2010-01-27

握手の作法

雑談です。「握手の練習をしたことがありますか?」というコラムがありました。その中に気になる記述がありましたので、引用します。

そこでマナー関連の本を、都立中央図書館でざっと20冊ほど読んでみたところ、握手について書かれているのはたったの3冊! 満漢全席に招待された時や、仲居さんへのポチ袋の渡し方、訪問先のインターフォンの押し方に至るまで詳細に書いておきながら、「握手」という大事な儀礼についてほとんど語られていないのは意外であった。


ちょっと待て。僕はこれまでマナー関連の本というのは意識して読んだことはほとんどないけれども、大抵はエッセイで握手の仕方が書かれた本をいくつも読みましたよ。ぱっと思いつくのでは伊丹十三さんの何か(『女たちよ!』か『ヨーロッパ退屈日記』だったような)、景山民夫さんの何か(思い出せない)、サトウサンペイさんの何か(『スマートな日本人』だと思う)。その他に、山口瞳さんの何か(『礼儀作法入門』だろうか)や山藤章二さんの何かで読んだような気もします。

この認識の違いはいったい何なのでしょう。しばし頭をひねって、どうでもいい、という結論に達しました。

2010-01-25

『使える! 経済学の考え方』

使える!経済学の考え方―みんなをより幸せにするための論理 (ちくま新書 807)』(小島寛之)を読みました。

即物的に使えるか否かというなら、使えないでしょう。そもそも謎の多いタイトルで、何が使えるのか(経済学が? 考え方が? )、何に使えるのか(日常生活に? 経済理解に? 仕事に?)はっきりしませんが、本書の主な内容は経済学理論の数理的解説です。著者のブログから引用すると、

この本のテーマは、一言で言えば、「幸福」や「自由」や「公正」や「平等」をどうやって、そして、なぜ、数理的に議論するか、それをわかっていただくこと。
だそうです。

ついでだから本書の目次も引用します。
序章 幸福や平等や自由をどう考えたらいいか
第1章 幸福をどう考えるかーーピグーの理論
第2章 公平をどう考えるかーーハルサーニの定理
第3章 自由をどう考えるかーーセンの理論
第4章 平等をどう考えるかーーギルボアの理論
第5章 正義をどう考えるかーーロールズの理論
第6章 市場社会の安定をどう考えるかーーケインズの貨幣理論
終章 何が、幸福や平等や自由を阻むのかーー社会統合と階級の固着性


そこに焦点を絞って本書を読むと、確かに著者の狙ったことはよく理解できます。名著と言って良いかも知れないくらいに。ただし僕はずっと経済学で言うところの「効用」が前提のように扱われていることに引っかかってしまい、すんなりとした感想は持てませんでした。ミクロ経済学で盛んに使われる便利な概念ですが、この「効用」をかなりのくせ者だと僕はずっと思っているのです。

ゲーム理論などにもっとも顕著なことですが、瞬時に効用を計算できるような理念型的な人間は、それこそノイマンのような天才でしかないのではなかろうかという疑問はよく口にされます。それ以外にも僕は、選好の順位を明確に認識しているとか、時間が経過してもそれらが変わらないと仮定することが不思議でなりません。それに効用を計算しようとしても、それらがヴェーバー・フェヒナーの法則のように物理量の対数と比例した感覚なのではないかとか、まるで通貨の代わりのようには効用を扱えないのではないかとか、いろいろ思っているのです。とはいってもそういった疑問は実験経済学とか行動経済学とかで研究されているのでしょうが。

2010-01-13

『グローバリズム出づる処の殺人者より』

グローバリズム出づる処の殺人者より』(アラヴィンド・アディガ)を読みました。話題になっていた本ですが、話題通りにおもしろい。

本書は中国の首相に宛てて、インドの起業家が田舎の貧困家庭での生い立ちから語りおこした手紙(メール?)の形式で進められています。主人公は(以下あらすじなので白字)家庭事情により学校をあきらめさせられ、茶店での単純労働を経て金持ちの運転手となりデリーで生活をします。後にその雇い主を殺して奪ったお金でバンガロールで事業をおこします(白字おわり)。

最近のインドのイメージといえば、ソフトウェア産業の振興で経済的に注目されている地域というものですが、ソフト屋さんばかりではなくてその周辺のサービス産業も様変わりをしていることでしょう。それでも古くからある社会体制はそこまでの変化を見せず、いろいろな場所でそれぞれの「檻」となっているようです。本書のおもしろいのは、その「檻」同士の桎梏を描いている点ではなかろうかと僕は感じました。

かつてインドは世界でもっとも豊かな国だったそうで、その時代にカーストが固定化されました。その方がそれぞれの人にとって都合が良かったからなのでしょうね。それが固定化されているために、経済的な格差が生じてもカースト間の移動が難しくなり、生産形態が農業を中心にしようと工業が盛んになろうと官僚制が導入されようと、ある仕事はある人たちのもの、という状況が続いています。

ヴェーバーがよく書いていたことですが、支配の形態は正当性によるもの、伝統的なもの、カリスマによるものといろいろあります。なぜ個々の人が不利益を被ってまでそうした支配を受け入れるかと考えると、一部には自分で納得したものもあるでしょうし、有無を言わさぬ暴力によって従わされているところもあるでしょう。しかし圧倒的多数はその支配自体を自分に内面化していることで安定を得ているものです。

本書では使用人が雇い主の資産を強奪しないことが「使用人根性」として描かれていましたが、こうしたものは生活のありとあらゆる場面から強化されます。例えば信仰する神からして違います。初等教育課程も家庭環境やら政治状況やらでスムーズに進まないことが多いです。家でも学校でも従うことの正当性や合理性に慣れ、将来の展望も規定され、置かれた状況を当然のものとして受け入れることになります。これは貧困層のみの話ではなく、資産階級も自分よりも上位のヒエラルキーを当然のものとして受け入れることとなります。

本書の登場人物たちはそれぞれ象徴的な役割を持っています。主人公の雇い主はアメリカへ留学していましたのでアメリカ的な考え方も持っていますが、親や親族と結婚についてもめていましたし、利権や税金のために贈賄をすることに絡められています。バスの車掌から政治活動をするようになった登場人物は、比較的新しくインドに現れた政治的エリートとして階層をのぼっていきます。中国の首相だって宛先としてしか登場しませんが、中国の政治や経済の状況をインドと対照させられます。もちろん主人公はもっとも大きな役割を担い、起こりつつある変化を象徴します。

この小説について語る人は往々にして、ルポタージュやノンフィクションとフィクションを対比させたり、「インドの実像」について語りますが、僕はそうした点にはそれほど惹かれませんでした。パール・バックの『大地』や魯迅の『阿Q正伝』に似ていると言えば似ていますし、そうした「フィクションによって現実をよりリアルに伝える」とかいう話はすでにし尽くされている感があります。それよりも僕の目には、登場人物がアイコンのようにちりばめられ、それらの互いの関わり方が現代(インドに限った話ではありません)を戯画化しているように感じられるところが素敵と映りました。受け取りようによっては惨憺たる話ですが、それをうまく軽やかにする主人公の皮肉な語り口も訳文も素敵でした。

2010-01-12

20歳の20冊

雑談です。20歳は遠きにありて思うもの、近くば寄って目にもみよ、と。

出版文化産業振興財団(僕はこの財団を知りませんでした)が「20歳の20冊」を選んでいるそうです

以下、その20冊を。

  • 穴 (ルイス・サッカー)
  • 雨鱒の川 (川上健一)
  • アメリカ 過去と現在の間 (古矢旬)
  • 1分間でわかる「菜根譚」 (渡辺精一)
  • 肩胛骨は翼のなごり (デイヴィット・アーモンド)
  • しゃべれどもしゃべれども (佐藤多佳子)
  • 12歳からの現代思想 (岡本裕一朗)
  • ジョゼフ・フーシェ (シュテファン・ツワイク)
  • スローター・ハウス5 (カート・ヴォネガット)
  • 生物と無生物のあいだ (福岡伸一)
  • 世界の言語入門 (黒田龍之助)
  • 蝉しぐれ (藤沢周平)
  • ナイフ (重松清)
  • 人間臨終図巻Ⅰ(山田風太郎)
  • 母恋旅烏 (荻原浩)
  • ペスト (カミュ)
  • やわらかな心をもつ (小澤征爾・広中平祐)
  • 夜のピクニック (恩田陸)
  • 歴史とは何か (岡田英弘)
  • わたしを離さないで (カズオ・イシグロ)

僕の既読は7冊でしたが、どことなく愛読家向けではないようなラインナップに思えます。

どんな20冊がよいのかあれこれ考えるのもよいけれども、20歳ってあまりにも幅が広すぎて難しそうですね。年代でわける推薦図書って小学校○年生とか中学生とかなら比較的決めやすい(といっても至難の技です)かと思うけど、20歳ともなればある程度の趣味嗜好が固まっていそうですから。

20歳の僕なら成人式でこれらの本を勧められようが贈られようが「僕は僕の読みたいものを読む」と無視すること間違いなしです。むしろ反発して、これらの本から遠ざかるかもしれません。

2010-01-08

『ブリッジブック社会学』

ブリッジブック社会学』(玉野和志編)を読みました。大学一年生向けの教科書みたいなものなのです。

この本の執筆者の一人である友人に会ったときに「あの本、おもしろい?」と聞いてみたところ、曰く「僕の書いたところはおもしろい」と、ずいぶん大きく出たものでした。それならばひとつ読んで、からかってやろうと手に取りました。

読んでみると、友人が格好良すぎて惚れました。日頃から量的調査や数理モデルばかりにこだわる社会学者を毛嫌いする発言をしている彼なのですが、彼の面目躍如とでも言う内容で、大学一年生に読ませたら少し毒になってしまうのではないかと思わせるほどです(僕は量的調査や数理モデルが好きですし)。とにかく友人の言ったことは本当でした。

もっとも素敵だと感じた一文を引用します。

数量化すれば自動的に客観的で科学的な社会学になるわけではない。何より、「数える」ことそれ自体が、日常的な行為理解に論理的に依存している。自殺率を調べるためには自殺を数えなければならないが、そのためには自殺とその他の死が区別されていなければならない。そして、その区別の理解可能性を支えているのは、決して数字ではなく、社会生活のなかで「人の死」に直面したとき、その原因や理由、意図や動機を理解する人びとの実践なのである。このことを忘れて、人びと自身による行為理解から切り離された数量化を行うなら、それは決して社会生活の科学にはなり得ない。


本書全体で言えば、近頃流行りの教科書のように社会学的な概念や理論を使って現代社会をどう理解するかという体裁をとらず、オーソドックスな学説史のように有名社会学者をほぼ順番に紹介しています。特徴的なのはマルクスによる近代社会(資本主義社会)の悲観的な観察をどのように乗り越えられるのか、という問題意識(本当にあったかどうかわからないですね)をヴェーバー、デュルケム、ジンメルが理論・方法論として確立したものが社会学の源流で、社会学に共通するものの見方なのだ、という大きな図式が提示されていることです。その三者を批判・継承しつつ、パーソンズ・シュッツ・ガーフィンケル・ゴフマン・ルーマン・ハーバーマス・ブルデュー・ギデンズといった社会学者の流れを解説しています。

社会学のわかりにくさとおもしろさは、対象が他の学問領域と同じということがあげられると僕は思います。研究対象が同じでもどうして一つの学問領域として成り立つかといえば、研究方法や対象への視座が違うから、というわかったようなわからないような説明がよくされますが、本書はその視点をうまく説明しています。つまるところ、法・経済・文化・宗教といった社会的構築物(これは僕の言い方であり、本書ではこんなに無防備な言い方はしません)によって人間の行為が決定されるわけではなく、必ず行為主体の主観的実践が含まれ、それが社会的構築物を所与のものとしつつそれらに影響を与えていく、ということです。おそらくこれは編者の主張なのでしょうが、本書は一貫してこのスタンスから学説を紹介しています。

それぞれの社会学者が、どのような社会環境で、どのように先人の学問とつながり、どのような問題を解決するために研究をし、どういう成果をみたか、といったところに重点が置かれているので、学説がどのようなものだったのかということには詳しくは触れられていません。ですから公務員試験の「社会学」などには読んでもまったく役に立たないでしょうが、社会学に興味のある大学一年生向けとしてはとてもよくできている本です。ただし、とある章は他とのつながりも薄く、本書全体の流れを幾分断ち切っていると思いました。