2009-05-28

独特な文体の作家が翻訳すると

いま『カメレオンのための音楽 (ハヤカワepi文庫)』(トルーマン・カポーティ)を読んでいるのですが、翻訳は野坂昭如さんなのです。

カポーティ自体、独特な文体だと思っているのですが、それに輪をかけて野坂さんも独特な文体。まあ野坂さんは作品によって大きく変えてはいますが。

しかし読んでみると、これはカポーティらしいというよりも野坂節。はて、カポーティが生涯をかけて追求した小説技法は、この翻訳文を読む限りでは、題材や内容はともかく言語表現方法としては疑問符がついているように僕は感じました。

とはいうものの、野坂さんの文体は、僕は好きなのですよ。

2009-05-27

『アインシュタインの夢』

アインシュタインの夢 (ハヤカワepi文庫)』(アラン・ライトマン)を読みました。

本書では、奇跡の年と呼ばれる1905年(の特殊相対性理論を発表する前)に、アインシュタインが見たかも知れない30の夢を、短編小説の連続のように綴っています。夢ものなので多少幻想小説的ですが、本書の憎いところは夢の設定がすべて時間に関連したものというところ。一定普遍の時間と空間というニュートン的世界からはみ出して、時間が様々なかたちをとっている世界が夢の舞台となっています。

人や場所によって時間の流れ方が違う世界、相対的速度によって時間が変わる世界、時間が延びたり縮んだり、時間が目に見えたり、未来が決まっていたり、時間が逆行していたり、円環になっていたり、エントロピーが減少したり。

夢で時間の流れ方が違うのはありきたりなことですが、様々なかたちをとっているところが魅力でしょう。僕は読み始めは戸惑いましたが、だんだん引き込まれていきました。夢の空間的舞台は19世紀初頭のスイスを基にしていて、現代の目から見たら幻想的な味わいはいや増します。ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』みたいな味わいだな、と少し思いましたが、物理学的なエッセンスが大量に加えられているので、不思議不思議と思うばかりではなく少し納得もしてしまいます。ちなみに著者は物理学者・天文学者だそうで。

2009-05-19

キス・接吻・くちづけ

安斎育郎さんの『人はなぜ騙されるのか―非科学を科学する』を読み終えたのですが、本の趣旨とは全く関係なく大変興味深い知識を得ました。

「弓状筋肉の収縮状態における構造的並列」

これが、ある医学研究者によるキスの定義だそうです。

2009-05-18

知識の詰め込みについて

雑談です。

ある日、予定よりも早く仕事先に着いたので、駅のそばにあるドーナツ屋に入ってコーヒーを飲み、煙草を吸いながら本を読んでいました。そこでゆったりと楽しんでいると、隣のテーブルに座った男女が怪しげな話をしているのが聞こえてきました。盗み聞きするつもりはありませんでしたが、声の大きな二人の会話は店中に聞こえていましたし、その話し声で集中できないために僕は読書を諦めたのです。

どう見ても成人している女性(煙草を吸っていました)が、何のためだかわかりませんが英語の宿題があったようで、それを男性にやってもらっていました。男性はこんなに簡単なら一日もあれば楽勝、みたいなことをいっています。ところがその男性、"Dose you ~"とか、"You wants ~" とか問題を解きながらいうのですよ。"Do you wants apple ?"(その男性は"wants"が妙に好きなようです)の日本語訳を「あなたはリンゴを食べることができますか」といったり。男性は、こんなこと絶対日常会話ではいわないよな、といいます。僕も同感。「あなたのお母さんはピアノを弾きますか」などと聞くのは、かなり限られたシチュエーションだと思います。

他にも、相田みつをさんは知的障害者だとか、彼が四肢の麻痺のために口で書いていたとか、実に楽しげな話題です。山下清さんや星野富弘さんと混同しているのかな。

無知をあげつらうつもりはそれほどありません。別に外国語ができなくとも、日本の現状では生活に困ることは滅多にありません。しかし僕はスノッブな性向がありますので、多少は思うところもあります。まず外国語の初期の練習段階では、決まり事をひたすら繰り返して身につけなければ、おかしな口調になってしまいます。動詞や助動詞の変化は、論理的に何かが間違っているというわけではなく、単にその言葉が話されてきたこれまでの歴史ではそういわない、というだけの話です。それを無視するのは言葉とそれを使ってきた人に対して失礼というものでしょうし、そうしたところを間違えたまま話をすると聞き取りにくいばかりではなく、知性を疑われてしまったりします。たぶん通じますけどね。

次に日常会話でよく使う言い回しを練習しない理由ですが、基本となる型を練習するとなると、しゃちほこばった言葉になってしまうというのは確かにあります。それでも、例えば野球の基礎を練習するために素振りをしたりキャッチボールをしたりする理由と同じように、試合での動作を要素に分解して練習した方が効率がよいということを考えておくべきでしょう。僕もかつて同じ不満を持っていましたが、長じるにつれて必要なことと割り切るようになりました。かといって「それは本ですか?」「いいえ、これはリンゴです」というような例文はいまだに許容できませんが(指示代名詞の練習とわかってはいますが、本とリンゴを間違える人がいるのでしょうか)。

従兄弟が僕の出身高校に入学して、どうやら数学で出遅れてしまったとのことです。従兄弟はこれから色々なことを頭に詰め込むわけですが、ものを知ったからといって順風満帆な生活が待っているわけではありません。それでも僕はものを知らないよりは知ったほうが良かろうと思っているし、数学の初歩的な部分は理解してすすめるよりも身体感覚として身につけるようなものだろうと思っているので、ひとまず詰め込めるものは詰め込んでおけば良かろうと忠告しました。

僕の考えは価値判断でしかないので、間違っているかも知れませんし、人によっては通じないでしょう。しかし自分の子供を今後育てていく上でも同じような方針をとろうと思っています。