2007-06-24

女王君臨

昨日の朝06:00頃、自宅のベランダで煙草をすっていたとき、ささやかな感動をしたので報告したい。

諸賢がご存知のように、蟻は「女王アリ」「働きアリ」「雄アリ」などの役割分担を持つ。女王アリは有性卵と無精卵を生みわけ、有性卵は働きアリになるか将来の女王アリになり、無精卵は雄アリになる。雄アリと将来の女王アリは空中交尾し、女王アリは地面に降りたち、羽を落として最初の共同体を作り始める一方、雄アリは力尽きて死ぬ。

この女王アリが羽を落とす瞬間を、僕は目撃した。はじめはなにやらもだえ苦しんでいる虫がいるな、というくらいな気分で煙草の煙を吹き付けてみたりして眺めていた。しかし良く見るとアリ種の虫で、詳しくはないがおそらくクロオオアリである。羽のある蟻は最近見ていなかったので、じっと観察したところ、蟻は羽を落として元気に歩き回りはじめた。その後10分くらいは見つづけたが、僕の好奇心はとりあえず満足されたので観察を終えた。

長い田舎生活で見たことのなかったものを、東京23区内にあるコンクリート造マンションのベランダで見られようとは思わなかった。それにしても女王様は、君臨なさる場所を間違えたのではないかと心配である。ほぼ24時間たった現在、見える範囲では営巣された様子はない。

2007-06-19

ラブレターの配達ではない

歌舞伎を観に行った。
演物は「恋飛脚大和往来」、近松の代表的な心中物。

ちなみに、同居人にこれをどう読むか聞いたところ、
「ラブレターのメッセンジャーが奈良方面を行き交う話」
と答えた。慧眼である。

歌舞伎を言葉で語るには
社会現象を記述するのと同じような努力と技術を要するが、
ほんの少しだけ愚かさを覚悟して。
一言でいうと、悪くなかった。

封印切の後半にいくほど、忠兵衛(染五郎)の芸に感心した。
井筒屋の2階から降りてきて封を切るまでなど、
実に鬼気迫り、形よく、素晴らしかった。

よく上方和事というが、その風は僕には余り感じられなかった。
あまり和らかではない部分がより光って見えたのは、
僕が若いせいかもしれない。

新口村では、色も形も美しく、
それだけでも十分観てよかったと思った。
梅川と孫右衛門のやりとりに複雑な心情が映し出されて、なおよい。
よくない例えだとおもうが、二人のやりとりには、
まるでラヴェルのボレロのような動きを感じた。
(後半へ向かっての積み上げかたとか、緩急のつけかたとか)

まあ、楽しかったということです。
浄瑠璃だともっと楽しくなってしまうかもしれないと、
ちょっぴり思ったのはさておき。

2007-06-08

怪我の功名

今朝、配偶者に気づかれないようにコーヒーをいれた。香りが立たないように淋しいインスタントコーヒーだ。

パンを焼く。バターをたっぷり塗ったもの1枚、煎った黒胡麻とチーズをのせたもの1枚。ここで問題が発生した。

まだ寝ぼけていたのか、黒胡麻をコーヒーに入れてしまった。「Mr.Watson, come here, I want you!」と叫ぶわけもなく、取り出すのも面倒なので、コーヒーは黒胡麻が入ったまま飲んだ。これが思ったよりまずくはない。

是非おいしくないコーヒーを飲まなければならない状況にある人がいたら、だまされたと思って試してほしい。だまされたと思いますから。

2007-06-04

覚悟のほど

数学者のジェロラモ・カルダーノは1576年9月21日に自分が死ぬと予言して、その日にどうも死にそうに無いので自殺したと伝えられている。

宗教団体「一元ノ宮」の教祖元木勝一は、1974年6月13日午前8時に大地震が来ると予言し、午前8時30分になっても地震が起こらなかったので割腹自殺を図った(未遂)らしい。

前者は天災を人災にするようなあざとさも感じるが、予言や占いをするものは皆これくらいの覚悟でしてほしいものだ。そもそも古来より「怨」とか「咒」とかは未来の出来事に対する約束を端に発しているものが多い。つまり軽々しく約束をするなんてもってのほかだということか。

さて僕は今日、配偶者が明日の仕事から帰ってくる前に「かぼちゃを煮ておく」「きゅうりを麦麹味噌に漬けておく」「ご飯を帰宅時間にあわせて炊いておく」と約束をした。もしも僕が明日自殺をしたら、以上のどれかが破られたのだと思ってくれてもかまわない。

2007-06-01

エルリックはどこへ行った?

マイケル・ムアコック著の『メルニボネの皇子』井辻訳をついつい105円で買ってしまった(実家に行けば古い訳のものが多分あるはずなのに)。読みかえしてみると、かつての安田訳よりもずっとくだけた感じになっている。

それにしても読後の雰囲気がかつて読んだものとすごく違うのは、訳者の違いもあるだろう。しかし旧版エルリック・サーガシリーズでも『メルニボネの皇子』以外は井辻訳だったから、それほどとは思わない。というかむしろ、新訳のほうがずっと良い。ということは読んだ僕の想像力が経年劣化あるいは変化したということだろうか(中学生の頃の感想など、記憶の彼方にあるというのに)。それとも天野喜孝画伯による挿絵がないことだろうか。

中学生のころに愛したメルニボネの皇子は、もうここにはいない。もちろん僕も中学生では無い。喜ぶべきことだろう、きっと。

それにしても、エルリック・サーガが映画化されるかもしれないという話は一向に進んでいないように見えるが、映画化されたり復刊されたりするほどの人気を持っているとは、かなりマイナな作品群だとばかり思っていた自分を恥じている。しかし僕にとってのエルリックはあくまで天野画伯とセットなので、おそらく映画には興味を惹かれないだろう。天野画伯原画によるアニメ映画とかだったら、万難を排して見る。