もそうですが)の素晴らしさとして文字の多様性をあげるならば、その文字を書くことも読むことも日本語の知識でしょう。その日本語の知識は活字に慣らされ、人間の手による芸術的な記号を読めなくなっているのは、すでに言語の伝わり方として不完全なものになっているとしか思えません。明治以降、特に第二次世界大戦後の日本語教育で標準的な活字を学んだことにより、日本語は手書きの文字としては過去と決別しているのです。もしも近代日本文学を芸術の一つの高みとするならば、それはその作家たちが書いた文字を読めることをもってその伝統を受け継いでいると言えるのではないでしょうか。

まとまらないけれど、力尽きたのでこれまで。

2009-03-18

声に出せない日本語

ある方がファッション関係の言葉について「声に出せない日本語」と書かれていたのに触発された雑談です。僕が多くの人を敵に回すと割り切ってしまえば、声に出せないのは「スイーツ(笑)」全般に言えることだと思います。

もう少し敷衍するなら、流行やら文化的新しさに関する壮大な考察をしなければならないのですが、簡単に言ってしまうと

  • 新しいモノを追求する
  • モノはそうそう新しくならない
  • モノのかわりに新しい概念を生み出す
  • 新しい概念に名前をつける
という一連の流れが一つにはあると思えます。

もう一つの流れは、
  • 文化的な同一性をもって自己のアイデンティティを確保する
  • 文化的同一性はそうそう持てない
  • 言語的同一性をかわりに持ってくる
  • 同じ言葉を使うひとと同じカテゴリーに自分を置く
  • 同じ言葉を使えないひとと排他的関係になる
というようなものかな、と。例えば「シンボリックインタラクショニズムにおける社会学のリングイスティック・ターンは……」という話し言葉を使う僕の友人(実話です)は、そういう言葉を覚えることで仮の安心を手に入れて、そういう言葉を使うことで自分が何者であるかを暗に表明し、そういう言葉を使えないひとと交わらない生活様式をつくってしまいます。

話を戻して、新しい言葉。それを恥ずかしく感じるような言葉は、恥ずかしさを意味として持っているわけです。つまり新しい言葉といっても造語の由来となるのは既存の言葉で、その言葉がそれまでに持っていた「指し示されるモノ」は捨てきれないままに新しい概念を指し示そうとしているわけですね。あえて古い「指し示されるモノ」を残したままということもありますが、多くの場合は新しい概念を巨人(既存の「指し示されるモノ」)の肩の上にのせるようなものでしょう。だからこそ
  • 古い「指し示されるモノ」と内容的な距離がある
  • 新しい概念の新しさが不明瞭
といったところで恥ずかしさが増すのだと思います。

長々と綴ってきて、ようやく僕のいいたいことになりますが、スイーツ(笑)関連よりも、アダルト映像関連の言葉のほうが声に出せない。それをいいたかっただけなのです。生物が単為生殖をやめて以来続いている行為を、人類が記録を残すようになって以来続いている表現方法を使って言葉にしても何も新しさはありませんから、様々な工夫を凝らしています。それらはとても愛おしい言葉たちなのですが、声に出せない(そもそも読み方がわからなかったり)。

オチがないまま終了。

2009-03-13

『運命の三人』

ダーク・タワー〈2〉運命の三人〈上〉』『ダーク・タワー〈2〉運命の三人〈下〉』(スティーヴン・キング 新潮文庫)を読みました。物語が走り始めたな、という感じです。

近頃の僕は面白可笑しい本をあまり読んでいないせいか、どうやら笑いに飢えているらしく、何を読んでも面白可笑しい想像をしてしまうのです。先日読んだ『この人を見よ』なんて少しも面白可笑しくないはずなのに、なぜか笑える本として読みましたし。

この『運命の三人』も、どう読み方を間違えたのか、シュールな笑いに満ちています。ロブスターの化け物、素っ裸で繰り広げられる銃撃戦、黒人女性の罵り言葉、銃砲店やドラッグストアでのやりとりなど、みんなどういうわけだか面白可笑しいのです。筆者がB級ホラーをこよなく愛していることは有名ですが、この作品をB級ホラーに似た楽しみ方をすると、もうこれが実にツボにはまって。

全裸ではなくて靴下だけ着けていたらとか、罵り言葉がもっと当時風になっていたらとか、そういう想像もして楽しみました。原語はどうなっていたかわかりませんが、排泄物系、肌色系、性器系の罵詈雑言は恐らく日本語よりも英語のほうが豊富です。この翻訳でもうまく訳しているとは思いますが、1950年代の女性が使う日本語風にしたらどうなるだろうとか、想像するだけでも楽しくありませんか?

2009-03-11

『この人を見よ』

ふとした気まぐれで、『この人を見よ (岩波文庫)』(フリードリヒ・ニーチェ)を再読しました。10年以上前に岩波文庫で出ているニーチェの著作をむさぼり読んで以来、はじめての再読ですから、忘れているところもかなり多くてなかなか興味深い読書ができました。

僕もそろそろ、自分やら世界やらに不満たらたらな青少年ではなくなってきたので、読むにあたっては聖人や超人や哲学者や心理学者というイメージを持たないように気をつけました。えらい人が残した名作というのではなくて単なる文章として読もう、と決めて読んだのです。そうするとこれがまた面白いです。

だいいちタイトルだって『この人を見よ』ですよ。別の言い方をするなら「オレ様を見ろ」ですよね。各章だって「なぜオレ様ってこんなに賢明なんだろう」「なぜオレ様ってこんなに利発なんだろう」「こんなによい本を書くオレ様って最高!」という感じです。冷静に読んだら笑いはこらえきれません。ドイツの悪口には筆が冴え冴えとしていますし、ヴァーグナーのドイツ的なところを礼賛するドイツ的なものに対する罵詈雑言も素敵です。キリスト教や道徳や倫理といった「まやかし」を攻撃するにも容赦ありません。一方で自分を持ち上げることは晴れ晴れとしていて、幾分こじつけだろうというところでも力業で褒めそやします。

『ツァラトゥストラ』も再読してしまおうかな、と思いました。ついでに、リヒャルト・ストラウスの「ツァラトゥストラ」をニーチェはどのように感じたのかな、と疑問を覚えました。「2001年宇宙の旅」以降はすっかりギャグやパロディで使われることの多い曲ですが。

2009-03-08

『日本宗教の常識100』

日本宗教の常識100―意外と知らない日本宗教の変遷と教え (日文新書)』(小池長之)を読みました。

冒頭から叩きのめされてしまいました。冒頭にトリビア的な問題が挙げられていて、それに答えてくださいというのです。問題は以下に引用しますので、これはと思う方がいたら答えてみてください。

  1. 一月一日(元旦)は何という祭日か。
  2. 伊勢神宮は何という宗教か。
  3. 法隆寺は何宗か。
  4. 奈良の大仏は何という仏様か。
  5. 成仏と往生とはどう違うか。
  6. 地獄と極楽を日本人に紹介した代表的人物は誰か。またその書名は。
  7. 閻魔の裁判は、死語何日目に行われるか。
  8. 豊川の稲荷は寺か神社か。
  9. 弁天様は神様か仏様か。
  10. 虚無僧とは何宗の僧をいうのか。
  11. 臨済宗と曹洞宗はどう違うか。
  12. 大阪市の基礎を築いたのは誰か。
  13. 一休は何宗の僧か。
  14. 日蓮宗で葬式をやると、霊魂は極楽浄土へいくのか。
  15. 達磨はインド人か、中国人か、日本人か。
  16. 法然は何という大師号を贈られたか。
  17. 次の寺の名はすべて通称である。正しい名を記せ。また何宗に属するか。
    • 三井寺
    • 金閣寺
    • 川崎大師
    • 東寺
    • 鎌倉の大仏
  18. キリスト教で、神という日本語を使い始めたのは誰か。


確かにみんなどこかで聞いたことがあるのですが、あらためてそれらについての知識があるかどうかといわれると、漫然とした答えしかできないようなものです。そうした(日本で長期間生活していると身につく)宗教的な考えや単語に、あらためて光を当てるような内容の本でした。本書は一問一答形式で、ほとんどの問に対して見開きくらいの紙数で解説されています。おおよそは時代を追って古代から現代にいたるように問が立てられていますので、一問一答にしては全体としてのまとまりもあります。

知識面のみの話ではありません。本書では筆者の体験談が多く登場するのですが、どうやら筆者は数多くの修行に参加しているようです。その体力、恐るべし。それに客観的に知識を披露するばかりではなく、かなり主観的なツッコミも所々に見られます。そうしたところもお茶目で、本書はなかなかのヒット作です。本書の初出は1976年とのことですから「最近の研究」に関しては多少間引いたとしても、この魅力は褪せません。

『物語 中東の歴史』

物語 中東の歴史―オリエント5000年の光芒 (中公新書)』(牟田口義郎)を読みました。「物語」と銘打ってあるにしてはあまり物語ではなく、「中東の歴史」と銘打ってあるにしては中東の歴史を広く取り扱っているわけではありません。

目次

序章 中東の風土 われわれの認識は確かか
第一話 乳香と没薬 古代を知るためのキーワード
第二話 女王の都パルミラ 西アジアでいちばん美しい廃墟
第三話 アラブ帝国の出現 噴出したイスラーム・パワー
第四話 「蛮族」を迎え撃つ「聖戦」 反十字軍の系譜
第五話 風雲児バイバルス 一三世紀の国際関係
第六話 イスラーム世界と西ヨーロッパ 中世から近世へ
第七話 スエズのドラマ 世界最大の海洋運河をめぐって


話を簡単にしようと思っても、どだい無理なのです。メソポタミア周辺の古代文明をたどるだけで、おそらく専門書数冊を要するでしょう。ペルシャ支配の時代で数冊、イスラーム帝国の時代で数冊、モンゴル支配の時代で数冊、オスマン帝国の時代で数冊、近現代でまた数冊、などなど、きりがありません。通り一遍の知識を得ようと思っても「中東」と一言でいわれる地域は複雑すぎて。

その複雑な歴史を語るにあたって、本書のようにトピックをピックアップするのはよく考えられた方法だと思いました。それに本書ではイスラームやクルアーンの記載がいい加減ではないので、好感が持てました。それにしても、この本は中東の歴史を知っている人に役立つ本で、まったく知らない状態では読むのも苦痛になるのではないかと思いました。

2009-03-04

斬新なスペイン語教科書

友人からとても素敵なスペイン語の教科書を教えてもらったので、忘れないように書き留めておきます。

何が素敵って、

・「独自の方法で文法が学べる」と銘打ってある
・「まえがき」の2/3がウルトラ兄弟への愛で埋められている
・例文がすごい

とのことです。

例文は、

Siempre veo al hombre guapo en el tren.
(私はいつも電車でその超イケメン男性を見かける)

Sirvo a una princesa.
(私はお姫様に仕えている)

Mi amante es 1 millon de veces mas hermosa que mi esposa.
(僕の愛人は妻より百万倍キレイだ)

というようなものらしいです。こんなに壊れた日本語で良いのだろうか("hombre guapo"は「超イケメン」といって良いのだろうか)とか、お姫様プレイを強要された男性しか使えないような例文とか、社会倫理的に口に出せないものとか、とにかく素敵です。

ガンダムの台詞を使った英単語集とか『もえたん』みたいな「萌え本」はあるけれども、スペイン語学習というニッチな市場でそれに近いことをやってのけた偉業は讃えられるべきものだと信じます。僕もこのテキストを使って、「僕の愛人は妻より百万倍キレイだ」とか言いますよ、そのうち。

2009-03-03

『これから10年、新黄金時代の日本』

これから10年、新黄金時代の日本 (PHP新書)』(ビル・エモット PHP新書)を読みました。まるで雑誌連載コラムを集めただけのような内容で、一冊を通しての整合性に欠けています。またタイトルに反して、日本経済について書かれているのは前半のみでした。

貿易の自由化を推奨するなど、著者の主張はとても「まっとう」だと感じました。まるで『まっとうな経済学』を読んでいるかのような錯覚さえ覚えるほどに。それに加えて著者一流の楽観的な論調で、2年と少し前に日本経済の長期的な成長を予見しています(それが当たっているのか、外れているのか)。

幾分政治的な話になりますが、東アジア圏での経済統合についてはEUを見習え、ということです。イギリス・フランス・ドイツのように長い対立の歴史がある国(地域)同士でさえ統合できたのだから、それに習って徹底的な対話をすすめることで希望がもてるのではないかということですが、どうでしょうかね。

『"文学少女"と神に臨む作家』

"文学少女"と神に臨む作家 上』『"文学少女" と神に臨む作家 下』(野村美月)を読みました。とうとう既刊の"文学少女"シリーズを読了、と思ったら「恋する挿話集」が出てた。

いやいや、なんというか、もうね、こうね、あのね、という感想で、やられたのはワタクシです。もう"文学少女"抜きの生活は考えられないというか、妙に後を引くというか、むず痒いような。

遠子先輩も、琴吹さんも、竹田さんも、麻貴先輩も、心葉君も、芥川君も、流人君も、素敵すぎます。痛すぎます。僕は「心の傷」や「親友の死」系の話は苦手なのだけれど、この作品群に限って許しちゃいます。

満足でした。ごちそうさま。

2009-03-02

『政治と秋刀魚』

政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年』(ジェラルド・カーティス)を読みました。

出版時期が福田政権が発足した頃ですので、現在を語るところでは多少賞味期限を逃してしまった感じもありましたが、戦後の日本政治を外部の視点から見るとこうなのか、という発見は楽しいものでした。曰く日本の戦後政治は良く機能していたが、現在進行中の変化に対しては良く機能していない、ということです。言われるまでもないですか、はい。

それではどのようにすれば良く機能するか、という部分に関しては、政・官・財・メディア・そのどれにも属さない各有権者などの立場で多少意見の分かれるところだと思います。うまく調整できる良いですね、などと他人事みたいな感想を持ちました。

ところで、なぜ秋刀魚なのでしょう。最後までよくわかりませんでした。

『ダーク・タワーI』

ダーク・タワー1 ガンスリンガー (新潮文庫)』(スティーヴン・キング)を読みました。

読む前からわかっていたことですが、長い長い序章でした。作品中で今後明らかになるであろう世界がどんどん広がっていくのにはワクワクしましたが、単体としてみたらこれは面白い作品なのだろうかという感想も持ちました。なんだかすごくアメリカンドリームの入った主人公(銃を撃たせたら抜群で、タフでハードでクールで女に強い男)でしたし、宇宙観もいかにも70年代オリエンタリズムな感じでした(アメリカの小説家や音楽家などにブッディズムがもてはやされたりしたのを恥ずかしく感じてしまう、あいまいな日本の僕がここにいます)。

娯楽小説として常に読者(僕)を裏切らない筆者なので、大いに楽しみましたが(悲しくもえっちな男性の僕がここにいます)、女性読者にはどう映るのだろうとちょっと興味が湧きます。女性でこの物語を好んでいる方がいたらぜひ感想をお伺いしたいものです。

『英語を学べばバカになる』

英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想 (光文社新書)』(薬師院仁志)を読みました。著者が教育社会学を専門としていることもあり、読む前には教育機会や文化資本や教育制度の話かと思っていたら、英語教育の話ではなくてほとんどアメリカ文化批判の話でした。

これはこれで面白かったけれど、タイトルに偽りあり。「グローバル思考」=「アメリカ文化思考」を前提として受け入れるならタイトルは正しいけれど、どうも僕の意見とは違うので。日本の教育界では確かに英語教育偏重の傾向はあるし、多文化受容の傾向にはないと思うけれども、僕の直感ではインターナショナリズムとマルチカルチュラリズムが混同されているような気がしました。

「そうか、僕は英語を学んだからバカになったのか」と納得はできそうもありません。英語を学ぼうとそれ以外の言語を学ぼうと母国語での抽象思考を学ぼうと、または実務上で必要な知識を言語に関係なく学ぼうと、いずれにせよ時間やカネの投資は必要です。そのどれに投資したらリターンが大きいかという考え方をすると、日本の言語環境や経済環境を考慮すれば恐らく母国語を用いた学習が効果が大きい、という程度なら納得できるのですが、それ以上に文化批判の話をされてしまうと、この人はアメリカが嫌いなのだな、という感想が先に来てしまいます。

ちなみに僕はアメリカで暮らしたことも行ったこともありませんが、アメリカ中西部で育った友人が非常にアメリカ嫌いでしたので、アメリカ嫌いの気持ちも想像できます。だからといって異言語を学ぶ有用性まで一概に論じたりできないよな、と思います。つまり単一の国際文化としてアメリカ文化を捉えるのではなく、多文化の一つとしてアメリカ文化を捉える相対性さえ持っていればいいんじゃないかな、と。

べ、別にフィリピンパブで英語を喋ったらおねいさんたちにもてたなんてことはないんだからねッ!

2009-02-26

『小さな会社生き残りのルール』

小さな会社 生き残りのルール』(市川善彦)を読みました。後悔すべきなのか、そうでないのか悩ましいです。

書いてあることにはいちいち納得してしまうのですが、何にせよモーレツ社長の奮闘を前提として、地道に着実に確実に会社を成長させていくための精神論が満載でした。先達の言葉をありがたく頂戴するにやぶさかではありませんが、経験に即した精神論が目立つと引いてしまうのも僕の性格です。

「そんなこと言ったって、御社は業績伸びていないでしょう?」と言われれば、はい、その通りです。僕が代表をしている会社は今期赤字見込みでやりくりしています。

『まっとうな経済学』

まっとうな経済学』(ティム・ハーフォード)を読みました。原題は"The Undercover Economist"です。

ヤバい経済学』がとっても面白かったし、似たタイトルなので手に取ったのですが、何というか興奮しませんでした。「覆面経済学者」ではなくこの日本語タイトルをつけた出版社の勝ちですね。よく知られた経済理論を使って、身の回りから世界経済にいたるまで、徐々に範囲を広げながら説明していく様は素敵なのですが、なんとしてもそれが普通すぎて。経済学関連の本を読み慣れていない人にとっては面白いかも知れません。

2009-02-18

衝動買い

雑談です。

今日は往復6時間も電車に揺られていました。朝6時に自宅を出る時、慌てていたのか寝ぼけていたのか、本を持ってこなかったことに気づいたのは駅のホーム。長い移動時間にノートPCを広げて仕事をしてもよかったのですが、僕はそんなに仕事熱心ではありませんので、慌ててキオスクでX世代からY世代くらいをターゲットにしているビジネス雑誌を買いました。

誌名はあげませんが、「仕事に役立つ本」みたいな特集をしていて、なかには興味深いものもあったのですが(特に古典。『職業としての政治』と『論語』は再読したいなと思わされました)、僕が雑誌を読むのは多くても年に数回程度ということもあり、ビジネス雑誌の面白さとか有意義さとかがほとんどわからないのです。有名人の写真がたくさん載っているので、「ああこの人はこんな顔だったのか」という程度しか有意義な発見はありませんでした。

あっという間に読み終えてしまい(コストパフォーマンスを考えると、雑誌って高いですね)、次の乗換駅のキオスクを覗いたらサイモン・シンの『宇宙創成』(新潮文庫)がありました。彼の『ビッグバン宇宙論』は読んだことがあるのですが、むらむらと再読したい気分に駆られて衝動買い。移動中に上巻を読み終えてしまいました。

やっぱり面白い。既読ですので知識としては新しい発見はないのですが(思い出すことはあります)、それでも面白いのは文章の力なのかそれとも構成の妙なのか。

2009-02-16

『サブリミナル・インパクト』

サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)』(下條信輔)を読みました。

俗説ですが、映画のフィルム一コマに「コーラを飲もう」という映像を入れておくと、意識化でそのメッセージが伝わって、上映後にはコーラを飲みたくなる、というような話がありました。僕がそれを聞いたのは中学生の時でしたが、心底怖くなりました。もっともこれは信憑性が非常に薄いし、再現もできないそうですから、なんちゃって科学の類でしょう。本書はそういったオカルトチックな話ではなく、認知神経科学における潜在知覚の話です。

目次
序章:心が先か身体が先か 情動と潜在認知
第1章:「快」はどこから来るのか
第2章:刺激の過剰
第3章:消費者は自由か
第4章:情動の政治
第5章:創造性と「暗黙知の海」


とても多岐にわたる内容と充実した記述で、簡単にはまとめられないのですが、大変面白かったとだけは言えます。人間の活動は顕在的意識によって決定されるという、つまりは近代的な人間観がベースとしてきた「合理的で理性的な個人」というのは実際のところかなり怪しい概念で、情動や周囲の環境が大きく意志決定に影響を与えている、という事でした。これは概念的な話ではなく、実験と観察によって確認されているので読み応えがありました。

その上で現代社会を見るとどんなことが言えるのかという話まで含んでいます。マーケティングやら政治やらの世界では当たり前のことになっていますが、繰り返し同じ情報にさらされていると、その人はその情報に重み付けをしてしまいます。TVCMしかり、街頭演説しかり。そうした過剰な情報にさらされた場合の自由意志とはどのようなものか、周囲からの情報によって人はどのように影響を受けるのか、といったことを説明しています。情報操作される危険性という話ではありません。あくまで人間の活動がどのようになっているかという話ですので、善悪の判断はしていません。

そしてさらに人間の創造性の根拠を、これは仮説ながらも披露しています。発見というものが「知らないことを内発的に知るようになる」ことだとしたら、そこにはパラドクスが生じます。こうしたパラドクスの生じる原因として、デカルト的な人間観があるというのですね。それに対してスピノザ的な人間観のように、まずは環境と身体の相互作用があり、それから身体的あるいは情動的な基盤の上に精神が構成されていると考えると、パラドクスは生じません。マイケル・ポランニーが主張した「暗黙知」を踏まえて、認知心理学的にはそのような人間観をとるようです。

全編を通して、仮説は仮説として、またわかっていることははっきりと書かれていますので、不満や不消化はありませんでした。それに著者の語り口がとてもチャーミングですので、ついつい引き込まれてしまいます。大満足です。

『心もからだも「冷え」が万病のもと』

心もからだも「冷え」が万病のもと (集英社新書 378I)』(川嶋朗)を読みました。

タイトルの通り、冷えが万病のもとだそうで。著者は西洋医学を学んだ後に東洋医学を学んで、現在はいわばホリスティック医療を実践している方です。僕は代替医療とか民間療法というと、いささか胡散臭いと見てしまいがちなのですが、それらには数千年単位の試行錯誤という重みがありますからね。たかだか数百年の歴史しか持たない科学的アプローチで説明できなくとも、それなりの治療効果があるのならば、襟を正して進言には耳を傾けることにします。

本書では冷えが現代人に蔓延していて、身体の不調のみではなく精神の問題も引き起こしていると警鐘を鳴らし、具体的で簡単な対策を明確に書いています。個人的な実感としてもそこそこ納得ができ、まあそういうものもありかな、という感想です。ただし、ホメオパシーなどの再現性がないと報告されている医療類似行為が「効果があると証明されている」などと書かれているのはフェアではないと思いました。これも科学信仰の一種かな、と。

ただ、著者も書いていることですが、これまで僕が知り合った人のなかで民間療法を推奨する人は、西洋医学を排除しがちなのですよね。逆もまたしかりですが、そういう偏った見方にはなりたくないものです。まあ怪しいな、と思う気持ちも忘れたくはないのですが。ちなみにホメオパシーは知人から強烈にプッシュされて、断るのに一苦労しました。

2009-02-14

『バカと天才は紙二重』

バカと天才は紙二重 (ベスト新書)』(ドクター・中松)を読みました。新古書店の100円の棚に置いてあったのに加えて、(多分)直筆サイン入り! ついでに怪しげな発明品勧誘の葉書も入っていて、大いに楽しみました。

政治的なことはともかく、長年のファンなのです。「ピョンピョン」を知った時にはそれこそ痺れましたし、「ウデンワ」には笑い転げました。フロッピーディスクの発明という胡散臭い話も、ここまで押しまくれば良いのかという感慨にふけりましたし。

本書は全編胡散臭い話に溢れています。先の東京都知事選でも公約に掲げた「ミサイルUターン」も説明されていますが、おそらく天才ではない僕にはさっぱりわかりません。この本に限った話ではありませんが話の誇張の仕方も天才的で、日本の愛すべき人物としては筆頭候補になるのではないか、と思います。

それにしても「科学的」に研究された色々な話が、少しも科学的に説明されていないのはやっぱり天才のなせる技でしょうね。

『ゼロ年代の想像力』

ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)を読みました。

もともと僕は批評やら論壇やらというものにさほど興味がないのですが、本書のような批評ははっきりと嫌いです。サブカルチャーを題材にして現代社会の諸相を探ってみるような内容となっていますが、そもそも著者はサブカルチャーを論じたいのか、現代社会を論じたいのか、僕にはまったくわかりませんでした。もしも前者ならば、現代にはこれこれの事象があり、その鏡映としてこれこれの作品を生み出す想像力が形成される、というような論法になるはずなのに、事象に関しては象徴的にしか触れられていませんし、後者ならばサブカルチャーという想像力の産物をもって非想像的なものを論じるわけにもいかないでしょう。もっとも同時代作家たちの想像力というものを過小評価して象徴的な出来事で規定される、という立場をとるのなら文句は言いませんが、それは本当に過小評価です。

上記の二つがない交ぜになっているので、本書は僕にとっては不可解なものとなりました。取り上げている作品を丁寧に構造分析する様やものすごい単純化をする様は見事ですが(牽強付会とか無い物ねだりだろうという感想もあります)、社会を論ずるには題材不足です。

「大きな物語」から「小さな物語」へという流れもよく言われることですが(そしてその正当性に僕は多少の疑問を持っていますが)、本書では「小さな物語」のなかでも「引きこもり/心理主義/セカイ系」から「バトルロワイアル/決断主義的動員ゲーム/サヴァイヴ系」という流れを想定しています。確かに作品群ではそのような流れがあったのでしょうし、心性あるいは作家の想像力という面では傾向として正しく解説しているとは思います。しかし、本書の記述は実際のデータに依存せずに、言論に言論を重ねるような思索(僕の感想を正直に言えば「思い込みと思いつき」)から生じているため、果たしてそれは本当なのだろうかという疑いが常にまとわりつきます。もしも本当なら誰にでも追跡調査できるようにデータを挙げろ、と言いたくなります。あたかも、この世界にはつきものの印象批評がいまだに罷り通っているようでした。

「小さな物語の決断主義的動員ゲームが破綻しないように、プレイヤーがゲームの設計そのものを変更しながら運営してゆく」というような結論というか、筆者の模索している具体的な行動指針も、まったく新鮮みがありません。既に80年代のフランスで言われていたようなことを言葉を換えて言い直したようで、僕は面白くありませんでした。

まあこれは僕の趣味の問題ですので、思想好きには魅力的な本なのでしょうね。僕は思想よりも地味な調査や観察やデータ対話式理論や経験の蓄積に基づいた暗黙知や純粋な論理が好きです。

2009-02-12

『ぼくたちはきっとすごい大人になる』

ぼくたちはきっとすごい大人になる』(有吉玉青)を読みました。

「イン・ザ・ベイスメント」「悪い友達」「一心同体」「∮ シュルッセル」「ママンの恋人」「ぼくたちはきっとすごい大人になる」の6編が収められています(4編目はト音記号ですが、径路積分記号で置き換えました)。どの短編も小学生が主人公で、子どもの視点から描かれています。

さて、「子どもの視点」というとイノセントなものを想像しがちですが、この作品を読んだ僕の感想もイノセントなものでした。大人には見えていない(と大人が想像する)無垢な子どもの世界、というようなものが描かれているような気がして、ちょっと不満です。もちろん子どもには子どもの世界があるのでしょうが、それは大人の世界とそれほどかわりはないのではないか、などと僕は思うのです。無知が想像を招き、想像が現実に変わるような世界だとは思いますが、だからといって見ている世界が違うわけではありませんし、仮に違う世界なのだとしたら年齢にかかわらず視点の数だけ違う世界を想定しなければ理屈に合いません。大人の世界がわからなければ、わからないなりの理解をしたのではないかな、と僕の記憶は言っています。

当然のことながら、常識という思考回路ができあがっていない時には新鮮な感覚で情報を処理していたとは思うのですが、何というかもやもや感が残り、『ツ、イ、ラ、ク』の子ども描写のようなもののほうが好きです。

『フリーズする脳』

フリーズする脳―思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)』(築山節)を読みました。

簡単に言ってしまえば、高次脳機能を使わないとボケるよ、ということのようです。確かに便利な生活というのはつまりそれほど頭を使わなくとも良い生活です。携帯電話に電話番号を記憶させているから自分では覚えていられない、ネットで情報検索すればある程度必要なものは見つかるので物事を記憶しない。思い当たる節も多々あり、ちょとどきどき。

僕なりの異論もあり、できるだけ簡便で自動的な生活様式のほうがその他のことにリソースを注ぎやすいのではないか、などと素人考えしてしまいます。GTDなんかはその典型で。それに脳が外部記憶を持つようになったのは書記体系ができてからのことだし。文明の進行によってどの程度高次脳機能が使われなくなったのかという疑問もあります。

2009-02-09

『もっとも美しい対称性』

もっとも美しい対称性』(イアン・スチュアート)を読みました。バビロニアの昔から現代にいたるまでの数学の歴史を、群論とその数学的対称性を中心にして解説しています。ですから本書でもっとも大きな位置を占めるのは「群」ですし、数体系です。

目次
第1章 バビロンの書記
第2章 王族の名
第3章 ペルシャの詩人
第4章 ギャンブルをする学者
第5章 ずる賢いキツネ
第6章 失意の医師と病弱な天才
第7章 不運の革命家
第8章 平凡な技術者と超人的な教授
第9章 酔っぱらいの破壊者
第10章 軍人志望と病弱な本の虫
第11章 特許局の事務員
第12章 量子五人組
第13章 5次元男
第14章 政治記者
第15章 数学者たちの混乱
第16章 真と美を追い求める者たち


本書は色々な読み方で楽しめます。まずは全編通して数学者列伝としても読めますし、数体系の歴史とも読めます。前半はn次方程式の歴史としても読めます。後半は相対論と量子論の統合へ心血を注ぐ人たちのドラマとも読めます。どのような読み方をしても面白いのは、基本軸がものすごくしっかりとしているからでしょう。基本となるのは「真は美である」ということと「美は真であるか?」という問いです。本書の最後はこのように締めくくられています。「物理学においては、美は自動的に真を保証するわけではないが、その助けにはなる。/数学においては、美は真でなければならない。偽はすべて醜いのだから」

ただ、例外型リー群が本書のなかでもとりわけ重要な位置を占めているにもかかわらず、本書ではリー群の説明が足りないかな、と思いました。あとは現代の数学には僕の理解の及ばないところもあり、そのあたりは正直よくわかりませんでした。本書はほとんど数式を使わずに書かれているのですが、もう少し数式を用いてくれたほうがわかりやすいのにな、と思わされるところもあり。

2009-02-08

『密教的生活のすすめ』

密教的生活のすすめ (幻冬舎新書)』(正木晃)を読みました。僕自身不真面目な真言宗徒なので多少は密教的生活を送っているとは思いますが、参考までに。

著者なりの現代生活に役に立つ密教の実践、といったところが紹介されています。ですが著者は上座部仏教に対する尊敬の念(というかなんというか)が薄いのか、多少誤解もあるようで、そのあたりは割り引いて読んだ方がよいかな、という感じもしました。

面白かったのは後期密教の瞑想方法(エロい!)だとか、著者の実践しているマンダラ塗り絵。マンダラ塗り絵の説明にユングの説を持ってくるあたり胡散臭さ満点ですが、なにはともあれ面白そうです。皆さん、マンダラの塗り絵をして心身共に健康になりましょう! なんて言ってもだれも賛成できないでしょうね。

『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』

仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか (幻冬舎新書)』(山本ケイイチ)を読みました。話題になった本なので気になっていたのですが、あまり読もうとは考えていませんでした。そもそも「仕事ができる」と「筋トレをする」には因果関係がないことはわかりきっています。ましてや「筋トレをする」と「仕事ができる」においてをや。

ところが100円で売っていたのを見つけて読んでみたところ、結構面白い。タイトルに絡んだところでは、目標を設定してそれにむけて具体的な行動を続けることができる人は、仕事も筋トレもできる、というところでしょう。別にそんなことなら筋トレでなくともよいとは思います。僕はほとんど毎日座っていますが(いわゆる座禅に近いものです)、これだって立派に条件に当てはまると思いますし、外国語の練習だって同じようなものでしょう。だから「~はなぜ座禅をするのか」とか「~はなぜ外国語を練習するのか」でも本が書けます。

この本の面白いところは、筋トレの方法論そのものとその背景にあります。一朝一夕で結果の出せるトレーニングはないという当たり前なことを前面に出して、トレーニングと生活の質を結びつけているところです。何かのトレーニング(この本の場合は肉体のトレーニング)をすることは時間をコントロールしてある程度の制約を設け、目標を設定して行動を起こしその成果を目標へフィードバックさせるとともに行動を修正する、というモデルを設けることです。これは確かに生活の質を向上させるでしょう。

そしてもう一つの面白いところは、背景です。現状として著者は仕事ができる一部の人は筋トレをしていると見ていますし、そこに何らかの関係を見ています。関係自体はさほど不思議なものではありません。それよりもその関係が前提となった時に起こりうる経済的変化が気になります。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で述べたことですが、禁欲的・倫理的な行動が資本主義というシステムを機能させたように、筋トレもまた同じような精神構造によって社会的変化を起こしうるのではないか、というのが僕の勝手な感想です。

さて、筋トレしよう。

2009-02-04

『ローマはなぜ滅んだか』

ロ-マはなぜ滅んだか (講談社現代新書)』(弓削達)を読みました。こういう刺激的なタイトルにはついつい惹かれてしまいます。

ローマ帝国滅亡の原因については色々な憶測が巷を流れていますが、本書では当然何か一つのものに原因を求めたりはしません。経済史とローマ史を専門とする著者らしく、ローマのインフラやら経済体制やら、果ては文化や人間観まで解説をしています。

本書の一番面白かったところは、最後の部分で「中心」と「周辺」の交互作用について触れているところでした。ローマ帝国自体ギリシャ文明にとっての周辺ですし、それを飲み込んで新しい中心となったようです。また都市国家というものも偏在する中心として帝国内で機能し、その周辺を磁石のように引き寄せます。そしてさらに新しい周辺として飲み込みつつも飲み込みきれなかったゲルマン系民族との関係で、ついにローマが飲み込まれる側になったあたりの説明は、とても参考になりました。

また本書はローマ時代を通じて現代を見る視点から書かれていますので、そのままとは言えませんが、現在の経済的先進国とそれを追い上げる国の関係として読むことも出来ます。ただ個人的な望みとしては、宗教と文化の問題をもう少し取り上げてくれるともっとローマ時代に親しむことが出来るな、と感じました。僕にとっての謎は、ローマの国教がキリスト教になったことですので。

2009-02-03

『ザ・チョイス』

ザ・チョイス―複雑さに惑わされるな!』(エリヤフ・ゴールドラット)を読みました。著者のこれまでの著作同様、物語形式で経営理論やら問題解決方法やらを解説しています。

『ザ・ゴール』以来、惰性で筆者の全著作を読んでしまっているのですが、シリーズのまとめとでもいうような内容でした。「制約条件の理論」の応用方法が何かしらの領域に新しく適用されるわけでもなく、何が述べられているかはあまりはっきりしていません。

すごく乱暴に言えば、考え方自体の再考のようなもので、一種の人生哲学みたいなものです。仮説・検証と、結果の再現性・反論可能性などの自然科学的方法論をビジネスなどの社会科学的領域に応用させるためにはどうしたらよいか、ということが焦点ですが、それにもまして著者の人間観や人生観が矢面に出てきます。曰く人間は善良であるとか、相互に利益を得るような解決策があるとか、変化を嫌うとか、物事はシンプルであるとか。

さて、面白いかどうか。正直言ってあまり面白くはありませんでした。「カンバン」やら「カイゼン」やらに馴染みのある日本で仕事をしている人にとっては、当たり前な考え方なのではないかな、などと思ってしまうのです。僕も新入社員だった頃には「『なぜ?』を3回繰り返す」とか散々言われましたし。

2009-02-02

『キーボード配列QWERTYの謎』

キーボード配列QWERTYの謎』(安岡孝一、安岡素子)を読みました。

読者の側が勝手に期待する夾雑物を除けば、純粋に面白い本です。本書はキーボードの配列がどのようにして現在のかたちに変わってきたのかということを、技術史として描いています。合理的理由から配列が決定されたのではなく、試行錯誤とマーケットの都合で現在の配列になっているようですね。書かれている内容が興味深いだけではなく、古いタイプライターや特許申請用のスケッチなどの図版がたくさん載っていますので、そちらも大いに楽しめます。

僕も一時期は「QWERTY配列はタイプライターのアームがジャムすることを防ぐために、わざと打鍵しにくく設計された」という俗説を信じていましたが、どうやらそうではないことを聞き及びました。本書ではその経緯が詳しく書かれているので、キーボードに興味のある方は楽しく読めることでしょう。かといって過度な期待はするべきではありません。あくまで技術史であり、憶測は慎重に避けられているので、最初期のキーボード配列がQWERTYに近かった理由は技術者(発明者)の試行錯誤としてしか記されていません。従って、どうしてこういう配列になったのかという疑問に充分応えるものではありません。

僕はDVORAK配列に憧れたり親指シフトを使ってみようかと考えたりもしましたが、結局今のところはJIS配列とASCII配列を使うくらいです。emacsに慣れてしまったせいもありますが、愛用のキーボードはHappy Hacking Keybord Proをそのままの配列で使うのと、もう一つはRealforce 91 UBKの「Ctrl」を「CapsLock」と、「Esc」を「半角/全角」と入れ替えているものです。要は好みと慣れと言うことで。

2009-02-01

『「教えない」英語教育』

「教えない」英語教育 (中公新書ラクレ (176))』(市川力)を読みました。

タイトルはどう捉えていいものかわかりにくいですが、「早期英語教育」を中途半端にしても「子ども英語」しか身につかず、「大人英語」を身につけるためには「後期英語教育」を充実させようという話でした。小学校低学年くらいまでは遊びとして英語に触れることはよいとしても、本格的に英語を使って何らかのコミュニケーションをとるためには小学校高学年以降に焦点を置いて、それ以前の教育で下準備をしましょう、ということです。

著者のスタンスは、教育場面では英語"を"教えるのではなく、英語"で"教える、ということです。とは言っても、なにも教育用言語を英語にしようとかいうことではなく、知りたい・伝えたいという欲求を英語でかなえたり、他教科の教育内容も踏まえて英語で生徒たちとコミュニケーションをとるという方法です。そのためには母語の基礎が必要で、論理的思考力やら説明能力やらを培っておかなくてはならないとのこと。はやりの言葉で言うなら母語をレバレッジにして学ぶ、ということでしょうか。

かくいう僕の英語学習は小学校高学年からで、おきまりのように中学校の学習内容を先取りして学びました。中学生の頃には海外のゲームで遊んだり、高校生の頃には英語で読書したりしましたが、大学・大学院でようやく英語で意思疎通をする必要が生じたために道具として英語を練習するようになりました。ではそれで使えるようになったかというとかなり疑問ですが(おしゃべりは出来ないし、日常生活は不便です)、もっと早くから英語教育を受けたかったとは思いませんし、早期英語教育の効果には大いに疑問を持っています。所詮そんなものは遊びだろうという感想で、きちんと使えるようになるためにはいずれにせよ本人の多大な努力が必要ですし、学習する必然性もあったほうがよいでしょう。

僕の知り合いには英語に堪能な人が多く、それらの人たちの多くは日本語で長い教育期間を経てきた人たちですが、一部は英語圏やヨーロッパで教育を受けた人たちです。それらの人たちに共通するのは、どこで教育を受けようと、本人は決して自然に語学に堪能になったわけではないという事です。現在僕の子ども(1歳3ヶ月)が保育園に通っていますが、活動内容の報告を見ると「英語」というのがあるのですよね。一体何をしているのやら。

『黒死病』

ひそかに尊敬している人が読んでいたので、『黒死病―ペストの中世史 (INSIDE HISTORIES)』(ジョン・ケリー)を読みました。まるで小説のように読める本で、時間と場所を追ってどのようにペストがヨーロッパを席巻したかが描かれています。

内容の紹介などは割愛して、僕が興味深く思ったのは人口の変動や年齢構成の崩壊、労働力の減衰を通して、後の時代の経済的・科学的・工業的な進展の礎となった可能性がある、ということでした。

現在、経済的先進国(日本も含む)の年齢構成は明らかに生物学的には不均衡です。こうした時代にどのような歴史的展開があるのかは先行きが見えませんが、少なくとも歴史的な前例があることは頭に留めておくと有意義かも知れません。

また、宗教やら人種やら特定の病気やら、いわゆるスティグマの問題も示唆に富みます。どのように偏見が成立し、どのように社会不安を醸成し、どのような暴力的な噴出を見たかということは、14世紀ヨーロッパに限らず現代でも世界各地で起こっています。悲しいけれども人間が集団で生活する以上は「内部」と「外部」をわけないことにはアイデンティティの存続は難しいものです。それでも敢えて外部との接触を持とうとした時に何が出来るのか、考えさせられました。

内/外の区分って、大げさに考えなくともすごく自然に見られるのですよね。例えば「うちの会社」とか日常的に耳にしますし。

2009-01-29

『格差が遺伝する!』

格差が遺伝する!(宝島社新書)』(三浦展)を読みました。同じ筆者の『下流社会』は大いに売れた本ですが、その本を友人から借りて読んだところとても失望したので、本書ではそれを裏切るような記述を期待していました。

期待は外れました。

単なるアンケート調査の報告書みたいなもので、取り立てて素敵な分析があるわけではありません。それに筆者は「消費社会研究家、マーケティングアナリスト」という肩書きがあるようですが、僕には社会調査の基本的な修練を積んでいないように思えます。

アンケート調査の報告書に必要なのは、そのアンケートの母集団をどのように選定したのか、アンケート項目はどのように作成したのか、回収方法は、回答率は、など色々な要素がありますが、それらはまったく書かれていません。マクロミルのインターネット調査を使ったようですが、そもそもインターネット調査自体が、一般的な社会状況を反映する調査方法ではありませんし(これは知り合いの日経リサーチの社員さんもいっていました)、対象とした集団も「夫・子ども(小学校2~6年生の男女)と同居している28~47歳の既婚女性」ですし、対象地域は東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県です。これだけでいかに偏っているかはわかりますし、その調査が社会的格差を再生産する論拠となるかについては綿密な考証が必要です。

それに本書では回答者のパーセンテージはグラフ化されているのですが、各項目の回答者数は明らかにされていません。すべて2次元グラフにされてしまっているので、そのグラフは単に調査実施者の都合のよいように集計した可能性も捨てきれません。

以前『下流社会』を貸してくれた友人は筆者と出身校が同じなのですが、そのことをとても恥じていました。僕も同感です。既に教育社会学などの分野で類似の調査(SSM調査研究など)が経年的かつ大規模に行われていますが、それに付け加えるような知見は見られませんでしたし、理論的にもピエール・ブルデューの「文化資本」に代表されるようなものと比べると精緻さに欠けます。

新書とはいえ、残念本でした。

『頭がいい人、悪い人の<口ぐせ>』

頭がいい人、悪い人の<口ぐせ> (PHP新書)』(樋口裕一)をなんとなく読みました。

言葉遣いに気をつけようとは思いましたが、あまり楽しい本ではありませんでした。どうも筆者は頭の良さを説明能力に置きたがるようで、それ以外の頭の良さをあまり重視していないように思えてなりません。確かに本書に挙げられているような<口ぐせ>は頭が良さそうに(あるいは悪そうに)聞こえたりしますが(本当に良かったり悪かったりするのかも)、それ以外の頭の良さもあるだろうと思ってしまうのです。

例えば空間把握能力。他人に説明できなくともぱっと見て三次元的にイメージできる能力ははっきりと頭の良さとして認められるとは思いますが、そうした能力は言語活動とはあまり関係ありません。筆者の述べている頭の良さは、他人とコミュニケーションがうまくとれるという頭の良さでしかないのではないかな、と。

もちろん他人とコミュニケーションを円滑にとれることは現代人にとってとっても有用な能力でしょうけれども、僕の知っている非常に優秀なエンジニアは他人とうまくコミュニケーションがとれません。そうした色々な特性も考慮した上で頭の良さを判断しないことには、それこそ頭の悪い人になってしまいます。

2009-01-28

『社長になっていい人、ダメな人』

社長になっていい人、ダメな人』(丸山学)を読みました。筆者は会社設立を専門にしている行政書士さんだそうで。

この手の本は目次を読むだけで内容がわかるようにはなっているのですよね。内容には不満もなく満足もなく、ふんふん、なるほどと思うだけでした。多かれ少なかれどのような人にも欠点はありますし、欠点だらけでも社長としてうまくやっていく人もいます。ダメだと言われたって、僕はすでに「なんちゃって社長」ですし。

目次

第1章 社長になる前から選別は始まっている!?
 ◆起業前の言動に注意を払わない人
 ◆妙にポジティブシンキングな人
 ◆会社形態にも2種類あることを知らない人
 ◆資金調達の知識がない人(融資編)
 ◆自ら競争の渦中に飛び込んでいく人
 ◆一つの取引先に依存する人
第2章 こんな社長では利益は出ない!
 ◆「会社=投資物件」であるということを理解できていない人
 ◆ニーズが高い商品なら売れると思っている人
 ◆ベストセラー書籍に影響されすぎる人
 ◆他人のせいにする人
 ◆目先の売上しか考えられない人
 ◆商売に対して生真面目すぎる人
第3章 こんな社長が会社に危機を招く
 ◆契約書を作らない人、ろくに読まない人
 ◆人を信じすぎる人
 ◆財務が分かっているようで分かっていない人
 ◆自分の基準(経験)でしか物事を考えられない人
 ◆よい人材を採用できない人、育てられない人
第4章 事業を拡大できない社長
 ◆資金調達の知識がない人(出資編)
 ◆自分が目立ちたくて仕方ない人
 ◆儲かることに抵抗感がある人
 ◆未来への投資ができていない人
第5章 やっぱり社長になってはいけない人
 すぐに見栄を張ってしまう人
 1人勝ちが大好きな人
 上場が最終目的の人
 想像力のない人


目次を引用するだけでわかりますね。この本を読んで襟を正そうなどとは僕は思いません。まあ、これから独立起業する人の心構えみたいなものでしょうか。

2009-01-27

『すべてがうまくいく8割行動術』

すべてがうまくいく8割行動術 [ソフトバンク新書]』(米山公啓)を読みました。

要するにドーパミンとセロトニンの関係を良好に保ちましょうね、ということだと要約できそうです。昔から「腹八分目」といいますし。扇情的なタイトルだし記述もかなり読者をあおっていますが、異論は多々あることだと思います。

これは僕の実感ですが、経営的な視点から見たら不合理かも知れませんが、特別優秀なエンジニアは10割を求めることにこだわっていましたし、そのために費やす時間もそれなりにはありました。しかしエンジニア本人の満足度は最後の1割にかかっていたりするのですよね。モティベーションという視点から見たら果たして「それなりな」行動で満足できるものでしょうか。疑問です。

『世界一利益に直結する「ウラ」経営学』

世界一利益に直結する「ウラ」経営学』(日垣隆 岡本吏郎)を読みました。

僕が褒めるべき点は残念なことにあまりないです。筆者たちにとっては有意義な対談だったのかも知れませんが、読者である僕にとっては一体何の話をしているのやら、という感じで。インターネットで小売業をはじめようとか、一旗揚げてやろうとか、ソロで活動したいとか、そういう野望を抱いている人にはよいのかも知れませんが、僕にはそうした大げさな野望がないので。

ただ「人は変わりたくないものだ」という意見には大いに同意しました。僕も大胆に変わりたくありませんし、それでは会社の業績が飛躍的に伸びることはありませんから。

『組織戦略の考え方』

組織戦略の考え方―企業経営の健全性のために (ちくま新書)』(沼上幹)を読みました。

目次

第1部 組織の基本
 第1章 組織設計の基本は官僚制
 第2章 ボトルネックへの注目
 第3章 組織デザインは万能薬ではない
 第4章 欲求階層説の誤用
第2部 組織の疲労
 第5章 組織の中のフリーライダー
 第6章 決断不足
 第7章 トラの権力、キツネの権力
 第8章 奇妙な権力の生まれる瞬間
第3部 組織の腐り方
 第9章 組織腐敗のメカニズム
 第10章 組織腐敗の診断と処方

評論家然として「組織とは何か」というようなものを滔々と語るのではなく、経営学者である筆者が仮に経営者だとしたら、という仮定をもうけて、それではどうしたらよいかという視点から書かれていますので、組織経営をしている人間からすれば身につまされることは多いです。

『仮説力を鍛える』

仮説力を鍛える (ソフトバンク新書)』(八幡紕芦史)を読みました。

ザ・ゴール』以降盛んに目にするようになった形式の、小説仕立てにしたプロジェクト立案のお話です。こんなにうまくいくわけないだろう、と思いながら読みましたし、当然だろうと思うことも多々あり、取り立てて斬新な視点を得ることは出来ませんでした。まあ軽い読み物として。

『経済学的思考のセンス』

経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)』(大竹文雄 中公新書)を読みました。

目次

I イイ男は結婚しているのか?
II 賞金とプロゴルファーのやる気
III 年金未納は若者の逆襲である
IV 所得格差と再分配
エピローグ 所得が不平等なのは不幸なのか


「お金がない人を助けるにはどうしたらよいか」という素朴な疑問から入っていく経済学の話には引き込まれました。基本的にはインセンティブと意志決定の因果関係がメインで、それに付随して経済政策の話が展開されています。意志決定のところは格別に面白かったです。

2009-01-18

『細菌と人類』

細菌と人類―終わりなき攻防の歴史』(ウィリー・ハンセン、ジャン・フレネ)を読みました。取り立てて読みどころがあるわけでもないし、ドラマティックなわけでもないのですが、なぜか一気に読ませられる魅力を持っています。

本書で取り上げられている伝染病は以下の通りです。

・ペスト ・コレラ ・腸チフス、その他のサルモネラ症 ・細菌性赤痢 ・発疹チフス ・淋病 ・脳脊髄膜炎 ・ジフテリア ・百日咳 ・ブルセラ症(マルタ熱) ・結核 ・梅毒 ・破傷風 ・ボツリヌス症 ・炭疽病 ・ハンセン病

それぞれには医学者たちの真摯な取り組みやら、伝統的価値観からの罹患者の阻害、罹患者たちの治療への渇望、治世者たちの予防の望みなどが入り乱れているのでしょうが、通読して思うのは人間の交流が広く行われるにつれて必然的に世界的に感染症が広がること、特に戦争による人間の移動と、それにともなう環境の変化、貧困による不充分な衛生環境と飢餓により大流行していたのだな、という感慨です。

そもそも細菌への取り組みが活性化したのは、近代医学の進歩もさることながら、大規模な通商や人間の移動を経て様々な風土病が全世界化したことにも起因しているのでしょう。その証拠となるかどうかはわかりませんが、多くの伝染病は記録に残されている限りではかなり古いのにもかかわらず、有効な予防法や治療法が模索されるようになったのはせいぜい数百年のこと。いくら微視的な観察術や病理学の進展が必要といえども、この時間差は解せません。

現時点で考えれば、ボーダレスで物資やら人間やらが流動しているような錯覚を覚えますが、やはり発病の地域差を見れば一目瞭然で、富める地域と貧しい地域では明らかに死亡率や発病率が違います。やるせないです。

2009-01-17

『ビジネスに「戦略」なんていらない』

ビジネスに「戦略」なんていらない (新書y)』(平川克美)を読みました。とても充実した、ビジネスについて真摯に考えさせられる本でした。ベストセラーにはなりにくい本でしょうけれども、ベストセラーになっているビジネス本よりもはるかに読み応えがあります。

簡単に要約できないし、感想を書きにくい本ですが、いわゆるビジネス本とは一線を画しています。ハウツーものではないし、いわゆる銀の矢は少しも顔を出しません。より思弁的に、抽象的に、著者の体験からビジネスについて考えたところがあらわされている本です。

僕は読んでよかったと思いました。ただし「戦略なんていらない」とは思いません。戦略不要ということではないと著者も書いていますが、僕はもっと違う意味で戦略が必要だと考えています。つまり競争相手を出し抜いて勝ち負けを決するようなものがビジネスの性格なのではなく、非ゼロサム反復ゲームがビジネスの性格なのではないかな、と個人的には考えています。もっとも経営学で言うところの「企業戦略」と日常言われる「企業戦略」は意味が違って、むしろ「戦術」という意味で使われていますから、混乱はしますがね。

2009-01-07

『香水』

香水―ある人殺しの物語』(パトリック・ジュースキント)を読みました。某所の100冊文庫企画にエントリされている作品で、実に味わい深い小説でした。

なんといっても匂いが主要な要素である点、類書は多くありません。僕の好きな『匂いたつ官能の都』(ラディカ・ジャ)も匂いをめぐる物語だしフランス(特にパリ)を舞台としていますが、それに比べるとこちらのほうが奇譚ともいうべきお話で、まことにもって胡散臭いし荒唐無稽。それでいて皮肉でユーモラスで陰惨で官能的。

そもそも人間の嗅覚というやつは不可思議なもので、他の哺乳類と比べると格段に退化していますし、嗅覚疲労も起こります。発生学的には最も古い器官でありながら、人間ではそれほど機能していないという不思議。それでも接触による感覚受容という変わった方法だから、距離が離れていようが接触するという、なにやら妖しい魅力を放っています。

だからこそ、嗅覚を扱った本作は魅力的なのかも知れません。妖しいし、根源的な欲求や不安に揺さぶりをかけられるし。しかも根源的な不安の最たるものは、自分自身が何者でもない(あるいは何者でもあり得る)という事なのかな。

2009-01-06

すぐき

先日実家に帰ったら、「かの有名な『すぐき』なるものを食べるか?」と聞かれました。父の友人が毎年京都から漬物を贈ってくれるのですが、例年は千枚漬。今年は千枚漬に加えて「すぐき」を贈ってくださったそうです。

無知にして僕は「すぐき」なるものを知りませんでしたが、貰えるものは何でも貰うことにしているので、ありがたくいただきました。果たして「すぐき」は如何なるものだったのか。蕪のような大根のような野菜が酸っぱい漬物になっていました。この漬物が「すぐき」なのか、この野菜が「すぐき」なのかわかりませんでしたが、大変に美味しい。

「かの有名な」といわれて知らないのは不甲斐ないことなので、調べてみました(Wikipediaは人の知的能力を減衰させますね)。「すぐき」は乳酸発酵漬物の名前。漬ける野菜は「すぐきな」とか「すぐきかぶら」という蕪の変種で、日本で唯一の調味をしない自然漬物だそうで。

「かの有名な」京野菜というと辛味大根が思い出されます。かつては畑一枚でしか栽培していなかったとか、現在は二軒の農家しか栽培していないとか、まことしやかに囁かれます。それでいて、市井の蕎麦屋さんでは辛味大根蕎麦なるメニューを頻繁に見ます。ある時ある蕎麦屋さんで、意を決して注文してみました。

単なる辛い大根でした。汁気も多かったし。

2009-01-05

「メルヴィ&カシム」シリーズ

1月3日と4日に配偶者と子どもがいなかったことをいいことに、ライトノベル6冊一気読みを敢行しました。

選んだのは「メルヴィ&カシム」シリーズ(冴木忍)です。17年前にシリーズの1作目を読んで、ずいぶん面白かったという感想だけを持っていたのですが、その後タイトルも作者も忘れてしまい、つい先日、人から教えていただいたのです。

よくある剣と魔法のファンタジーで、まさにライトですね。軽く楽しみましたが、その割には感情描写が細やかで、読んでいて悲しくなります。特に「魔法」が万能の"魔法"ではないあたりにはしんみりさせられます。現実的な視線から読むと、「充分に進歩したテクノロジーは魔法と区別がつかない」という言葉が示すように、科学技術が成熟したとしても不可能なものは不可能だし、人間の営みには不条理なものがつきまとう、という感じです。

それにしても、シリーズが完結していないのが残念です。はたして続きは書かれるのでしょうか。まあ続きを想像する楽しみというのもありますが。

『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈1〉』『ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈2〉』(ポール・オースター編)を読みました。

文庫2冊だったので、年またぎで読みましたが、これは非常に面白い本でした。コンセプトはアメリカに住む人達による「本当の話」を集めること。NPRで編者が呼びかけ、集まったものを選び、読み上げたそうですが、まさに事実は小説よりも奇なり。単に変わった話や不思議な話というばかりではなく、変哲のない風景から味わい深い心象が垣間見えたりします。

編者によって選ばれた話は179編とのこと(僕は数えていませんが)。大雑把に分類されてはいますが、内容は多岐にわたっています。アメリカという捉えどころのない国を解説する本は多いですが、それらのほとんどは政治面・経済面・宗教面などのどれかの側面に限定されることが多いです。しかし本書はまるで柳田國男の民俗学のように、アメリカ国民の「生の声」を多数集めることによって、アメリカという国を直接描くことではなく、間接的にあぶり出しています。

極めて短い短編の連続なので、読んでいるうちに、物語の多さに溺れてしまいそうな感覚がありました。多彩な物語はすべて現実の物語で、現在僕の周りにいる人たちもそれぞれが持っている物語だと思うと尚更です。誰かの言葉に、人は人生のうちに必ず一冊の小説を書くことが出来る、というものがありましたが、それを短編にして実現させてしまったような本でした。

少しだけ難点をいえば、当世の名訳者たちによる訳文がきれいすぎます。編者が冒頭で書いているのですが、収められた短編は決して文学的な文章とは言い難いとのことでした。ところが日本語訳は、なかなか悪文に読めないのです。ポール・オースターの基準から見たら文学的とは言い難いのかも知れませんが、僕の基準からするとこの訳文は充分に文学的でした。日本版の「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」をしたら、どんな文章が集まるかを想像すると少し面白いです(小川洋子さんや古川日出男さんがやったそうですが)。