2008-03-31

FirefoxはIEの脅威になるか

僕が普段使うブラウザはFirefox(iceweasel)だが、Windows PCにインストールしてあるブラウザはIE7、Firefox、Opera、Safariだ。CSSの解釈を中心に、ウェブサイトの見え方が微妙に違うので確認用に使っている。

なぜFirefoxを好むのか。僕の場合は単純に慣れの問題としかいえない。自宅ではLinux、仕事ではWindowsを使っていると、どんな環境でもそれなりに同じUIを持っているブラウザのほうが何かと便利だし、これまで長いこと使ってきたし、というだけのことだ。僕のような理由の人はそれほど多くないから、わざわざFirefoxを使う理由が他にもあるのだろう。確かに魅力的なブラウザだ。

しかしFirefoxにもいろいろな欠点、というか他のブラウザのほうが優れている点もあり、特に起動速度についてはそれがいえる。MozillaからFirefox(というかFirebirdというか)に分離したときにはその速さに感動したものだが、現状を思うともっと早くなって欲しい。他のGeckoを利用したブラウザよりも遅い気がする。

誰かの言葉だが、最適なユーザインタフェースは最速であること、だという。おおむね同意できる。人間が考えるスピードと比べると、人間が作業できるスピードは著しく劣る。それをできるだけ近づけるのが最も良いユーザインタフェースである。

僕はまだ使っていないから知らないが、Firefox3は今よりももっと速くなるらしい。より速く、より安定したブラウザがどこかにあるなら、それはIEにとって脅威となるだろう。過去のブラウザ戦争でMicrosoftは悪し様に言われることが多いが、僕が思うに当時のNetscapeとIEを比べると、IEは決して品質は悪くなかった。ところが現在、より優れたブラウザがあるならユーザはそちらに流れてもおかしくなかろう(個人的な感想だけれど、Windows環境で話をするなら、デフォルトではOperaが最も優れているような気がするのに、なぜシェアが伸びないのだろう?)。

あえて言おう。長い目で見れば、様々な環境をまたがって優れたブラウザが多くのシェアをとる。きっとそれだけのことだろう。

2008-03-29

儲けるって大変だ

ザ・キャッシュマシーン』(リチャード・クラフォルツ、アレックス・クラーマン)を読みました。『ザ・ゴール』のシリーズをなんとなく全部読んでいるのですが、すごく大雑把に言うと「制約条件の理論」という骨組みは変わらず、その応用分野が変わっている本です。

僕の肩書きの1つは「とりあえず取締役」なので身につまされる話なのだけれど、営業であれ製造であれ、フローのボトルネックを見極め、そこにリソースを集中してボトルネックを解消する、そして全体のフローの中でバッファーをどのように置いていくかを決定する、というのは言うは易し、行うは難しだな、という感覚。季節需要とか、よくわからない流行とか、社会情勢だとかでずいぶん売り上げの変わってしまう世界にいると、「制約条件の理論」はやっぱり製造業の話なのではないか、と思わされます。

この本はそうではないよ、サプライチェーン全体にいえることなのだよ、ということを書いているのだけれど、なんだか眉唾で読んでしまうのは僕の性格ゆえか。小説として読むとしたら、できの悪い小説です。

2008-03-20

論語ブームって本当ですか

論語力』(于丹)を読みました。中国では今、若者の間で四経五書を読むことが流行っているとか、論語の解説をしたテレビ番組の視聴率は最高で50%だったとか、本当だとしたらそれはそれですごいと思いました。

本の内容は、論語を読んだことのある人ならおなじみのことで、論語読みにとっては原典以上の書物はありませんし、その意味で本書も原典以上の実りはありません。平易な言葉で論語を解説しています。

ただし、この本が中国でベストセラーになったという現象は注目すべきことではないかと思いました。内容自体は日本の「論語を読む」系の本と大差はないのに、なぜ爆発的に売れたのか、興味深いです。

2008-03-18

『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか』

ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代』(武井麻子)を読みました。

一言でいうと感情労働の本。二言でいうと看護学と社会学の本。三言でいうと現代日本の労働環境は感情的知性を使い果たすような状況にある、という本。ホックシールド、パットナムといった名前に馴染みがあるとすんなりと読める、というかそれらの人たちの著作を日本の状況に当てはめて焼きなおしたような内容でした。

この本を読んでいろいろと聞いてみたい疑問が生まれたので、仕事場の一階エントランスにいる受付の人をお茶に誘ったら、「またいつでもお誘いください」と断られました。

2008-03-15

本の題名と内容

人にいえない仕事はなぜ儲かるのか?』(門倉貴史)を読みました。

題名にだまされてブラックな与太話かと思いきや、税制に関するきちんとした本。地下経済を専門にしている著者が一般向けに書いた税制の話なので、あえて節税の話の中に脱税やその他税制にのらない経済活動を入れています。

本の題名に関しては、近頃「売れればよい」的なショッキングなものが多いような気がして、少し残念です。もっと税金に関する本ですよ、ということを前面に出した題名のほうが良いような気がして。

確定申告の締め切りが近いですが、興味のある向きは読んでみるのも一興かと。ただ本書で書かれている「支出税」の実現可能性に関しては、申告書を作りながら、僕はほとんど絶望的だと思いました。僕は本当に税金に関して無知だな、とため息をつきながら。

2008-03-14

お詫び

手違いで、スパムめいたメールを各方面に送ってしまいました。

どなたが受信したのか把握していないので、一人ひとりにお謝りするべきところですが、受信された方にここで深くお詫び申し上げます。

申し訳ございませんでした。

2008-03-13

喫茶店にて

僕は頻繁に喫茶店へ行く。コーヒーとタバコを好むことがその理由で、少し休憩、というときなど喫茶店に赴き、貴重な時間や金銭やきれいな空気を浪費する(この文章も喫茶店で書いている)。

世間の狭い僕としては、喫茶店は情報収集の場所でもある。普段接することのない人たちの生態を観察するにはもう少し幅の広い場所が良いのかもしれないが、僕程度の世間の広さなら喫茶店で十分だ。

例えば20代と見られる女性二人と2歳くらいの子どもひとり。女性二人は浮気の話しをしている。亭主が女をつくったとか、修羅場に乗り込んだとか、今亭主は家で寝ている(ちなみに平日昼間だ)とか、「結局男は云々」とか。ひょっとしたらすごい内容のことを大声で話をしているのではないかとか、子どもに聞かせてよいのだろうかとか不安に思うが、それはそれとして人の話だ。

そのほかにも平日4時ごろ、たっぷり1時間(僕は昼食をとらない代わりに休憩を1時間取る)かけてお化粧をしている女性がいた。はじめはすっぴんで(僕にとって)好感の持てる綺麗な人だったのが、お化粧をすることでどぎつい綺麗なひとに変貌した。不思議なのはこの時間にこの場所でなぜお化粧をするのか、ということだ。夜からの仕事で出勤前だという可能性はあるけれど、あまりその雰囲気は漂わせていなかった。たぶん今日は休みのシフトで、これからデートでもするのだろう。それにしては軽食もとっていたが。

別に僕に好まれなくとも世の中のほとんどの女性に影響は与えないことは重々承知しているが、僕はこうしたあからさまな化粧を好まない。思うに化粧は同属集団のためにあるもので、異性のためにあるものではないのではないか。男性の好みと女性の好みを調査したものを読んだが、あまり化粧に言及されてはいない。対男性に興味をひく術としては、単に若さや潜在的美しさが大きなファクターとなるだけで、睫毛がどんな形であろうと骨格やウェスト対ヒップ率には敵わないのではないか。ということで説明は足りないが、女性の化粧は男性のネクタイと同じように、同属集団に向けてのアピールなのではないか、という疑問を持った。

2008-03-11

公私混同

はてなダイアリーの定義によると、公私混同とは、

私的な利益を図る為に公式な権限を濫用する事。パブリックなことに私的な思惑や利害を持ち込んで、けじめがないこと。


ところが僕は大いに公私混同している。別に愛人を連れて視察旅行に行ったりはしないが、自分が料金を払っている携帯電話を仕事でも使っている。仕事場に連絡をするのに自分の携帯電話を使うし、一部のお客様にも自分のプライベートな電話番号を知らせている。また仕事で使うPCも、社長にお願いをして私物のPCを条件つきで使わせてもらっている。逆に仕事場で料金を払っているイー・モバイルはプライベートでも使わせてもらっている。

そのほかにも、個人的に読む本は仕事でも使うことがあるし、仕事で得た知識(の一部)はプライベートでも使う。自分の頭の中では仕事とプライベートの切り分けなどないに等しく、せいぜい仕事場にいるとかスーツを着ているとか、そういう物理的な差があるくらいだ。そういう面ではメンタルヘルスの問題を抱えやすいのだろうが、切り分けをするとそれだけ余計なリソースが必要となるし、アウトプットも非効率になるのではないかと思う。

別に自分を褒め称えるわけではないが、ビジネス上でのなにか素敵なことというのは、プライベートの延長線にあるものなのではないか。逆にプライベートが侵食してくるようではないと、仕事を行ううえでの能率が伸びないのではないか。

こうしたことに関しては近頃まとめて思うところがあるので、ひょっとしたらどこかに書くが、今ここに書くのは面倒なので割愛。「21世紀最大のテーマは公私混同」という記事があるけれど、この記事で述べているのは組織に対する個人の関わり方の話で、僕が思うのは組織内で個人的なことがらをベースにして流通させないと、うまい具合に情報が流れないのではないかということ。

2008-03-08

東京藝術大学で爆発事故

2008/03/08 東京藝術大学で爆発事故=創作中、教授一人が重傷

8日午前11時23分ごろ 東京都台東区の東京藝術大学キャンパス内で爆発事故があった。事故は同大学美術学部先端芸術表現科教授である岡木次郎氏(56)の研究室で、教授のインスピレーションが原因ではないかとされている。事故現場には教授以外に人はいなく、被害は教授の脳内にとどめられた。

教授の研究室に所属する学生たちは、いつか爆発するのではないかと常に注意を怠らなかったが、教授は学生たちに頓着せず、常に危険なオーラを充満させていたという。警視庁上野署と同大学は、教授の危機管理に問題があったのではないかと調べている。

「目標管理」は無責任だ

かつて僕が在籍していた会社の悪口を言うわけではないが、成果主義とからめた「目標管理」というものがあった。個人の勤務評定を、いろいろなパフォーマンスと個人が設定した目標の達成度で測るのだ。もちろん目標としては「今年は酢豚を食べられるようになります」とかいうものは認められず、会社の活動に即したものを設定しなければならない。

成果主義はもちろん業績に直結した活動を評価しようという動きで、それはそれで賛成できる。例えば単独で活動する営業担当者などなら、それなりに正確な成果主義が導入できると思う。それに比べると、僕の職種である(なんちゃって)エンジニアというものはどうも正確に成果が測れないのではないかと思う。ある人は去年よりも2倍優れた(きれいな)コードを書けるようになったとしても、その度合いを誰が評価するというのだろう。去年より2倍速くコードが書けるようになったとしても、メンテナンス性の劣ったコードを速く書くよりはきちんとしたコードをゆっくり書いたほうが良い。さらに設計など、どうやって評価しようか。

そもそも成果主義は目に見える成果を測れるところに導入するのは簡単だけれど、成果があるのかないのかよくわからないところでは導入しにくい。例えばチームで活動していると、チームの成果はわかるけれども個人の成果がわからないし、研究開発やバックオフィスでは良くわからない。それに末端で動いている人たちは自分の成果なのか上司の成果なのか判別しにくいところもある。

そうした評価しにくい部分を測るためと、さらには成果主義を導入するにはモティベーションを維持することが難しくなる職階の人もいるので、目標管理を導入する。要するに会社の戦略や目標に沿った個人の行動を「目標」として、その達成具合を成果主義的に測るわけだ。しかし僕が聞く範囲では、目標管理は機能していない。達成しやすい目標を立てたり、年度末にようやく目標を立てたり、すでに達成したことを目標として立てたり、かなり好き勝手に行われている様子だ。

そもそも個人が勝手に目標を立てるところが間違いなのだ。目標は組織が立てる。組織の目標と個人の目標は違うなどというのだったら、成果主義自体を疑うべきだ。もしも組織の目標が個人にとって大きすぎるのなら、そこは個人単位にまでブレイクダウンした目標を組織が立てるべきである。個人に「目標を立てろ」というのは、管理不在とでもいえる無責任な行いなのではないか。

というわけで、安易な目標管理は嫌いだ。今は「なるようになるし、できることをできるだけする」というスタンスで幸せに働いている。

2008-03-02

エスカレータ考

混雑したエスカレータほど見苦しいものはない、とは言いすぎだけれど、見ていてあまり良い気分になれないことは確かだ。いろいろな不愉快(片側を空けるでも塞ぐでもなく乗る、大きな荷物を自分の横に乗せる、手すりの横から面白半分にごみをすべり落とす、立っている人にぶつかりながら駆け登る、など)があるけれども、もっと根源的なことで疑問を覚えている。

いつの間にかエスカレータの右側(関西ではどうやら左らしい)を空けるのがマナー、みたいな事になっている。誰が考えたかわからないけれど、一見理にかなっている。先を急ぐ人がゆったりとした速度のエスカレータに我慢できないということもなく、かつエスカレータの速度を身体能力の低下した人でも安全に乗れる程度にとどめると、乗ったら立ったままの専用レーンと、乗ったら歩く専用レーンがあると便利であり、それを実践することは基本的には社会秩序を守ることになる。

しかし混雑したエスカレータでは、話は簡単なものではない。エスカレータのボトルネックを観察していると、乗るまでが問題であり、乗っている最中は比較的スムースである。このような現象が起こるのも、先に書いた優先レーンがあるためであり、乗るまでのところは実質1.3レーンくらいしかないのではないか、と見える。人はエスカレータの乗り口までは均等に歩き、エスカレータでは歩く人と止まる人がいる。しかも止まる人は片側に寄ろうとするので、歩く専用レーンまでもスムースに乗れなくなってしまう。いかにもマナーが形骸化した光景だ。

ここで第一の提案。混雑しているときにはまさに昔デパートなどでアナウンスしていたように「エスカレータでは手すりにつかまり、黄色い線の内側にお乗りください」を守り、わざわざ片側を空けないように乗ったほうが、全体としては時間対輸送量が最適なのではないか。

話は少し変わって、エスカレータはそもそも乗り物であり、そのうえを歩くものではないという説もある。歩くのならば階段を歩けばよいのである。エレベータをよじ登る人がいないように、エスカレータで歩くのは当初の設計からは想定外だという。それにしては人間が昇り降りしやすい形状になっているものだが、人間を考えるならばエスカレータの一段は少し高すぎだろう。あくまでも機械的に効率よく動かせる形状を選択したら現在の一段の高さになった、という話である。それにいかにもユーザの利便性を無視した悪しき技術者的意見だが、エスカレータの片側ばかりに荷重がかかると、機械的に故障しやすいだろう。メンテナンスを考えれば左右均等に負荷がかかったほうが良い。

そこで第二の提案。物理的な制約が許すなら、エスカレータは現在の大人が2列乗れるものから、3列乗れるものに改良すべきではないか。左右は立ったまま乗るレーン、真ん中が歩く人用のレーンにすれば負荷は均等になる。

僕の現実的解決としては、場所が許すならば混雑したエスカレータには乗らずに階段を使うことにしている。単純な解決法だし、精神衛生にも身体的にもよいので、日頃エスカレータにフラストレーションを感じる人にはぜひお勧めする次第だ。

なぜ日本にはいい男がいないのか

なぜ日本にはいい男がいないのか 21の理由』(森川友義)を読みました。公共選択論やゲーム理論、進化生物学の理論的背景を武器にして「恋愛という政治」を分析しているので、面白いといえば面白いし、読んでいて腹も立ちます(僕は男なので)。

目次を見てもなかなか刺激的です。

時代が悪い
 1. そもそも男が減っている
 2. 貧富の差の拡大と「下流社会」の出現によって「恋愛格差社会」が創出されている
 3. 出会いのパターンは急激に変化している
 4. 美男美女は大都市に集中し、地方で激減
 5. 視覚的にいい男と出会う確率はたいへん低い
 6. いい男とつきあっても(結婚しても)、長く一緒にいると必ず飽きる
 7. 義務教育のせいで、たくましい男がこぼれている
男が悪い
 8. 男の運動能力が減退している
 9. いい男にはすでに恋人(妻)がいる
 10.男はくさい
 11.男の体型が悪い
 12.男はダサい
 13.男はくどき方が下手
 14.男はセックスが下手
女が悪い
 15.女は自分の商品価値を正しく把握できない
 16.女は妥協できない
 17.女は好きになるとすぐセックスする
 18.男が馬鹿に見える
 19.女は待っていればいい男が現れると思っている
 20.女は性周期で男の好みが変わってしまう
 21.母親が悪い

どうです、挑発的というかなんというか。「私は違う」という意見を封じるために、あくまで統計的データを使っているので、反論することは難しいです。ただし、どのような男が「いい男」になるのか、という問題についてはアンケート調査でしかないので、時間を縦軸にとった場合には違うことが言えそうですし、そのような男が「いい男」なのはなぜか、という問題がまだ残されていると思えます。

とにかく思い当たる男女は読んでみるのも一興かと思います。