2007-12-30

社長がメッセージを発信する効果

ITバブルと言われたころの企業のウェブサイトには、まず最初に「ごあいさつ」として企業トップからの害はないが薬にもならない公式見解が載せられていた(今でもそうしているところが多いが、決して貶しているわけではない。公式見解も場合によっては役に立つ。実際僕は役に立てている)。公式見解を読んでなるほどすばらしい会社だなどと思う人もいるが、大して関心がないほうが多いだろう。

以前僕が勤務していた会社でも、トップからのメッセージは時々流された。それは社内向けの場合、あまり人には読まれなかったようである(少なくとも僕の周りでは、という条件つきなので、これを一般化しようとは思わない)。社外向けの場合いろいろな受け止め方があるが、投資家やリサーチャーではないエンドユーザにとってはそれほど重要な情報ではない場合が多い。

昨今の会社では、社長が積極的に情報発信している例もある。これの効果にも経営という面から見たらよしあしはある。まず企業理念がトップダウン式にコンセンサスになってしまう。トップダウン式に形成された企業理念は、末端の社員にとっては精神的負担となることもあれば、モティベーション向上に役立つこともある。たとえばカリスマ的な経営者のいる会社では、「この人についていこう」という考え方も「こんなメッセージはうざい」という考え方もあるはずだ。

次に、企業が属人的要素に依存してしまう。たとえばソフトバンクの社長が交代したらどのような企業になるかあまり想像できないのに対して、トヨタの社長が交代してもどのような企業になるかはある程度は想像しやすい。50年生きる組織を作ろうとしたら、ひょっとしたら後者のほうが組織として強いかもしれない(まだ良くわからないが)。極端な例を言うとライブドアのようなこともあるし。ただし当然のことながら、クセが強いかどうかはともかく、社長が自分の言葉で情報発信できないような企業は強くはないだろうし、ディスクロージャーという流れから見ても情報発信はある程度は必要である。

とりあえず、企業トップが自分の言葉で情報発信するのは良いことだとは思うけど、何事も中庸を選びがちな僕の感覚からすると、あまり不用意にブログとかを書かないほうが良いと思うような例もある。ほどほどに。

2007-12-27

「寂しさ再生産」再び


12月24日近辺のmixi.jpと2ch.netのページビューを比較してみた。24日のページビューは決して落ち込んでいないどころか、むしろ増えている。2ch.netはいつもどおりだ。寂しい人間が多いのだろうか、それともネット上での誕生祭というスタイルが生まれつつあるのだろうか。かつていわれた(そしてあまりいわれなくなった)「寂しさ再生産」について考えた。

携帯電話のコミュニケーションは、用を足せればそれでよいというものではない。もちろんこれは携帯電話に限った話ではなく、ほとんどすべてのコミュニケーションが実利一辺倒ではない。ビジネスメールでさえ、相手のことを持ち上げたり簡単な挨拶をしたりする。歴史的に見れば中世の手紙など、風流の極致だ。

しかし携帯電話やIM、SNSに代表される今日的なコミュニケーションツールが特徴的なかたちをとっているのは、即時性(レスポンスの速さ)と限られた人との短く単純な情報を頻繁にやり取りすることである。それが音声情報であれ文字情報であれ、話は同じことだ。

対面的なコミュニケーションはそうした情報のやり取りの延長線上にもある。自分の人間関係を広めようという人にとっても、またごく限られた人との密接なコミュニケーションをとろうという人にとっても、それはそれで使い道のあるものだろう。そして情報のやり取りが緊密になるほど、そのノード間の情報はより流れやすくなる。まるで細い水の流れがあるものは消え、あるものは川になるように。あるいは神経細胞がシナプスを介して接合し、使う神経回路を残して使わない神経回路を除くことによってシグナルが伝わりやすくなるように。

この結果、寂しいがゆえにコミュニケーションをとったところ、より密接なコミュニケーションによって充足されることなくさらにコミュニケーションをとりたくなる。言い方をかえると「つながり」を維持したくなる。僕にとってのタバコのようなものだ。

こうしたツールを使うと、「選択的な友人関係」が見出せるということが報告されている。コミュニケーションは広くも狭くも、浅くも深くも、接触可能な人が増大することにより、友人関係を重要度に応じてランク付けしたり状況に応じて使い分けることができる。こうしたことがいわゆる「寂しさ再生産」の話だ。

今後のSNSでは仮想社会・実社会との連携がキーポイントになる(と僕は予想している)。実際アメリカでは「クリスマスソーシャルネットワーキング」ということさえ言われた。アメリカの流れがそのまま世界の流れになるというのは腹立たしいが、おそらく日本ではアメリカの流れを追従するだろう。ショッピングはエンタテイメントである、とは楽天のキャッチフレーズだが、贔屓目に見ても楽天のショッピングはエンタテイメント性とはまだまだ距離がある。その距離をSNSなどのコミュニケーションツールを使って埋めることになるだろう、というのが僕の予想だ。

ショッピングに限った話ではない。12月24日にmixi.jpへのアクセスが減らなかったところを見ると、寂しさ(あるいは暇やコミュニケーション欲求)を解消するツールとしてのmixi.jpは健在であると、とりあえずいえるかもしれない。そのコミュニケーション欲求を仮想社会や実社会でどのように満たしていくか、SNS業界は課題としても良いだろう。

2007-12-24

格差社会を擁護してみる

「格差社会」が悪者扱いされているようだから、少し格差を擁護してみたい。明日になったら格差を糾弾するかもしれないが、これは気まぐれのようなものだ。

格差は悪いものではない。少なくとも平等に貧しいよりは。また、格差が生じる原因としては根本的には技術の進歩があると思われる。例えば生産性の向上による余剰生産物があってこそ富の集中がうまれた。それを指標にする限りは、正当に生じた格差は歓迎すべきものでさえある。昨今の風潮を見る限りでは、正当に生じていない格差は縮小しているとさえ見える。

生産手法が閉ざされている場合には残念だったと思ってもらうしかないが、富は生産できる。他人にとって有益であると考えられるもの(例えば生産物やサービス)は何らかの働きによって生み出すことができる。現在廃村になってしまったようなところでも、何らかの技術革新や創意工夫があれば、ひょっとしたらとてつもない富を生み出すかもしれない。

より多くの富を生産できるのは、ひとつの能力である。僕はどれだけがんばってもビル・ゲイツには実業の面で及ばないが、少なくとも日本語の処理能力に関しては彼よりも勝っているし、ひょっとしたら僕は彼より足が速いかもしれない。能力以外の要素も含んではいるものの、富を生み出すのは基本的には能力である。ほとんどすべての日本人はオリンピックの短距離走者に100メートル競走では敵わないし、何度挑戦しても結果は同じだろう。同じようにほとんどすべての労働者(マルクス風な階級の話ではない)は、世界的大富豪には富を生産する能力では敵わないだろう。

本当に大富豪たちはそれに見合うだけの富を生産しているのだろうか、という疑問にはYesとしか答えられない。資本主義社会では基本的には他人がより望むものに多くの価値が与えられるし、その結果を見れば一目瞭然と多くの富を生産したひとがわかる。ある社長が新入社員の100倍の給料を取っていたとしても(僕が取締役をしている会社はせいぜい5倍でしかないが)、100人の新入社員よりも多くの仕事をしあげていることくらい想像に難くない。他にも例えば放送や広告などの大企業では社員の平均給与が高いが、市場が彼らの生み出すものを求めるのだから、結果としてそうなっていようが外から文句を言えることではない。文句を言うなら全員がTVを消して広告を見なければ良いし、快適な生活を送るための家電を使わず、電気・ガス・水道を極力節約して近隣の知り合いから食物を分けてもらえばよいのだ(規制された市場であることはさておき)。

スタートラインが違う、という批判も成り立つ。確かに現在の日本には機会の不平等があるが、本人の働きあるいは文化資本を持っている人間による資産継承の多寡により、多少はカバーされる。少なくとも完全に貧しい状態よりはまだましだ(例えばエチオピア、北朝鮮、バングラデシュなどと比較すればまし、ということ)。

それに格差社会といいながら、携帯電話を持ち、衣食足りている人が多数を占めている状態がすでに、国際的な格差から見れば贅沢な話だ。将来の不安など、今日明日の不安に比べれば悠長な話である。

決して僕が「勝ち組」なわけではないので、あしからず。

2007-12-19

名作はあとで読む

喫煙が体にいいといいたいわけではない。でも毎日犯されている政治的、社会的な非道に比べれば、喫煙なんてたいした問題ではない

ポール・オースターの何かに書いてあったのだということはぼんやりと覚えているのだけど、何にあったか思い出せない。これを皮切りにあれこれ思い出そうとすると、かつて名作といわれる小説やら哲学書やらを大量に読んでいながら、それらを思い出せることが少ないことに愕然とした。

高校生のときに太宰やら安吾やらの文庫本を端から全部読んだ。漱石全集を1巻から順番に全部読んだ。そのころは岩波文庫の赤と青はとにかく読んだし、新潮文庫の古いものも1冊10円の古本屋で山のように入手しては読んだ。それでいながら何から何まで思い出せない。

思うにそれらの背伸びをした読書は、僕にとっての通過儀礼でしかなかったのではないか。今から思うともったいない。よく「若いうちにたくさんの名作に触れていたほうが良い」と言われるけれど、今はそう思わない。読むべき価値のある本は、読むべき価値のあるときに読んだほうが良いと思うのだ。つまり未熟な頭と心をもって偉大な作品にあたっても、吸収できるものが少なすぎるのではないか、消化不良をおこすのではないか、と思う。

もちろん何らかの形で偉大な作品に接することは、きちんとした形にならなくとも大切なことだと少しは思う。でも僕のように読み殴ってしまうと、文字面をなぞるだけでそこに秘められている叡智を汲み取れない。せめて僕程度の凡庸な頭の持ち主は、10代のうちは少数の名作をじっくりと読むほうが良いのではないか。もっと頭も心もこなれてきてから名作に触れたほうが味わいが深いはずだ。もちろん10代のころのほうが時間が有り余っているということはあるにしても。

と思いながら、いまだに読み殴っている。さすがに小説の斜め読みはしなくなったけれど。

2008-02-15追記
ポール・オースターの言葉が気になったので、きちんと読んでみた。"Three Films: Smoke/Blue in the Face/Lulu on the Bridge" に書いてあった。以下、引用
I'm not saying that smoking is good for you, but compared to the political and social and ecological outrages committed every day, tabacco is a minor issue. People smoke. That's a fact. People smoke, and they enjoy it, even if it isn't good for them.

2007-12-18

バタラ氏退任

ミクシィ、衛藤バタラCTOが12月で退任という記事にショックを受けるひとはどれくらいいるのだろうか。210人いる会社で技術者が何人いるか不明だが(30人程度と聞いている)、それなりな開発体制を取っていることだろう。その会社で

開発部の組織も大きくなり、一技術者として技術をゼロから追求し、新たなサービスを生み出すことに挑戦したいとの本人の意向を汲んでこの度の退任に至った
というから、本人の意向には敬意を覚える。すでに確立された地位を放り投げる様、見事だ。

技術者としては尊敬に値する行動だが、経営サイドから見たら(僕はどういうわけだか両方の気持ちを想像してしまう)由々しき問題なのではないか。これまでのCTO抜きで開発の方向性や事業展開をすることの難しさは、なんとなく大変そうだな、という感想しかもてない。内実を知らないから無責任に書けないが、今後のバタラ氏の方向はどうなるだろうと想像すると、1) 別会社に移る 2) 事業を起こす くらいしか考えられない。引き抜き競争は起こるだろうか。

2007-12-17

ブログに派閥を

CNET Japanのブログには(あるいはブログには)派閥を導入したほうが良いというポストを読んだ。

CNET Japanブログもそういう派閥を作った方がいい時かもしれない。読者ブログは、150ほどあると今日のアワード表彰式で知ったのだが、とても覚えきれる数ではなく、コミュニティとしての一体感を持ちにくい。

もしくは、外部ブログに書いてもいいのだが、その時にも何かのブログネットワークを作って共同でRSSを購読できるような仕組みを提供できれば、読者獲得や、相乗効果を持つブログとして書いている側の楽しみ、読み手としての面白みが味わいやすくなりそうだ。

いかにも時流に乗った「派閥」という言葉を使うところを除けば、主張にはおおむね納得できるし、賛成もできる。確かに共同体は適切な大きさになっていたほうが良い。

情報を利用する人にとって、情報には濃度や重み付けやがあったほうが楽だし、類似情報への距離がわかると楽しそうだ。また情報を発信するひとにとって、自身がカテゴライズされていたほうが密接なコミュニケーションが図れるだろう。それがたとえオープン型SNSに近いものだとしても、ブログがSNSと同じような要求に応えてはいけない法はない。今後のSNSは外部に対してもっと開かれていくという予想を僕はしているが、それと似たことだと思う。

ただし、情報のカスケード現象が起こるのではないかと心配する。例えばslashdotedという言葉も一部にあるように、某所で話題になった情報にアクセスが集中する。slashdot.orgなどは一般の話題に上らないが、ほかにも「はてブ衆愚論」などもある。それまでは利用者にとって有益かつ刺激的だったものも、利用人数が増えることによって有益ではなく凡庸になってしまう、というようなものだ。ほかにも「晒し」「祭り」などもある。アクセスの集中という意味だけではなく、情報の重み付けにも雪崩式に偏りが生じるのではないかという心配がある。とりあえず現時点で、主として被リンク数に基づいた検索エンジンでは、誤った知識であろうともページランクが上になってしまうことが観察される。だから「簡単にぐぐるな」「ぐぐるな危険」という警告もそれなりに説得力を持つのだが、それと同様のことがブログに派閥が生じたときに起こるのではないか。もっともすでにグーグルゾン化されつつある世界では心配するまでもないことかもしれないが。

また、いわゆる派閥の人間関係は現状のブログのような人間関係とは異なり、認知・感情・行動の総合的判断によって選択的注意がはらわれる。またブログを書く動機として自己開示も一面ではあると思うが、その自己開示は派閥内でのポジションによって抑圧される可能性もある。それに派閥としてカテゴライズされた情報はそのカテゴリーの枠を超えて利用されにくくなってしまうのではないかとも思う。

僕の結論として、あまり効率化せず、ある程度は人力による情報の取捨選択があったほうが、健全なのではないかと。すでにトラックバックやコメントが実装されているうえ、オフ会も開催されていることだし。もちろんCNET Japanがどのような運営をしようとも、僕にはさほどの関係はない

2007-12-11

ブートキャンプ

巷で話題となっているらしい「Basic Training Bootcamp(ビリーズブートキャンプ)」を人から借りた。

僕は基本的にテンションが低いが、貸してくれた人いわく「これを朝に見てから出社したら、いきなりテンション高く仕事できるかも知れませんよ」とのことだ。早速興味本位で見た。

ここをどこだと思っているんだ(ここはブートキャンプだ)!
もっと声を出して(聞こえないぞ)!
苦しいが結果は必ずついてくる!
笑顔を忘れずに!
カウント!
声を出して!
(おぼろげな記憶で意訳)


15分くらい見ただけで(運動もしないで)疲れたので見るのをやめた。僕には向いていないが、「フルメタル・ジャケット」のハートマン軍曹ファンなので、引き続き見ようと思う(運動しようとはなかなか思えない)。ちなみに僕の体脂肪率は10%くらいだ。

2007-12-09

合法的殺人

どうも僕は、錦の御旗が振られたあとの殺人行為に対して鈍感になっているようだ。僕はテレビを見ないし、新聞も読まないので、巷にあふれる殺人情報はめったに耳にしない。おおよそ世間の耳目を集める情報は嘆かわしいことばかりなので(レッサーパンダが立ったとか、そんなニュースばかりでも僕はいいと思う)、自分で耳を閉ざしているようなものだ。誰それが誰それを殺したとか、僕の知らない人であれば僕には関係ないし、僕の知っている人が自殺をしたけれどもニュースにはならなかった。

交通事故で不幸にも亡くなったかたや自ら命を絶ってしまったかたのほとんどは、注目を集めることができないからニュースにならない。当然といってしまえば当然のことだけど死ぬこと自体にはたいした意味がなく、「どのような経緯で死んだか」という物語に意味がある。というか、まわりがよってたかって意味をつける。そうした意味の押し付けに僕は食傷しているので、耳を閉ざしているわけだ。たとえばの話だが、別に複雑な家庭環境が父親を殺す理由になるのではなく、父親を殺した人を調べてみたら複雑な家庭環境があっただけだろう、とか思う。

そんな風に考えているとそのうちに心が荒み、「別に誰が誰を殺そうが勝手だろう」とかの極論に偏るが、しかしそれは違うのだろうと思う。人を殺すのは誰かの勝手でも僕は一向に構わないが、人が本人の意に反して殺されるのは絶対にいやだ。だから僕はカテゴライズすると死刑反対に与するわけだが、それでは重大な犯罪を犯した人間に相応しい罰はなにか、という当然の疑問に応えなければならない。

重大な犯罪を犯した人間が合法的に殺されるのは、ある意味では救済でもあると僕には感じられる。有名な『1984年』や『時計じかけのオレンジ』のように、きちんと洗脳して後々まで生かすほうがより残酷なのではないかと考えているし、犯罪の被害者にとっても加害者が殺されようがなんら解決にはならないと考えている。被害者の関係者にはどうしたって澱が残るし。

合法的殺人に話は戻って、殺人をする人が許せないのなら国家による殺人も許せなかろう。それでいて国家による殺人は案外許せたりするのだから、許せないのは殺人ではなく、慣習的な法に触れる行いなのではないかと想像する。

(未完)

2007-12-05

単なる道具としてのブログ

そもそもブログはだれが何のために書いているんだろう--消化局面が見えたブログ界というCNetの記事があった。

記事いわく、ブログの数は増えているものの、収益をあげている数は非常に少ない。筆者はブログの種類として、職業としてのブログ、趣味のためのブログ(少しの収益で足しにする)、政治や宗教などの思想信条のためのブログ、自己表現のためのブログ、スパムブログとあげている。

結論では

では、ブログ界では何が起ころうとしているのだろうか。今後も現在の成長率を維持できるのだろうか。職業的ブログの成長は続かないだろうが、ブログ界全体は成長を続ける可能性が高い(少なくとも、スパムの量が増加していくだろう)。しかし、変化が起こる可能性が高い。ブログ界のロングテール部分は危機にあるかもしれない。スパムはその危機の一部に過ぎず、むしろソーシャルネットワークやマイクロブログプラットフォームとの競争が大きく影響する。どうなるかは時間が経たないとわからないだろう。

読者がブログを書いている理由を教えてほしい。読者にとってお金は重要だろうか。ブログ界の未来はどうなると思うだろうか。ブログ界は消化局面に入ろうとしているのだろうか。
と締めている。

自分がブログ(?)を書く理由は自己満足 + 知人への生存報告だが、そもそもブログ界を意識したこともなく、収益もない。それほど他人の目にとまらなくともよいと考えている。それなのになぜブログを書き、他人様に害毒となりうる情報を垂れ流しているのか。なぜSNSをメインにしないのか。なぜマイクロブログを使わないのか。

コミュニケーションツールとして手紙、電報、電話、電子メール、IMなどと、どんどん各シチュエーションに応じた選択肢が増えているが、情報発信のツールとしては静的HTMLサイト、ブログ、SNSもその流れの中に入ると思う。現在メールは古くなりつつあり、IMの利用のほうが増えているそうだが、そうはいってもメールは依然として使われる。音声通話だってなくならないし、たまには肉筆で手紙も書く。どれかのツールしか使わないなどというのは、偏ったライフスタイルを送っている証拠だ(偏っていて普通だと思うが)。

同じように、より簡易な情報発信を好むならマイクロブログを選択するだろうし、よりコミュニケーションに注視するならSNSを選択する。より凝ったことをしたいなら自分でサーバを立ち上げてアプリケーションを作る。その人がどのような情報伝達ツールを使うかという選択は、その人の情報生活がどのようになっているか、ということとほとんど同義だ。

今後日本ではSNSの情報が外部に対して開かれていくと僕は想像している。また僕は、SNSの情報を発信する機能に関しては現状では不満がある。また自己表現や社会に開かれた活動を通じた個人のアイデンティティの形成は、より流動的かつ活発になると予想している。

ブログは単なる道具である。それは電報と同じようなもので、ほかの何かに取って代わられる可能性もある(特に日本語のサービスを提供しているSNSが外部に対して開かれるなら、それはブログを飲み込む可能性が高い)。しかし愛好家は残るだろうし、定着もするだろう(いまだにIRCを愛用している人もいるのだし、アマチュア無線を利用している人も多い)。適材を適所に使うだけのことだ。それ以上の何かを求めるのは、ブログに対して何かの幻想を抱いているだけだ。

道具には幻想を抱きやすい。そもそも道具というのはそこにあるだけでは意味も何もないくせに、人がそれに対面したときに何らかの意味を付与して価値を作り出す。価値を創造する行為を一般には持ち上げる傾向があるが、価値は創造されるだけではなく捏造もされる。ブログに対して価値を捏造していたのなら、適切な価値にまで引き下げられるだろうし、そこにあるだけのものとしてみるならば今後も変わらずそこに(同様のサービスは)あるだろう。

師走の怪人

先生も走り回るという月である。よくコーヒーを飲みにいく店にも、師走に相応しく店内の音楽がお祭り一辺倒になってしまっている(偉大な音楽家の演奏のほうが僕は好ましく思うが、偉大な音楽を流されると会話や読書に支障をきたすし、お祭りということもあり、聴き流す事にしている)。しかし前から気になっている曲が流れたので、つらつらと思うことを書きなぐる。

気になっている歌詞は以下のとおり。

He's making a list,
And checking it twice;
Gonna find out Who's naughty and nice.
Santa Claus is coming to town

なんと、よい子にしていないといけないし、かの怪人は入念にも2回もチェックして悪い子を締め出そうとしているというのだ。

レヴィ=ストロースにサンタクロースの秘密という本があるが、なるほど面白い怪人ではある。あんなに太るために摂取するカロリーはどれ程かとか、なまはげとの共通項とか、贈与をベースに考えるよりも交換をベースに考えたほうが現代的には整合性が高いのではないかとか、成人病は大丈夫だろうかとか。

ところでコカ・コーラ社が現在のサンタクロースのイメージを定着させた、という噂話もあるが、コカ・コーラのサンタクロース広告はハッドン・サンドブロムによるイラストで1931年のサタデー・イブニング・ポストに出たらしい。有名なノーマン・ロックウェルのサンタクロースは1939年。いちいちサンタクロースのことを書くよりはWikipediaによる記述を読めば一目瞭然、コカコーラ社が定着させ普及させたイメージかもしれないが、赤白の衣装と太っちょのイメージはオリジナルではない。もちろんSaint Nicolasのイメージとはかけ離れている。

聖ニコラスがどのような人であったかとか、キリストが誕生した日が聖書に書かれていないとか、そんな些細なことはどうでもよい。もっと土俗の季節の変わり目か何か(冬至とか)に根ざしていたほうが僕にとっては親しみがもてるし、消費社会のお祭り騒ぎには敬虔な由来などないほうが何かと都合がよい。何より僕は個人的に4月8日を祝うことにしているので傍観している。

決して一緒にすごす妙齢の女性がいないわけではない。

2007-12-03

絶望した

一昔前に流行したフレーズだが、絶望した。僕は日頃音楽をCDで聞くことが一番多い。ステレオ機器にお金をかける道楽はないので、BOSEのAM-5の古いやつをベースにしたセット(当時10万円程度で組んだ)を使っている。音源を圧縮するときには、mp3かoggにしている。mp3のビットレートは少し高めだ。ポータブル音楽プレイヤーの音質にはあまり満足していないが、所詮ポータブルと割り切っている。生音の場合、他人様に聞かせられるレベルなら(僕の許容範囲は結構広い)満足する。

僕は音楽を好むと自負している。実際拙いながらも幼少時から筝曲・ジャズ・ポップス・クラシック・ファンク・ロックなどで楽器をたしなんできたし、聴くことも好きだ。ただし条件つきで、僕の主観により心地よい音のみを好んでいる。しかし個人的には巷に流れる音楽は大体心地よいものだ。可聴領域がどうの、とこだわることは気持ちとしてはわかるが、音楽は想像力でいかようにでも楽しめると考えている。たとえば擦り切れたレコードやソノシートでもそれなりに楽しいものだし、ある程度なら劣悪に非可逆圧縮された音源でも楽しい。YouTubeにアップロードされているものや、オンラインの楽曲配信サービスくらいなら許容範囲だ。また、好きなジャンルやスタイルはもちろんあるが、それほど排他的ではない。

しかし絶望した。先日街中を歩いていたとき、パチンコ店の店頭で僕の好きな作曲家が作った音楽が流されているのを聴いたときだ。ちなみにその曲(アニメの主題歌なのだが、僕はそのアニメを見たことがないしパチンコもしたことがない)、YouTubeで検索してみると(著作権を思い切り侵害しているが)たくさん見つかるように、ひとつの文化とでもいえるほどにさまざまなバージョンがある。フルバージョン、アニメ放映用に短くカットされたもの、英語版、リコーダーでの演奏、アカペラ、カラオケ、四重奏編曲、オーケストラ編曲、初音ミク、逆再生などなど、ある意味「インスパイア」された二次創作も盛んだ。聴いたことはないが、YAMAHAのMySoundにも多数アップロードされている

飲食店などの店内に流れるものは、それなりに音響設備にお金をかけているせいか「とても聴けたものではない」とまでのものにはあまり出会わない。また前に書いたように、僕は音響機器にはこだわらない。それにしても件のパチンコ店の店頭ではちゃちなポータブルステレオであまり質のよくない音源を最大音量にしてがなりたてていた。これは許せない。

前々から思っているが、騒音規制の条例は音質にも言及できないものだろうか。もちろん無理だとは思っているが。

2007-12-01

これはひどい

はてなブックマークで「これはひどい」というタグのついたものを興味本位で眺めていた。どんなものがひどいのだろうと気になったためだ。その過程で非常に胸がふさがる思いをした。

前回の参院選で、在日韓国人2世で障害をもつ候補(彼は日本国籍を持っている)が出馬した。彼の出馬に反対する人が多数いる、ということは想像に難くないが、その根拠がいかにも嫌悪感まるだしなものであることに嘆かされた。事実は事実(それが誰にとっての事実かは多少違ったりするが)として、候補者は候補者として判断するべきであると僕は考えている。僕は彼と直接話しをしたことがあるし、彼の人となりは多少ならわかっているつもりだ。その上で、彼を批判する根拠が薄いと思った。

根拠薄弱なうちに批判(誹謗と呼んでもよいくらいだ)することは多々あることだ。確かに在日韓国・朝鮮人への日本政府の対応はいろいろと問題があるし、さまざまな利害関係もある。在日韓国・朝鮮人が一方的に優遇されることはおかしいと思うし、障害者が全面的に何不自由ないレベルまで支援されることもおかしいと思う。それにしても現状では一部の例外を除いて、圧倒的に不利な状況に彼らがいることは少し調べればわかるような気がする。もちろん一部の例外はいるが、その例外をもってすべてを語ることは蒙昧としか言いようがない。

また批判する人たちの脊椎反射的な批判には、日本の国政は日本の利益につながるような人を、というようなものが多かったが、ほかの帰化した候補者に対するそのような批判は寡聞にして聞いたことがない。日本と東アジア一部地域の関係に問題があることは承知しているが、それ以外にも何か妙に感情的な問題があるとしか思えない。

話は飛ぶが、人種とは外見と歴史的背景を根拠にした社会・文化・政治的概念であって、生物学的事実とは違う。DNAを調べてみれば、僕(ちなみに祖先は10代以上前から北関東に住んでいた)と配偶者との差と、僕とその候補者との差には有意な違いは見られないだろう。人種差別で有名なヒトラーでさえ、科学的な意味では人種など存在しない、ということをわかっていた。国家間の関係は国家間の関係として、人種間の関係はとりあえず考えないほうが無難である。

僕は理性を根拠は薄いながらも信頼していて、相対主義をあまり信頼していない。理性の代替物であるようなもの、例えば神性、精神、感情、直感、欲求などだが、それらはいずれにせよ暴走の可能性がある。反証の可能性を常に残しておいた理性は、それらに比べると暴走の可能性は少ないだろう。理性的な判断は確かに間違うかもしれない。しかしその間違いの程度は理性的ではない場合と比べると小さいだろうと信頼しているし、いずれよりよい判断ができるだろうと信頼している。

理性的に判断して、低所得者層あるいは低年齢層にとって、どのような候補者がもっとも自分の利益を代弁するか、という判断をするなら、在日韓国人2世の障害者を誹謗する理由などないに等しいと思う。

2007-11-28

息子がかわいすぎる件について

大方の予想を裏切って、息子がかわいくて仕方がない。不満そうな顔をしていてもよし、満足げな顔をしていてもよし、泣いてもよし、笑ってもよし。どうしようもない。

生後2ヶ月にならないような乳幼児の表情は、必ずしも本人の意思を反映したものではないとは思う。当人には複雑な感情が生まれているかどうか疑問だからだ。しかし顔面の筋肉を操ることに慣れていないためかどうか、実に多彩な表情をする。それを読み取るのはこちらの勝手だ。思慮深そうな顔もするし、途方にくれたような表情もする。こちらがどうにも解釈できない表情もする。

これは口から発せられる音と同じことだ。まだ言葉を覚えていないから、日本語にも英語にも(仏語にもその他にも)ないような音素の音を出す。そのうち神経回路が固定し、顔面の筋肉と感情とがリンクしたらそれなりに意味のある表情として他人の解釈と一致することだろうが、それも少し惜しいような気がする。

それにしても繰り返すが、かわいくて仕方がない。馬鹿と呼ばれてもよい。現状では快・不快程度ならかなり精度高く解釈できるが、抱っこをしないと不快な表情をするし、そのうち泣き出す。抱っこをしないとなかなか眠らない。したがってべったりと抱き続けるわけだが、こちらにもこちらの事情があるので解決策を探していた。

バウンサーと呼ばれるものがよいらしいと聞いて、早速ベビービョルン ベビーシッター 1・2・3なるものを購入した。これは乳幼児を少人数で育てる親には福音ではないかと思われるほど効果があった。とりあえずバウンサーに乗せて揺らしておくと、しばらくはご機嫌な様子だ。もちろんお腹がすく、お腹の調子が悪い、おしめがぬれているなどの生理的現象で不機嫌になったときには効かない。

なぜ揺れているとご機嫌なのかは不明なので、一考の価値がありそうだ。とにかくかわいい。

2007-11-26

東西の壁

僕は関東風の味付けで育ったが、自炊をするようになってからはもっぱら関西風になった。『ノルウェイの森』の登場人物ではないが、料理の参考に読んだ本が関西風だったからというのも理由のひとつだが、僕自身の好みがそうさせたということもある。しかしものによっては関東風の料理のほうが好きで、東西折衷という感じだ。

そしてうどんだが、断然関西風のうどんを好んでいる(これは幼いころからうどんが好きではなかったという「家庭の味」への恨みもあり)。これは常識の範疇にはいることかもしれないが、興味深いことに、カップめんでも東西で味が違うそうだ。日清どん兵衛の場合、関東ではカツオ、関西では昆布の味を強くしているそうな。

日清食品の東西の境界線を教えてくださいによると、

「味の境界線(日清のどん兵衛の場合)」は、名古屋地区を境界線とし、 ここより東(東:愛知県、岐阜県、三重県を含む)を東日本用、ここより西(福井県、富山県、石川県、を含む)西日本用として 販売しています。
だそうだ。

この境界線が妥当かどうか、マーケティングの専門家が決めたのだろうからきっとそれなりの理由があるのだろうが、僕は関西風のものを入手したい。現在僕は関東に住んでいるが、関西に行ったら「どん兵衛」を食してみようと思う。関西在住の人に送ってもらうように頼むほどの厚かましさはない(そういえば先日「鶴橋風月 塩そば」というのを関西の人から送ってもらったけど)。

2007-11-25

復讐するは我にあり

巷で話題の「マンガ嫌韓流」を遅まきながら先日立ち読みした。僕はかの国の文化や風習などに多大な敬意を払っているつもりだし、日本の報道機関がどのような形であれ偏向していることも承知しているつもりなので、書いてあることは事実は事実(どこまで事実かは自分で検証してみないことにはなんともいえないけど)としておいて「嫌韓流」というまでのネーミングはどうかと思った。

読んでいて気になったのは、やたらと「日本」という枠にこだわることだ。当然のことながら、自分の国というのは他国がなければ成立しない。一般に言えることだがこれは、うそや裏切りは信頼が先行していないと存在しないのと同じことだ。そしてうそや裏切りと同じように、自国に対する信頼がなければ「愛国心」も存在しない。

常々不思議に思っていることだが、アメリカや中国のようなわずかな福祉しか提供していないような国ほど「愛国心」を国民に要求している。もっとも国家自体が抽象概念であり、たいていは戦争や強奪によって形成されたものだから、それを拡散させないためには宗教的忠誠心を要求するものかもしれないが。しかし「愛国心」は本来自発的に差し出されるものであり、誰かから要求されるものではない。裏切るという行為は信頼を前提にしているが、その信頼は強制されるものではないのに、個人や集団が裏切られたと感じるときには、集団内で他者を信頼する義務を負っているという前提がある(などと書くと妻帯者である僕は少し胸が痛むのはなぜだろう)。

現在の日本も、それなりに「愛国心」を要求する国になっているように感じる。誰もが知っている十七条憲法をウィキソースから引用すると「以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。」とある。超訳すると、「仲良くして争いごとを避けなさい。一般に内輪でかたまったり人格者が少なかったりするから、人に従わなかったりお隣さんと喧嘩するけど、みんな仲良く話し合えば自然と道理に適い、どんなこともうまくいくよ」という感じだ。

儒教には「和」という徳目がないとか、論語に似たような記述があるとかいろいろいわれているから、この考え方が限定された地域に飛鳥時代以前からある文化的特徴なのか、それともいつの時代にか文化的先進国から輸入されたものなのか(たとえば儒教文化圏)は専門家に任せる。しかし奈良近辺に昔生活していた天才(これも聖徳太子なのか日本書紀の編者なのかわからない)がこれを書いたことは確かだ。文化的遺産は国家のアイデンティティと同一ではないが、この概念は日本列島に生活する人に根強く残ったと思う。

そしてこうした「和」という徳目が徳目として機能しなくなると、「愛国心」の強制のようなものが台頭してくるのではないかと、漠然と思った。「嫌韓流」が成立するためには、すでに自らの属している集団内での信頼を所与のものとすることができなくなったためではないか、とマンガを立ち読みしながら思った。

2007-11-19

かくて方言は定着する

先日、接客がマニュアル化されていることで有名な某ハンバーガーチェーン店に行き、コーヒーを注文した際、店員から「お召し上がりですか?」と聞かれた。もちろんコーヒーはいただくので僕は「はい」と答えたが、正しい受け答えだっただろうか。

従来は「店内でお召し上がりですか?」とたずねられたものだが、気になったので(僕はこういう細かなくだらないことに多くの時間を使うのだ)その後30分ほどレジカウンターの声が届く範囲で耳をすませていた。その店には日本語を母語としない人もそれなりに訪れるのだが、驚くべきことに店員は全員が「店内で」を省略していたし、客は誰一人としておかしな受け答えはしなかった。

もちろん言語は簡略な言葉へと変化する。「左様なればおいとま致しましょう」は「さようなら」になるし、「今日は良いお日柄で何よりよろしいことです」は「こんにちは」になる(たぶん)。しかし「店内でお召し上がりですか」の「店内で」を省いたら、普通に解釈すれば「食べますか」と同義だ。こういう解釈の仕方は四角張っているので面白くないことは重々承知の上で言うが、食べますかと飲食店で聞かれたらほとんどの場合はYesと答えるだろう。

面白くないので違う解釈をしてみた。

1. そもそも「店内でお召し上がりですか」自体が省略された言葉である

これは「店内でお召し上がりですか、それともお持ち帰りいたしますか」の省略で、僕はその前提を知らないままこれまでの人生を過ごしてきた可能性がある。みんなこれくらいのことは社会常識として知っているのだ。ついでに言えば客が「お持ち帰りです」とか言うのも不愉快だが、これも体言として定着している可能性がある。「お持ち帰りJKを即GET」みたいな使われ方も一部ではするようだし。

2. 近頃は食べない客もいる

岡田斗司夫氏の『いつまでもデブと思うなよ』で「レコーディング・ダイエット」が有名になったが、注目すべき点は記録すること以外にもあり、食べずに捨てるということだ。ZAKZAKの記事「これぞ究極のオタクダイエット(9/5)」から引用するが、

メガマックは4つに切って3つを捨てる。ソフトクリームは3分の1だけ食べてポイ。ポテトチップスは5枚だけ選んで残りは水をかける。もっと欲しければ、また買いに行くというルールだ
という方法をさらに追求し、消費という性質を突き詰めて、購入したところで欲求が満たされるようにまで磨きをかけることができるかもしれない。

あれこれ書き連ねたところで、僕が阿吽の呼吸をわかっていない堅物である、という以外の結論は見えない。

2007-11-17

考えろ

ふとしたことから知り合った日本に留学を希望する人から、「入学に際する面接試験で『どのような出来事やニュースに興味があるか』という質問が良く出されるそうなので、どんなふうに答えたらよいか」と相談を受けた。

たとえば僕の場合は、CGMやSNSなどに興味を持っているし、仕事にもしているので、それらのニュースはできるだけチェックしている。ほかにもホワイトカラーの労働生産性をどのようにあげるか、といった問題意識は常に持っているので、そうしたニュースも入手する。それに情報技術関係のニュースも拾い集める。例えば最近のニュースで言うならmixiの社長の講演の「mixiが独り勝ちできたのはコンテンツが動的なためだ」という発言には感心した。ネットワークの外部性が働いたことが一番の原因ではないか、と思いながら。

大学の入学試験で聞かれるのは、それらのニュースを情報として受け止めたら、同じような情報を幅広く持っているかどうか、それらの情報を自分できちんと理解しているか、それらの情報に対する意見をきちんと持っているかどうか、そしてその意見に基づいて行動がおこせるかどうか、ということだと思うので、他人にどんなニュースがありますか、と聞いてもあまり意味はないと思う。

件の相談に関しては、「どんなことに関心を持っていますか? たとえば日本と中国の関係についてどう考えていますか? 流行や文化についてどんなことを感じていますか? どんなことが好きですか? 最近の経済や企業活動について怒ったりあきれたりしたことはありますか? そうしたことから自分なりに問題意識を掘り下げていくことが大学では求められると思います」とえらそうに答えたが、つまりきちんと考えることのできる人に大学に入ってほしいだろうと、大学関係者でもないくせに勝手に想像している。

アドバイスを求められた僕の意見ではなく、面接試験に臨む本人の意見が大切だということ。日頃感じたり思ったりすることとニュースを結びつけて考えることが必要だということ。安易な回答ではなくなってしまったが、真剣にアドバイスをするとなると僕の気になっているニュースを教えることではなく、どのように関心のあるニュースを見つけるか、というほうが大切だと思う。所詮他人事なので、そのように突き放した言い方ができるのかもしれないが、そうしたことは留学予備校では教えないのだろうか。件の留学希望者には、ぜひ張り切って考えてほしい。

2007-11-16

うつ病と社会復帰

よく言われていることだが、うつ病が発症したなら即休職すべきだと思う。うつ病の状態で働いたとしても、周りに迷惑が広まるだけだし、本人にとっても状況は悪化する一方だ。本人としては勤務環境が悪化するのは自分の責任だと考えがちだが、病気が原因と考えるほどの客観性を持っていないので、坂道転がる雪だるまよろしく、悪いほうへと偏ってしまう。

うつ病からの社会復帰に向けて--心の病と戦う技術者たち(3)という記事によると、

うつ病になると極端に悲観的になったり、理想化した観念を抱いたり、自分を過小評価したりと、客観的な視点が失われることもある
とのことだがまったく同感だ。

「コップの水が残り半分しかない」「まだ半分ある」という使い古されたたとえ話がある。他にも僻地の調査に赴いた靴のセールスマンが、ひとりは「靴のニーズがないので販売見込みなし」、ひとりは「誰も靴を履いていないので販売見込みあり」と報告する陳腐な話がある。こんなありきたりの話と同じことにしてしまうのも僕の自尊心が許さないが、実は同じことだ。見えている現実をどのように解釈するかはその人しだいであり、その人が病的な状況にいれば病的な現実が見えてしまう(僕は常に病的な現実を見ているかもしれない)。逆に冷静になってみれば、かなり悲惨な現実でもどうにか乗り切ってしまえるのも人間の常だ。

ただし、職場への復帰は難しいとしかいえない。うつ病は再発しやすいらしいし、うつ病の既往歴がある人を雇いたがる会社も正直なところ多くはないだろう。

早く病気に気づけばそれに越したことはないが、気づいたところで身動きの取れない悲しい現実がある。企業の人材を無駄に消費する就業環境と、職場を離れた人材をうまく掬い取れない採用環境の両方に歯軋りする思いがある。

2007-12-26追記
検索して訪れる人もいるので、参考までに自分だったらどのような職場復帰を望むか、ということを書き加える。まずは休職、安定してきたら職場の入り口まで出勤、次はデスクまで行ったら帰る。それができたら次は午前中だけデスクにいて勝手なことをする。さらに時間を延ばして同じことをし、徐々に簡単な仕事をするようにして職場に慣れていく。そしてそれを同僚も上司も含めて納得してもらうことが望ましい。あくまで希望だが。

2007-11-02

ベストセラーの罠

かつて『三色ボールペンで読む日本語』という本がベストセラーになった。近頃では『レバレッジ・リーディング』という本が売れた。両者に共通する主張は「本を主体的に読むこと」にあり、本に書き込みを入れたりページを折り曲げたりすることを推奨している。

この読み方には決して反対はしない。僕も自分で読むときにはそれなりに本を汚して読むことも多いし、結果として本が汚れてしまうことも多い。しかし先日古書店を物色していて思ったのは、その手の本が古書店に並ぶことが少ない、ということだ。あくまで僕の主観的で限定的な感想ということは付け加えるべきだが。

ここに著者のさりげない策略があるのではないかと勘ぐってしまった。風がふけば桶屋が儲かるではないが、

  1. それらの本を読む
  2. まだ記憶が新しいうちに実践する(読みながら実践する)
  3. それらの本は汚れる
  4. 読み終えて、不要と思って古書店に持っていく
  5. 汚れているので買取価格は無きに等しくなる
  6. どうせなら売らずに手元においておこうかと思う
  7. 古本の流通量が減る
  8. 書店の流通量は古書の流通量に影響を受けにくくなる
  9. 本が売れる
という仕組みがあるのではないか。勘ぐりすぎか。

2007-10-31

はじめてのT

以前キーボードを買おうかと思ったが、職場から支給されたPCについてさりげなく社長に文句を言ったら、ThinkPad X41Tを使わせてもらえることになった。実はそれに至るまでに、X61sを買いたいという希望も出したのだが、少し値段が高いので僕が躊躇してしまった。

はじめてのタブレットPC使用なので何にしても慣れていないが、今後色々と楽しく(仕事に役立つように)使えそうだ。キータッチも気に入っているし、これまでのThinkPad同様にWindowsキーがないところも潔くて気持ちよい。タブレットの有用性をまだ感じられないことはさておき。

2007-10-30

目標と経験

どうも近頃「本当の自分」とか「人生の目標」とかが気になってしかたがない。僕自身の考えは、それらのことを考えるのはナンセンスである、というように一貫しているが、そうは考えない人も多数いることは承知している。

特に経営層(起業家含む)や管理者層によく見受けられるが、「夢を実現する」とか「目標があってこそ行動がある」とか読んだり聞いたりする。確かにそれらのことは正しいと思う。しかし僕が気になるのは、そもそもその夢や目標はどこから来たのか、ということだ。特に人事評価に「目標管理」が込められていたりすると話は厄介だ。

目標を達成することは、日頃の業務を行う上で様々な制約がなければ比較的たやすい。もちろんたやすく達成できる目標を設定した場合だが、このような目標なら立てる必要もなく、形式的なものになってしまう。逆に達成困難な目標を設定した場合、達成の障害となるのは外的要因もさることながら組織の内部的要因なことも多々ある。つまり企業活動で目標管理を個人の業績評価に用いる場合、その個人にどれだけの裁量権があるかによって、目標管理の有用度が異なる。もちろん経営層には目標管理が有用だろうが、一般的な社員には飾り物でしかなくなってしまう。

次に、そもそも目標を設定する事自体が非常に難しいということだ。取ってつけたような目標ならば比較的たやすく設定できるが、果たしてその目標は立てた本人の幸福に結びつくだろうか。例えば僕が金融資産10億円を生涯の目標にしたとする(これが妥当な数字かどうかは問わない)。しかしそのために払う犠牲は大きいだろうし、そもそも僕は10億円も使う必要も使える自信もない。

取ってつけたような目標(没個人的な目標)を立てる意味がないならば、目標は何を根拠にして立てればよいのか。僕が思うにはその人がどのような経験をしてきたかに依存する、としか言えない。企業活動の中でも家庭生活でも、その人が何を快く感じ、何に嫌悪するかがそのまま(あるいはまったく逆のことが)目標の根拠になるのではないかと思う。これを言い換えると、自分の幼年期から現在に至るまでどのような経験をしたか、自分が収入を得るようになってからこれまでにどのような経験をしてきたか、そうした蓄積をきっちりと記憶している(あるいは意識的に思い返す)ことが目標設定の根拠になるのだ。

また企業内に話を戻して、個人の業績評価に目標管理を盛り込むことに、僕はそれほど異議を唱えない。しかしそれはある程度の経験のある人間にのみ適用させてこそ意味があるし、指示される人間に適用させるのは無駄というものだ。

かく言う僕は、それほど目標を持っていない。とりあえず「できること」しかしないつもりだし、「できないこと」はなるべく避けるようにしている。そしてできるだけ「やりたいこと」をするようにして、それが「やるべきこと」と沿うようにこっそりと画策している。その程度でも充分役に立つ「目標管理」なのではないかと自画自賛している。なにも大上段に構える必要はないのだ。

2007-10-27

男女間には謎がある

近頃は夜に洗濯をすることが多いので、ふと思った。花王によると働く女性の40%は夜洗いをしているそうだが、それならばよく吊り広告でみる「1週間の着こなしテクニック」的なものは立つ瀬がないのではないか、と。

僕の現状では、持っている服をTPOにあわせて毎日交換すると1週間もたないので、夜に洗濯をすることは必然なのだが、ワードローブの豊富な働く女性はどのような着まわしをしているのだろうか。青山一丁目付近で見かける働く女性達は、僕の偏見に満ちた観察によると、少なくとも1週間以上は同じ服を着ていないように感じられる。すると夜洗濯をするのは目にみえない衣類に限ったことなのか、それとも休日昼間は洗濯ができない事情があるのか。はたまた雑誌の惹句は真に受けないほうがよいのか。

かくも男女の間の相互理解は難しい。

2007-10-25

明日は我が身、昨日の我が身

僕はこうしてうつになった--心の病と戦う技術者たちという涙なくしては読めない記事があった。まさにその通りで、決してさぼっているわけではないし、激務に耐えられないわけでもない。僕は自称エンジニア(実際にエンジニアかどうかはともかく)だし、ステレオタイプな「仕事がきつい」「残業時間が多い」というような経験もしてきた。しかし精神面での病気に罹る理由はそればかりではない。

多少話は飛躍するが、人的ネットワークにはスモールワールド的な性格とスケールフリーな性格がある。親密な関係をもった他者と三角のリレーションをもち、各人が複数のコミュニティに所属することと、ハブとなる人がいるために、任意の他者に到達するのは6次程度の少ない数で到達できる。一方少数の有名人などは非常に多くのリンク(被参照リンク)を持ち、多数の凡人は少ないリンクしか持たない。

どういう理由か説明はできないが、技術者が孤立したノードとなることがうつになる原因ではないかと、僕は漠然と考えている。「安心社会」「信頼社会」という言葉で代用ができると思うが、スモールワールド的な性格の「安心社会」に何らかの理由で所属することができず、当然ハブともなりえず、スケールフリー的性格の「信頼社会」で参照されることがない、そういう状態になりがちなのではないかと想像する。

想像するだけで根拠はないのだが。

2007-10-24

自分が!

先日古い友人と会ったが、その人が妙に「自分探し」みたいな病気に罹っていたことが気になった。「自分のやりたい仕事」とか、「自分らしいプライベート」とかいう話を散々したのだ。

僕は、そもそも仕事とプライベートを分けることがナンセンスだと思うし、いわゆる「自分探し」のように自分らしいものを自分で探すこともナンセンスだと思う。その理由を説明するのが面倒だが誤解を承知で簡単に言うと、仕事とプライベートを分ける明確な境界線がないことと、あらゆるペルソナをひっくるめてすべて自分だ、ということだ。自分を構成する物質や情報は絶えず変化し、他者や周囲の環境と混ざり、コピーされる。その中で統一的な自己など持ちようもなく、既にそこにいる自分以外の自分などはどこにもいないと思う。仕事と思っているものも仕事ではないと思っているものも、それを行うのは自分であると思っているものなのだから、どこにでも自分の持つあらゆるペルソナがひょっこりと顔を出すはずだし、やりたかろうががやりたくなかろうが、何らかのアクションを起こすという事実には仕事もプライベートも区別がない。

話は少し変わって、就職活動など自己PRをしなければならない場面では「将来のビジョン」とか「どんなビジネスパーソンになりたいか」とか聞かれるものだが、そういった質問に(本心か否かは知らないけど)すらすらと答えられる人がいることが信じがたい。もちろんごく一部の限られた人はなりたい将来の自分が明確になっていて、それに向けての地道な活動を続けているのだろうが、一介の凡人であれば「明確な目標を持てればそれに越したことはない」程度のものではないだろうか。面白ければやる、面白くないことをできるだけ避ける、それを繰り返していくうちに少しずつなりたい自分(あるいはなってしまうと予測される自分)が見えてくるのではないか。生活を連綿と続けているうちに、なるようになるし、ならないようにはならないのだ。

自分と他人には明確な境界線がない。同じように自分の行っていることはすべて、緩やかに連続しているが厳密には分断されている。それだけのことだ。

2007-10-10

たった1%

職場近くの喫茶店で、耳に入ってきた会話をそのまま聞いてしまった。当然ながら詳細はわからないけれど、30台くらいの男女の会話であり、年収1千万円を超える共通の知人にお金の無心をしたい、というような内容だった。真剣にお金を借りる話ではなく、ちょっとした愚痴程度の話だ。

僕の注意をひいたのは、彼らが10万円程度のお金を「あいつにしてみればほんの1%」と繰り返していたからだ。1%くらいのお金なんだからおごってくれてもいいだろう? というニュアンスである。確かに1%という数字は正しい。それに「1%ならいいだろう」という気分もわからなくもない。しかし考えてもみると、年収500万円の人だったら5万円をおごってくれてもいいだろう、という話にはなかなかならない。

数学者のジョン・アレン・パウロスは、フォーブス400に載っている人たちに向けて、研究中のプロジェクトに対する25,000ドルの資金供与を求めたという。対象者の平均資産は4億ドルで、資金を求めたのは資産の0.00625%にもかかわらず、親切な手紙はたくさん受け取ったもののお金は全く手に入らなかったそうだ。彼は「もしも全く見知らぬ人が価値あるプロジェクトに25ドル(これは彼の全財産の0.00625%だそうだ)の寄付を求めてきたら、自分はきっと提供するだろう」という目論見を富裕者に対しても同じように見込んだらしい。手紙が帰ってきたのだから結構なことだが、この人をくったような話は示唆に富む。

ベルクマンの法則として知られているように、恒温動物であれば、大型の種ほど寒冷地に生息する。これは体温が奪われるのは体表面からであり、体表面は体長の2乗に比例し、熱量は体重(体長の3乗)に比例するためであるとされる。これと似た話で寒冷地に生息するものほど突出部が短くなる。これらは環境に依存して体型が変わる例であるが、同じような例として、自分の体重を支える必要から象の足の断面積は広く、キリンの足の断面積は狭い。ウルトラマンの足の太さではおそらく立つことすらできないし、かりに立つことのできる特別な骨格を持っているとしても地面が足の底に耐えられない。つまり何がいいたいかというと、単純なミニチュアや単純な拡大では用をなさない、ということだ。

はじめの話に戻って、年収およそ1万円の少年時代に大した理由なく100円をおごった僕は、年収およそ100万円だった学部生時代に1万円を大した理由なく使うことはなかった。現在でも年収の1%を大した理由なく人に譲ることはない(お小遣い制なので、使える金額はそれほど変わっていないという事実はともかく)。同じ理屈をどのような年収の人にも当てはめることができるような気がする。つまり自分の身にしてみれば収入に対する比率ではなく絶対額の問題であり、他人の話をするときには比率で考えてもよいと思っている浅ましい自分がいる、ということだ。

2007-10-07

二世誕生

私事ですが、2007年10月06日07:40に、子供が生まれました。男児、2994グラムです。

つるつるの肌です。名前はまだありません。

2007-10-05

キーボードを買おうかと思う

仕事先から支給されたPCがDELLのINSPIRONだった。僕には入力デバイスへの様々な下らない拘りがあり、まずはキーボードの配列を自分好みに変える。例えばひらがなキーや変換キー、無変換キーは使ったことがないし、半角/全角キーやWindowsキーもいらないので、ノートPCでは省略されがちなAltやCtrlに代えたり、「1」の左はEscにする。また、「A」の左にCtrlがないと気に入らないしCaps Lockは使わないのでそこをCtrlにする。JIS配列とASCII配列では強いていえばASCIIのほうが好みだが、他人が混乱しないためと他のキーボードを触るときのために自宅でも会社でもJIS配列にしている。

自分好みの配列になると、それだけで入力のストレスがかなり減る。配列を変えたら次は各アプリケーションの動作のしかたを変える。例えばエディタを使うときにはNotepad.exeでもMeadowでも(仕事用のPCはWindows XPだった)大体同じ動きをするように変更する。例えば行頭に移動するときにはCtrl-aにするし、カーソルの移動はCtrl-bやCtrl-fなどにする。いわゆるemacs風のキーバインドだが、こうしないと入力中にストレスがたまる。

さて、これらの一連の作業を終えて気持ちよく入力ができるようになったが、問題はここからだった。DELLに文句をいうつもりはないが、今までIBM製のノートPCに慣れていた僕の感覚には、キーボードがしっくりこない。近頃のThinkPadのキータッチは昔のものと比べると悪くなっていると言われるが、それでも秀逸なものである(ような気がする)。支給されたDELLのノートPCは、僕の感覚からするとどうもペカペカというかカスカスというか、妙なタイピング感覚である。もちろんそうしたタイプ感を求める人もいるだろうが、僕の好みではない。

このままでは気持ちよく仕事をすることができない。キーボードを叩いていると、しばらくするとタイプ感が気になってしょうがない。キーを叩くときに何やら変な音まで聞こえてくるかのようだ。そこでノートPCにキーボードを接続するという、スペースを無駄に使う愚行を考えた。現在どのキーボードにしようか悩んでいるところだが、やはり慣れたキーボードがよいだろうから、自宅で愛用しているRealforceを買おうかとも思うが、いかんせん値段が高い。僕の可処分所得にはお小遣い制を採用しているので、配偶者の許可を得なければお小遣いの範囲では買えない。今月は配偶者が実家に帰る予定なので、いわゆる「鬼のいぬまの」なんとやらでこっそりと買ってしまおうかとも企むが、この手の悪事には良心が疼いてしまう。

どなたかRealforceに似たタイプ感でもっと安いJIS配列のキーボードがあったら教えてほしい。おそらくないだろうが。

2007-10-03

引用の定義

Web魚拓が仕様変更されたことを知ったが、以前から疑問に思っていた「引用」について、このリニューアルで教えられるところが大きかった。以前から個人的に引用のWebアプリを作ろうとしてはやめ、作ろうとしてはやめを繰り返していたところだったので助かった。

引用とは、著作権法第三十二条の定義によると、

公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない
とある。

この条文を読んだだけではやはり疑問は解消されない。「引用の目的上正当な範囲」とはどこまでなのか。Wikipedia曰く、最高裁判所第三小法廷昭和55年3月28日判決によると、
  1. 文章の中で著作物を引用する必然性があること
  2. 質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」の関係にあること。引用を独立してそれだけの作品として使用することはできない。
  3. 本文と引用部分が明らかに区別できること。例『段落を変える』『かぎかっこを使用する』
  4. 引用元が公表された著作物であること
  5. 出所を明示すること(著作権法第48条)
とのこと。

かつて森毅氏のエッセイで読んでうろ覚えになっていることだが、彼の試験問題は持ち帰ってどこで解答を作成してもよかったそうだ。その代わり自分の言葉で解答しなければならない、という条件をつけたという。できあがった解答を森氏が読むと、どこぞからの盗作が非常に多かったことを森氏は嘆いて、「『(長い引用)』だそうだがオレにはよくわからん」という解答を書けばよいのに、と書いていた。どうもこのままだと森氏に提出する解答は引用の要件を満たしていないようだ。

ということで、記念に魚拓。OKだろうか。

2007-10-02

いずこも同じ秋の夕暮れ

CNET Japanに韓国IT業界ビッグ3と、ソフトウェア市場の現状という興味深い記事が載っていた。一読してすぐに思ったことは「どこも同じか」ということだ。残念ながら日本のIT業界と良く似ていて、ソフトウェア強国ということを叫んでも業界はなかなかに動かない。

特に、

ビッグ3をはじめとした大手SI企業は契約上では契約主であはあるものの、実際の作業は下請け企業に任せきり、その下請け企業には“食いつなぐことができる”程度の対価しか支払わず、利益のほとんどを持っていくという状況だ。それでもSI市場しかない韓国において下請け企業は生き残りのために仕事を受けざるを得ない。劣悪な環境で働く下請けの技術者が、安い賃金で体に無理をかけてまでソフトウェア開発に従事できるかといえばそうではなく、業界を離れる人が後を絶たない
というあたりなど、大雑把に見れば実に良く似ている(とはいうものの、IT業界といってもほとんどWeb系SIの世界しか知らない僕自身の経験から判断することしかできないが、かつて一次請けとして、その後発注者として、そして現在中小企業に関わる身として「似ている」という判断はそれなりに正しいと思う)。また全く知らない業界だが、聞き及ぶところからアニメ業界やゲーム業界、携帯電話業界など、おそらく似たような仕組みだろうと想像する。

こうした業界の仕組みからどうしたら中小企業が抜け出せるかを考えるのが、現在の僕の仕事のひとつだが、大雑把に考えているところをいうと、ひとつにはユーザ企業のリエンジニアリングを提案すること、ひとつにはロングテール狙いで営業すること、ひとつにはマーケットをセグメント化して営業すること、ひとつには品質の向上を図ることなどなどだが、どれもこれも言うは易し、行うは難しだ。

しかし法で規制するのはすこし行き過ぎではないかと思う(よその国のことだし口をはさむことではないのは承知しているが)。規制された業界では所詮規制内でしか活躍できない程度の企業しか育たず、結果として業界が国際競争力を失うのではないか、と思う。この感想は、僕がかつて県単位で強烈に規制されていた業界で、規制緩和の煽りをくらって青息吐息になっている(なっていた)企業に在籍していた経験からいっている。

つまるところ、競争をする地域や業界規模はともあれ、競争に勝てる企業には何かがあるというだけのことで、その何かを実現しないことには競争力はつかない、という当たり前な話だ。


検索してこのページにたどりつく人がいるので、念のために追記しておくと、「さびしさに 宿をたち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮れ」は良暹法師の歌で、後拾遺和歌集に入っています。また小倉百人一首では70番になっています。

中秋の名月

すでにその時期は去ったが「中秋の名月」と呼ばれる頃(大体それくらいの時期)に何度も月を見上げ、なるほど名月だと感心した。どの時期の月であろうと大きさは同じだと頭ではわかってはいるものの、どういうわけだか大きく見える。

よく知られたことだが、地平線や水平線に近い太陽や月が大きく見えのは錯覚である。人曰く、近い距離に比較対象があるため、実際の距離よりも近く、そして大きく見えるという。科学に詳しい人だと屈曲率の話をするかもしれないが、心理的な大きさは屈曲率から導き出せる大きさよりもはるかに大きい(というより、識別できないほどにしか大きくならないはずである)。従って、心理的な錯覚というわけだ。

証拠になるかどうか、写真を撮ってみた。名月に申し訳ないが、僕の持っている写真機と僕の技術では綺麗にとれなかったし、大きくもなかった。残酷な結果である。

時に、月の美しさを感じる僕の感覚は、曇りのないまっさらな月よりも、朧に煙った月や雲隠れの月の方をより美しいとしている。これも僕に刷り込まれた文化的なものだと何となく思っている。

これも有名な話だが、「月の砂漠」の歌詞に朧な月が出てくるが、アラビア半島の砂漠では、ほとんどの場合月はしんと冴えわたり、年に数回しか煙ることがないという。その年に数回の煙るときは、ゆったりと王子様とお姫様がラクダに乗って道を行くことなど不可能だ、とのこと。

往々にして、現実は想像よりも美しくないものだ。

2007-09-29

健康にこしたことはないが

ブログヘラルドの投稿経由で、23 Simple Health Tips For Bloggersという記事を読んだ。僕はBloggerではないと自認しているが、健康には関心があるので期待して読んだ。その手のものに関心のある人は、読んでみるのも一興だろう。

面白いのはブログヘラルドにも書かれているとおり、

12. If you're in a healthy relationship, have sex at least once every 3 days. I'm dead serious about this. It can be critical to both mental and physical stability.
というところだ。おおいに参考にさせていただきたいところだが、やはり首を傾げてしまう。そんなに重要だろうか。また個人的なことを話しにくい事柄だが、男性でも女性でも同じことがいえるのだろうか。

話は変わってこの手のTipsは星の数ほどあり、主観的かつ大雑把に観察するところ、多くは健康・モティベーション・生産性などだ。その人が何を大切とするかは「何について語られるか」あるいは「何について語られないか」で若干ながら把握できるものだが、現代的な人たちは上記の事柄に関心が高く、かつ人前で語っても問題のないことと認識しているのだろう。

しかし健康について語ること(しかもセックスしなさいとまで!)は、場合によっては他人を不快にさせやしないかと、僕は躊躇している。ところが一方、不健康について語ることはそれほど躊躇しない。この個人的判断の理由は、第一に人は望んで不健康になるわけではないこと、第二にいわゆる「健康」になりたくともなれない人たちがいること、第三にいわゆる「不健康」が常態となっている人たちがいることなどだ。

同じことが他の事柄にも多少なりともいえる。僕が意気消沈しているときにはモティベーション関連の文章など読みたくもないし、僕が仕事ができないでいるときに生産性をあげるTipsを読んでも時間を浪費するだけで腹が立つ(読まなければよいのだから、文章を読むというのは、実に個人の裁量に任された優れた行為だと思う)。そんなことを考えていると、どんなことも他人様に向かって語ることができなくなってしまうから、ある程度の妥協と割り切りや自分の棚上げをしているのが一般的なスタイルだろう。

だが、自分を蚊帳の外においていることを本当に意識しているだろうか。他人を思いやることを忘れてはいないだろうか。僕自身が傲慢なものだから、できれば意識したいと思っている。大抵はそんなこと忘れているのだが。

2007-09-28

集合知の虚像?

またタイトルに惹かれて読んでしまった。「集合知の虚像ドコモ2.0。みんなの意見はそんなに正しくない」というコラムだ。

コラムの最後にあげられているポイントを引用すると、

「クラスのみんな」で挙げられるのは都合の良い友人。
みんなの意見は条件次第でどうにでもなる。
とのことだ。

この引用だけ読んでもわけがわからないと思うので、多少補足する。このコラムでは、ドコモのCMは好感度が高いのに、契約者数は純減となっていることをあげ、CMの好感度を決める「みんなの意見」と契約者数を決める「みんなの意見」は違う、という当たり前なことを、おもしろおかしく書いている。ぜひ読んでみてほしい。

さて、結局のところ「みんなの意見」は正しかったのか、それとも正しくなかったのか。両方とも正しい、というのが僕の考えだ。当然なことだが、CMの好感度がよいことで高く評価されるのは広告代理店や製作会社、俳優などであり、また場合によっては企業イメージである。昨今の世の中の傾向では、テレビCMが売り上げに直接は結び付きにくい、という例も多く見られるという(参考:“テレビCM崩壊”時代、ネット広告の役割とは)。

とすると、CMの好感度の高いドコモは、ドコモで広告に関わっている部署の人間や広告代理店、製作会社が褒められるべきであり、契約者数が減っているのは経営や営業に関わる部署の人間が責められるべきであり、両者は別に矛盾しない。

特に集合知が有効にはたらくための条件などという話や、理論と現実のギャップの話などをしなくとも、すんなりと納得できる(ちなみに食い逃げの話は会計的見方を強調するための詭弁だと思っている)。「集合知の虚像」というタイトルに惹かれた僕はだまされやすいお人好し、という結論だ。

2007-09-27

利己的な遺伝子とネオテニー

ヒトはネオテニーとして生まれるという記事がどのように「SEは中流を目指せ」と関連するのかよくわからないが、とにかくタイトルに惹かれて読んだ。著者の主張には賛成するが、論旨には賛成できない。

1. 利己的な遺伝子
リチャード・ドーキンスは、遺伝子自体が計画や企図をするとはいっていないし、遺伝子が意識的に自己を保存しようとするよう個体に働きかけるとはいっていない。竹内某女史のようにセンセーショナルでエキサイティングなことを書く人もいるが、利己的な遺伝子は行為者に働きかけるわけではない。あくまでも進化は変異を前提とするし、変異する単位は遺伝子だ。生物の個体は進化をするのではなく、成長して繁殖して死ぬだけだ。


2. ネオテニー
常識的なことだと思っていたが、人類は確かにネオテニー的な動物である。それと能の発育とは少し文脈が異なる。頭蓋の形を見ると、ヒトの胎児はチンパンジーの胎児とほとんど同じである。そして霊長類は哺乳類の中でも発育の速度が遅いほうだが、ヒトはその中でも発育速度が極端に遅い。さらにチンパンジーと比べると、ヒトの大人は幼児とそれほど変わらない特徴を持っている(ヒトは大人でもチンパンジーの幼児と良く似ている)。こうしたことがネオテニーの原因となっているが、ネオテニーとして生まれる、という言いかたでは上手く馴染まない。ヒトの大人は幼形成熟して猿の赤ん坊と似た形の大人になる、というくらいに理解しておいたほうがよいと思う。

つまり、発育の速度が遅いことと、脳の発育のタイミングが遅い(サルと比べると幼少期が長い)ことは別の話である、ということ。またヒトの特異な性質として、柔軟な行動や遊びが幼少期を過ぎても見られることがあげられる。これもまたネオテニー的性格の所以だ。個性云々や人格云々はネオテニーをもって語るにはおかしい、ということだ。

2007-09-26

自分の価値

京極夏彦の小説を読んでいて、以下のような文があった。

社会を大海とするならば、個人はそこに漂う藻屑に過ぎない。歴史を砂漠とするならば、人生は一粒の砂でしかない。それでも人にとっては、己の人生だけが世界の凡てである。己の眼を通じて知る世界だけが唯一絶対の世界である。だから一粒の砂と砂漠とを、藻屑と海原とを等価なものとして規定しないと、人は立ち行かない。己は永遠に己としてあるのだと、どうしても信じたいのだ。個の否定は個人にとっては世界の否定に等しい。だから個人は常に主張する。私は私だ−−と。


本当は自分には価値がない、と思うことは、エヴァ的中二病の危険な兆候だ。実際のところは上記のように、社会と比較するならほとんど個人は無価値だろう。ハートマン軍曹は的確に表している。
人種差別は許さん 黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見下さん! すべて…平等に価値がない!
(『フルメタル・ジャケット』の台詞だけど、Googleで検索したら引っかかったので、ハートマン軍曹から学ぶ人材教育より引用。このサイトはポップアップや何かがうるさいけど面白い)

しかし社会と個人を比較するまでもない。個人は自分一人で完結するものではなく、自分の周囲の物理的他者・環境や、自分の関係してきた他者を含んだ過去から現在までの記憶の総体が個人としてのアイデンティティかなにかであり、個人と社会(あるいは世界)との境界線は極めて曖昧だ。さらに戯言をいえば、個人と他者の区別さえ曖昧になってくる。というわけで、あえて物理的な個人に限定するなら無価値だし、境界を世界側に広げるとほとんど社会と区別はつかずに極大の価値をもつ(かもしれない)。

こんなことを考えるのは、僕が中二病にかかっているからであるが、決してヱヴァンゲリヲンなんか観ていない。

2007-09-25

ちょっとしたコツ

ここ数ヶ月、料理をする回数は僕の方が配偶者よりも圧倒的に多い。配偶者曰く、僕の方が料理が上手いからだそうだ。確かに僕の方が料理歴は配偶者よりも長い。というのも僕は10年以上前から料理をしてきたのに対して、配偶者は4年程度しか経験がない(ただし、結婚後の三分の一くらいは僕が料理していた)。

料理の腕前が経験で決まるというのは、ある意味では悲しい話である。家庭料理などというものは職人芸でも芸術でもなく、単なる習慣だ。惰性といってもよい。もちろん習慣が悪いという理由もないが、鋭敏な感覚をもってこれに臨めば失望すること間違いなしだ。

例えば僕は今週、ゴーヤチャンプルーをつくった。手間をかけるところなどどこにもない。単純にゴーヤを塩でもんで水で洗い、ちぎった豆腐と一緒にゴーヤを炒め、味をつけ、卵を火が通り過ぎないようにかけるだけだ(料理の道を知っている人は、この手抜きぶりに怒らないで欲しい)。例えばカボチャのポタージュをつくった。タマネギをバターで炒め、カボチャとタマネギを牛乳でゆっくりと煮て、フードプロセッサーにかけ、塩コショウで味をつける。少しアクセントにカリカリに油であげたパンを散らしたり、バジルなどのハーブを散らしたり、クリームを入れたりする。例えばひじきを煮た。ひじきと一晩水につけた大豆とニンジンを油で炒め、油揚を後から入れ、水をひたひたにはって、酒とみりんと醤油で味をつけ、水気がなくなるまでゆっくり煮る。

難しいところなどどこにもない。時間や分量を計ったりすることもなく、単に目分量と勘で適当にこなして、味をみて調整するだけだ。この目分量と勘が経験のなせるところであり、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。

仕事でも同じことがいえる。「ちょっとやっておいて」の「ちょっと」は、人によっては「たくさん」になることもあり、その人がその業務にどれだけ携わってきたかに依存する(例えば僕は事務作業を苦手としているが、配偶者は実にテキパキとこなす)。こうした仕事は往々にして創造でも自己実現でもなく、単なる作業だ。単なる作業が悪いはずもなく、天才的な人が創造的・芸術的仕事をするのでなければ、作業は仕事には必要な部分である。

こうした習慣をのみこめるものとそうでないものがある。先に例にあげたように、配偶者は料理のコツを一向に覚えないし、僕は事務作業のコツを覚えない。必要に迫られればやるが、そうでなければ避けて通るに越したことはないと、お互いに思っている。

しかし覚えておいて損はないだろう。どれもちょっとしたコツでうまくいくのならば、学習コストなど享受できるメリットに比べればたいしたことではない。しかしどう覚えるのか振り返ってみると、僕のちょっとしたコツはどのように身につけたのか説明できないことが多い。それこそ「ちょっとしたコツ」があればちょっとしたコツを身につけられる、としかいいようもない。

これは暗黙知の次元の話ではない。単なる与太話だ。

2007-09-22

学校裏サイトでのいじめ

「学校裏サイト」で広がるいじめというコラムを読んだ。筆者の言を僕なりに要約すると、

  1. 裏サイトでは加害者の匿名意識がいじめを増長させる
  2. 保護者、学校、警察、ISP、携帯キャリアなど各関係機関は対応をするべきである
  3. いじめている子どもには親子関係の愛情問題がある
  4. 教師は全ての生徒に目をやれるよう、小人数学級にするべきである
という感じだ。こうまとめるとかなりとりとめもないが、まさにとりとめもない記事である。そもそも「いじめ」という難しい話の原因を特定することが僕にはほぼ不可能なのではないかと思うくらいだ。それなのにいじめの原因を愛情不足や匿名性の問題に集約したり、対応策として身元割り出しや教師の監視強化をあげる時点で、そのほかの雑多なものをばっさりと切捨てている。短いコラムだからしょうがないともいえるが、それでは「いじめの原因は主に匿名性と愛情不足にあるのか」と問えば、間違いなくNoだろう。

まずは匿名性について考える。いじめる側の身元がわかりにくいからいじめる側のハードルが低くなり、いじめに参入しやすい、と筆者は書いているように読める。この対応として関係機関が身元割り出しをするとか、ネットに触れることを親やISPやキャリアが規制する、というものを筆者はあげている。

この対応は「本来子どもはいじめに加担しない」という前提がなければうまく機能しない。どのような対応・規制をしようとも「本来子どもはいじめに加担する」ならば、どのような形かわからないがいじめは依然として行われるだろう。そして新たに行われるいじめに対して後から対応を追加していくと、結果としてがんじがらめの規制・監視をする羽目になり、対応する側の負担が上限を越えるだろう。

次に愛情についてだが、「子どもによせる愛情が足りないと、その子どもはいじめをするようになる」という話には、かなり違和感を覚える。これも全ての親が充分な愛情を子どもによせなければわからないが、それでもいじめがなくならなかったらどうなるだろう。そうまでいわなくとも、一人の親が充分な愛情を子どもによせていて、それでもその子どもが他人をいじめるようになったらどうだろう。

現在の学校教育制度の中では、いじめは必然的におこるものだ、という前提をたてるべきではないかと思う。どのような社会関係であろうともいじめ(と呼ばないかもしれないが)は行われる。いじめという言葉を使わないでいじめを説明すると、おそらく社会的力関係の強弱に基づいて行われる身体的・精神的・経済的暴力ということになるとおもうが、大人の社会でもそれは行われている。ただし大人の社会でそれが「いじめ」と呼ばれないのは、大人は複雑な社会関係を持っていて、また社会を構成する個々人が多様な価値観を持っているからだ。それに比して子どもは単純な社会関係しか持っていない上、社会関係やその社会内で共有される価値観が固定的である。

つまり普通に学校にいく限り、いじめは行われる。学校を監獄と見立てる人が数多くいるが、その監獄のような学校にいき、その学校の子供たち・教師たちは他の社会や他の価値観を知らず、いじめられないようにするための多大な努力に興味を持たないか、あるいはいじめられない努力をしない子どもは必然的にいじめられるのだ。

親の愛情不足にすると「親力」を宣伝するために都合がよいだろうし、もちろん親の力は子どもにあたえる影響は大きい。しかし親子関係だけで学校教育を語ることができないのは当然の理というもので、さらに教師-生徒関係、生徒-生徒関係だけで教育を語ることもできない。本当にいじめが問題なら、学校をふくめた社会の総体を検討するべきであり、生徒や教師や親といった学校教育の主要な登場人物に話をしぼるべきではない。それを検討することが面倒だったり困難ならば、まだいじめは本当の問題ではないのだろう。

例えば交通事故は当事者にとっては非常に大きな問題である。不幸にして亡くなられたかたや、不幸にして加害者になってしまった方もいると思うが、そうした方々に申し訳ないが交通事故はいわば計算済みの「やむを得ない」事柄なのである。本当に交通事故をなくそうと思ったら交通行政の抜本的な変更が必要とされるが、その利害関係者をふくめて検討すると、現状の交通事故数はきっと「しょうがない」レベルである。

学校教育に携わる人は、ほとんど全ての子どもと、ほとんど全てのかつて子どもだった人、そしてほとんど全ての親である。そうした人たちは当然学校教育には関心が深い。それでもなおいじめがなくならないのなら、それは利害関係者にとって「しょうがない」レベルでしかないという可能性もある。もちろん関係各者には真剣に検討をしてほしいが、残酷な結論となることも想像しておくべきだろう。

イマドコ

「イマドコかんたんサーチ」サービスを提供開始

この報道を見て、DoCoMoを解約しようかと思い始めた友人や恋人も数多いことだろう。常に見られるのは誰だって不快だろうと思うし、どこにいるか知られたくないことだって数多い。探される側の許可が毎回必要とのことだが、許可しない場面を想像すると、なんとなく不快だ。

僕が後ろめたいことをしているわけではないので、念のため。

と書いてから、全く自分の頭の硬さに思い至った。「ドコモ、「恋人の居場所がわかる」新サービスに問い合わせ殺到」というくらいの柔軟さがあると、生きていることが愉しくなれそうだ。

2007-09-21

携帯電話の必要性

時代錯誤と思われるかもしれないが、僕は未だに財布の中にテレフォンカードを忍ばせている。しかも絶滅危惧種とされるICテレフォンカードまで用意してあるという周到ぶりだ。

それでいながら携帯電話も契約している。月々3000円弱の「納税」を行っているわけだ。真剣に考えてみたら、僕個人としては携帯電話は必要ないのではないかと思えた。僕の携帯電話の利用形態を鑑みるに、連絡が必要なら大抵の場合は携帯電話よりもメールの方が確実だ。電車の中では通話はできない、人との待ち合わせには時間・場所をはっきりさせて遅れない、携帯電話でメールを打つのは苦痛と感じる、待ち時間は苦痛ではない、常に何か作業や本を持ち歩いている。

つまり携帯電話の必要性は、僕以外の誰かが必要としているから僕が費用を負担しているわけだ。というわけで、僕に連絡をとりたい人は「asm携帯基金」を作って、そこから賄うことにしたい。

などといっても誰も聞いてはくれないだろう。

2007-09-20

道具に拘る文化

例えば金融業ならその道の、運輸業ならその道の、さらにいってしまえばホワイトワーカーならホワイトワーカーなりの、仕事のやりかたがあるはずだと思う。それなのに、IT屋さん達はそれぞれの会社にそれぞれスクラッチから作ったようなものを納品したりする。受け入れる側も自分たち流にカスタマイズできないような製品は受け入れなかったりする。

それは現状の費用対効果を考えると無駄なことだ。しかしかつては無駄ではなかったのだろう。仕事の道具や流儀に拘ることで、その仕事や成果を洗練させてきた歴史があるからだ。

例えば出刃包丁があれば大体どんな魚もおろせるとか、鉋ひとつでどんな木もかけられるとか、汎用性の高い道具を使う場合にはそれは芸術といえるほどに洗練された技術がある。仕事の流儀にしても、少しずつ改善していく上で、比類なき完成度にまで至る仕事の流れを作ったりしてきた。

しかしそうした考え方は、もうそろそろやめたほうがよいのではないか、と思う。特にホワイトワーカーの働きかたが、他社に移ったら一からやりなおしになってしまうのは無駄だ。昨今の人材の流動化を見る限り、道具に仕事をあわせるとか、道具に沿うように仕事のやりかたを変えるとかしてもよい頃だと思う。とくにその道具が効率のよい物であればなおさらだ。

例えばviは優れたエディタだと思う。慣れるとこんなによい道具はないと感じられたりする(僕はemacs派だ)。しかしそれはIDEの隆盛を見るとまるで旋盤機に鑢で立ち向かうかのように見えたりもする。本当は鑢の方がよいのかもしれない。鑢は既に完成された道具で、長い使用実績があり、なにより手に馴染むうえ仕事も愉しくストレスなくできたりする。それでもその域に達するまでに長い道を通ってきたことは間違いないだろう。いまここに初めて鑢を使う人間と旋盤機を初めて使う人間がいたら、後者の方が圧倒的に効率がよいはずだ。例え話を元に戻すと、達人でなければviを使うよりeclipseを使ったほうが効率的だったりする。

最もミクロな視点、つまり人間と他者とのインタフェースは(例えるなら包丁の柄、キーボード、話し言葉、車のブレーキ、スイッチ類など)枯れた物、自分に馴染む物を使うのがよいだろうが、もう少しマクロな視点、つまり系と系のインタフェース(例えにくいけど仕事のやりかたとか、機械化できるような作業とか)は道具に人をあわせたってよいのだ。

伝統の職人芸でもない限り、道具に拘り続けて他に遅れをとるよりは、道具は最新の物に敏感に反応してもよさそうなものだ。そもそも「拘る」というのはあまり美しいことではないと思っているし。

訳あってブログ開始

諸般の事情により、ブログを開設しようと思い、今日に至る。

mixiなどSNSの中でいろいろと書いたりしてきたものを、ひとところにしようと思いつづけて幾星霜。自分用のメモの数も数知れず。そんななんやかんやで、最も手っ取り早い方法としてbloggerに開設することにした。

そのうちにまた引っ越すかもしれないが、とりあえずその時まではこのままで。

2007-09-18

光あれ

なんとなく覚え書き。

僕の持っている聖書の創世記には以下のように書いてある。元は旧字だが新字にかえ、一部ひらがなにして引用する。

元始に神天地を創造たまへり 地は定型なくむなしくして黒暗淵の面にあり神の霊水の面を覆たりき 神光あれと言たまひければ光ありき 神光を善と観たまへり神光と暗を分ちたまへり 神光を昼と名け暗を夜と名けたまへり夕あり朝ありき是首の日なり

僕の気に入っているのは光あれ、というところだ。一切の無の状態に神がいる。天地を作る。そして光がある。さて、この光を光と認識したのは誰だろう。神が神ではない異物(光)を生み出し、それによってさらに異物(闇)が生まれ、天地を見ることができた。神自身には、この神ではない何か(光と闇)を認識することができないのではないか、という風に僕は思う。

神は単体では神であることができない。光が生まれた時点で、その光を認識した何者か(神自身の中にいる他者かもしれない)がいなければ、世界は神だけで終わってしまう。それなのにきちんと光があり、闇があるのは、神以外の何かがそこにあったからであり、つまりは一切無が「あった」からか、神が他者を内包していたかのどちらかだったり。

もしもこの創世記の冒頭を読んですんなりと納得できる人がいたら、その人が光を認識できる人であり、神以外の何かである。つまりこの場面には「私」がいるわけだ。

こんなことを書いたら信心深い人に怒られるだろうと思うが、これを読む人には信心深い人がいないと想像する。まあ、単なる本好きの想像と落書きでしかないので、目くじらを立てられることもあるまい。

2007-09-16

自転車生活の愉しみ

疋田智著『自転車生活の愉しみ』を読んだ。

僕は人並みに(おそらく人並み以上に。だけど比較したことがないからわからない)自転車を好んでいる。それなりにまともな自転車を愛用し、以前は通勤にも使ったりし、メンテナンスもそれなりに自分でする。が、本書の感想を単純に言うと、前半面白く、後半面白くない。

前半部分では自転車という乗物についてのみ書いてある。自転車の選びかたやメンテナンスのしかた、乗りかたなどなど、読みものとしても面白いし、役に立つ。

後半(というより後三分の一)はヨーロッパの自転車事情見聞記のようなものだが、ヨーロッパの自転車事情や道路行政と日本のそれとを比較しても、単純にどうといえないところを、筆者は単純に言いきってしまっている。「日本の道路行政をこのように変えるべきである」という明確なイメージは、単純に自転車先進国のそれとは重ならないはずだ。地形も違えば風土も違う。

日本の道路行政の明確なビジョンを、僕も含めた多くの人が納得する形で著者が描いてくれたら、僕は大満足するところだ。あるいはそれを描くことが困難なら、日本の道路行政について言及せず、前半のノリで全てを貫いてくれると読むほうとしては気持ちがよい。

偉そうなことを書いたが、僕も明確なビジョンを持っていない。筆者にこちらが勝手に期待したのは、筆者の社会的立場もあってのことだ。

2007-09-14

植物イデオロギー

中国思想に関する諸橋轍次の本を読んでいて、以下のような文章があった。

東洋は、わが国でも中国でも、古来、植物の姿を見て、イデオロギーを立てる傾向が強いのです。「めずる」ということばは人や物を愛することであり、「めぐむ」ということばは、同胞愛を表したものです。そしてそれはいずれも木の「芽」をはぐくみ育てる原義からできたことばです。そのめずること、めぐむことが故障なく行われれば、それが「芽でたい」ことにもなり、「めずらしい」ことにもなるのです。

漢学の大家がいうことだからもっともらしいけど、まるで恩師O先生のことばを聞いている思いだった。一言でいうと、「本当ですか?」だ。本当だったら面白いのだけど。

自分で確認するほどの知識や能力はないので、他力本願で誰か確認よろしく。

2007-09-11

胡散臭い

総務省、「ブロードバンド・ゼロ地域」解消へ戦略会議

上記の記事によると「デジタル・ディバイド解消戦略会議」というものが開かれるそうだけど、広い帯域を利用できたり携帯電話の電波が届いたりすることはもちろん大切だとおもうが、情報リテラシーをどうにかするほうがもっと喫緊の話ではないかと思う。

まずブロードバンドである必要はない。ナローバンドであろうとも、基本的にはテキストがネットワーク上で交換されれば最低条件は満たされると思う。何かのジョークに、カタツムリにDVDを運ばせたほうが効率がよいというような話もあるように、またRFCのジョークで鳥類キャリアによるIPデータグラムの伝送規格がある(RFC1149)ように、例えば郵便などの既存の情報伝達方法でまにあうのではないかと考えるためだ。

もしもまにあわなかったら、それはその時に考えればよいこと。そもそもブロードバンドの普及は政府主導で行われたことではないし。あれば便利となければならないを混同してはいないか、と疑う次第だ。

次に携帯電話だが、これもブロードバンドと同じように、なければならないものではない。そもそも電話自体が、なければならないものではない。

「早稲田大学や東京理科大学の教授、北海道、岩手県、和歌山県などブロードバンド・携帯電話が利用できない地域を持つ自治体、NTT東西地域会社やNTTドコモ、ソフトバンクモバイル、KDDIなどの事業者が参加する」と記事にあったが、どうにも胡散臭さを感じてしまう。かつて八丈島にブロードバンドをもたらしたときと同じような。

2007-09-09

窓雑感

飛行機の窓に思いを馳せた。まず第一のとりとめもない思いは、飛行機の窓はどうして座席数とシンクロしないのだろうということだ。電車や乗用車、バスの窓はシートとシンクロしている。しかし航空機の窓はシートとシートの間にあったり、なんだか中途半端だ。

そもそも飛行機に窓をつけるということ自体、非常に無理がある。機体は様々な力を各方向から受けるため、窓のような構造の弱いものをつける余裕があるなら、その分剛性を高めたいだろう。

地球の自転方向と並行に移動する飛行機なら、それほど窓の必要性があるとも思えない。いつだって昼だったり夜だったりする窓の外の風景を見ても、それほど刺激的ではない。離着陸時の風景は確かに楽しいが、高度1万メートル近くで水平飛行する時の風景はそれほど楽しくない(僕の主観だ)。しかし人間の窓を望む欲求は時に合理性よりも優先される。例えるならば、特異な業務形態にあわせてパッケージソフトを大幅に改変するような不条理さを、航空機設計エンジニアたちは覚えていることだろう。

その不条理さを押しのけて作られた窓の形態は、諸賢がご存知のように角の丸い方形だ。そこから第二のとりとめもない思いが始まった。川原正敏の漫画で『海皇紀』という作品があるが、その中で帆船やガレー船で窓の丸いものがあったような記憶がある(砲門は四角だったが)。記憶の間違いかもしれないが、木造船は舷窓を丸くする必要はない。木材、特に水分を含んだ木材は弾性に富み、波によってきしんでも、きしみを船体全体で分散させることができるからだ(この認識は間違っているかもしれない)。しかし金属は負荷のかかる部分から金属疲労を起こし、舷窓が四角ければ四隅から劣化していく。

航空機の窓も同じ理屈で、力の分散をはかるために窓に角をつけていない。人間の不条理な要求に対する譲歩として、優れたソリューションである。しかしその優れた解決も、まだ人間の要求に完全に応えていない。シートひとつにたいして窓ひとつ(あるいはふたつ、それ以上)という要求は非常に贅沢なものだ。このあたりからはエンジニア的発想よりは経営的発想になってしまうが、最大積載重量とシート数の折り合い、一人の人間がどれだけのシート間隔なら苦痛を感じなくともすむかという費用対効果、などなどの兼ね合いから、窓をシートとシンクロさせることが別なロジックで不可能になっているのだろうと想像する。

まあ、飛行機に乗って存分に窓の外を眺めたいなら、設計エンジニアたちの苦労を偲びつつ、ちょうどよいシートになる幸運を祈るかビジネスクラス以上の料金を払うことだ。

ついでに思い出したが、高校生の頃に某航空会社の某国内線に乗ったとき、乗客は数えるほどしかいなかった。古き良き時代であったろうか、それとも現在でも同様な状況だろうか、確認はしていない。

2007-09-08

日向の読書

僕はよく本を読む。もちろん研究者やなにかではないので、読むのは本当に雑多な本だ。例えば今週読んだ本はニコルソン・ベイカーの小説(読みかけ)、エリアス・カネッティのエッセイ、ビジネス本2冊、鈴木大拙の評伝(読みかけ)、ミステリ、技術本といったように、とりとめがない。

それらの本を、持ち歩き用・まとまった時間に読む用・空き時間に読む用などと分けて、並行して読んでいる。そのなかの「空き時間用」の本は、ベランダで喫煙しながら読む場合が多い。しかしベランダで本を読むと、直射日光の下で読むことになるので、部屋に戻ったときには瞳孔の暗順応が速やかに行われず、少しの間不愉快になる。

以前は直射日光の下で本を読むときにはサングラスをかけたりした。しかしここに、画期的なソリューションがあることを最近発見したので、諸賢にご報告したい。

片目を瞑って読む、それだけだ。そんな単純なことにこの歳になって気がついた自分の不昧さに恥じつつ、まだこのシンプルで便利な方法を試したことのない人に、ぜひ試してほしいために報告する次第だ。

2007-09-02

宇宙世紀まで持ち越し予定

実家には相当数のレコード盤が眠っている。それらコレクションのなかで僕の好みにあうのはある種のタンゴと極小数のジャズくらいなもので、かねてより親との趣味の差を見せつけられたものだ。レコードは主に両親の世代が購入したものだから、彼らの好みが最優先される。僕の好みなんて下らないものは、僕がちょっとした生産活動に入ってから自分で買った。彼らの好みはアルゼンチンタンゴ、ワーグナー、ブラームス、琴曲などが中心だ。

しかし先日実家にいった折、古いLPを漁っていたら『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』のサウンドトラックを見つけた。他にも『砂の十字架 / スターチルドレン』も見つけたが、こちらはEP。これはひょっとしたらちょっとした価値があるのではないかと思い、とりあえずターンテーブルにのせた。期待したとおり盤面に傷はなく、きちんと保管されている。

放すつもりはないが、もしもいま購入しようと思ったらいくらくらいになるのかgoogle様と相談してみたら、800円から3000円くらい。








愛着はお金で換算できないのだと自分を説得した。

2007-09-01

宗教行事にいった

祖母が亡くなってから50日経ったので、「五十日祭」というものをとりおこなった。それ系の習慣になじみのない人のためにその一連の流れを蛇足ながら説明するが、神主さんに祭詞(祝詞みたいなものだ)をあげてもらい、○○家累代之奥都城(おくつき)に骨を納め、飲み食いをした。

四十九日と違って坊さまは来ないし、経文もあげられない。お経好きの僕からしたら祝詞はお経よりも音楽的面白みがたりないが、意味がわかりやすいので、その部分は祝詞の方が面白いような気がする。

そもそも神道には葬式はないという話を読んだことがある。死は穢れであり、神職につくものといえ穢れを扱うことはしなかったのだとかなんだとか。しかし祖霊信仰の習慣と仏教が交わったときから(そもそも仏教には死者を弔う術もないはずだが)葬式は仏教の役割となり、神道の葬式は神仏習合の考え方から生じた神社の中にある寺院、つまり神宮寺でとりおこなうことになったという。本当の話かどうかは確認していない。

まあとにかく、明治維新とか廃仏棄釈とかいろいろな政治的絡みもあり、僕の祖母の家では神道式である。そのお祭りで神主さんと話をして、いろいろとこれまでに知らなかったことも聞けた。

例えば仏教でいうところの戒名。仏教では人は死んだら仏になるとかならないとか(そもそも輪廻転生だろうから、仏様になるようなことはないのではないか。即身成仏、命あるものみな仏だと個人的には思う)。神道には戒名がない代わり尊称があり、人は死んだら神になる。八百万のこちらは仏教式の「仏になる」というよりはいろいろと習慣とかみ合うように合理的に思える。

その尊称は年端もいかずに亡くなった方であればasm命(asmのみこと)のようになり、きちんと年齢を重ねて亡くなったかたはasm大人命(うしのみこと)と呼ぶ。女性であれば○○刀自命(とじのみこと)という感じだ。さらに90とか100とか年齢を重ねると、尊称の頭に「大」がつくとか「翁」がつくとかいろいろ聞いたけど、正確にはよく覚えていない。そもそも正確なきまりはないのだろうと思う。

また、神道式で葬式をする家がどこそこの地方に多い理由はこれこれだ、というような話を聞いたが、その中で面白かったことがふたつ。ひとつは檀家制を施行したときに某地方の寺の住職が嫌な奴だったから、近隣のものはみな神道式にしたということ。もうひとつは神道式の葬式の方が費用がかからないから神道式にした例があったということ。人それぞれだし、地域色のディープな話題だった。

ついでながら、親族の最長老の車(彼は自分で運転する)に魅せられた。HONDAの初代LIFE(どんなに新しくても1974年以前の製造)であるが、ここまで長生きすればまさに「LIFE」という感じだ。あえてピンぼけで撮った写真がその車だが、まだ車検を通っているところがすごい。ナンバーは『カリオストロの城』で有名な埼玉ナンバーだった。現役で走るアンティックカーを長老が運転している様は、実に堂々たるものだった。

2007-08-31

バナナの使い方

住民税を多額に払っている関係で、区の公共施設を積極的に活用しようと思い立った。つまりメインとしては図書館を利用しようというわけだが、以前書いたように、自宅近所の図書館は非常に腹立たしい。

しかし、OPAC検索端末の使いにくさに苛々しながらビジネス本1冊を予約し、CD2点を借りた。自宅に戻ってプレイヤーにCDを入れたら、なんとびっくり認識されない。普段机上で使っているPC(松下 DVD-RAM SW-9585)でも読み込めないが、どういうわけだか室内に転がっていたHITACHI GD-7000を使ったら読めた。

とりあえず自宅にある音楽CDプレイヤーでは全滅だったので、図書館に返却した(ついでに文句もいった)。なぜ認識されないかは面倒なので、ハードの問題かメディアの問題か原因をつきとめてはいないが、ディスクが縦横無尽に傷ついていたことは確かだ。

そこで、読みとり面の傷を落とそうかと思ったけれど、借り物のCDなので無闇やたらなことはできない。とりあえず参考までに傷の落としかたを調べたら、面白いやりかたがあった。以下参照。


バナナですよ、バナナ。

2007-08-29

常温飲料

僕はまったくの下戸だが、以前バーテンダーをやっていた関係もあり、下戸にしてはお酒の味についてわかる方だと自負している。ついでにいえば焼酎5種類を友人たちと利き酒をしたとき、匂いをかいだだけの僕が正当率が一番高かった。

とはいうもののやはり下戸である以上、お酒の味に関してああだこうだいうのは僭越だと思うが、ビールは旨くないと常々思う。近頃の高級指向で差別化した商品や外国産はどうか知らないが、これまでの僕の数少ないビール経験からそう思う。

そもそも「とりあえずビール」といえるくらいに非個性的な酒は酒としてどうかと思うし、酒の歴史を鑑みるに、室温で飲めない(外国産のものは違うらしいが知らない)ようなお酒もあり方として正しくないと思う。

そもそも冷やさなければ旨くないようなものは本来旨くないのだ。冷やすとなお別種の旨味や面白みが増すというなら話はわかる。例えば各種カクテル。本来別々に飲んでも旨いものをあえて混ぜたり(混ざらないように注いだり)冷やしたり(温めたり)すると、別々に飲むのとは違う面白さがうまれる。例えばワイン。冷やして旨いワインは冷やさなくとも旨いのではないか、冷やした方が場合によりぴったりとくるのではないかと思う。例えば日本酒。冷やでも燗でもそれぞれの味わいがあるのではないかと思うが、かといって常温でも良いと思う。

その他にも各種蒸留酒は冷やしても氷を入れても冷水で割っても、常温でストレートあるいは常温の水で割る飲み方が残されているものだ。つまり、冷やさなければ旨くない(と言われる)酒はビールくらいしか思いつかないのだ。ちなみに僕はエールとやらを飲んだことがない。

つまりいいたいことは、ビールって本当は旨くないんじゃない? ということだ。全国のビール愛好者を敵に回すつもりはないが、身辺数人のビール愛好者くらいなら敵に回しても良い。しかし本当は「ビールは常温に限る」という猛者が出現することを期待する。

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ついでにいえば、僕は氷を(ふんだんに)入れた清涼飲料水やお茶・コーヒーをあまり好まない。だって想像すればわかるとおり、コーラの水割りを飲みたいとは思わないでしょう。同じようにお湯を入れたカップに淹れるコーヒーなど飲めたものではない。このように清涼飲料水やお茶も、常温で飲めないようなものは本当は旨くないのだと思うが、まだ考察がたりないので断言することは避ける。特にお茶やコーヒーは難しいが、しかし水だしのコーヒーやお茶もおいしいから、ちょっとだけいっておこう。やっぱり常温ですよ。

2007-08-27

散財

そもそも僕にはそれほどの物欲はない。もっとも他人の物欲と比較をしたことがないし、「物欲」を測定したこともないから、本当に物欲が少ないかはわかりかねる。ただなんとなく物欲に乏しいな、と思っているだけだ。

したがって、広告業界にいる人やメーカーにいる人には申し訳ないが、ほぼ販売促進メディアをみない。みるのはブラウザの広告ブロックをくぐり抜けたもの、スパムメール、電車の吊り広告、街中の広告くらいなものだ。

物欲があまりない結果として、書籍を例外とするならば自宅にものが増えない。まあ多少は増えているけど(プラモデルとか)SilentH氏に「本当にものが増えないですね」と言われたことがある。彼が世間一般の物欲標準にいるかどうか疑問だが、まあそういうことだ。

しかし最近物欲に駆られて、目下のところ生活に必要のない家具を買った。卓袱台である。丸く、足がすっきりと折り畳めて、それほど大きくもなく、正座で使える高さの、しっかりとした木製の卓袱台が欲しくなり、家具売り場を探したものの、なかなか条件にそったものが見つからない。星一徹がひっくり返すようなものがよいのだが、売っているものは何やらよくわからない材質だったり合板だったり、足が金属性だったりする。

探しに探してようやく見つけた素敵な卓袱台は、昭和10年代のものだった。配偶者も気に入ってくれている。久々の散財だった。これは自慢話である。

2007-08-23

Fはいくつ?

ちょっと面白い話を読んだ。
以下の文章を読んで、いくつ「F」が入っているか数えてください。

FINISHED FILES ARE THE RE-
SULT OF YEARS OF SCIENTIF-
IC STUDY COMBINED WITH
THE EXPERIENCE OF YEARS.

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僕はすぐに6つだと思った。しかし、週刊科学雑誌のNew Scientist(英語で書かれた雑誌だ)によると、3つだと数える人が大多数だという。この理由として考えられるのは、
・読むという行為が発音に頼っている場合に "of" は見落としてしまう。
・普通に読む場合、名詞や動詞など重要な単語だけを拾い読みする。

推論として、
・英語が読めない人、7歳児、校正係などなら見落とすことはないだろう。
・"of"のなかのFは"V"として読んでしまうのだろう

推論を補足したり反駁する経験談として、
・英語教師は3つと数えたが、数学教師は6つと数えた。これは句として読むか、文字の数を読むかの差であると考えられる。
・以下の文を読解力の高い7歳児に読ませてみた。
THE
SILLIEST
MISTAKE IN
IN THE WORLD
すると即座に"The silliest mistake in the world"と読んだ。つまり意識的に意味をくんで読むときには読んだ当人による変換がなされる。

僕は英語が得意ではないと断言できる。世間的には読める方かもしれないが、少なくともマイミクシイになっている方々と比較すると、圧倒的に英語が苦手な方に入るだろう。そのためか、僕は文章を読むというよりは文字を数えたので、即座に正解したのだと考えられる。

ちょっと悔しかったので、配偶者に読ませてみた。彼女はしばらく読んでから「4つ」と答えた。一体どういう読み方をしたのか疑問である。

2007-08-11

クールビズとか

話題になっている参議院のネクタイ着用発言(僕は世間から3日遅れくらいで時事を把握するようになっている)を読んで、各種の潜在的問題に思いを馳せた。

まず第一に、現在の国会での議員諸氏が見苦しいという問題。冷房を抑えようと抑えなかろうと、人前に出るなり公的な場所で仕事をするなりするときにはそれなりな体裁を整えるべきではないか。明治時代から続く参議院(貴族院)がどのような服装で審議に臨んだかを考えると、現状の「クールビズ」に違和感を覚える。それが背広にネクタイという形である必要はないが、何となくネクタイをとっただけとかよりは、いわゆるビジネスカジュアル風の服装の方が見栄えが良いと個人的には感じる。ちなみに僕は背広を着るときにはネクタイを締めないと落ち着かないが、滅多に背広を着ることはない。

第二に、「スゥツ!! スゥツ!!」な人たちの昨今の隆盛と嘆きぶりを鑑みるに、我々男性としてはできるだけ彼女達の望みにそった形の服装をとる配慮も必要とされる場合がある。もちろん僕はそうした配慮はないが、西岡氏の大切な人は「スゥツ!! スゥツ!!」なのではないかと邪推する。あるいは様々な先生方のカップリングをこの夏に有明方面か池袋周辺で観察することができるかもしれない。

第三に、制服で国会見学をする生徒達に対する配慮だが、生徒達とっては非日常の場面であり、彼らの仕事場ではない。いわゆるお客様なのだから、どのような恰好で見学しようとも彼らの自由というものではないか。そうした自由を無視するのは民主的とは言い難い。

第四に、「そんな話をするならばいっそのこと制服なんぞやめてしまえ」というラディカルな意見も散見するが、これは一部の「制服萌え」な方々の強固な反対を予想するべきだろう。もちろん僕が高校生の時に『全国女子高生制服カタログ』を読んだことは公然の秘密だ。ただし僕個人は制服のない高校に通っていた(唯一の不文律の服装規定は「近所迷惑なため下駄禁止」だった)。

第五に、議事堂ってそんなに暑いのだろうか。仮に暑いとしたら、会議時間の短縮努力が期待でき、生産性の向上のために積極的に暑くするべきだと思う。どうせ審議中はたいして頭脳労働はしていないのだろうから。もちろん優秀な官僚や議員は大勢いて、彼らの頭脳労働や事務能力を僕は高く評価している。しかしそれは審議中にはあまり発揮されていない。

結局何が言いたいかよくわからないが、あれこれ考えると各論併記になってしまうということだ。一部極小数意見も含まれるが。

2007-08-09

ケータイは電話である

やや旧聞となる話題かもしれないが、「"電話"でなくなったケータイ」というコラムがITproにあった。コラムの日付は 2007/08/07 である。

記者氏は思いきり勘違いしているが、携帯電話の通話機能が使われていないわけは無い。通話機能の使用頻度というか、調査項目で言うところの「1日あたりの平均通話回数」とデータ通信の比率に関しては、この調査では有効なサンプルが得られないため、調査結果自体が疑問視される、というべきだ。


携帯電話の利用に関する実態調査
から以下を抜粋するが、

●調査実施媒体
1.無料ホームページ作成サービス 「00HPメイカー」
2.無料メールマガジンポータルサイト 「PREMA」
3.無料で閲覧・投稿できる参加型小説サイト 「幻創文庫」
4.モバイル総合ゲーム情報サイト 「ゲー選」
5.女性に特化したショッピングサイト「ピンクベアshop」
6.TV番組をテーマとしたエンタメサイト「テレぐら」
7.オタク系SNS「オタバ」
8.投稿ランキング型掲示板サイト 「Ranking Cafe」
9.GPS連動エリアポータルサイト「ひまクリ」
10.自己紹介&プロフィールサイト 「マイプレ プロフの輪」
11.女性のための生活提案サイト「Woman Style」
12.携帯評価コミュニティー 「ファンつく」
13.携帯専用ペットゲーム型コミュニケーションサービス「BitPets」
14.着うた・着メロ配信サービス「着メロドットコム」
15.貯めて貰えるポイントサイト「貯め貰」
16.稼いで貰えるポイントサイト「イキナリ!超金ゴン」
17.人気無料コンテンツのポータルサイト 「モンキータウン」
18.口コミ系掲示板サイト 「みんなのくちこみ」
19.恋愛Q&Aポータルサイト「みんなの恋愛相談」

という調査媒体から通話回数やデータ通信量についての質問を設けるのは愚行だ。そもそも一体誰が上記の調査媒体を知っているというのか。僕自身Web業界で糊口を凌いでいるが、上記のうち耳にしたことのあるサイトは半分くらいだ。つまり、携帯電話を主に通話機として利用するユーザのほとんどはサンプルから漏れているといってもよいだろうし、サンプルは前提として携帯電話による音声以外のデータ通信を日常的に行っている。偏りのあるサンプルからは偏りのある結果しか導かれない、というのが道理というものだ。

記者氏には、センセーショナルな見出しをつける前に、冷静に調査結果を見てほしかった。というより、各キャリアの戦略や調査はたぶんそれほど間違ってはいないだろうから、周りが騒いだだけの話か。

ちなみに、僕は各キャリアの戦略(というか料金プランや機種のラインアップ)には不満を持っている。僕がどのような携帯電話を欲しがっているかというのは、また別の話だ。

2007-08-08

パンツ考

パンツの話である。

Peter Piper picked a peck of pickled peppers;
A peck of pickled peppers Peter Piper picked.
If Peter Piper picked a peck of pickled peppers,
Where's the peck of pickled peppers Peter Piper picked?

僕が中学生のころは「ピィタァパイパァピックトアペック(後略)」と読んだものだ。しかし学校の英語教育はどちらかというとイギリス英語に近く、高校生のころは「I was ...」を、「アイウォズ...」と読んだりもしていた。

ところが昨今の流行りはアメリカ風英語(といってもボストン風ではない)で、「ピィラァパイパピクラペク」などと聞こえたりする。同じように、「パンツ」といえばいわゆるズボンのことをさしていたりして、こっそりと赤面してしまうこともある。夏のパンツは白でキメる、とか。

そしてようやくパンツの話である。『パンツをはいた猿』のパンツで、つまりは肌着だ。男の子がいつ、そしてどのような自分用のパンツを買うかで、その男の子のアイデンティティの一部が形成されるという重大な事実を、乙女の皆さんにわかっていただきたい。

赤子はもちろん自分のおしめについて文句を言ったりしない。布がよいとか紙がよいとか、親による押し付けだ。小学生もおおよそは押し付けだろう。そして古き亭主関白の家では、おとうさんもおかあさんが買ったパンツを唯々諾々とはいている(うちの実家に限った話かもしれない)。問題は中学生、高校生だ。

僕が通った高校(県立男子校)では、生徒がしょっちゅう人前でパンツを脱いでいた。まわりから囃したてられるとお尻をまくるだ。その時にはいているパンツを、僕はこっそりと、しかし執拗に観察していた。すると「柄付きトランクス:グンゼ風白ブリーフ = 9:1」くらいの割合だったように思う。小学生のころの身体検査ではグンゼ風白ブリーフ率がほぼ100%で、中学生の頃はグンゼ風白ブリーフ率は80%くらいだったように思える。

ここに歴史的視点をささやかに加えるならば、およそ昭和40年くらいまではトランクスタイプのパンツが主流であったと推測される(ソースは誰かに探してほしい)。しかし昭和40年代中期からはブリーフが「かっこいいもの」として登場し、以後少年たちやおかあさんたちの心をわしづかみにしたのだろう。しかし時代はめぐり、僕が高校生のときはそれが「かっこよくないもの」として認識されるに至ったと推測される(論拠は誰かに作ってほしい)。おそ松くんのデカパンと、のび太のブリーフが時代を象徴している。

機能的側面に目を向けるならば、どのような形態をしていようとも一長一短といえる。もちろんなんらかのスポーツにふさわしい(あるいはふさわしくない)形態のパンツもあろうし、体質によってもどのようなものがベストチョイスか一概には決めにくい。

多感な時期にどのようなパンツを選択するか、あるいは選択させられるか、そして何を思うかは、僕自身の実感を語ることはやめよう。しかし、少女達がこうした微妙な機微について無頓着であることはよくないと、ささやかながら啓蒙活動を行う次第だ。

ちなみに今はさらに多様化が進んでいるので、年頃の乙女には男性用の肌着をよくよく観察してみることをお勧めする。何も男性が着用しているものを直接見る必要はなく、各種の売り場にいってマーケティングするだけで良いのだから。それほど難しいことでもあるまい。

今日の日記は、とある妙齢の乙女の疑問に端を発する。件の妙齢の乙女にはさらなる綿密な調査と論考を期待したい。

2007-08-04

バウムクーヘンの謎

諸賢がご存知のように、結婚式の引出物などでバウムクーヘンが振る舞われることが多く、僕も最近口福にあずかった。曰く「年輪を重ねる」縁起物らしい。このバウムクーヘンなるお菓子は説明するまでもないが、中心に穴があり、断面に年輪のような模様が浮き出ている。ドイツ語で「木」「菓子」に由来するらしい。

しかし、一度この年輪模様の菓子がバウムクーヘンとして定着すると、時を経ることによって名前は形骸可し、年輪の面影が見られないものも存在するという。というのも、知人が「真っ黒いバウムクーヘンを見た」と言い張るのだ。

僕は、年輪模様のないバウムクーヘンは既にバウムクーヘンではないと思う。しかし決して白くもなく山でもないモンブランや、カマンベール産ではないカマンベールチーズ(AOC的にはカマンベール・ド・ノルマンディでなければOKなのだろうけど)という前例があるので、バウムクーヘンであると言えなくもない。それに、もしかしたら熱帯あるいは亜熱帯にはえる木の菓子なのかもしれない。

必ずしも名は体を表すわけではない。

2007-07-31

努力にも限度があると

自分はもうこれ以上は仕事できない、というところから5回くらいは壁を越えられる気がする」というエントリがある。

思うに、これは自分に向かって言うならよいけれども、それを他人に言ってはいけないと思う。特に企業のトップになっている人は。

こういうことを言えるのは比較的心身が丈夫な人である。そのような心身の状態に持っていくのは、仕事をする上でとても大切なことだと思うけれど、それを自分で行うのと他人に言われるのではずいぶん違う。下手をすると受け取る側としては根性論に堕してしまう。

言いたいのは、努力にも限度があるということ。努力のできない人もいることを許容するだけの度量があってほしい、ということ。僕が怠け者だからそう思うだけではなくて、経験的に「ひとは結構すぐにダメになる」と知ったので断言できる。

ついでながら、この人の会社のガムをもらった。なんとなくもったいないのでまだ食べていない。

2007-07-21

都市伝説とか

『オルレアンの噂』をかつて興味深く読んだ。「口裂け女」の話とか興味深く調べたりしたこともある。そして昨今、ブログで都市伝説について言及されることが増えているという。

kizasi.jpで"ブログでささやかれる「都市伝説」"という特集がある。

単純にエントリーの中に「都市伝説」という単語がはいっているものを集めただけのようだけど、なかなか面白い。

・現代女性のお腹を解剖すると口紅で紅く染まっている
→消化の仕組みについて勉強しましょう。

・「天空の城ラピュタ」には別のエンディングがある
→映画編集作業というものを考えれば、確かにあるかも。封切り前とかに観たら別のエンディングがあってもおかしくないし、ディレクターズカットがあってもおかしくない。僕は観たことないけどね。

・時速120キロの風圧はおっぱいの感触だ
→それほど似ているわけではない。人それぞれだし。

・ハンバーガにミミズ(ネズミ、その他)の肉を使っている
→その方がコストがかかるでしょ。ついでに言えば牛肉でないほうが美味しいかもしれない。

・どこそこにカップルでいくと、別れる
→どのカップルも最終的には別れます。

・ケーブルが切れてエレベーターが落下しても、接地の寸前にジャンプすれば助かる
→落下し始めた階までジャンプできる跳躍力があれば確かに助かる。しかし接地の瞬間をどうやって確かめる?

というか、「都市伝説」と言う言葉が誤用されている(はっきりと定義されていないし)ばかりなことに憂慮する保守的な言語感覚の僕としては、嘆かわしい世の中になったと思います。

2007-07-16

亡き祖母のために

僕はいい歳ながら、祖母が亡くなったことを書く。30代男がおばあちゃんのことを書くことを笑ってほしい。

祖母はそもそもがお嬢さん育ちだったのだろう。地元有数の資産家で生まれ、三人きょうだいで育った。想像に過ぎないが、祖母の言動からよほど周りから大切にされて育ったように思える。

金銭感覚もちょっと変わっていた。例えば「茸を食べたいから山を買った」「孫が落ちるから池を埋めた」「葡萄を食べたいので葡萄園を作った」など、発想のしかたが僕とは違った。その山で遊んだり、池に落ちたり、葡萄を食べたのは僕だ。

活発かつ活動的な質で、昭和63年に祖母の夫が他界するまでは年中世界中に旅行していた。幼い僕はそのお土産や話を楽しみにしていたものだった。単に旅行をするだけでなく、地域での活動にも盛んに関わっていたようだ。

活発で押しが強いお嬢さん育ちというと、手におえない人に聞こえるかもしれないが、さっぱりとした性格で、明晰な頭と豊富な知識をもとに、あまりにもはっきりとものを言う人だったので、憎まれたりはしていなかったようだ。例えば僕が大学に入学するとき挨拶に伺ったが、そのときに「asm、女には気をつけなさいよ」と周りが驚くほど唐突にきっぱりと言った。それまでは早稲田文学の話をしていたのだ。

そんな性格だから、老いてなお女王様として家族とともに時を過ごし、多くの人を惹きつけた。もちろん祖母は自分の好き嫌いをはっきりと周りに伝え、他人が彼女のために何かをするのは当然のこととして威張っていた。

そんな祖母がある日突然「いいひと」になった。普段のことならば、祖母は食事を食べさせてもらうのが当然で、好きなものを食べるし嫌いなものは食べないから、周りとしてはバランス良く食べてもらいたいために祖母と衝突をし、祖母は怒ってばかりいたのだ。しかし5月28日の朝は何も文句を言わず、しかも「ありがとう」などと珍しいことを言ったという。

5月28日の朝は食事をしながら夢の話をしたという。夢の中では、故人も含めて親族皆でお祭りに出かけたという。お祭りは綺麗で賑やかで、とても楽しかったらしい。そして食事のあとに「ありがとう」といい、「これでゆっくり休めます」といい、その後に脳梗塞で意識不明になった。

治療という治療もせず、点滴と酸素供給のみでしばらく過ごした。度々見舞いにいったが、手も足もつやつやと娘さんのようだった。そんな状態が続いたので、秋まで「生きる」のではないかと話をしたりしたものの、7月13日に家族が見ている中でひっそりと静かに他界した。死顔は非常に穏やかで綺麗だった。

2007-07-12

バッハとマイケル・ブレッカー

僕はジャズ喫茶でアルバイトをしたことがあるくらいに、ジャズと呼ばれるジャンルの音楽が好きだ。それと同時に、現在はほとんどJ.S.バッハの作曲した音楽しか聴かない。そしてジャズの場合、コアな愛好家から白眼視されるがマイケル・ブレッカーの演奏を好む傾向がある。

かつてアルバイトしていたジャズ喫茶でのことである。お客さんが帰ってからひっそりと一人でチック・コリアの『THREE QUARTETS』のLPを聴いていた。そこにオーナー/マスターがやってきて、『こんなのはジャズじゃない』と怒られた事があった。それ以来、マイケルのファンであることをあまり口外しないようにしていた。

数名の人に尋ねられたことがある。どうしてジャズとバッハという変な組み合わせなのか、と。ジャズとバッハにはもちろん様々な共通点があり、音楽の三要素どれをとっても非常に良く似た傾向がある。しかし今日、もうひとつの要素に気がついた。

ジャズの中でもマイケル・ブレッカーのフレーズはポリフォニックなテクニックを多用する。そして云わずもがなのことながら、J.S.バッハといえばポリフォニー音楽である。気がついてみると単純な類似である。

2007-07-03

行列について

行列といっても数学の話ではない。ここ数年、行列をつくることがめっきり減った。僕自身が行列に並ぶことが嫌いだからというのが一番の理由だが、各種のサービス水準が高くなっているためではなかろうかとも思う。

以前は切符を買うのによく並んだものだが、現在はほとんど並ばないでも改札を通過できるし、スーパーなどではレジでの作業が単純化し、人員を流動的に使えるようになってきたため、買い物客は余り並ばないですむ。

それでも長い行列をつくることもある。浦安市の独立国内では非常に長い行列が観察できるし、「行列のできる」ラーメン屋や法律相談所もあるらしい。

そうしたところに行って行列の一番後についたとしよう。僕の個人的嗜好によるものかも知れないが、その時には非常に憂鬱なものだ。しかししばらくして後ろを振り向くと、自分の後ろに長い列ができているのを見て納得する。

これは道徳的な話だ。自分の位置を客観視する機会でもあり、仮りに先入れ先だし法ならば、行動には則るべき秩序があることを実感する機会でもある。とにかく先に行けばよい、というものではないのだ。

2007-06-24

女王君臨

昨日の朝06:00頃、自宅のベランダで煙草をすっていたとき、ささやかな感動をしたので報告したい。

諸賢がご存知のように、蟻は「女王アリ」「働きアリ」「雄アリ」などの役割分担を持つ。女王アリは有性卵と無精卵を生みわけ、有性卵は働きアリになるか将来の女王アリになり、無精卵は雄アリになる。雄アリと将来の女王アリは空中交尾し、女王アリは地面に降りたち、羽を落として最初の共同体を作り始める一方、雄アリは力尽きて死ぬ。

この女王アリが羽を落とす瞬間を、僕は目撃した。はじめはなにやらもだえ苦しんでいる虫がいるな、というくらいな気分で煙草の煙を吹き付けてみたりして眺めていた。しかし良く見るとアリ種の虫で、詳しくはないがおそらくクロオオアリである。羽のある蟻は最近見ていなかったので、じっと観察したところ、蟻は羽を落として元気に歩き回りはじめた。その後10分くらいは見つづけたが、僕の好奇心はとりあえず満足されたので観察を終えた。

長い田舎生活で見たことのなかったものを、東京23区内にあるコンクリート造マンションのベランダで見られようとは思わなかった。それにしても女王様は、君臨なさる場所を間違えたのではないかと心配である。ほぼ24時間たった現在、見える範囲では営巣された様子はない。

2007-06-19

ラブレターの配達ではない

歌舞伎を観に行った。
演物は「恋飛脚大和往来」、近松の代表的な心中物。

ちなみに、同居人にこれをどう読むか聞いたところ、
「ラブレターのメッセンジャーが奈良方面を行き交う話」
と答えた。慧眼である。

歌舞伎を言葉で語るには
社会現象を記述するのと同じような努力と技術を要するが、
ほんの少しだけ愚かさを覚悟して。
一言でいうと、悪くなかった。

封印切の後半にいくほど、忠兵衛(染五郎)の芸に感心した。
井筒屋の2階から降りてきて封を切るまでなど、
実に鬼気迫り、形よく、素晴らしかった。

よく上方和事というが、その風は僕には余り感じられなかった。
あまり和らかではない部分がより光って見えたのは、
僕が若いせいかもしれない。

新口村では、色も形も美しく、
それだけでも十分観てよかったと思った。
梅川と孫右衛門のやりとりに複雑な心情が映し出されて、なおよい。
よくない例えだとおもうが、二人のやりとりには、
まるでラヴェルのボレロのような動きを感じた。
(後半へ向かっての積み上げかたとか、緩急のつけかたとか)

まあ、楽しかったということです。
浄瑠璃だともっと楽しくなってしまうかもしれないと、
ちょっぴり思ったのはさておき。

2007-06-08

怪我の功名

今朝、配偶者に気づかれないようにコーヒーをいれた。香りが立たないように淋しいインスタントコーヒーだ。

パンを焼く。バターをたっぷり塗ったもの1枚、煎った黒胡麻とチーズをのせたもの1枚。ここで問題が発生した。

まだ寝ぼけていたのか、黒胡麻をコーヒーに入れてしまった。「Mr.Watson, come here, I want you!」と叫ぶわけもなく、取り出すのも面倒なので、コーヒーは黒胡麻が入ったまま飲んだ。これが思ったよりまずくはない。

是非おいしくないコーヒーを飲まなければならない状況にある人がいたら、だまされたと思って試してほしい。だまされたと思いますから。

2007-06-04

覚悟のほど

数学者のジェロラモ・カルダーノは1576年9月21日に自分が死ぬと予言して、その日にどうも死にそうに無いので自殺したと伝えられている。

宗教団体「一元ノ宮」の教祖元木勝一は、1974年6月13日午前8時に大地震が来ると予言し、午前8時30分になっても地震が起こらなかったので割腹自殺を図った(未遂)らしい。

前者は天災を人災にするようなあざとさも感じるが、予言や占いをするものは皆これくらいの覚悟でしてほしいものだ。そもそも古来より「怨」とか「咒」とかは未来の出来事に対する約束を端に発しているものが多い。つまり軽々しく約束をするなんてもってのほかだということか。

さて僕は今日、配偶者が明日の仕事から帰ってくる前に「かぼちゃを煮ておく」「きゅうりを麦麹味噌に漬けておく」「ご飯を帰宅時間にあわせて炊いておく」と約束をした。もしも僕が明日自殺をしたら、以上のどれかが破られたのだと思ってくれてもかまわない。

2007-06-01

エルリックはどこへ行った?

マイケル・ムアコック著の『メルニボネの皇子』井辻訳をついつい105円で買ってしまった(実家に行けば古い訳のものが多分あるはずなのに)。読みかえしてみると、かつての安田訳よりもずっとくだけた感じになっている。

それにしても読後の雰囲気がかつて読んだものとすごく違うのは、訳者の違いもあるだろう。しかし旧版エルリック・サーガシリーズでも『メルニボネの皇子』以外は井辻訳だったから、それほどとは思わない。というかむしろ、新訳のほうがずっと良い。ということは読んだ僕の想像力が経年劣化あるいは変化したということだろうか(中学生の頃の感想など、記憶の彼方にあるというのに)。それとも天野喜孝画伯による挿絵がないことだろうか。

中学生のころに愛したメルニボネの皇子は、もうここにはいない。もちろん僕も中学生では無い。喜ぶべきことだろう、きっと。

それにしても、エルリック・サーガが映画化されるかもしれないという話は一向に進んでいないように見えるが、映画化されたり復刊されたりするほどの人気を持っているとは、かなりマイナな作品群だとばかり思っていた自分を恥じている。しかし僕にとってのエルリックはあくまで天野画伯とセットなので、おそらく映画には興味を惹かれないだろう。天野画伯原画によるアニメ映画とかだったら、万難を排して見る。

2007-05-31

あの10円で何ができたか

物心がついて以来、何とは無しにギザギザのついた10円青銅貨を使わないようにしている。といっても収集している訳ではなく、単に何かの拍子に手元に入ってきた10円玉を使わないだけであるので、使用済み硬貨であり、骨董価値はほとんど無い。

今日思い立って数えてみた。結果が以下である。

昭和26年:4枚
昭和27年:28枚
昭和28年:26枚
昭和29年:40枚
昭和30年:7枚
昭和31年:0枚
昭和32年:7枚
昭和33年:2枚
合計:114枚

調べてみると、昭和30年前後の物価がどうということを単純に比較はできない。しかしあえて単純に比較するために、どれだけ給料があるかで比較すると、東京の事業所規模30名以上の平均現金給与額は平成14年では487,767円、昭和30年では21,975円だから、おおよそ22倍になっている。

ということは、大雑把に言って昭和30年の10円は現在のおよそ220円と無理矢理考えても良さそうだ。無理矢理なので、識者はツッコミを入れないで欲しい。

すると、僕がささやかに使わないでいる10円玉は、当時の金額で考えても本当にささやかな額でしかないことがわかる。しかしささやかながら、たぶんこれからも使わないでいるだろう。

2007-05-21

論理パズルの愉しみ

パズラーの皆さん、お元気ですか?

自称論理パズルファンとして、『試験に出るパズル』を再読しました(105円で売っていたので、実家にあるけどつい買ってしまった)。正直な感想をいうと、本当に奇妙で不自然なお話です。

そもそも論理パズルなんていうものは、虚数空間と同じくらいにしか現実的ではないものだと思っています。だいたい太郎君が雅子さんの席に座り、次郎くんが紀子さんの席に座り、雅子さんが紀子さんと席を交換し・・・なんていう話を聞くと、きょうびボックスシートは流行らない(かつて伊豆高原に行こうとしたとき、冷凍みかんを買ったけどロングシートだったので食べられなかったという個人的怨みあり)とか、4人の関係はどうなっているのかとか、そんなに頻繁に席を変えるほどの長距離ということは、お泊まりだろうけど、部屋割りはどうなるのだろうかとか、いろいろ妄想してしまいます。他にも本当のことしか言わない天使と嘘しかつかない悪魔の見分けがつかないとか、比叡山が許してもバチカンや宗教画家は許さないと思います。

それを無理矢理小説にしてしまうのだから、これはもう完全に現実とは乖離したフィクションの世界であるということをしみじみと確認しながら読みつつ、その仮想世界の中でどれだけ整合的であるか、という趣味の領域に踏み込めない人には、この楽しさは理解しようもないでしょう。

さて、この世の中には論理的であることがそこそこ良しとされている風潮があります。「仕事に生かす論理なんとか」とか、書店にいけば大抵目につきます。で、僕はそれらは「役には立たない」と断言できないまでも、直接役に立つ訳ではないと思っています(ITエンジニアをしていると、直接役に立つこともありますが)。こうした論理パズルの世界は、純粋に楽しみとして眺めているくらいでちょうどよいのではないか、と思うのです。仕事に役立てようとか、議論に強くなりたいとか、そんな動機でこの特殊な世界に浸かるよりは、単純に知識を積みあげるか、中学校の数学をきちんと理解した方がよっぽど有益だと思います。

こういう感想は、論理パズルファンの視点から世界を見ているからだとは思いますね。我ながら。

2007-05-14

フェヒナーの法則とハナゲ

ウェーバー・フェヒナーの法則というものを以前聞いたことがあったのを、今日本を読んでいたときに思い出した。この法則は要するに「原則として、人間の中程度の刺激のもとでの五感は与えられた刺激の強度に比例し、気づくことができる刺激差は与えられた刺激の変化にたいしてその対数の変化として感じられる」というようなものだ。

すごくいいかげんにいうと、1ハナゲの刺激強度が1で、底を10とすると、2ハナゲの刺激強度は100、3ハナゲは1000といったところか(痛みの基準として、国際的に通用している単位である「ハナゲ」を採用しているが、この単位を知らない場合は「やゆよ記念財団」を参照のこと)。

近頃「感動する体験」に漠然とした興味がわいているのだけど、五感ではないからこうした法則を使うのは絶対に無理だ。しかしLittle things please little mindsという諺があらわすように定式化できたりしたら楽しいだろうな、と思う。

2007-05-08

ほとけごころ

僕は今まで自分の姉について他人に多くを語ったことはないが、姉についてかなり長い独り言を書く。

姉は僕より6歳年上である。父曰く、幼時の姉は平均的な基準から見て明らかに言葉を話し始めるのが遅かったらしい。小学校にあがり、いわゆる特殊学級、つまり障害者クラスに入ることを勧められたらしいが、祖父の働きかけで普通学級に通った。中学校も同様である。障害を分類することにさほどの意味をここでは感じられないが、今でいうところの「学習障害」のようなものだろう。

姉は中学校から不登校を始めた。その真意は僕にはよくわからない。卒業後に極めて自由な私立高校に入学した(その様子が公共放送でも放映された)。高校卒業後は僕にもよく把握できないが、ときたま作業所のようなところにいったりもしたが、ほとんどは家にいたと思う。

僕自身に関する自覚的な決定は、姉の存在によって影響されるところがかなり大きい。大学に入学するときに障害者教育を勉強しようと思ったのもそのためだし(結果として養護学校教員の単位は取得したが、身につけたのは教育社会学的なものだったような気がする)、大学卒業後に実家に戻ったのも両親の事を考えるところもあるが、姉の事を考えたところもある。その後に家業を放り投げて大学院に進んだが、そこで社会学の視点から社会運動、とりわけ障害者運動の研究の真似事をしたのも姉の事が心のどこかに引っかかっていたからだろうと後から思う。

はっきりいっておくが、僕は情け深い人間ではないし、血縁や何かを最重要視することもない(と思う)。僕は僕の主観的判断により明らかに思慮分別のない人間や明らかに無知蒙昧な人間が好きではないうえ、姉は以上のどれにも当てはまる。

ここまでは長い前置き。今朝とある本を読んでいたとき、先月実家に帰った時の事を思い出した。ここからが本題。

どういうわけだか僕の実家ではいわゆる日本の古典的な教養を身につける事が当然となっていた。和服を着るにもさほど困らないし、お茶の席できちんとした作法は心得ていないが、そこそこに振る舞うこともできる。教育期間を通じて、古文などとりたてて勉強しなくともおおよそ読めたし、実家での日常会話にも能や歌舞伎、和歌などがざっくばらんに散りばめられていた。

そうした実家で育っていながら、姉はそうしたものを一切身につけていない。先月母と姉が桜の下での野点に招かれた話を聞いた。姉にとっては初めての席で、一切の作法をわきまえていない。通常なら席に至るまでの主人の心配りをめで、席について菓子や茶をいただき、器をめで、主人にお返しするなり同席の人にお渡しする、という一連の流れを全くわかっていなかった。かくいう僕もさほどわかってはいない(ちなみに僕の配偶者は茶道部だった)。

そこで母は、「私のすることを真似すればいいからね」といい、姉はそれを真似た。その際にも姉は「回すんだよね」といいながら、器をぐるぐると回転させたり面白可笑しい所作をしたらしい。ところが茶を喫した姉は「おいしいね」と大きな声でいったという。

さて、ここからがようやく肝なのだが、様々な理屈や文物をかじり、席についても場を乱さないようにするだろう僕の茶の体験(その他の体験でもよい。例えばおいしいコーヒーを飲んだりとか)と、姉の上記の体験を比較したときに、どちらがより純粋に主人の心配りを楽しんだかというと、間違いなく姉の方に軍配があがるだろう。いくら古人が花を歌ったものを知ろうと、どれほど釉に通じようと、所詮そのようなものは死んだ知識であり、今ここでまさに向き合っている体験を直接的に深めるものではない。姉がこれまでにどのような苦悩に向き合ったか、どのような自己を形成してきたか僕には知りようもないが、その喫茶の直接体験の深さは僕をはるかに凌ぐものであったと想像する。

各人の個性化であれ、コミュニティの連帯であれ、生産活動であれ、社会改革であれ、あるいは社会秩序の維持であれ、その美しさの根源には体験の深さがあると僕は大雑把に思っている。僕から見て完全な愚者であり、ほぼ狂人であり厄介者である姉は、その茶席では僕よりもはるかに輝いていた。ここ数ヶ月、ともすれば生きることを放棄しがちであった僕は、姉のその輝きに今朝になって気がついた。迂闊であったという他はないし、僕のような非情な人間でもふと胸が熱くなった。

2007-04-14

女性専用車両の作法

僕は朝の女性専用車両に乗ったことがないので、その中でどのような事件が生じているか知らない。だから「新製品!! ラッシュ時の女性専用車両の空気の缶詰」とか下らない妄想をたくましくするわけだが、配偶者から新たな知見を得た。

どんな時にも電車内でお化粧をする女性はいるものだが(これを僕は好ましく思っていない)、それらは大概チェック程度の軽いものだ。しかし配偶者は、女性専用車両で顔の脂をとり、乳液をぬり、ファンデーションをはたき、きっちりとお化粧をするおばさんを目撃したらしい。

ここまでなら知見と呼ぶほどのことではないが、配偶者の鋭い観察眼はおばさんの化粧後の顔と化粧前の顔が全く同じだったことに向けられ、その一点を憤慨していた。

お化粧にも女性専用車両にも縁のない僕からしたら、おばさんはマナーのなっていないナチュラルメイクの達人だろうとか思うだけだ。しかし経験豊富な配偶者は、電車内でお化粧をして「お見事!」と拍手できるものなら許すというし、そのような見事な化粧を見たこともあるらしい。

女性専用車両におけるお化粧の作法とは、周りの人にその技術をアピールすることであるという、どことなくスピーカーズ・コーナーを思わせるものであった。これを新たな知見と呼ばずになんと呼ぼう。

2007-04-12

見聞をひろめる

我が家では近頃コーヒー禁止令をしいている。コーヒーの匂いが配偶者の吐き気をひどくするためだ。また、以前から屋内禁煙令がしかれている。配偶者が煙草の匂いを嫌うためだ(考えてみるとどうしてこうも彼女の都合にあわせているのだろう?)。

しかし僕は愚かにもコーヒーと煙草を非常に好んでいる。以前から煙草は屋外ですっていたけれど、コーヒーを屋外でいれるのはちょっと面倒だ。そのため、今日どうしてもコーヒーを飲みたくなったので、近所の喫煙可能な外食店にいった。

席について本でも読もうかと思ったが、ちょっと騒がしいので読むことを諦め、ぼんやりと周りの音が聞こえてくるままにまかせてコーヒーと煙草を楽しんでいた。するといろいろと新鮮な情報が耳に入ってくる。普段なら意識的に聞かないようにするかBGM(ちなみに60年代ハードバップの有線放送かなにかで、聴いたことのある演奏ばかりだった)に集中するのだけど、聞こえるにまかせてみると、これはこれで面白かった。

A. 専門学校生らしき女性4人組
ノートとテキストらしきものを広げて大きな声でいろいろなことを話している。
「ほら、なんだっけ。特定非営利法人?」
「NBO」
「あっ、ビジネスね」
「そうそう」

僕が口をはさむのもどうかと思ったのでそっとしておいたけど、「三人よれば文殊の知恵」という古き英知はうまくはたらいていなかったようだ。彼女たちの成績に幸多かりしことを願う。

B. 看護師らしき女性2人組
職場の悪口をいろいろと話している。そう、たしかに職場の悪口は楽しい。特に上司や組織全体の悪口は格別だ。しかし会話の中に彼女たちが勤務している病院名が頻繁に出てくる。しかも結構目立つ病院だ。

「佐々木さん(仮名)ったらナースコール鳴ってても出ないんだから」とか、「先生よりも助手の方が情報を持ってるなんておかしいと思わない?」とか、「定時にあがれないなんて、冗談じゃないよね」とか、「職場環境の向上なんてさ、こんな余計な仕事してたんじゃ無駄じゃない」とか話をしている。

僕はその病院には絶対にいかないようにしようと思ったが、彼女たちの労働環境に幸多かれと願う。

ほかにも、僕には理解できない言語のカップルや、小学校入学をひかえた幼稚園児のお母さんとか、いろいろな会話が耳に入ってくる。まあこういうのに聞き耳を立てるのも悪趣味なものだが、聞こえてくるものはしょうがない。家で寝ているよりも、非常に見聞がひろがった。

2007-04-02

正しい日記の書き方

そもそも日記を書く(日記をつける)ということからしてかなり不自然な人間の行いなので、書かないのがもっとも正しい在り方だと思う。

それでも書くとする。正しく日記を書くためには、何のために書くかを明確にしなければならないが、自分に溜っているものを吐き出すためとか、備忘とか、近況報告とか、わかる人にしかわからない暗号通信文とかは、日記としては不純である。では日記の目的はなにかといわれると、僕にはわからないけど。

「しょせん我々はそれほど他人様に知らせるべき日常をおくってはいない」ということが前提となる。知らせて有用な情報ならば、日記という形式とは違う形で知らせるべきである。例えば業務報告、論文、などなど。従ってかりに日記を書くとしたら、他人様に知らせても有用ではない情報が日記の主な内容となる。

他人様に知らせて有用ではない情報をあえて知らせる積極的な理由は、ひとつは自己顕示である。例えば「本日ビル・ゲイツ氏と会食。財団の方向性についてサゼッションを行う」や、「奥田元会長から見舞いの品届く。相変わらずまめな奴だ」など、他人様が読んでも何のおもしろみもないことを書き、自分の存在をアピールする。

しかし我々76世代は、多少なりとも謙譲を美徳とする文化によってソーシャライズされている。その価値観に照らしあわせると、自己顕示など恥ずかしくてできたものではない。

第二の理由は単なる記録である。後世の民俗学者が楽できるように、現代の習俗を残すという崇高な理由がある。しかしこれも、同時代を生きる他人様が読んで面白いわけがない。例えば本日の僕の生活を記録すると、「05:00頃起床、しばらく憂鬱な気分のわるさに苦しむ。06:00頃多少前向きになってきたので、枕元にある愛用のThinkPad X22の電源を入れ、Debianを立ち上げる。自分のアカウントでログインし、emacsをターミナルから実行し、howmを立ち上げる。前日の入眠時間を記録し、思いつくままに現在の状況をメモする。ToDoをチェックし、今日するべきこと(病院に行くこと、某社のモデムを返却すること、定期券の払い戻しをすること、配偶者の食べられる食材を購入すること、配偶者の食べられそうな料理を用意すること、充分な休息をとること)を整理する。w3mのバッファをを立ち上げ、del.icio.usでとあるタグがつけられているサイトをチェックする。現在/.Jでモデレータになっているので、ひととおり流し読みし、三つ程モデレートする。iceweaselを立ち上げ、購読しているRSSフィードをチェックする。購読しているのは……」と、延々と続き(これでもまだ07:00になっていない)、これを他人様が読んでも面白くもなんともない。

したがって、特別有用な情報があるときをのぞき「書くべきことは何もない」と書くのが正しい。

もちろん「現在の日記はコミュニケーションツールである」という反論は予想されるので前もって言っておくが、我々76世代は「沈黙は金」という文化によっても多少なりともソーシャライズされている。無意味なおしゃべりは楽しいものだが、30歳ともなろう大人がおしゃべりに興ずるのは、文化的には美しいことはない。

先ほど「書くべきことは何もない」と書くのが正しいと書いたが、さらに日記ともなれば毎日続けるものである以上、「今日は」と前につけると時系列を記録できて便利である。間違えて「今日も書くべきことは何もない」などと書くと、「今日も何もないのか。それでは明日こそ」などと、生活するうえで日記をつけるという本来の順序が逆になり、日記をつけるために生活するという強迫観念にかられてしまう恐れがある。

以上論じてきたように、日記をつけて他人様に読ませる以上、正しい記述は以下の一文のみである。

「今日は書くべきことはなにもない」

毅然とした態度でこれを一週間、一ヶ月、一年と連続させることにより、没我の境地にいたることのできるひとも中にはいるかもしれないが、日記をつける目的は悟りを開くことではない。あくまで厳然と日々を記すことである。

さて、今日は書くべきことは何もなかった。以上日記を書いたつもりではない。(おそらくまだ続く)

2007-04-01

フェルマーの最終定理

四月一日に相応しくバカバカしいジョークを求めよ。この問題に関して、私は真に驚くべきジョークを思いついたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。

2007-03-30

歪んだ愛

東京都知事選と都議会議員欠員選の選挙運動が激しい。一日中駅から徒歩一分の自宅で寝ていると、ものすごく憂鬱になる程に激しい(別に政治的立場をあれこれいうわけではないが、特に共産党候補者の演説はうるさい)。朝8時から9時、正午前後、18時から20時がうるさいようだ。

右翼の街宣車や携帯電話屋、パチンコ屋など、周囲まで不愉快にする程に騒々しいものは多いけど、選挙活動も不愉快だと思う。演説している内容がほとんど空っぽだから、なおのこと不愉快だ。

どこに苦情を持っていこうか考える前に公職選挙法を読むと、140条から141条あたりに拡声機の使用台数や演説内容についての記述はあるが、音量や音質に関する記述はなさそうだ。

Wikipediaで調べると、「選挙運動に関するものについては、騒音問題として取り締まりを行うことはできない」とのこと。駅のそばに住んでしまった以上、直接文句をいうか、泣き寝入りする他あまり道はなさそうだ。

まったく音に関する悩み多い。僕自身、人一倍音を愛しているという自負があるが、それは音を無条件に愛することではなく、僕の主観で美しい音のみを愛しているという、歪んだ愛情だ。

2007-03-29

携帯電話から写真を送る

僕がいま使っているノートPC(ThinkPad X22)にはDebian GNU/Linuxをいれている。このノートPCにもIrDAデバイスがあるので、携帯電話(DoCoMo P901i)から赤外線通信でノートPCへ写真を送ってみようと思った。

まずはrootでパッケージのインストールと設定。
# aptitude install irda-utils openobex-apps

すると設定を聞いてくるので、適切に答える(僕は始めは適切な設定がわからなかったので、dpkg-reconfigure irda-utilsを使った)。
以下はirda-utilsの設定
・IrDAを起動時に有効にする。
・探索モードにする。
・IrDAデバイスの種類をネイティブにする。
・赤外線通信チップの種類をnsc-irccにする(これが適切かどうかちょっと自信がない)
・赤外線通信チップのモジュールのオプションは設定しない。
・setserialで発信を止めるポートは設定しない。

設定が終わったら、デーモンを再起動して、カーネルにモジュールを追加する。
# /etc/init.d/irda-utils restart
# modprobe irda0

そして、一般ユーザにもどって
$ ircp -r
で通信待ちになるので、そこで携帯電話から写真を送信するとカレントディレクトリにmypic.vntとかいうファイルができる。

そのファイルの中身をlessとかで見ると、DoCoMoがタグ付けしたファイルで、調べてみるとBODY部分は単純にBASE64エンコードされているだけっぽい。だから単純にデコードする。それ用のスクリプトとかを公開しているサイトもあるので、苦労はしない。

こんな感じで結構面倒だけど、携帯電話から転送することもそれほど多くない(というかあまり携帯電話を使わない)ので、これでよしとする。

しかし、こんなところにこんなことを書いても、僕以外に役に立つひとは決していないと思う。

2007-03-27

牛乳の歴史

自分の記憶では「日本書紀」に牛乳について何か書いてあったような気がする。何かで大化の改新頃に百済から来たひとが「乳長上」とかいう役についたと読んだ記憶がある。そして「延喜式」に乳製品について書いてあった記憶がある(蘇から醍醐をつくる、というような)。さらに織田信長が牛乳を飲むうつけ者だったという逸話を聞いた記憶がある。

で、一般に牛乳は明治以降にひろまったとされている。ここで素朴な疑問。室町から江戸の頃は牛乳は一体どうなっていたのだろう。また、日本書紀に書いてあったような僕の記憶が正しければ、百済伝来はなんだったのだろう。

ちょっと調べようとgoogle様にお伺いを立ててみたところ、諸説入り交じっていて見当もつかないから、自分なりの想像で満足することにした。歴史や民俗学をやっているひとに期待したい。

そして、調べる(といってもウェブサイトなど二次情報を眺めるだけだ)過程で気になる記述があった。

「牛乳瓶に口をつけて牛乳を飲む際に、腰に手を当てて飲むことがひとつの様式とおかしみをこめて認識されている」


これは百科事典としてはいかがなものだろう。

2007-03-14

現実感

「現実感はありますか?」と聞かれた。僕は聞かれた内容を理解できなかったので、「それはどういう意味ですか」と聞き返したところ、「まるで今住んでいる世界が現実ではなく、ヴァーチャルな世界にいるような感じがするかどうか、ということです」という。「愛国心とは何か」と聞かれて「国を愛する心です」と答える話と同じで、意味を話しているのではなく、単に言葉を継ぎ足して説明しただけだというツッコミをいれたかったけど、悪い印象を持たれたくないのでそれはひとまず流した。

僕はこの手の話は中学生の頃から好きで、SFのテーマにも哲学のテーマにもなる。医学的にどんな常識があるのかは知らないけど、かりにヴァーチャルな世界にいる人間が現実世界にまぎれていたら、それは当人にとっての「現実」であり、決して「ヴァーチャル」ではないし、逆に世界がヴァーチャルだとしたら、ヴァーチャルこそが「現実」だろう。したがって、先の精神科医への答えを僕なりに正直にいうと、「わかりませんし、知りようもありません」になる。

実際には質問を設定しなおして、「仮に一日中夢を見ているかのような感覚で、現状認識に違和感があったり、一貫性がなかったりするか、という事でしたら云々」というふうに話をしたけど、精神科の診断って難しいな、と思った。と同時に「現実感とはなにか」という疑問を持ってしまった。

実際、現在の僕は現実感が薄いと思う。というのは以前はできなかった口約束をすることができる。本当は行きたくなくとも「気晴しに旅行にでも」とかいわれると「いいですね、そのうち行きましょうか」とか答えてしまう。毎朝家の前を通り過ぎる満員電車の中の人の感情を想像できない。ご飯を食べた直後に「さっき何を食べたっけ」と思ってしまう。ニュースを見なくなってきたので、世界に何が起こっているか知らない。買いものメモを作っておかないと、冷蔵庫に卵が20個くらい入る結果になったりする。脈絡の無い妄想はいろいろと出てくる。でもこれって、結構普通の感覚なのではないかと思う。

さて、今朝は会社でミーティングするという非常にリアルな夢をみて目が覚めたのだけど、目が覚めた後の僕が現実か、目が覚めたという夢を見ている僕が現実か、誰に判断できるというのだろう。独我論も純粋に論理だけでは反証し得ない完全なものだと思うし。

2007-03-08

区立図書館事情

配偶者が静養のために実家へ帰った。その際に、配偶者が図書館から借りていた本の返却(入院中に返却期限を過ぎていた)を頼まれたので、はじめて自宅から徒歩3分の区立図書館へ行った。せっかく図書館へいったのだから、書架を一通り眺めて帰ろうと思い、社会科学系と自然科学系の開架にざっと目を通した。

僕は高校生までは図書館を有効に利用した経験はあまりなく、大学図書館が初期体験としてインプットされている。僕が在学していた頃ではいまよりも貧弱ながら、それなりに大学間でのネットワークがあったので、提携していた大学図書館も利用させてもらっていた。閉架書庫にもそれなりに目を通している。

そして今回が僕にとっての区立図書館デビューなのだが、はっきりいって失望した。もちろん予算も違うし利用目的も違うから、開架されている書籍にははっきりと傾向の差があらわれるとは予想していたけれど、それにしても酷い。ざっと見たところ、僕が読みたいと思った本は社会学理論の古典数冊と民俗学関連数冊しかなかった。コンピュータ関係なんて、動物が表紙の本は1冊しかなかったし、UNIX関連の本は「自宅でホームLinuxサーバ」系統の本(しかもそれらの内容が古いハウツーなので、今となっては役に立つ部分は少ないどころか害になる部分も多かった。大体自宅サーバで安易にtelnetを使うとか、つっこみどころ満載だ)や「ホームページのつくりかた」系統(しかもそれも内容古いので、例えばHTMLの書き方にしても現状の標準からは決しておすすめできないものが書かれている)しか見られなかった。

一部分しか見ていないので判断はできないが、それなりの蔵書数がありながらこんな本を借りて、それなりの時間をかけて読もうとする区民がいるなんて信じられないし、こんな本を限られた書架に入れようとする関係者の見識も信じがたい。僕自身学部生時代に図書館運営サークルに属し、図書館運営、特に購入図書の選定には多少の関わりがあったので、僕のいうことはそれほど見当違いでは無いはずだ(なお、僕の自宅の蔵書を見たことのあるひとは、若気の至りの残骸が多く含まれていると思ってほしい)。

もっとも最近の公立図書館はネットワークがかなり密になっているらしいから、ひとつの図書館で判断するのは、2ch.netの特定のサブドメインをみてThe Internetを判断するようなものかも知れないが、図書館の利用目的は受験勉強に励む場所、新聞や雑誌を読む場所、単発ベストセラー小説を借りる所ではなく、単純に有用な知識なり資料なりを入手する所だと信じている。もっともベストセラー小説も新聞や雑誌も有用な知識や資料であることに間違いはないが、それはメインでは無い。

幸い現在僕にも収入や貯蓄があるから多少高価な書籍も購入可能だし、かつて所属していた大学の図書館を利用する権利も持っているので、入手困難なあるいは目を通すだけで済ませたい書籍にふれる機会はある。しかしこうした恵まれた境遇にいる人間はそれほど多くないと思う。

納税者である区民、区議会議員、区立図書館関係者や、書籍卸売業者や出版社の再考を促したい一方、僕にできることとしてまずは区立図書館事情を調べ、区立図書館愛用者である配偶者(文学専門の利用者だ)を問い詰める所からはじめたい。おそらくそこで「マニアック過ぎる」といわれて玉砕するに違いないが。

2007/3/8 23:50頃、以下追記。
社会科学系で読みたいと思える本が少なかったのは、僕の現在の病気による可能性もあるので、ちょっと悪く書きすぎたかもしれない。実際3/5に恩師から頂いた近著ですら、まだ目次しか読んでいない。ただし、コンピュータ関係でろくでもない本しか置いていなかったのは病気をさしおいても確かな事だ。

2007-03-03

LGBT市場

どこかのサイトでそんな記事を読んだので、つらつらと考えた。僕がこれまで知り合った人の中には数人ゲイの人がいた。別の経路で僕と知り合った男性たちがカップルだったことが、たまたま後で判明したことさえある。それくらいに多くの人がゲイだということだ。

日本の人口のうち、仮に5%程度がLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)だとしたら、そこをターゲットとしたマーケットセグメントが目立たない(あくまで目立たないだけで、あることは充分承知している)のはおかしいと、前々から思っていた。仕事柄さまざまなWeb上での商売を観察するのだけど、ポルノだって日本語の総合ポルノサイトはへテロばかりだけど、世界的に見れば総合サイトではきちんとそれ用のコーナーが設けられていたりする(と友人から聞きました、ということにしておいてください。友人から聞いたんです)。

オタクとか腐女子とか非モテとかなんとかをマーケティングするよりも、指向性がはっきりしているぶん、セグメント可しやすいと思うし、LBGTは平均的に可処分所得が多いと予想される。子どもを持たない、あるいはかなり面倒な手続きを踏まなければ子どもを持てないライフスタイルを採るだろうから、可処分所得が大きくなるはずだ(オタク、腐女子、非モテが子どもを持つライフスタイルを選択するかどうかはさておき。なお、僕はオタク、腐女子、非モテに対する差別的偏見は持っていないつもりでいます。また僕は腐女子ではありませんが、定義次第ではオタク、非モテである可能性は充分あります)。

ただ、少子化傾向の著しい国や地域では政治的にそうした商圏が受け入れられないとも思うし、長期的スパンで見たときに、労働人口がへるなら生産性が高くならなければいけないというような経済的問題もある(のだと思うが専門外なのでよくわからない)。

しかし、商売人にはそんなことは関係なかろう。僕の知らない所でひそかに商戦が繰り広げられていると想像すると、ちょっと面白い。