2008-12-31

『にせもの美術史』

ちょっとした雑談です。今『にせもの美術史―鑑定家はいかにして贋作を見破ったか』(トマス・ホーヴィング)を読んでいて気になったところがあったので、個人的な備忘録もかねて。

以前『妖女サイベルの呼び声』を読んだ時に、ドラゴンは蛇のような幻想動物だと思いなおしたのですが、メトロポリタン美術館に所蔵されている「Rospigliosi Cup」のドラゴンはどう見ても蛇ではないのです。この美術品は長年16世紀にBenvenuto Celliniによって作成されたと思われていたとのことですが、現在は19世紀の第一四半世紀にフランスかイタリアでつくられたものと見なされているようです。

さて、これが16世紀のイタリアでつくられたと考えられていたということは、ドラゴンはどのような姿をしていたと思われていたのでしょうか。再び僕が以前思っていたようなトカゲに似た幻想動物だったのではないか、という疑問が持ち上がってきました。少なくともこの杯に象られている竜では、とぐろを巻いたり出来ません。

それだけです。

2008-12-26

『夜明けのフロスト』

夜明けのフロスト』(R・D・ウィングフィールド他)を25日に読みました。

各方面で活躍している人たちが揃っていて、お買い得感がたっぷりでした。
・「クリスマスツリー殺人事件」(エドワード・D・ホック)
・「Dr.カウチ、大統領を救う」(ナンシー・ピカード)
・「あの子は誰なの?」(ダグ・アリン)
・「お宝の猿」(レジナルド・ヒル)
・「わかちあう季節」(マーシャ・マラー&ビル・プロンジーニ)
・「殺しのくちづけ」(ピーター・ラヴゼイ)
・「夜明けのフロスト」(R・D・ウィングフィールド)
が収められています。

それぞれの短編では、それぞれの作家によってシリーズ化されている人物が登場します。すべてクリスマスにちなんだ作品で、ハートウォーミングなものもあれば、さみしくさせられるものもあり、バラエティに富んでいます。ディケンズも毎年クリスマスストーリーを発表したり、主宰する雑誌でクリスマス特集をしましたが、こういうクリスマス作品集というのも面白いものだな、と思わされました。僕は異教徒ですが。

中でも「お宝の猿」のダルジール警視と「夜明けのフロスト」のフロスト警部は僕が好むシリーズでもあり、楽しく読めました。しかしやっぱり、シリーズものは短編でも得をしているな、と思いますね。キャラクターの描写が不充分でも、読者にとっては既におなじみの人物ですので、この人ならこうする、というのがよくわかってしまうのです。

ともあれ、一冊でたくさんの有名人に出会えますので、満足でした。

2008-12-22

『フリーランチの時代』

フリーランチの時代』(小川一水)を読みました。

著者の本をそれなりに読んできて、傾向が朧気ながらつかめてきました。少なくとも早川の出版物に関して言えば、その傾向からあまり外れることはないので、ファンならば安心して読めるでしょうし、ファンでなくとも一作品くらいならばプッシュしてみたいです。

作風はあくまで科学技術的にいかにも説明のつきそうな記述がまずは魅力です。そして近年の作品に至るほど、技術や設定に力を注ぐよりも、社会と人間と環境に力点を置いているようです。純粋なSFファンの好みとは離れつつあるかも知れませんが、僕は好きですね。

ただ、本書には「フリーランチの時代」「Live me Me.」「Slowlife in Starship」「千歳の坂も」「アルワラの潮の音」が収められていますが、『時砂の王』のサイドストーリーとなっている「アルワラの潮の音」は出来映えがいまいちのように僕には感じられました(上から目線)。それが少し残念です。

『クリスマス・キャロル』

ここ20年くらいの毎年恒例ですが、この時期になると色々な版の『クリスマス・キャロル』を読みます。今年は今まで未読だった池央耿さんの光文社古典新訳文庫を読みました。

言うまでもない名作ですから話はさておき、翻訳は固いな、という感じがしました。ディケンズの文章は当時としてはとても読みやすい平易な言葉で書かれていますが、それを現代の日本語に置き換えた時にはどういう訳にするか、訳者によって大きく異なります。いわゆる豪傑訳というものもありますが、池さんの翻訳は格調高く、古典を古典として尊重するような翻訳でした。

気に入った訳文と、その原語を引用します。

ああ、冷厳にして非常なる死よ、このところに汝が祭壇をしつらえ、意のままなる恐怖のありたけをもて飾れかし。こは汝が領域なればなり。さりながら、ものを脅さんそのために、まった毀損の意図により、愛され、敬われ、讃えられたる頭に限り、髪一筋たりとも掻き乱すことなかれ。もとより、その手の重く、放せば落つる故ならず。鼓動、脈拍、打たざる故ならず。なにさま、その掌は広く、豊けく、真なりき。心は強く、優しく、深かりき。たぎるは赤き血なりけり。打つがいい。陰鬼よ、打って打ちたたけ! そが善行の傷より噴き出で、地上に永遠不滅なる命の種を蒔くを見よ!


Oh cold, cold, rigid, dreadful Death, set up thine altar here, and dress it with such terrors as thou hast at thy command: for this is thy dominition! But of the loved, revered, and honoured head, thou canst not turn one hair to thy dread purposes, or make one feature odious. It is not that the hand is heavy and will fall down when released; it is not that the heart and pulse are still; but that the hand WAS open, generous, and true; the heart brave, warm and tender; and the pulse a man's. Strike, Shadow, strike! And see his good deeds springing from the wound, to sow the world with life immortal!

2008-12-19

『プルーストとイカ』

プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?』(メアリアン・ウルフ)を読みました。断言しますが名著です。構成も見事だし見地は斬新だし。

本書は大雑把に言えば「文字を読むことによってどのように脳が変化をするか」という事を論じています。マクロなレベルでは人類が文字を発明し、現在の様々な書記体系に至るまでの歴史であり、ミクロなレベルでは人が産まれてから文字を読めるようになるまでの発達史です。面白いことに、人間の脳には文字を読むための専用の機能はない、というのですね。つまりタイトルの一部にもあるように、イカの神経索を研究することが人間が文字を読む際の脳の働きにも洞察を与えるということです。生物は常に、器官の機能を転用することで進化しますが、脳に関しても例外ではないということは、わかってはいるつもりでも本書を読んで納得させられました。

詳細な感想を書くほどに消化していませんが、遅ればせながら今年読んだ本の中では最も面白かったです。

2008-12-15

『くらやみの速さはどれくらい』

くらやみの速さはどれくらい』(エリザベス・ムーン)を読みました。

21世紀版の『アルジャーノンに花束を』だという話を聞いて読んでみたのですが、僕はかなり違う毛色の作品だと感じました。『アルジャーノン』のような知的障害者の知能的成熟とその衰えという曲線を描いてはいません。主に自閉症者である主人公の視点から語られてるところは似ていますが、その主人公を取り巻く環境はまさに現代社会にも見られる様々な障害者に対する態度に満ちています。そして主人公はおそらくサヴァン症候群と思われるように、特定の領域において特異な才能を持っています。

自閉症の治療、ひいては障害の矯正に対して、真摯に向き合った作品であるという点では、僕は『アルジャーノン』よりも本作を推したいです。『アルジャーノン』では知的な成熟は「よいもの」のような描かれ方をしていたような記憶がありますが、本作ではそのような視点はありません。現代の障害者団体がいうように、障害はその人に備わった個性であり、障害そのものを受け入れながら社会や常識との摩擦を少なくしていくというスタンスに立っているように思われます。そのスタンスに立ちながら自閉症者の視点から世界を眺めるというのは実に想像力を刺激されます。

私事ですが、僕は養護学校教員の資格を持っています。社会運動の調査のため、障害者団体に深く関わっていたこともありますし、障害者の介助経験もそれなりにあります。僕の姉はいわゆる知的障害者ですし、僕自身も以前は「障害者」のカテゴリーに属していました。そうした知識や経験を通してみても、本作は近い未来の話として充分に納得のいく記述で、映画の「レインマン」のような現実離れした描き方ではありません。そうした自閉症者の視点から、本作で描かれる「健常者/障害者」という区分へのささやかな疑問も、はたして人間性とはどのようなものかという探求も、そのまなざしを通す事によっていっそう深みを増していると感じました。

隠喩に富むタイトルの「くらやみの速さはどれくらい」という主題も、色々なバリエーションで展開され、それぞれのバリエーションで考えさせられましたし、話の終末も意外とは言えませんがどこなくすっきりはせずに、広がりがもたらされています。とにかくこの本は、僕にとっては読んでよかったと思える作品でした。

2008-12-10

『サイエンス・インポッシブル』

サイエンス・インポッシブル―SF世界は実現可能か』(ミチオ・カク)を読みました。

科学読み物として、実にアレな感じたっぷりでありながら、なおかつものすごく参考にも勉強にもなるという、希有な本でした。本書では様々なSFに登場するような物事を、現代物理学でどのように説明するか、あるいはどのようにしたら実現できるかを真剣に論じた本です。

目次を部分的に引用すると、

不可能レベルI
1. フォース・フィールド
2. 不可視化
3. フェイザーとデス・スター
4. テレポーテーション
5. テレパシー
6. 念力
7. ロボット
8. 地球外生命とUFO
9. スターシップ
10. 反物質と反宇宙

不可能レベルII
11. 光より速く
12. タイムトラベル
13. 並行宇宙

不可能レベルIII
14. 永久機関
15. 予知能力

と、魅力溢れるSF要素を説明しています。ちなみに不可能レベルIは「現時点では不可能だが、既知の物理法則には反していないテクノロジー」、レベルIIは「物理的世界に対するわれわれの理解の辺縁にかろうじて位置するようなテクノロジー」、レベルIIIは「既知の物理法則に反するテクノロジー」ということです。

トンデモ科学に反論するのでもなく、『空想科学読本』のようにお話がいかに現実的ではないかを説明するのでもなく、SF的世界がいかに現実的かを説明する本ですので、じっくり読むとSFの読み方が変わってしまいそうです。というよりも、既に現代物理学が過去の物語に追いつきつつある、とでも言うのでしょうか。

残念なところとしては、数式を一切用いていないところです。著者は有名な超ひも理論の研究者ですが、数学という言語を用いての説明がないと、著者の話が全くのほら話なのかそうでないのかを読者が検討できないところです。まあ普通の読者は現代物理学で使われる数学を理解できませんから(少なくとも僕は理解できません)、それでよしと言えばよいのですが。

蛇足ながら、東京大学の舘研究室が「光学迷彩」(攻殻機動隊に出てくるやつです)を部分的に実現させた時には興奮しました。まさに「充分に進歩したテクノロジーは、魔法と区別がつかない」ですね。

『老ヴォールの惑星』

老ヴォールの惑星』(小川一水)を読みました。

本書には「ギャルナフカの迷宮」「老ヴォールの惑星」「幸せになる箱庭」「漂った男」の4編が収められています。それぞれに違った味わいがありますが、作者はとことんまで楽天的というか、人間性に信頼を置いているのだな、という感想を持ちました。

例えば「ギャルナフカの迷宮」ですが、(以下少しネタバレのため、文字色を変えます)極限状態の環境で相互扶助を基本とした社会秩序を人間が作りあげています。歴史的な人間観からすると、これは大いに反論を招くかも知れません。原始状態の人類社会がはたしてどれほど理性的であったのかは、万人の万人に対する闘争(まあこれだって理性的とも言えます)と位置づける人もいるでしょうし、長期反復型のゲームでは協調行動が最適解という人もいるでしょう(ちなみに僕はこの意見に与します)。その他の短編でも、人間の色々とした理不尽なところがあまり出てこないのです。

読んでいて爽やかな気分になれるのは、当然素直な善人ばかりの物語でしょう。それでもどうしようもなく利己的なのが人間であり、自分の利益のためにはかなりの悪事もはたらくのが歴史的教訓です。暗い話を読みたいわけでもないのですが、徹底的にすっきりとした話ばかりというのも少し考え物だな、と思ってしまいました。

それはさておき、作者のSFは未読作品のほうが多いのですが、いかにも物理学的に説明のつけられそうな、本当にSFっぽいところが好きです(とはいうものの物語ですから無理もそれなりにあります。例えば「漂った男」など、生命反応を探知する方法くらいならたくさんありますし)。きっと入念な取材をなさっているのだろうなと想像させられますし、お若いのに(僕より少しだけ年上です)大したものだと感心させられることしきりです。

2008-12-09

『フロスト気質』

フロスト気質 上』『フロスト気質 下』(R・D・ウィングフィールド)を読みました。

これまで通りのフロスト警部を読んで、安心するというかパターン通りで残念というか、とにかくシリーズのこれまでの作品同様に楽しめました。しかも今回は長い。長いぶんだけ事件も多く、登場人物も複雑で、デントン警察署の混乱もこれまで以上です。

このシリーズの特徴は、事件を解決しないことなのですよね。事件は勝手に解決されるというか、フロスト警部が八面六臂の活躍をしてもしなくても、事件解決にはそれほどの影響を与えない。それだけ間が抜けて見当外れで(でも時として適切で)場当たり的な捜査を進める訳です。

名探偵活躍ものでもなく、論理的に推測可能でもなく、地道な実証調査でもなく、取り立ててアクションもなく、色気らしきものもさほどなく(エロ気ならありますが)、ただただどうしようもないオヤジがドタバタと休まずに仕事をする。そんな話が楽しいのはまことに不思議というものですが、それが面白いのです。多くの事件がひっきりなしに起こり、それらの事件を平行して捜査しながらも、それらの事件は何のつながりもなく、解決されるべき時にしかるべくして解決されるのが。

この面白さは多分、ミステリの面白さではありません。人情話の面白さというか、イギリス風猥談の面白さというか、とにかく正統派ミステリファンからは白眼視されそうなものです。ですが僕はこのシリーズは一作目の翻訳が出た時から好きなので、今回も大いに楽しんで読みました。解説を読んで知ったのですが、残念なことに作者は物故なさっているので、日本語訳はどうやってもあと二点しか刊行されません。本作を読み終えてしまったのは、少し残念な事です。

2008-11-30

『ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト』

ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト―最新科学が明らかにする人体進化35億年の旅』(ニール・シュービン)を読みました。

とても面白く読める、科学エッセイでした。主なテーマはタイトルの通り(原題は"YOUR INNER FISH"です)、個体発生に伴う進化系統樹の様々なかたちを探る、というような内容です。

面白いのは、化石資料を調べてそのなかに人間の器官の祖型を見つけることや、DNAの解析から、まるで異なった器官のように見えるものが様々なかたちで継承されているということです。考古学的なアプローチと分子生物学的アプローチの両面から、私たちのなかにある「魚的なもの」をあぶり出していくさまは、読んでいて痛快ですし、非常に含蓄があります。

また、本書は著者の研究室で行われている研究や著者が行っている解剖学の講義を下敷きにしていますので、研究者としてどのような失敗や試行錯誤をしてきたか、という記録にもなっています。特に化石発掘の部分では、全くはじめての化石発掘からエピソードもとられていますので、その視点の変化や体感覚としての着眼点を得るところなど、これも面白いものです。

本書のなかで特に印象に残った一文を引用します。

器官は一つの機能のためにしか生じないが、時間がたつうちに、いくつでも新しい用途のために転用することができる。

つまり爬虫類の顎の骨が進化の過程で哺乳類の中耳骨となるように、同じDNAマップでありながらまったく異なった用途に使われるようなことを示しています。個体発生は系統発生を繰り返す、という有名なフレーズがありますが、そういうものとは少しニュアンスが異なり、過去に生きてきた生物の名残を個体発生のうちに見いだすようなものです。

とても興味深い本でした。ただ、かなり専門的な記述も多いので、生物学やら古生物学に通暁していない僕としては未消化のところが多いので、そのぶん充分に味わい尽くしていないと思われるのが残念です。

2008-11-28

『マルドゥック・スクランブル』

マルドゥック・スクランブル―The First Compression 圧縮』『マルドゥック・スクランブル―The Second Combustion 燃焼』『マルドゥック・スクランブル―The Third Exhaust 排気』(冲方丁)を読み終えました。率直で簡単な感想を言えば、とても破天荒で面白いSFでした。もっと早く読んでいたら、もっと色々な人にその面白さを伝えたくなったことでしょうが、なんとなく読み終えたばかりの僕としては、面白さを消化することに専念したい気分です。

まずもって、SFだからガンアクションや白兵戦やカーチェイスがあるのはどうと言うことはないけれども、SFなのに法廷劇あり、ギャンブルあり、人間社会の価値や個人の存在意義をストレートに(いささか愚直に)問いかける作品というのも珍しいでしょう。そういったことや多少ナルシスティックな哲学的談義も含めて、非常に面白い作品だという感想です。

個人は名前のために生きている、というアフォリズムがあります。個人を形成する要素はその個人の物質的要素にのみ還元されるものではなく、その個人が身にまとった記号や情報によっても形成されているというような記号論的な話ですが、そういった面倒な議論はさておいて、この作品の名前の付け方にまずは感心しました。

主要登場人物だけあげても、
バロット Balot(フィリピン英語ではbalut)
オフコック Œufcoque(フランス語ではŒuf à la coque)
イースター Easter
シェル Shell
ボイルド Boiled
これらすべては卵などに関係する名前ですし、そのキャラクターの物語での立ち位置もその料理や素材などに暗示されています。作品には色々な解釈がつけられるものですが、僕はひとつの解釈として、「生成」の物語でもある、と無謀にも断言してしまいます。産み落とされた卵がどのような特性を得るかは産まれた後の話であり、どういう最終形態を持つかは卵にはおよそ関係のないことです。ある卵は雛に孵るかもしれないし、ある卵は殻だけになるかも知れない。そうしたものを名前だけで暗示しているのは安直というか思慮深いというか判断はつきませんが、とにかく感心します。

それ以外にも作品中に現れる、まるで『時計じかけのオレンジ』か『1984年』のイングソックのようなスラングもまた、卵に関連するものが多いです。法務局=ブロイラーハウス、「充実した人生」=サニー・サイド・アップ、「焦げ付き」=ターン・オーバーなど、いかにもなところでいかにもな言葉を持ってくるあたり、言語感覚的にも僕の興味を刺激しました。

とにかく僕がなんやかんや言うまでもないでしょうが、この作品は楽しめました。余談ですが、三冊目のカバーイラスト、ダイヤやハートのカードも黒く描かれているのですよね。あくまで色彩的にイラストとして最適と思われるように描いたのでしょうが、僕個人としては赤くなっていたほうが好みです。

2008-11-25

『キリスト教文化の常識』

キリスト教文化の常識 (講談社現代新書)』(石黒マリーローズ)を読みました。

まさに常識です。それ以上のものではありませんが、知識として知っているキリスト教文化と、生活に根ざしたカトリックの教えとは多少の距離があるようで、その生活の部分では新たに知らされることが多く、勉強になります。特に英語やフランス語の慣例句に現れるキリスト教的な表現は参考になりました。

しかし僕の母は宗派の違いはあれどもクリスチャンで、食事の前にはお祈りをするし、聖書はいつでも読んでいるし、日曜日には必ずミサに出かけるし。そういう母を見ていると、国の違いはあっても何となく馴染みのあることばかりでもあり。

『アメリカの混迷』

アメリカの混迷』(草野徹)を読みました。

著者は共和党に肩入れしているようで、共和党に都合のよい書物や報告書をあげて、民主党の過去をあげつらう内容がメインでした。民主党に肩入れしている人の書く本を読めば、どっちもどっちという感じはしますが。政治の話はいつだってきな臭い物ですし、コンサーバティブにしろリベラルにしろ、成功もあれば失敗もあるものです。いわゆる「知識人」はリベラルに偏る傾向はあるにしても。

これを日本に置き換えると、まるで自民党と民主党のような、あるいは朝日新聞と読売新聞か産経新聞のようなものでしょう。どの論説を読もうとも、欠陥はあるしよいところもある(ないかも知れませんね)。こういう僕のような態度は日和見主義といわれても構いません。

中庸を尊重できないものなのかな、と思ってしまいます。

2008-11-24

『喪失記』

喪失記 (角川文庫)』(姫野カオルコ)を読みました。

作者のほかのエッセイを読むと、この作品の主人公の行動や思想が作者のそれを色濃く反映しすぎているような気がして、小説としての出来映えはあまり感心できなかった。テーマはとても興味深い。

2008-11-23

『軍犬と世界の痛み』

軍犬と世界の痛み』(マイケル・ムアコック)を読みました。

「エターナル・チャンピオン」シリーズの一環。ムアコックにしてはものすごく直線的な探索物だったので、ちょっと意外。法と混沌のバランスという基本的な世界観も、本書では薄らいでいるし。ムアコックの新しめの作品ではやっぱり神々の問題よりも人間の問題を扱いたがっている模様。

『ソーシャル・キャピタル』

ソーシャル・キャピタル―現代経済社会のガバナンスの基礎』(宮川公男・大守隆 編)を読みました。

ソーシャル・キャピタルをめぐる、経済学の論文集。ソーシャル・キャピタルについては用語は違うけれども経済学や社会学などではずいぶん前から議論されていることだから、それほど目新しいこともなかった。ボウルズ=ギンティスの議論やパットナムの議論は既に読んだことがあるし、それらの紹介にとどまっていたような。

『時砂の王』

時砂の王』(小川一水)を読みました。

とても面白かった。はじめは史実と違う、などと思ったけど、時間SFなので、時間分岐した過去の世界なのだな、と納得。

『モンスター新聞が日本を滅ぼす』

モンスター新聞が日本を滅ぼす』(高山正之)を読みました。

目次をみれば内容が想像できる本でしたので、目次を引用します。

まえがき
I
横田夫妻に残酷だったマスコミ
事件を事件にしない
自衛隊にケチをつける『朝日』
歴史の真実を知らない日テレ
NHKに「言論の自由」!?
未熟な大人をもち上げるTBS
よくぞ言った橋下弁護士
愚にもつかぬ『あるある』騒動
大軍拡に快哉を送った『朝日』

II
「タミフル騒ぎ」の事実歪曲
「原発はやめろ!」は馬鹿の大合唱
古舘伊知郎の真っ赤な嘘
殺人食品を見ぬふりの『朝日』
正真正銘のマッチポンプ報道
悲しき反安倍キャンペーン
基地と市民と『朝日新聞』

III
日本を溶かす元凶
嫉妬と偏見の日本国憲法
民主党大統領は日本に不利だ
"侵略者・日本"をでっち上げた米中の都合
祖国を罵る悲しき日系人の「業」
日本の官僚は腐っている!
何度でも言おう、世界はみんな腹黒い


偏っていない人間など信じられない僕としては、偏っていない新聞など信じられない。偏りを偏りとして見られてこその報道だと思うのだけれども、著者は著者なりの偏りで、逆方向の偏りを一方的に非難しているので、ちょっと不愉快。

2008-11-18

『第六大陸』

第六大陸〈1〉』『第六大陸〈2〉』(小川一水)を読みました。

本書の内容は単純で、民間企業が月に有人滞在基地を建設する、というものです。

興奮しました。宇宙開発の話は大好きなのですが、この小説はきわめて近い未来を舞台としているだけあって、歴史的宇宙開拓の事実もたくさん出てきますし、現在進行中(あるいは頓挫中)のプロジェクトの話も盛り込まれています。そのうえ科学技術的には、現在の技術でも決して実現不可能ではないのではないかと思わせるほどにリアリティがあります。そのぶん人物の描写は手薄になっているのかも知れませんし、ストーリー的に広がりがないかも知れませんが。

まるで近未来のプロジェクトXを読んでいるような気がしました。ひとつの感想としては、登場人物たちのひとりでも、一緒に仕事をしてみたいということです。『妙なる技の乙女たち』でも思ったことですが、小川さんはプロとしての自覚と実行力を備えた魅力的な職業人を描くことに長けていますね。

仕事に燃える人たちの話は、それほど得意ではないのです。私事ですが、僕はかつて仕事に没頭し、帰宅しても寝るだけが当たり前でしたし、家に帰らないことも多い状態でした(今はまったく違いますが)。大きな企業で新規事業の立ち上げに携わり、関係企業の調停やら技術的説明やらにじたばたし、その傍らでシステムの設計をしてたりしていました。僕はプロジェクト完了前に退職しましたが、その後の実働している成果をみているとそれなりな満足を覚えてしまうのですね。

なぜそれをするか、どうやってそれをするか、そうした疑問には仕事をしている上では常につきまとうものです(僕が今従事している仕事も疑問に満ちています)。しかし各人の思惑はそれぞれでも完成型は最終的にはたったひとつ。それに向けての協働体制はそれなりにやりがいのあることです。それが既にあった出来事をなぞるのではなく、これから起こりうる想像的な出来事を、圧倒的なリアリティをもってシミュレーションし、読者を飽きさせない展開も含んで描かれる小説として、繰り返しますが興奮しました。

ちょっとだけ難点をいうなら、特に金額面で、数字の桁違いだろうと思えるようなところや矛盾が多々みられました。これは実現可能性という夢を描く上で作者が必要と感じたからあえて桁違いで書いたのでしょうが(後書でもそんなことに触れていました)、「そんなわけないだろう」というツッコミも少し入れたくなってしまうのは、僕が熱血漢ではないうえ仕事に夢を持たないせいでしょう。あとはネタバレになるので書けませんが、有人滞在基地のある目的とその結果に関しては割り引きしたい気分ですし、蛇足のような気もします。

とりあえず、長く僕のお気に入りの本になることは間違いありません。

2008-11-15

『町長選挙』

町長選挙』(奥田英朗)を読みました。

この作品はこれまでの伊良部先生のシリーズと違って、あまり純粋には楽しめませんでした。知人が言うように勢いがなくなったのかも知れませんが、実在の人物を題材にとったりしているので、賞味期限の短い本だな、と思いました。ライブドアショックがあったときに僕は同じビルを職場としていたのですが、既に遠い昔のような気がしますし。

そうした意味では、タイトルともなっている「町長選挙」だけが唯一の創作かなと思いきや、これもなかなか純粋には笑えない話です。単純な笑いや伊良部先生の癒しを狙っているのではなく、皮肉でもって現代を描くような雰囲気のする作品でした。そういう作風も嫌いではないのですが、作品の完成度という面ではもう少しどうにかなるのではないかと、読者としての一方的な感想です。

『統計数字を疑う』

統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか? (光文社新書)』(門倉貴史)を読みました。

ダレル・ハフの名著『統計でウソをつく法』や谷岡一郎さんの『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ』と似たような本かと思いきや、そうした統計一般に関する話題ははじめの数章のみで、後に行くほど経済統計に的を絞った濃い話で、とても満足度の高い本でした。図書館で借りた本なのですが、是非購入して手元に置きたい、そして時折参照したい本でした。

僕はこの本を読むまでにも、色々な統計情報の算出方法や精度に疑問を持っていましたし、社会調査や統計についての専門教育も受けたのですが、その事情がまとめて読めるというのはとても貴重です。著者である門倉さんの出す新書は、ご専門が地下経済ということもあってかセンセーショナルなタイトルがついていることが多いけれども、とても地に足のついた、ページ数の割に重厚な本が多いので、ファンになってしまいそうです。

2008-11-12

『たったひとつの冴えたやりかた』

たったひとつの冴えたやりかた 改訳版』(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア)を読みました。この本は多分中学生の頃に読んだのですが、訳者は同じながらも新しい訳がでているようだったので読んでみました。

感想として、なんといってもずいぶん前に読んだ本なので、翻訳の違いを味わうほどには覚えていませんでした。話の細かいところも覚えていなかったし。あらすじは覚えていたけれどもほとんどはじめて読む本のように楽しめました。物語の主要な語り手が15才くらいの女の子なので、訳文もそれらしくやさしい語り口ですし、とても読みやすいです。それにしても主人公たちの「たったひとつの冴えたやりかた」に至る決断を思うと、胸が熱くなります。前後の作品がないのは、物語の流れから言って少し残念でもありますが。

ところで、初出は1986年とせいぜい20年前なのに、音声を記録するのに磁気テープやカセットを使うとか、紙テープに出力するとか、色々な電子デバイスが本当に陳腐化しているところを思うと、現在のコンピュータ系の世界を舞台としたSFも20年すると陳腐化するのかな、という複雑な思いです。まあ古いSFにその傾向はいつでもつきまといますが。

2008-11-10

『空中ブランコ』

空中ブランコ』(奥田英朗)を読みました。

「性格っていうのは既得権だからね。あいつならしょうがないかって思われれば勝ちなわけ」

主人公の伊良部先生を語る言葉として、蓋し名言です。

前作の『イン・ザ・プール』とまったく同じようにお腹を抱えて楽しみました。こういう医者にかかってみたい(でも一回だけでいいかも)。本当に癒されます。

ちょっと不思議に思ったのですが、作者は単行本に収録する短編数を見越して連載していたのでしょうか。ほとんど連載順に収録されていますが、一冊の本としてみても構成は絶妙なバランスを持っています。はじめにアクションありのどたばたで引きつけて、中程では中だるみしないようにバリエーションを変えて、ラストはしんみりとする人情話。見事でした。

『町長選挙』も読みます。

2008-11-09

『イン・ザ・プール』

イン・ザ・プール』(奥田英朗)を読みました。

はちゃめちゃ精神科医が活躍する面白話と聞いたので読んでみたのですが、噂に違わず面白かったです。僕はこの作品が映画化されていることすら知りませんでしたが、配偶者が教えてくれました(面白い本の話はもっと早くして欲しいものです)。

僕の主治医である精神科医はこんなにはちゃめちゃではないし、謎の露出狂(?)で切れ者(?)のナースもいませんが、精神科という性質もあるのか、処方の内容を薬品名まで指定しながら相談したり、僕が関係各所に提出する必要があるときには、診断書についても話します(法に抵触するかも知れないので詳しくは話せませんが)。

それでもやはり医者と患者。ドライな関係ですが、本書に登場するはちゃめちゃ精神科医のお話は実はウェットな人間ドラマだと思い、こんな精神科ならかかってみたいものだな、と思ってしまいました。

2008-11-08

『妖人奇人館』

妖人奇人館 (河出文庫)』(澁澤龍彦)を読みました。

初出は1966年から1969年あたりとのことなので、情報の溢れた現在から見れば「何を今更」な妖人奇人の人選かも知れませんが、古い本で、なおかつ一般誌に連載されたとのことですから、それを踏まえれば面白い読み物でした。

澁澤龍彦の文章は、僕はあまり得意ではなかったのです。妙に思弁的で、身体感覚としてわかりにくい難解な言い回しが多いような気がして。それでも本書は一般雑誌(別冊小説現代)向けの文章をつむいだのか、とてもやさしい語り口でした。

内容といえばノストラダムスやらサン・ジェルマン伯爵やら、新しいところではラスプーチンやらの怪しげな人々を紹介しています。もちろん怪しげな本ですが、澁澤龍彦の手にかかるとこれが実に魅力的というか蠱惑的というかになってしまうから不思議です。

『クリスタル・サイレンス』

クリスタルサイレンス〈上〉』『クリスタルサイレンス〈下〉』(藤崎慎吾)を読みました。

仮想電子空間の描写が、ここ最近出会ったSFのなかでは最も素敵だったのではないかと思いました。仮想電子空間に限らず、ネットワークの性質やデジタル情報の性質について、非常に細かな描写や設定が素敵です。こうした物語世界を垣間見たというだけでも、充分読んで満足でした。

それに限らず、KT(主要登場人物)の獅子奮迅ぶりなど、数秒の出来事なのだろうけれどもその冷徹さと非情さに痺れました。あえて苦言を呈するなら、ツッコミどころは縄文人と弥生人の分断を前提としているあたりと、フラクタルとして解析できる人工物が普遍的にあることをちょっぴり無視しているあたりでした。

2008-11-04

『みんな、どうして結婚してゆくのだろう』

みんな、どうして結婚してゆくのだろう (集英社文庫)』(姫野カオルコ)を読みました。一言でいえば、前提条件を疑いながら「結婚」について論理的に綴られたエッセイです。

前提条件を疑うのは、学問上でも商売上でも、その方が色々と有利になるので当然の行いです。ですがなかなか当然のことを当然と考えないのは難しいことで、本書はとても身につまされます(特に男である僕にとっては)。読むといたって正論であり、納得させられますが、こうした正論は読まない方が幸せな人もいるでしょう。しかし僕の場合は読んだ方が幸せになれました(ちなみに配偶者がこの本を先に読んだのですが、とても面白かったといっていました)。

本書の内容に文句をつけるとしたら、姫野さんはベルクマンの法則やアレンの法則をご存じないのか、背が高くて体格のよい男性を健康や精力と結びつけているところでした。ちなみに僕は背が高くもなく(170センチ台半ば)、体格もよくなく(50キロ台半ば)、健康でもないのですが、ここは客観的な事実として譲れません。背の高さは健康とは結びつきません。ましてやセックスの強さをや。

僕は結婚していますが(結婚式はまだしていません)、振り返ってみるとどうして・どうやって結婚したのでしょうね。結婚生活も、勤め人では無いながらも「普通に」やっています。

2008-11-03

『"文学少女"と月花を孕く水妖』

"文学少女"と月花を孕く水妖 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。"文学少女"シリーズの6作目です。

今回の作品はシリーズ中では番外編となっていて、学校生活が描かれていません。シリーズがすすむごとにキャピキャピ度が下がっていますが、この作品もあまりキャピキャピしていませんでした。それは題材にとっている泉鏡花の世界のせいもあるかも知れませんが、作風の変化やらシリーズのシリアス度が高まったためでもあるかも知れません。

一冊の作品として見ると、とても痛い作品です。"文学少女"の遠子先輩が愛おしくてなりません。泉鏡花の世界に耽溺するようなストーリーですが、古い別荘で再現される過去の事件のミステリ風味なお話よりも、やはり中心となるのは心葉くんと遠子先輩の関係でしょう。

文学談義も今回に限っては、遠子先輩が客観的に味覚になぞらえるようなものではなく、心情の吐露という感じがしました。鏡花の作品は青空文庫で多数公開されているので、再読するのも一興です。というか、僕は読み耽ってしまいました。

2008-11-01

『大人の見識』

大人の見識 (新潮新書)』(阿川弘之)を読みました。週末に生家に帰ったのですが、その帰り道で読む本がなくなったため、生家の書架にあったものを適当に選んで手に取った本です。

「○○の品格」系の本と同じようなものだろうと想像していたのです。それで著者が「あの」阿川さんですから、きっと大日本帝国海軍万歳な本だろうと。読んでみると確かに海軍万歳なのですが、海軍の中の紳士たちが先の戦争に突入することを必死で反対していた様を伝聞などで聞くと、これがなるほど大人の見識というものなのかな、と思わされました。

本書の内容としては、大正から昭和にかけての、海軍の知られざるエピソードとその伝統の柔軟性を紹介しています。そして海軍が範をとった英国的紳士のユーモアのあり方、そして英国王室と密接なつながりのある天皇家のあり方など、筆者ならではの人脈から聞いたり書物から得た戦前・戦後の話が披露されています。筆者自ら書いていますが、「大人の見識」ではなくて「老人の非見識」とのことですが、これは謙遜というもので、おじいちゃんの知恵袋のような本でした。そして主にユーモアと自由とについて書かれていますので、エピソード集のような読み方をしても面白いです。

もちろん内容はもっと多岐で雑多なもので、他にも日本語のあり方であったり、儒教文化の再考であったりするのですが、乱雑に綴ったような本でありながら流し読みするのはもったいないような本でした。滋味あふれるというのはこうした本なのかな、と幾分若くない趣味を持った僕は感じました。ちなみに僕は、『論語』などの四経五書を10年くらい前から折に触れて眺めている程度の入門者ですが。

遠藤周作さんや北杜夫さんのエッセイには、若い頃からの阿川さんが頻繁に登場しますが、曰く海軍キチガイ、怒りっぽい瞬間湯沸かし器。そうしたイメージが少し薄らぎました。

『闇の公子』

闇の公子』(タニス・リー)を読みました。

本書の構成は、かなり短編小説の連続に近いです。一つ一つの短編を読んでいるようで、人間の感じる時間では非常に長い歴史をたどりながら、全体として一つの物語を作っている様は、本当に見事でした。禍々しくて美しい世界も、とてもきれいな文体(翻訳には苦労したでしょうね)で描かれているのでとてもしっくりとしています。

この作品のようなファンタジー世界は、僕の大好きなエルリック・サーガと少しだけ似ています(ちなみにエルリックが初登場したのは1961年、本作は1976年初出です。両者ともロンドンですね)。剣と魔法の世界で、筋肉にものを言わせて剣をあわせる主人公ではなく、ほっそりとして妖艶な美しさを秘めた主人公が、圧倒的な邪悪さと不可思議な強さを持っているあたりが似ていなくもないです。つまり僕のツボにはまりました。アンチ・ヒロイック・ファンタジーの一種と言えるかも知れません。

2008-10-30

『"文学少女"と慟哭の巡礼者』

"文学少女"と慟哭の巡礼者 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。"文学少女"シリーズの5作目です。

不覚にも感心(感動ともいう)してしまったではないですか。作者はシリーズ中でこれまでに取り上げてきたどの作品よりも、宮澤賢治の作品が好きなのでしょうか。本作では宮澤賢治の色々な作品を下敷きにしているようですが、中心となるのは『銀河鉄道の夜』でした。

僕も宮澤賢治の作品は大好きでした(あるいは大好きです)。はじめて触れたのは多分幼稚園に行っている頃ですし、長期入院をしていたときには朗読のテープを繰り返し聞きました。宮澤賢治の伝記や作品研究なども読み漁り、学生の時には筑摩書房からでていた全集を買ってしまったくらいです。

本作に感心したのは、とても宮澤賢治の作品をよく織り込んでいるなと思ったことも関係してくるのかも知れません。シリーズこれまでの作品よりも、プロットなどを下敷きにする度合いは少ないのですが、それでも上手く宮澤賢治の作品や生涯に乗っかっています。例えるなら、これまでの作品では原作と併走していたところが、本作では原作の肩の上から地平を見る感じです。色々な意味で痛々しい話であることには変わりませんが、本作ではほとんど萌え要素が顔を見せません。強いていうなら某登場人物の女王様ぶりくらいでしょうか。

それにしても"文学少女"。シリーズがすすむにつれて何かを思い出させると思ったら、京極堂によく似ているのです。事件に隠れる物語を読み解き、最後にその物語を解き明かして、関係者一同の憑きを落とす。まるでカンッと高い音を立てて鴉のような漆黒の男が登場し、「誰です、あなたは」「世界を騙るものです」とか言いながら憑き物落としが不思議な事件を解きほぐすように、「あなたは誰?」「見ての通り、"文学少女"よ」とか言いながら、想像で物語を読み解く制服姿の遠子先輩が登場するのです。

6作目(番外編)は既に確保しているのですが、7作目以降はまだ図書館で返却待ちです。シリーズの終末がどういう場所に落ち着くのか楽しみですが(かなり想像はできますが)、それを知るのは少し先になりそうです。

問題は「数字センス」で8割解決する

問題は「数字センス」で8割解決する』(望月実)を読みました。この本を読んでも僕の数字センスは良くなりませんでしたが、内容は非常にやさしくてわかりやすく、ビジネスをしている人の一部にとって、本書は有意義であり得るとは思います。

本書では「数字センス」的な力を「数字を読む力」「数字で考える力」「数字で伝える力」の三つに分けて、それぞれケーススタディをしていますが、日々経営的な仕事に従事している人としてみれば、御説ごもっともという感じです。なんだか満足感がないのですよね。その理由を考えてみました。

第一点に、内容がやさしすぎる(既知のことがほとんどである)ことがあげられると思います。この本は一体誰にむけて書かれた本なのでしょうか。少なくとも経営に携わる人間ではないのではないかと思いました。会計にまったく馴染みのない人や、プレゼンテーションの経験が少ない人にむけて書かれた本なのかな、と。わかりやすく書かれているため、必然的に物事を非常に単純化していますので、真剣に経営に悩んでいる人だと逆に怒り出してしまうのではないかとさえ思いました。

第二点に、統計やグラフのトリックを使って「数字で伝える力」を伸ばすようなことが書かれているのに不満です。「数字を読む力」と表裏一体ですが、騙されるのと騙すのはおなじ手法です。なんだか「騙す方にまわりましょうね」みたいな感じがして、少しいやな印象を受けました。もしも僕が本書の「数字で伝える力」に出てくるようなレポートを読んだら、絶対にその正当性について突っ込みをいれます。また、僕が他人に社内的なレポートを要求する場合には、本書のすすめる方法はできるだけ避けるよう忠告するでしょう。

とはいえ、わかりやすい本を書くことはとても難しいので、著者はいい仕事をしています。ただし、自分の事務所を持つ公認会計士の書いた本だからきっと経営者にとって素敵な内容が書かれているだろうと期待するのは間違いで、あくまでも数字を道具として使うのが苦手で使ったこともない人にとって素敵な内容が書かれている本でした。

2008-10-29

『「負けるが勝ち」の生き残り戦略』

「負けるが勝ち」の生き残り戦略―なぜ自分のことばかり考えるやつは滅びるか (ベスト新書)』(泰中啓一)を読みました。

タイトルだけ見るとまるで経営論か自己啓発本のような印象を受けますが、本書の中心部分は「生物進化をゲーム論的モデルでシミュレートすると、長期的には利他行動が最適解となるケースがある」という内容です。

ですが、生物界はそんなに単純な系ではありません。本書の中でも述べられているように、複雑系の短期予想は比較的容易だけれども、長期予想はほとんど不可能です。そのために本書は上記のような内容のみではなく、かなり雑多な内容からなっています。

目次を引用します。

第1章 スキャンダル候補が選挙で生き残る
第2章 じゃんけんゲーム
第3章 進化とは最適化のプロセス丕ケ丕ケ自然選択ということ
第4章 「負けるが勝ち」の進化論
第5章 近親婚を避ける生物界のシステム
第6章 なぜ男の子の出生率が高いのか


第1章では複数者間のゲームでの、外的要因による影響を短期的に予想する際のパラドキシカルな例を紹介しています。第2章では循環的バランスの中での平衡状態をモデル化するために、集団の中の2者間でゲームが行われる条件を「気体分子モデル」でのグローバル相互作用と「格子モデル」のローカル相互作用とでシミュレーションを比較すると、ローカル相互作用が働いているとみなすほうが自然界にはより順当なモデルであろうということが書かれています。第3章では自然選択の例をあげ、自然界での「サバイバル・オブ・フィットネス」、つまり生物種が環境にどのように適応してきたかを説明しています。ここでは本書の主な内容とは反対に、集団選択(利他行動)よりも個人選択(利己行動)が優先される例をあげています。第4章は本書の題名ともなっている内容で、利他行動が最適となるシミュレーションを紹介しています。第5章と第6章では「最小生存個体数」をめぐる戦略と「進化的に安定な戦略」「進化的に持続可能な戦略」を紹介しています。

つまり、本書は各章でかなり独立した内容となっていて、それぞれ短い論文やエッセイを集めたような構成の本です。各章間の整合性はそれほどなく、少しばらばらな印象も受けますが、生物の進化や生き残り戦略という複雑な現象を扱うにはひとつの小さな部分を取り出しても複雑系を説明することはできませんので、しょうがないことだとは思います。

それでも本書は内容が多岐にわたるのに記述量が少なく(新書ですから仕方ないですが、それでも本書は167ページしかありません)、説明不足の感も否めません。わかる人にはゲーム論の説明など不要ですし、わからない人にはこれだけの説明では足りないでしょう。詳しくは筆者の論文を読めということでしょうが、あまり親切な本ではありませんでした。出版物としてみると、ターゲットとしている読者層がよくわかりません。

それでも面白いと思ったのは、やっぱり中心となる内容が優れているからだと思います。こうしたモデルを生物種の進化に適用させるのも面白いけれども、人間の相互行為にも、このモデルを援用してみると面白いな、と思いました。

『秘密結社』

秘密結社―世界を動かす「闇の権力」 (中公新書ラクレ)』(桐生操)を読みました。世の中が大きく動くときには、その裏で秘密結社が動いているということを縷々書き綴っています。ここまでトンデモな内容の新書は他にはないだろうと思いました。

本書の序章は次のようにはじまっています。

秘密結社ほど、謎と神秘に包まれたものはない。これまで日本では、イルミナティ、フリーメーソン、三百人委員会、円卓会議などなど、秘密結社について興味本位に扱われることはあっても、それについて表向きに語られることはあまりなかった。だが、これほどの巨大勢力がこれまで表面に顔を出さなかったのは、むしろ不思議なくらいである。

世の中に陰謀論は多いけれども、秘密結社による陰謀という話は事欠きません。そしてそれらは大抵ソースをたどると訳のわからないことになってしまい、結局は秘密なのか妄想なのか判断できないものです。本書も「興味本位に扱われることはあっても」と序章のはじめで書かれていながら、結局は興味本位に秘密結社を扱い、その情報のソースは明らかではありません。巻末の参考文献を見ると色々と参照しているようですが、どの記述は何を参照しているということが本文中では一切明記されていませんし、参考文献の記述が正しいかどうかもきわめてあやふやです。

ですが本書の優れた点は、文末かセンテンスの最後のほとんどが「という」「といわれる」「と思われる」などと書かれていることで、つまりはほとんど何もはっきりと書かれていないことです。決して嘘ではないので、正直な態度と言えば正直です。

本書は小説などを構想するにはかなりよい資料かも知れません。話のネタにするにはよい本だと思いますが、あくまでネタであり、真か偽かと言われれば「判断不能」としかいえません。この「判断不能」というのは陰謀論などのトンデモ説には都合のよい結論で、「ない」ことを証明することは難しいからとりあえず「ある」ということになってしまうのですね。本書には歴史的事実もおそらく多く書かれていることでしょう。そしてレトリックは優れていますので、肝心の結論は決して論証できないようになっています。ですからトンデモ説がとりあえず「ある」ことになってしまっています。

こういう陰謀論を論駁するのは難しいことですが、好例は「フライング・スパゲティ・モンスター教」だと思います。ラーメン。

2008-10-27

『"文学少女"と穢名の天使』

"文学少女"と穢名の天使 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。もう完全に"文学少女"シリーズの虜です。

今回の下敷きは『オペラ座の怪人』でした。オペラ座の怪人は映画にしてもミュージカルにしても色々なアレンジがあるので、この作品はどんなアレンジだろうと興味深く読みました。といいつつ、僕は原作の翻訳と映画数本(アーサー・ルービン監督、ドワイト・H・リトル監督、ジョエル・シュマッカー監督くらいかな?)に触れているくらいの未熟なオペラ座の怪人鑑賞者です。スーザン・ケイの『ファントム』なども読んでいないし。そもそも何故オペラ座の怪人はこれほどまでに多くのリメイクをつくるのか、その肝心なところがわかっていないのですね。それでも原作の翻訳には耽溺した覚えもあります。

さて、本書はこれまでの文学少女シリーズとは少し色合いが違いました。文学少女である遠子先輩があまり活躍しないからなのか、キャピキャピワキワキという雰囲気ではなく、うっすら暗くて重くてシリアスなストーリーでした(いや、これまでの作品もそれなりにはシリアスなところもあるのですが、大雑把に見るとキャピキャピだと思います)。『オペラ座の怪人』の色合いをなぞっているのだとは思いますが、陰鬱な話の最後には光明が見える、そんな感想を持ちました。

本書を一作品のみとして見ると、ずいぶん作者の筆がすべっているような印象も持ちました。あまりにも都合のよすぎる偶然やら、耽美耽美しようとして失敗しちゃったかなという文章やらが散見されますし、本書で登場する人物の描写は平板な感じです。これまでの作品でもそういう部分は多々見られましたが、本書ではそれが目立つのです。もっとも偶然は小説には必要不可欠なものだし、現実はとてつもない偶然から成り立っているとは思いますし、文体や人物の描写などと言ったことは僕にきちんと味わうことができるかどうか疑問ですが。

作者がどのように『オペラ座の怪人』を解釈しているか端的にあらわすのは、「この物語は哀しみにあふれていて、美しいわ。/暗く退廃的な美に彩られたゴシック小説が、ファントムが見せた真実によって、最後の最後に、胸が震えるような、透明な物語に変わってゆく」という遠子先輩の台詞だと思います。この解釈に異を唱えるわけではありませんが、この解釈をもとに描かれた本書の中心的なテーマかも知れない「真実は人を幸福にするのか、それとも不幸にするのか」と言ったところは、冷静に読むと僕の価値観とは合いません。真実はディスクールの数だけ存在する、というようなポストモダン的な観点は、僕に巣くっている客観性を希求する性質とは相容れないのです。確かに人間の数だけ立脚点があり、各々が本当の物語を紡いでいるだろうけれども、そういうものは「真実」とは言い得ないものではないか、と僕などは考えてしまうのです。むしろそうした本当の物語が多数同時に存在し得るからこそ、オペラ座の怪人はたくさんのアレンジがつくられるし、人文・社会科学が普遍性を持ち得るのではないかな、と。つまり僕は人間の行為については信頼性のある客観的なデータだけが真実で、そうでないものは物語であると考えているのです。カール・ポパーによる科学哲学の影響をものすごく受けていますが、反証不可能なものについてはそれが「真実」であるかどうかを語ることさえナンセンスであるということです。

と、後からそんな感想も持ちましたが、そうした感想は本書を読んでいるときにはあまり持ちませんでした。痛い話だけれども甘酸っぱくて、それはそれで素敵、という感じで読んだのは、これまでの作品があるからだろうと思っています。シリーズ作というものはそういうところで得をしますね。それはともあれ、ツンデレの見本である琴吹さんが大活躍するので、少し安心しつつヤキモキさせられました。僕は既にこのシリーズの罠にはまっていますので、今後の展開が楽しみです。

『"文学少女"と繋がれた愚者』

"文学少女"と繋がれた愚者 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。

シリーズ3作目にして、僕は作者にしてやられた感じがします。もうこのシリーズは最後まで読まずにはいられません。これからどんな展開になるのか、僕の年齢や性別にもかかわらず、わくわくどきどきです。

それにしてもこの作品(繋がれた愚者)一冊だけをとってみると、なんと恥ずかしい作品だろうと思います。僕は偏見により武者小路実篤の作品をひとつも読んだことがないのですが、多分似たような恥ずかしさが僕をして氏の作品から遠ざけているのではないかと思っています。そう、武者小路作品は僕にとって、まるで『走れメロス』を濃縮したかのように恥ずかしいのです。もちろんこれは偏見だとは思いますが。

なにしろそれほど上手くもない絵を描いて「仲良きことは美しき哉」なんて言葉を添えたりするのですよ。むやみに熱い登場人物たちが手に手を取り合って叫んだり、罵ったり、友情や愛を育んでしまうのですよ。妙に理想化された世界観でひたすらに生き抜いてしまうのですよ。「新しき村」には、「この門に入るものは自己と他人の生命を尊重しなければならない」とか「この道より我を生かす道なし」とか高々と掲げているのですよ。こうしたことをシニカルに見たらかなり恥ずかしいです。

下敷きとなっている作品(『友情』だと思います)を読んでいないので、この作品との絡ませ具合などを楽しむことはできなかったのですが、僕が偏見を持っているその恥ずかしさもこの作品くらいまできっちりと恥ずかしくしてくれるといっそ清々しく感じられました。作者が決して目を尖らせながら描いている風ではないからかも知れませんし、シリーズ中でここかしこと披露される萌え要素のせいかもしれません。同じように武者小路作品を読めば、ひょっとしたら清々しいのではないか、と思わされました。食わず嫌いを脱するチャンスかも知れません。

続きがとっても気になります。個人的にはツンデレの見本のような琴吹さんの行く末も気になります。ああ、ライトノベルにはまった。

余談ですが、イラストに描かれる制服姿の遠子先輩は、いつでもスカートからペティコートが覗いて見えますが、1作目(死にたがりの道化)のカバーイラストだけはペティコートを着けていないのです(本文イラストでは着けています)。それが気になって気になって。

2008-10-26

『"文学少女"と死にたがりの道化』

"文学少女"と死にたがりの道化 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。今更ながらの選択ですが。

まず1ページ目の最初の文が「恥の多い生涯を送ってきました」からはじまりますので、「おお、『人間失格』か」と思わされます。高校生の頃に太宰治の文庫本を手に入る限り手に入れて、没頭していた時期もありました(誰しもそういう時期があると思います)ので、うしうしと読み始めたのです。どのように料理してあるのかな、と。

感想としては、それなりに満足です。途中かなり強引な展開もありますが、まあ妖怪やら幽霊やらの出てくるシリーズだと思っていますので、あまり気にはしません。それよりも前回読んだシリーズ二作目の『飢え渇く幽霊』と同じ感想ですが、見事に思った通りの展開と思った通りのベタなキャラクターが素敵です。こういう種類のものは近い将来は伝統芸能になるのではないか、と思うくらいにベタです。

まるで「悪党(何故見ただけでわかる?)に絡まれている女性を救ったら、実はその女性はやんごとなき方で……」とか「転校初日に遅刻しそうになったのでパンを咥えながら学校に走っていると、曲がり角でゴツンと同じクラスの異性にぶつかってしまう(そして下着が見えてしまう)……」といった感じです。もちろんそうしたお約束だけでは作品になりませんので、きちんとストーリーはつくってありますし、文学ネタも所々にちりばめられていて結構お勉強にもなりますし(それにしてもお約束の名作が多い)、『人間失格』の本歌取りにもなっていますので、それなりに満足なのです。

作品のラストの方で、ある場面である説得をする遠子先輩の台詞が素敵すぎました。最後のところだけ引用すると「少なくとも、太宰治全集を隅から隅まで繰り返し百回以上読んで、太宰のレポートを千枚くらい書くまで、生きなきゃいけないわ!」とのことです。世の中のほとんどの人が死ねませんね。

ちょっと追記しますと、僕が『人間失格』を最後に読んだ時期ははっきり覚えていて、高校2年生の2月第1週の土曜日でした。当時お付きあいをしていた女の子に振られて1ヶ月だったのです。いや、なんと恥ずかしい本の選択。

2008-10-24

『すべての女は痩せすぎである』

すべての女は痩せすぎである (集英社文庫)』(姫野カオルコ)を読みました。内容は至って正論で、著者自身かなり自身の偏見と感覚からとても論理的に文章を書き綴っています。著者自身の尖ったところもそれほど目につきませんでした。

内容は目次を読めばおおよその見当はつきそうなので、目次を引き写します。

第一章 まぼろしの美人論
 美人は京都に住んでいるのか?
 パツキン美女の産地はどこか
 美人の地域差は?
 美人は肌がきれいか?
 世界一の美人は誰か?
 美人は男性差別ではないか?
 美男美女の内面に迫れるか?
 「美男と思う=好き」なのか?
 他人の顔を査定したバチか?
第二章 すべての女は痩せすぎである
 美人とは痩せていることなのか?
 数字マジック
 筋肉と脂肪の関係
 食欲女王
 田舎に住んでいてはダイエットもできない
 漢字マジック
 セックスできれいになる、はもう古い
 セックスできれいになったにちがいないと思わせる女
第三章 ルックス&性格=見かけ&中身
 ヘアヌードのゆくへ
 看板に偽りあり
 スをつけないといけないっス
 裸になるのは怖い
 自己プレゼン・その1
 自己プレゼン・その2
第四章 すべての男はマザコンである
 自宅ボーイからパラサイトボーイへ
 自宅ボーイに未来はあるか
 聖職の碑
 男性差別
 真マザ男と脱マザ男
 ヒロシの場合
第五章 すべての人に好かれる方法
 わざとらしい女
 かわいそうな水野真紀
 サヤカちゃん
 急募! コピー、お茶くみできる人
 少女、それは清く、少女、それはかよわく
 沖田総司さま
第六章 彼の声


僕としては、やはり多くの男性と同じく女性顔評論家ですので、第一章の美人論は面白く読みました。女性の描く美人論は男性の描く美人論とも少し異なり、何よりもジェンダー的な視点が混じり込んでいますので、それはそれで興味深いです。結論としては美の定義は不可能であると言うことですが、歴史的な考察を積み重ねればそれなりの共通項が見いだせるはずですので、普遍的な美ではなく、その当時の美なら語りようもあるかな、と僕は思いました(実際そういう研究もなされていますし)。あとは著者が「エロには理解を示せるけれども、エロスにはまったく理解が及ばない」というのも、作品(『ツ、イ、ラ、ク』)を読んでみると何となく納得してしまいました。

それはともかく、特に興味深くて読み応えのあるのは第六章でした。ここでは高校生だった著者が吉行淳之介さんに三ヶ月に一度ほど電話をかけた話が、かなり自虐的に暴露されています。吉行さんはまさに洒脱の受け答えをしているのですが、高校生である著者はそれに一方的に寄りかかっています。こうした高校生ならではの恥ずかしい行いというのは、文章にして世間の目にさらすというのは勇気のいることですね。僕など絶対にかつて文通していた人とのやりとりなど公にはできません。

著者の文章はこの本でもやはり文庫化に当たって全面的に書き直したそうです。雑誌などの初出の文章はその文脈に沿った文体を選んだり、時事に即して例を挙げたり隠喩を用いたりするので、どうしても文庫化するには内容と現実の齟齬が目立ってしまいます。職業作家らしい入念な仕事ですが、これは言うに優しく行うに難しというもので、全面的に感服しました。

『没落のすすめ』

没落のすすめ―英国病讃歌』(G・ミケシュ)を読みました。『ボートの三人男』を読んで、むらむらと再読したくなったのです。

著者のミケシュはハンガリー生まれで、第二次世界大戦頃にイギリスに帰化した人です。英国人以上に英国人らしい人だと言うことです。この本は1977年に『How to be DECADENT』として出版されましたが、茶目っ気と皮肉たっぷりに当時のイギリスの没落ぶりと過ぎし日の大英帝国の繁栄を賞賛しています。

つまり、かつて世界の三分の二を支配した大英帝国は、公平と平等とバランス感覚を尊重しているので、今度は諸君ら非英国民が世界を支配し、大英帝国は優雅に没落しよう、ということです。優雅に没落するためには非常に高度な技術が必要で、その技術は在りし日の英国人的振る舞いを英国民全てが続けていることで身につけることができるとうわけですね。もちろんこれは冗談で「英国人たる者、いたずらに英国人であるのではない。没落という永遠の栄光にむけて、われらはいま勝利の行進をしているのである」というように。

著者自身が英国人的になるのには非常に苦労をしたようですが、一度エスタブリッシュメントの一員になったからには、今度はそれを周りに分け与えてあげようという、とても親切な本です。偏見たっぷりのイギリス的ユーモアに充ち満ちていますので、「英国人的」なことを過剰に誇張して賛美しますし、極度に卑下しています。その両極を持つからこの本も面白く読めるのだろうと思いますが。

極端な一文を引用します。

わたしも変ったし、英国も変った。

まず言えることは、わたしは英国民以上に英国民的になった一方で、英国民はより非英国民的になってきた、ということ。三十年昔の年若き亡命者の身分にくらべて、わたしの暮らしむきは多少よくなってきた一方で、英国民はますます貧乏になってきた、ということ。わたしがハシゴを数段上った一方で、英国民は何段も何段もおりていった、ということ。わたしの中のヨーロッパ性が薄らぐ他方、英国はますますヨーロッパ色を濃くしてきたことである。それに、英国は帝国を失ったかわりにこのわたしを得た、という点を見逃すわけにはゆかない(思うに正直な話、この得失は微少なものではあろう)。


この本をはじめて読んだのは高校生の頃でしたが、naturalizeという言葉で「帰化」を意味することに気づかされました。つまり日本国籍を持っている僕などは、自然ではなく、生来のものではなく、まともではなく、人工的で、作為的で、超自然的な存在だと言うことです。

2008-10-23

ボートの三人男

ボートの三人男』(ジェローム・K・ジェローム)を読みました。

第一章を読み終えるまでに思わず声に出して笑ってしまったのが3回。その後は「こういう本を読むときには、世界の終わりが明日に迫っているときのようにしかつめらしい顔をして読むのが正しい」と気持ちをあらためて、ニコリともせずに読み終えました。

さすがに長く生き残っている本だけあって、面白いです。面白いと言うだけではその面白さは決して伝わらないのが常ですが、この本の解説に井上ひさしさんが書いている以上にその面白さを伝えることは難しいので、無駄な努力は早々と放棄することにします。

この本を読むときに気をつけたいことは、ゆっくり読む、ということでした。面白いあまりについつい先走ってしまうのですが、過剰な美文で描かれるテムズ河畔の情景やその歴史的背景もじっくり味わうことで、その他のスラプスティック・コメディが引き立つというものでしょうか。僕は訳者の丸谷才一さんのように英文学への造詣は深くないのですが、丸谷さんの書かれたように「奇妙なことだが、『ボートの三人男』はユーモア小説として着手されたのではなかった。テムズ河についての歴史的および地理的な展望の書として目論まれたのである」ということを鵜呑みにはできません。単純に面白可笑しく読んだだけです。

庭木をなぎ倒すような嵐の夜に「ちょっと涼しいようですな」という英国人。とにかく責務を回避することを第一の責務と信じる英国人。7シリング6ペンスの持ち金で6シリング11ペンスの買い物をするといくら残るかについて、いささかの不便も感じない英国人。1クラウン貨が流通していないのに半クラウン貨が流通する不条理を許容する英国人。摩訶不思議なシステムである華氏を採用している英国人。僕が偏見とともに知っている昔の英国人はこんな感じですが、その他色々の19世紀の類型的英国人の所作が大げさに誇張され、過小に抑制されて描かれているので、これほどまでに面白く読めるのでしょう。

いまは既に、こうした面白さはよほど誇張しなければ存在しなかろうかとも思うのですが、「どくとるマンボウ」はじめの頃の北杜夫さんはこれに似た面白さだったな、と思い出しました。

2008-10-22

『妖女サイベルの呼び声』

妖女サイベルの呼び声』(パトリシア・A・マキリップ)を読みました。前々から気になっていた本に手を出した次第です。

感想は……。完璧です。完璧な世界、完璧な登場人物、完璧なストーリー、その他色々。もしも無人島にこの作品だけを持って行ったら、きっとあれこれ文句が言えなかったり、修正したりできなくて退屈してしまうでしょう。それくらいに完成されています。完成されているからこその欠点もあり、もっと長い話で世界を味わいたい方には不向きでしょうし、ストーリーはきちんと一筋の流れになっていますので、読んだ後に広がりを持ちたい読者にも不向きだと思いました。だから面白く読める人が限られてしまいますね。

この作品ひとつにどっぷりと浸れば、これほど素敵な読書体験をさせてくれる本には久しく出会っていませんでした。ファンタジー作品の枝葉末節に関しては、大抵の場合「そういうものだ」と割り切れるから、読書の要はまさに浸れるかどうかです。で、僕は頭のてっぺんまですっかり浸ってしまったのです。もっと早くに読めば良かった。

内容の紹介など無用です。もしもゲルマン系・ケルト系の剣と魔法のファンタジーが好きなら「読め、浸れ」というだけで充分。とはいうものの僕が少しだけ違和感を持ったのが、ドラゴンの描写でした。僕はこの作品を読むまでドラゴンはずっとトカゲかイグアナのような幻想動物だと思っていたのですが(ついでに言えばユーラシア大陸東側の龍は蛇みたいな神獣で、南アジアでは単なるナーガと思っていました)、気になって調べてみたら各種の伝承や叙事詩の原語では「蛇」を語幹としているようです。ドラゴンは蛇のような幻想動物だったのですね。思わぬところで勉強になってしまいました。ということは、僕がこれまで思い込んでいたドラゴンの姿は一体何だったのだろうと記憶をさかのぼると、中学生の頃に読んだ『幻獣図鑑』(出版社も編者も忘れました)でした。そこに描かれていたドラゴンはウェールズのドラゴンだったようです。

つまらぬ蘊蓄はさておき、面白かったの一言で済ませられる本でした。人生に対して考えることや、歴史に思いをはせることや、その他色々の夾雑物とは無縁の本だと思います。

2008-10-20

忘却の河

忘却の河 (新潮文庫)』(福永武彦)を読みました。読み終えたのは2日前なのですが、なかなか感想が書けないほどに重いです。深いです。構成が見事です。有名な作品なので内容の紹介をするまでもないと思いますので、感想だけ。

とにかく文学が男で知識階層の人たちのものだった頃の小説なのだな、という感想です。それにしては僕としては納得のいかないことも多く、大学中退の中年男性は長子でありながら、昭和17年に徴兵されて東南アジア方面の前線に配属されたようですが、どうも僕にはこれがなかなか想像できないのですね。それに中年男性の娘が大学進学を当然のようにしているのも、当時の大学進学率から考えると想像しにくいです。また、ルース・ベネディクトの「恥の文化」を表明した著作(『菊と刀』)が発表されて十数年経っている頃の小説ですが、日本人の心性として罪や愛の概念やがそれほどに重みを持つかどうか、実感が湧かなかったのです。

とはいえ小説としての完成度は別格で、本当に見事の一言に尽きます。小説が人称をここまで自由に使いこなし、複合的な視点から多くの肉声を重ね合わせ、それでいて統一した一織りの物語として精密に編み上げているのは、読んでいて心底感心させられました。

福永文学の中心的なテーマとなる愛や孤独や罪になじめないのは、僕の性格なのでしょう。しかし愛の概念が根付かないためにキリスト教宣教師たちが「御大切」という訳語を普及させようとしていましたが、仏教徒の僕(日本人で無宗教と自称する人たちも)としては、こちらの方がしっくりくるのではないか、と思ってしまうのです。つまり福永文学は福永さんのフランス文学に裏付けされた知的レベルにまで高まらないと、じっくりと味わえないのではないかと。そして僕やその周りの人たち、特に父や祖父は、いわば大衆でしかないのです(みな高等教育は受けてはいますが)。

現在進行形で生きている個人として見ると、愛の形は大きく変わっています。同じように罪の概念も当時とは趣が異なるでしょう。しかし小説のテーマから概念型のみを抽出するならば、むしろ現在のほうが読み込むのは意義深いと思います。僕は僕の目を通して読んだときに、大変重くて深い小説だと感じました(詳細はなかなか文章にできないのですが)。ですから僕の感想はこの小説の価値を疑うものではありません。ただ、かつては男の知識階層のためのものであり、今は違う、というだけです。

2008-10-16

羞恥心はどこへ消えた?

羞恥心はどこへ消えた? (光文社新書)』(菅原健介)を読みました。まあそうだろうな、という程度の感想です。

正直なところ、あまり感心できる内容ではありませんでした。社会心理学という、日常をフィールドとした学問分野が常に抱える問題ですが、注意深く身のまわりを眺めたり考えたりした結果の「常識」と、学問として調査・分析した結果とがあまり違わないのです。「一般常識」とは違うかも知れませんが、一般常識とは思考停止状態のことであって、考えればわかるだろう、という内容です。この本では特にその傾向が顕著で、僕にとって新しい発見はありませんでした。あくまで「僕にとって」なので、新しい発見をする人もいるとは思いますが。

内容を簡単に紹介すると、「ジブン本位」は「恥ずかしさ」を抑制し、「地域的セケン」は「恥ずかしさ」を促進する一方、「せまいセケン」は「恥ずかしさ」を通り越して「逸脱行為」を促進する、ということです。そして現代日本では「せまいセケン」が常態化して街中での迷惑行為などが散見される、というのですね。

新書に求めるのは酷な注文かも知れませんが、調査の結果や分析内容を紹介するのではなく、調査方法自体をもう少し本書の中で述べてもらわないと、その分析内容の妥当性は評価できません。僕が分析内容に対して持った感想は、「それは都市部の現象であり、日本全体の現象ではないのでは?」というものです。どんな人でも何らかの形で社会化されて生きていますが、その社会化の内容や方法は、地理的にも風土的にも文化的にも、あるいは伝統やらイデオロギーやらなんやかやの非常に複雑なシステムによって規定されることが予期されます。その複雑さをあまりにも単純化しすぎているのではないかと僕は思いました。

ついでに思ったことですが、参照している文献として、著者自身の論文が多すぎでした。

ほんとに「いい」と思ってる?

ほんとに「いい」と思ってる? (角川文庫)』(姫野カオルコ)を読みました。以前『ツ、イ、ラ、ク』を読んで「この作者はただ者ではない」と感じたので、新古書店に行って105円の棚に並んでいる本を全て買ってきたのです。まずは処女作から読もうかと思うのが常ですが、『ひと呼んでミツコ』がなかったので、とりあえず軽くジャブでもというつもりでエッセイである本書を読みました。

想像していた以上に濃い人でした。映画にしても本にしても、嗜虐的マニアックというか、とにかくディープ。そして『ツ、イ、ラ、ク』を読んだときに僕の感じた違和感も解消されました。僕の違和感は、小中学生がよくこんな事を考えているものだ、というものでしたが、姫野さんは子どもの頃のご自分を非常によく覚えているのですね。僕は忘れたり作り話をしたりしていますが、姫野さんはどうやら生々しく記憶しているようです。それに年齢や性に対する感受性もずいぶん僕とは異なっていることがわかって(当たり前ですね)、感心した次第です。

僕もよく他人や身内からマニアックだの気難しいだの扱い難いだの感性が変だの言われますが、姫野さんのエッセイを読むと、僕がものすごく凡庸な人間であることを思わされます。単なる考え方の違いかも知れませんが、僕は中庸を尊重するけれども姫野さんはものすごく尖っているからこそ、小説あるいは創作活動という道を選んだのかも知れないな、などと我が身を鑑みてしまいます。いや、器が違うのは重々承知で。

で、ようやく本書の話ですが、エッセイの常としてあっという間に読み終わってしまいました。うんうん、なるほど、そう考えているのね、という感じです。尖ってはいますが、理解できないほどには尖っていませんし、とても理路整然とした文章ですので理解はしやすいです。共感できるかどうかはさておき(ちなみに結構同じ意見が多かった)。小説家だからこそなのか、文庫書き下ろしエッセイにしてはとても手がこんでいますので、著者の苦労が偲ばれました。

2008-10-15

日本の女が好きである。

日本の女が好きである。』(井上章一)を読みました。著者の『美人論』を再読したいなと思っていたところ、本書のサブタイトルが「新・美人論」なので読んでみました。

『美人論』の精密さには及びませんが、より率直になったというか、より著者のエッチさが増したというか、より現代的になったというか、俗っぽくなったというか、とにかくとても読みやすい本でした。『美人論』を書き直すためのラフスケッチというのが本書の位置づけなので、まさにラフです。

Amazonの内容紹介から引用をすると、

賛否の両論を巻き起こした問題の書『美人論』から17年。再び挑む、美しい人とそうでない人の研究。なぜ日本人は、女性のうなじや脚首に魅力を感じるのか? 小野小町はほんとうに「美人」だったのか? 不美人ほど不倫をすると言われた理由は? 「秋田美人」「新潟美人」が生まれた深い事情とは? ミス・ユニバースとK-1の共通点とは?……フェミニストとの心理戦の裏話や、美人の研究を始めるきっかけとなった自らのコンプレックスなど、美人研究にまつわるさまざまな豆知識やこぼれ話を紹介する1冊。楊貴妃からかぐや姫、ミス・ユニバースに女子大生、さらにはアニメの美少女キャラまで、古今東西の資料に基づき、「美人」「美女」ついでに「美男」について、マジメに深く深く考察します。人はほんとうに「見た目」がすべてなのか?
という本です。著者のかつての主張通り「全ての男性は女性顔評論家である」を地でいっています。

人の顔について何かをいうことは、僕の倫理意識からは想定できません。とはいうものの身内は別で、配偶者は「綺麗でかわいくて優しくて機知に富んでいてetc.(といわないと怒られます)」ですし、僕は一言で形容すればイケメンです。しかし考えてみれば、人の能力についてあれこれ論じることも測定することもしているのだから、僕の倫理意識など基盤は脆弱なものです。その脆弱さを揺すられる著者の率直な物言いには頭が下がります。これは『美人論』でも同じ事を感じましたが。

率直なだけでなく、かなり鋭いのではないかと思わされる洞察もありますし、著者の博識さを証明するような蘊蓄も、資料に基づいた実証も多いです。特に女性の社会参加がすすむことにより、美人がより得をするようになってきたという主張には、著者の鋭さを感じられます。

ちなみに本書で「秋田美人」「新潟美人」の生まれた理由として、日本海側の経済的なものや遊郭などでの田舎者たちを弄する宣伝文句があげられていますが、僕の聞いた与太話では違いました。日本の中央から外れたところに美人が多い理由は、参勤交代に端を発するというのです。国許にまで連れ帰るのは美人であり、そうでない者は途上で捨て置く、というのですね。だから関東周辺では不美人が多いのだ、という妄説です。北関東出身の僕としては著者の説に与します。

他には、壁画・絵巻物・浮世絵などに描かれる美人をもって当時の美人とするのは単純にすぎる、という主張が面白かったです。それらはいわばカリカチュアライズされた美人像であり、骨相的に見ても当時の人間にそのような極端な顔をした人はいなかった、というのです。例えるなら昨今の美少女イラストを1000年後に考証したら、当時は顔面積の2割を目が占めるような顔がもてはやされていた、とするようなものである、ということです。この主張には、僕は少しだけ異を唱えたいです。徳川将軍家代々の頭骨を調べると、ほんの300年で、明らかに当時の標準的な頭骨よりも面長で顎が貧弱になっているという事実がありますので、壁画・絵巻物・浮世絵などは異形なカリカチュアライズではなく、貴人を憧憬する心情から描かれているのではないか、と僕は思うのですけどね。

あとはうなじや足首に魅力を感じることの説明として、視線をそらしつつのぞき見できるパーツとして淫靡な好色文化を育んできたのではないかとしていますが、これにはものすごく同意。まさに我が意を得たりという感じでしたが、1990年代くらいから肌の露出度が高かったり、体の線がはっきりと現れる服が罷り通っていますし、職場でもそこそこ見受けられますので、そのうち変わってくるのだろうな、と思いました。

他にも読む人によってはツッコミどころ満載な本ですが、著者はぜひ苛めて欲しいようなので、女性の顔について云々している本書に嫌悪感を持つ人は、一読をして著者を苛めてください。エッチな男性の僕としては、とても楽しめる本でした。

2008-10-14

日本に古代はあったのか

日本に古代はあったのか』(井上章一)を読みました。

すごく単純に著者の主張を要約すると、「日本に古代はなかった」ということになります。一般常識として、邪馬台国や大和朝廷や平城京、平安京は一体どうなってしまうのだ、というと、これは中世であるというのです。普通の感覚だと、日本の中世は鎌倉時代くらいから始まった、と言うふうになりがちですが、そうではないというのですね。

これが身も蓋もない主張ではないことは、本書の中で詳細に述べられていますが、ユーラシア大陸の歴史の中に日本を位置づけると、どうやらその方が都合がよい、というのです。そもそも中世などという時代区分には色々な意味づけが可能ですが、土地と褒章の結びつきだとか、生産様式であるとか、法制度であるとか、色々な観点から論じられます。そこで、本書では律令制やら荘園制やら封建制やらを考察して、日本に古代はなかった、という事になっています。

それではどうして日本の中世は鎌倉幕府の成立からはじまったという一般常識があるのかというと、関東を中心にした歴史観を持ちたがった人が明治以降にたくさん現れたとか、東大の歴史学と京大の歴史学とでは異なった歴史観を持っていたとか、様々な理由が挙げられています。そのあたりは著者の文献収集によって誰がいつどう言ったかということを傍証にあげていますが、それを見ると、いかに時代背景が研究者の思考を限定しているか、ということがわかります。逆にとれば、研究者の思考がいかに時代背景を脚色するか、ともいえます。著者は京大に思い入れが強すぎるのではないでしょうか。

信じる信じないは別として、ユーラシア大陸の歴史という面で見れば、著者の主張は細部を詰めればとてもまっとうなものに思えます。中国史でいえば、漢帝国の終わりを持って中世に入ったとする主張もあるようですし。ヨーロッパ史と中国史が断絶していたものを一つにまとめ上げたのは宮崎市定ですが、その流れを汲んでいると言って良いでしょうし、それ以前の京大を中心とした学派の歴史観の流れにも沿っています。それにヨーロッパではゲルマン系やケルト系のところでは古代(ギリシア・ローマ帝国期)と言われる時代区分はなく、中世から有史が始まっているのが定説だそうですから。

著者も言うように、著者は歴史の専門家ではありません(何の専門家なのでしょうね? 今は風俗やら女性やらの研究家か何かなのでしょうか)。素人の思いつきとして書き上げていますが、とても知的な刺激を受ける本でした。ヨーロッパ史、中国史、朝鮮半島史、日本史、ベトナム史、モンゴル史、インド史などなど、別々に研究されているものを一つの整合性のあるものとして捉えようとしたときに、こうした視点はとても魅力的に映ります。

"文学少女"と飢え乾く幽霊

"文学少女"と飢え渇く幽霊 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。僕にとって初めてのファミ通文庫です。

以前から気になっていたシリーズなのですが、まとめて図書館に予約をしておいたら2作目が一番先に届いたので、順番を無視して本作から読み始めました。前作(死にたがりの道化)を読んでからならもっと設定を簡単に理解できたことでしょう。

僕もかつての文学少年として、本作品に出てくる古典的名作のほとんど(童話を除く)を読んでいましたので、途中からこの話はある名作をなぞっていると気がつきましたし、暗号の解読は趣味としているので、数字の羅列も(いちいち対応表をつくりながら)理解できました。だからといってこの「飢え乾く幽霊」がつまらないわけではありません。

魅力的なところは、非常にストレートなところでしょう。こんなシチュエーションあり得ないよ、と思いながら、そんなシチュエーションに憧れているものをそのまま書き出してくれたり、典型的と僕たちが見なすけれども、決して現実で見かけることはない行動と反応そのままの描写とか、まあ妄想系の喜びというか。

遠子先輩の文学蘊蓄は、僕にとってはそれほど役に立ちませんでした。テキストそのものが味覚に還元されてしまうので、僕の興味であるテキストの社会的背景を語ってはくれなかったからです。それにしても高校三年生で、こんな正統派文学的名作を今更読むのか、という感じも少しだけしましたけれど、本と人の出会いは色々ですからね。僕も未読の名作は多いですし。

でもまあ面白かったし、連続して図書館に予約してあるものが届く予定なので、このままシリーズを読み続けてしまおうかと思っています。ただし順番はごちゃごちゃになるかも知れないけれど。

2008-10-11

新宗教の解読

新宗教の解読 (ちくま学芸文庫)』(井上順孝)を読みました。

内容紹介を、「BOOK」データベースから引用します。

社会の矛盾や歪みを映し出し、また民衆の欲求を吸いあげる新宗教。天理教、創価学会から幸福の科学、オウム真理教にいたるまで、時代や社会を反映する「近代日本に出現した新しい宗教システム」としての新宗教を読み解き、宗教史的・社会学的な観点で洞察する。新宗教はなぜ生まれ、どのような道をたどってきたのか…150年にわたり激しく息づき、現在もなお多様な活動を展開しているこれらの現象を追究・分析する。「混迷の時代とオウム真理教」を加筆。


やっぱりこの引用からだけではよくわからないですね。要するに新宗教の歴史(宗教史としても社会史としても)を分析しています。新宗教が成立するためには社会状況の変化や法的環境の変化の影響を大きく受けますが、それに対する新宗教の組織形態や活動内容などの変化を検討してる本です。

どのような宗教であろうと、宗教にはそもそも信者を集めるためのシステムが必要です。信心は新宗教にありがちな超常体験や治療から得られたとしても、それが組織化され、継続されるためには集合的な意識が働かなければなりません。その点、新宗教はその時点での社会状況の影として成立するという観点から本書は論述されています。

影は決して後ろ向きにのみ伸びるものではなく、横にも、ひょっとしたら前にも伸びます。新宗教は時代の求めているものを先取りしている可能性もあるという主張がなされていますが、著者は本書で学者らしさを決して失うことはありません。つまり新宗教に対してきわめて客観的で冷静に接しています。その分主観的で扇情的に新宗教に接するジャーナリズムに対する著者の態度は辛辣ですが、マスメディアも時代の求めているものを提供する社会的機能を持っていますから、マスメディア論を別に考えなければならない本でした。

2008-10-10

美人の時代

美人の時代 (文春文庫)』(井上章一)を読みました。『おんな学事始』として文春から出ていた単行本が、文庫化で改題になった著作です。色々な雑誌に載せたエッセイをまとめたもので、初出は1990年前後ですから、エッセイに描かれる社会背景も言葉や風俗もかなり古い感じがします。

井上章一さんといえば、博識かつ頭脳明晰で、なおかつとてもエッチなおじさんですが、彼の『美人論』を読んで衝撃を受けたのは大学生の頃でした。『美人論』は歴史研究として書かれたものですが、この本がフェミニズム系の攻撃を受けなかったのは「こういう事が歴史的に事実と考えられる」と実証しているだけだからだと思います。

そして本書は『美人論』とはうって変わって、笑いをとることを密かに狙ったエッセイ集です。著者の欲望や妄想や何やらが丸出しで、学術書ではないから論理的破綻も多く、議論も終始一貫していません。それでもなるほど納得と思わせてしまうのが、著者の頭の良さなのか、僕が男性でなおかつエッチだからなのか。

内容紹介を「BOOK」データベースから引用します。

男はなぜセーラー服に欲情するのか、白衣の天使・看護婦のエッチサービスは解禁すべきか等々、誰もが悩んだ永遠のテーマを真面目に考察し、男のホンネ(女はやっぱり美人に限る、面喰いのどこが悪い)に知的かつ歴史的根拠(美人なくして近代化なし)を与えてくれる痛快丸かじりのエッセイ集。井上美人学の原点、ここにあり。


笑いをとるといっても、単なる冷笑ではなく、著者はフェミニズム陣営からマゾ的な蔑み笑いを求めています。例えば美人コンテスト紛糾の座談会に、美人コンテスト賛成者側として参加して欲しいと上野千鶴子さんからお誘いがあったそうです。「絶対に論破される。もしかしたら謝罪を要求される」と覚悟をしていながら、本音では参加したがっていたようです。というのも、論破され、謝罪を要求され、改宗を迫られて、その後に「それでも、私は美人が好きだ」と呟きたかったからだそうで。もちろんガリレオのパロディです。

読んだのは男性の僕だし、書かれたのが古いからきちんと笑えましたが、笑えない人もいるでしょう。それでも真実の一面は書かれている本です。『美人論』を再読したくなりました。

2008-10-09

当たると痛い

雑談です。

某所で、米の大きさを決定する遺伝子が特定されたことが話題になっていました。それに関することを色々読んでいるうちに関係のないことを調べはじめてしまったのですが、そのうちに驚愕のSF知識を手に入れてしまいました。


レールガン:すごい武器。当たると痛い。
ビーム:すごい武器。見た目が派手。


神坂一さんの『幻夢 目覚める (ロスト・ユニバース)』のあとがきに書かれているそうですが、恐るべき単純化と、それにしては作品を楽しむのに必要充分と思われる説明です。

神坂さんを笑うつもりはありません。僕は彼の「スレイヤーズ」の最初のほうしか読んだことがないという、善良ではない読者ですが、「スレイヤーズ」のような調子(指輪物語から続くソーズ・アンド・ソーサリーの伝統とは結構違うファンタジーです)で作品を多数ものしていくと、こういう事にもなるだろうな、というのが感想の一つです。

また別の感想もあります。僕がSFを読むときには自然科学やら工業やらに関する、自分の持っている知識を総動員して読むのですが、実はこの程度の理解でもOKという、なんだか吹っ切れた態度の著者に、いたく感動したのです。どうも僕は、フィクションの中に現実を持ち込んで読みがちですが、フィクションはフィクション。説明不可能な超常現象が起こって当たり前ですし、SFといえどもそれは同じ事。目から鱗が落ちました。

といっても僕の性格はそうそう変わりませんけどね。

2008-10-08

セラピー文化の社会学

セラピー文化の社会学 ネットワークビジネス・自己啓発・トラウマ』(小池靖)を読みました。

実に丁寧に書かれている本だという感想を持ちました。著者の博士論文がベースとなっているのですが、フィールドワークをもとにしていますし、身近な題材を扱っているので、社会学の専門書としては非常に読みやすいと思いますし、普通の読書好きにもおすすめできます。

本書の内容を要約するのが面倒なので、Amazonの「内容紹介」から引用します。


ポジティブシンキング、心理療法、自助グループ、スピリチュアル…現代社会を席巻する心理主義=ポップ心理学。その実態を長年のフィールド調査から明らかにする。

心理学的な発想によって私たちは生き方を決めることがあるのだろうか?販売員ネットワーク、自己啓発セミナー、アダルトチルドレン・ブームなどを題材に、社会学の立場から現代の「セラピー文化」を分析する。前向き思考、人格改造、トラウマ説は、現代人にとって何であるのか。文化社会学、宗教社会学の双方にまたがる意欲作。
これだけでは何が書いてあるのかよくわからないでしょうけれども、まあ興味をひかれたら本書を手にとっていただければ良いと思います。ちょっとしたしがらみがあることがわかりまして、購入していただけるとより良いです。

どうも宗教社会学の本にしてはすんなりと理解できすぎると思ったら、僕とものすごく色々なところがかぶっていることが、あとがきで判明しました。すんなり理解できるのも道理です。

何となく気後れして、あまり詳しくは感想を書けません。ただ著者は、トラウマ・サバイバーの運動をアルコール中毒者のセルフヘルプグループをして代表させていますが、これは他の二者(ネットワークビジネス、自己啓発セミナー)とは大きく異なる性質を持っているので、「セラピー文化」の重層性としてとらえていますが、確かにそうだなと一面では思います。

ただし、もっと政治的・文化的に先鋭化しているセルフヘルプグループもあります。例えば障害者運動の一側面などですが、これを著者に伝えるべきかどうか。この三つ目のトラウマ・サバイバー運動に関しては記述が薄いと感じましたし、その脱近代的な性質やアルベルト・メルッチがいうような「新しい社会運動」としての位置づけが本書の論述の中では接ぎ木されているような印象を受けました。

とにかく気後れして、詳しくは書けないのです。いやはや。

2008-10-06

騙されること色々

雑談かつ独り言です。

まるで自分は馬鹿であると宣言するようですが、騙されることにはちょっとした自信があります。タイトルにひかれて読む本の内容が、期待と全然違うなんて日常茶飯事ですし。

小学生のころに兄から「中国語でタイヤがパンクすることを『アナーキー』っていうんだぞ」と教えられ、中学生になるまで信じていました。他にも兄からは「ピートマック・ジュニアは奥田民生だ」ととんでもないことを吹き込まれ、信じかけました。「ウルトラセブンの歌には尾崎紀世彦の声が入っている」ということを言われ、これは本当だったから少し信頼していたのです。

最近騙されたのは、バンド関連です。

僕の入っているバンドが10月末頃に出演を予定しているライブは、一般向けではなくて大学サークルの同窓会ライブだったようです。そしてさらにその対バン(同じ日に同じライブハウスで演奏するバンド)のビッグバンドにも誘われたのです。サークルの現役大学生と卒業生が入り交じったビッグバンドだそうで、「若くてピチピチした連中と一緒に演奏ができるよ」という甘言に唆されて、よこしまな心からほいほいと承諾したのです。

練習にいってみたら、確かに若くてピチピチした人もいるのですが、残念なことに男性ばかり。僕を誘った人間を詐欺罪で訴えようかと思いましたよ。

もう一つ騙されたのは、やっぱり音楽です。

そろそろライブに向けてきちんと準備しないといけないと思い、ようやく重い腰を上げて演奏予定の曲を、雑音をシャットアウトして高音質で「きちんと」聴きました(いままでは移動中に聴いたり、子どもと遊びながら聴いたりしていたのです)。渡された楽譜が暗号状態なので、自分用の楽譜を書こうと耳コピ(聞こえた音を音符にする作業)すると、渡された楽譜とすごく違っていて、今まで練習していた曲は一体何だったんだ、という思いに駆られました。さらに、きちんと聴くまでは「結構かっこいい曲じゃない」とか思っていたところを、丹念に何度も聴いてみると「実はダサイ?」という疑念が。原曲のソロをコピーしてみると、すっかりその曲に対する親しく優しい気持ちは消え失せて、ただ客観的で分析的にリズム・メロディ・ハーモニーを追認するだけとなってしまいました。

やっぱり愛情を持続させるには、「奥ゆかしい」くらいに留めておくのが秘訣の様です。これに関しては音楽に責任はありません。僕が迂闊でした。

闇の左手

闇の左手』(アーシュラ・K・ル・グィン)を今更ながら読みました。ずっと気にはなっていたのですが手に取れなくて、ようやく読んだ次第です。なんだか最近SFづいているような気もしますが、そのうち揺り戻しもくるでしょうから、とりあえず気の向くままに読書をしています。

既に名作の名が高い本に対して、あらためて何かをいい加えるのはとても難しいし、作品や既に何かをいってきた人に失礼になってしまうのではないかと危惧するのですが、言ってしまうと名作として残るのはやっぱりそれなりの理由があるのだな、という単純な感想です。現代的なSFとはずいぶん味わいは違いますが、一つの世界として見事でした。

既に散々いわれていることだけれども、両性具有の登場人物が男性にしか思えない点はやっぱり気になります。萩尾望都さんの漫画によく似ている(というか、萩尾さんが影響を受けている)けれども、萩尾さんの漫画もやっぱり両性具有者は男性っぽくなりますし、ここには何か人間の想像力を限定する何かがあるのかな、と思ってしまいます。

僕の読める本の冊数には限りがあるのに、素敵な本の冊数にはほとんど限りがないというのは、幸せでもあるし不幸でもあるな、と思います。それでも「名作」と言われないものも読んでしまうのですが。

2008-10-05

象られた力

象られた力』(飛浩隆)を読みました。「デュオ」「呪界のほとり」「夜と泥の」「象られた力」の四つの中短編が収められています。

個人的には「デュオ」が一番気に入ったのですが、それはさておき作者の緻密で固い感じのする文章には圧倒されます。「呪界のほとり」はほんの少し毛色が違いますが、基本的にはどの作品も華美で退廃的で、優しくて残酷で。滅んでゆく何かを捉まえようとするときに、するりと手からこぼれ落ちる何かを、丁寧にすくい取り直すような印象を受けます。

そしてどの作品でも色や音、におい、手触り、味覚、かたちなどが鮮やかにイメージできて、まさに文章の力を見せつけられる気がします。僕はまったく無知にして、先日『グラン・ヴァカンス』を読むまで飛浩隆さんという作家を知らなかったのですが、SFというジャンルを考慮しなくても、すばらしい作品をつくる作家です。僕のような疎い人間があらためて言うことでもないとは思いますが。

SF好きではない人にもおすすめしたいのですが、ちょっとした癖があって、作品の官能性(特に性的官能)に引っかかるところもあります。また残酷すぎるきらいもありますので、そういうのが苦手ではない方はぜひ。

2008-10-04

テレビ霊能者を斬る

テレビ霊能者を斬る メディアとスピリチュアルの蜜月』(小池靖)を読みました。著者の書いた『セラピー文化の社会学』を読もうと思って、その肩慣らしに。

江原啓介さんや細木数子さんらのテレビでの活躍ぶりは僕はまったく知りませんが(僕はテレビ・ラジオ・新聞・雑誌に触れないのです)、その二人を中心に、過去30年間にわたってテレビなどで話題になった霊能者を本書では取り上げています。

著者は宗教社会学者だから、霊能者たちの行いや能力について、真偽の判断は下しません。あくまでその人たちのレトリック、方法論、既存の宗教観との類似や差異、経歴、パフォーマンス、その人たちに対する評価・批判などを紹介して、霊能者たちが活躍する社会やメディアを論じています。非常に冷静というか突き放したというか、とにかくクールな書き方で、決して霊能者たちを一方的に非難するものではありません。しかし結果的に冷静な観察から導き出せるものは、メディアで活躍する霊能者たちの、多くの矛盾や信憑性の欠如です。まあどんな人間でも矛盾を多く含んでいますし、全幅の信頼を寄せられるような人も少ないでしょうが。

著者の主張を端的に言ってしまうと、社会的な格差や家族形態の崩壊、伝統的宗教の機能不全といった現象(それらがあるかどうかはさておき)が、メディアで霊能者たちを活躍させる背景となっている、ということです。

メディアが霊能者たちを活躍させる理由を突き詰めて言えば、視聴率がとれて、大金が動くからでしょう。なぜ視聴率がとれるかというと、多くの人が興味本位であったとしてもそれを見るからでしょう。公共放送でもない限り、メディアは霊能者を礼賛する番組を作成したところで問題視するものではありませんが、霊能者たちを無批判に賛美しているメディアにはどこか危険なものがあることは、本書でも指摘されています。

霊的なものに対する関心は、世界のどこでも見られます。もちろん関心があるだけではなく、先進諸国ではメディアに取り上げられたりもします。特に日本が顕著かも知れませんが(知りません)世界のどこでも、そして過去30年間にわたってテレビで取り上げられたにしては、霊能者の活躍と社会背景の相関性に関する著者の分析が的を射ているかどうか、僕には少し疑問です。

遠い過去からずっと、霊的なものは人間を魅了してきました。世界的宗教はみな2000年程度の歴史を持っていますし、それ以前の土俗宗教となるとほぼ人類史と同じ長さになることでしょう。それらはさておき、もっと単純でテレビ受けするような霊能者たちについていえば著者の分析は非常に優れていると思います。しかしそれでも霊的なものに惹かれてしまうことには言及できませんし、本書でも言及されていません。宗教社会学的にまっとうな態度です。

それにしても、このご時世でドル箱である占いやらスピリチュアルやらを俎上にのせた新書がでる、ということ自体が驚きです。利害関係が対立していたり「トリックを暴く」的な扇情的なものならともかく、少なくとも売れている人をあれこれいじるのは、出版社にとっても冒険だったと思います。

ちなみに僕は信仰を持っているつもりなので、霊的なものは信じていることになっていますが、それを信じるのと現実的に真実であるかどうかというのはまた別の話だと思っています。それよりもバナナの品薄をどうにかして欲しい。ああいうのも充分宗教的実践だと思うのだけど。

2008-10-03

ケータイ小説的。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』(速水健朗)を読みました。ふ~ん、という感じで、目次を読めば大体予想がつく内容でした。参考までに著者のサイトの書籍紹介をあげておきます。

本書ではケータイ小説がどのようなものなのか、というよりもケータイ小説を生んだ社会はどのようなものか、という視点で書かれています。これはきっと著者には荷の重いテーマだったのではないかと思います。

ヤンキー系雑誌・漫画と浜崎あゆみさんの歌詞の関連性は、本書で指摘されてはじめて気がつきました。その具体性を欠く抽象的(あるいは曖昧な)表現や、不幸自慢や不幸体験をもとに現在を語るスタンスなど、ここが本書で最もよく書かれている部分でしょう。つまりヤンキー系雑誌がケータイ小説のルーツと考えられる、という点です。

しかしその考え方も突き詰めると無理があります。ヤンキー系雑誌や浜崎さんの音楽は全国に流通していますし、仮にヤンキーと呼ばれる人たちが都市中心ではなく地方部を中心として活動していたとしても、それがケータイ小説の書籍の売れ行きと関連性があるとは言い切れません。はっきり言って偽相関でしょう。もしも相関があるというならば、社会調査の作法に則り、きちんとしたデータを示して欲しいところですが、本書で参照されるデータはせいぜいが都道府県別ケータイ小説書籍の売れ行きのみです。

この偽相関をあたかも相関であるとさせているのは、著者が参照する評論家や学者(残念なことに社会学者が多いです)の「ファスト風土化」「郊外化」などといった言葉や概念のみです。言葉や概念で世相を斬ってみせるのは格好がよいですが、ただそれだけです。ですから著者が書いているような、地方経済で完結する社会や相互扶助の共同体といったものは、論じられてはいるものの(現実に存在するとしても)、この本では説得力を持ちません。

もう一つ読んでいて疑問に感じたのは、ケータイ小説の「リアル」とケータイ小説に描かれる「リアリティ」の関係です。本書では例えば援助交際やドラッグや妊娠人工中絶やなにやら、とにかく「リアル」ではないだろう、としています。そしてそれはヤンキー系雑誌の読者投稿欄に見られる不幸自慢や不幸体験の不幸スパイラルがルーツと考えられるそうです。すると本書の中で書かれていることですが、恋人同士の暴力や過剰な拘束が説明できなくなってしまいます。デートDVは読者の妄想ではなく、現実の問題(あるいはケータイ小説作者の問題)として考えた方がより整合性は高いのではないかと、僕は思いました。

つまり妄想の世界(セックス、ドラッグ、レイプ、などなどのケータイ小説的要素)の問題と現実の問題は、ケータイ小説を経由して現実化しなければ、本書は論理破綻してしまいます。しかしケータイ小説がなくとも存在する問題ですから、はっきり論理破綻しています。

厳しい感想になってしまいましたが、大雑把に読めばよく書けているな、という感想です。ただし社会批評としてはあまりにも調査不足で、流行の言説に乗っかって口先だけの評論を試みているようです。先日読んだ『ケータイ小説のリアル』のほうがよく調査してあるし、分析も適切だと感じました。

なお、本書では最新のケータイ小説事情には触れられていませんし(『恋空』や『赤い糸』くらいまでです)、携帯電話で読まれる本来のケータイ小説も扱っていません。あくまで書籍化されたケータイ小説のみを扱っています。

ケータイ小説はカウンター・カルチャーではなく、オルタナティブ・カルチャーであると、小飼弾さんがブログで書いていたような気がしますが、僕も同感です。異文化に接する場合には理解して尊重する努力をするべきでしょうが、接することがなければ何も知らなくても良いでしょう。

2008-10-02

傀儡后

傀儡后』(牧野修)を読みました。新古書店にて105円で売っているのを見かけて、衝動買いしてからしばらく積んでおいたものを消化した感じです。

全体の雰囲気は悪くありません。ただしSFだと思って読むとあまりサイエンス・フィクションではないので拍子抜けするかも知れません。まあ著者の作風を知っているならそういう勘違いも少ないでしょうが、本書はどちらかというとファンタジック・ホラーに属する作品ではないでしょうか。自然科学的に説明不可能なことばかりですし。

全体的にはおぞましく、心胆寒からしめる物語です。連載小説だったせいもあってか、各章は結構分断されていて、一連のストーリーとしてつかみにくいです。雰囲気や全体を統一するテーマ(おそらく「つながり」とか「皮膚感覚」といったところでしょう)は決して悪くないのですが、登場人物たちを描き切れていないような。

もちろんキャラクターは個性的に描かれています。ただし、丹念に書き込んで描くのではなく、既にある何らかの要素(SF的なガジェットや既存のテンプレートみたいなもの)を与えてキャラクター化する感じがしました。登場人物たちは数多く、それぞれに錯綜する思いを持っているのですが、登場するとすぐに死んでしまったり、しばらく登場しなかったり、いつの間にやらずいぶん違う人になっていたりします。整合性を求める読者には耐えられないでしょう(個人的にはマーシー・アナーキーと二人の護衛にはもっと活躍して欲しかった)。

日本SF大賞受賞作だそうですが、僕個人の感想としては、他の受賞作より少し物足りなく感じました。人それぞれでしょうけれども。物足りないと言うだけでは建設的ではないので、どうしたら僕がもっと満足できるのかを考えてみました。少しネタバレするかも知れません。

・この作品に登場する、五感を極限まで研ぎ澄ませるドラッグと、ロラン・バルトの言うようなモードの思想が上手くリンクできると面白い。つまり「衣服は人間の第二の皮膚である」「人間の肉体表面には既に自然なものなどない」といった思想とがリンクされれば、衣服によって人間は世界とつながっている、というところを掘り下げられるのではないか、と。

・この作品に登場する、全身の皮膚がゼリー化する奇病と前述のモードの思想ともリンクできると面白い。できればそれとドラッグとの関係をもう少し丹念に描いて欲しい。

・登場人物たちの思惑や関係をもっと丁寧に描いて欲しい。学園、若者集団、街の破落戸、暴力団、巨大財閥の長、親子、探偵などなど。

・隕石の墜落とエンディングにもう少しつながりを持たせて欲しかった。もちろん作中に書かれていることから僕が想像することはできますが。

2008-09-30

レックス・ムンディ

レックス・ムンディ』(荒俣宏)を読みました。

いやはや、巨人アラマタの凄さは小説でも健在だと感じました。『ダ・ヴィンチ・コード』と『パラサイト・イヴ』と『神々の指紋』を足して、アラマタ流の世界観を盛り込んだ感じです。と書いても、僕の感じたアラマタの凄さが上手く伝わるかどうかわかりませんが。

博覧強記の著者が、古代巨石文明やら人類の進化やら神やらキリストやらを、一冊の決して長くはない小説にまとめてしまうところが恐ろしいです(『ダ・ヴィンチ・コード』なんて文庫で三冊ですよ)。ただし、一冊にまとめてしまったからこそ、細かいところにもっと説明があった方がいいんじゃないかな、という感想も持ちました。例えば先日日記に書いた『ウイルス進化論』のような内容も含んでいますので、ヨーロッパ史やキリスト教史や考古学や風水や遺伝論や、といった諸々のことに通じていないと、小説のどこまでが事実でどこまでが創作か、という線引きが難しくなってしまいます。

この作品は先が読めます。ですからストーリーは平凡と言ってしまえば平凡なのですが、その先読みを次々と理由付けていくところに、僕は一番の魅力を感じました。その理由付けには、それほど無理もなくトンデモ科学やら信仰やらを盛り込んでいますし、もしもノンフィクションとしておもしろおかしく書いても、さほど違和感は感じないでしょう。それがこの巨人アラマタの凄さです(というか、著者のノンフィクションでも、この小説の題材は扱っています)。

堪能させていただきました。もっと長い小説になってくれれば、もっと堪能できたことでしょうが。

2008-09-29

ウイルス進化論

ウイルス進化論』(中原英臣、佐川峻)を読みました。

これは面白いです。ダーウィンの進化論や、ネオ・ダーウィニズムの主張を知らなければ読むべきではないと思いますが、それらを知っているなら斬新な視点やダーウィニズムの反駁の仕方など、読むべき点は多いです。論理的な無茶もかなりしていますが、それを含めて議論の仕方は面白いです。

本書ではウィルスによって遺伝子が運ばれ、とある生物の遺伝子にそのウィルスの遺伝子が組み込まれ、生物の遺伝情報を変化させることによって進化が起きるという主張をしています。確かにレトロウィルスは逆転写酵素を持ちますし、ウィルスの遺伝情報で宿主の遺伝情報を書き換えます。つまり、進化はウィルスによる伝染病である、という主張です。

ツッコミどころはとっても多いので、それらのところに難癖をつけるのも楽しいですが、とりあえず著者らの主張を全て飲み込んで理解しようとすると、凄く違う世界が開けてくるので、それを空想するのは楽しい経験です。僕は生物学者ではない素人だけれども、どうも怪しいと思わせるところが多いので、きっとこれはトンデモ科学の一種でしょう。

特に進化の方向性に関する議論には慎重にならざるを得ません。下手をするとインテリジェント・デザイン説のようになってしまう危険性もあります。また大きな問題としては、カンブリア紀に代表されるような環境の激変期に非常に多種の生物が発生したことはウイルス進化論では説明できません。種の増減(特に増)がこの説ではうまく説明できないのです。

ですが読み物として楽しいです。信じてしまうとちょっと問題ありでしょうけれど、ウィルスによって進化する可能性もある(レトロウィルスによって遺伝情報が書き換えられるのは確かですから)、ということは保留しておいた方が良いかもしれません。つまり本書の副題である「ダーウィン進化論を超えて」というのではなく、ダーウィン進化論の一部を補完する内容にはなり得ます。著者たちは根本的に相容れないと考えているようですが。

まあ、進化論自体が仮説ですので楽しみ方は色々ですが、とりあえず素人としては色物よりは定番を信頼しておけばいいかな、と思います。

2008-09-26

『あたし彼女』っていうか

第3回日本ケータイ小説大賞に『あたし彼女』という作品が選ばれたそうです。ここのところケータイ小説に興味を持ち始めたし、PCから全文閲覧可能とのことなので、早速読んでみました。

苦行、ってゆーか

なにこれ

とか

フツーに

途中であきらめる

みたいな

全然あり?

審査員って

本当に……本当に

ぜんぶ読んだのかな

なんて

疑う

あたしもアレだけど

言葉のリアリティーって

みんなこんな言葉で

書いてるわけ?

バカばっかり

ってゆーか信じれない

信じたい

ってゆーのはあるけど

言文一致?

あ、あたし難しいコトバ

使っちゃった

みたいな

という感想でした。電車の中で携帯電話をいじっている人のうち、仮に1%がこの手のケータイ小説を読んでいるとしたら、空恐ろしくて。それよりも瀬戸内寂聴さんがケータイ小説に挑戦した、という記事を読んで、僕もこれくらいの境地に達したいものだ、と反省する次第です。

NHKにようこそ!

NHKにようこそ!』(滝本竜彦)を読みました。いや、勢いに任せて読んでしまった、という表現の方が正しいかもしれません。

内容を自分で要約(?)するのも面倒なので、「BOOK」データベースから引用します。

俺は気づいてしまった。俺が大学を中退したのも、無職なのも、今話題のひきこもりなのも、すべて悪の組織NHKの仕業なのだということを!…だからといって事態が変わるわけでもなく、ずるずるとひきこもる俺の前に現れた清楚な美少女、岬ちゃん。「あなたは私のプロジェクトに大抜擢されました」って、なにそれ?エロスとバイオレンスとドラッグに汚染された俺たちの未来を救うのは愛か勇気か、それとも友情か?驚愕のノンストップひきこもりアクション小説ここに誕生。


この文章を鵜呑みにした僕が愚かでした。罵倒したいところはいくらでもあるけれども、とりあえずひかえます。しかしこの小説が人気だったことが不思議です。

良い点としては、ひきこもりの妄想が描かれているところでしょう。描かれていると行ってもリアルだとかいうレベルではありません。この程度の描かれ方ならどこぞの掲示板を読めばわかるくらいです。悪い点は多々あるけれども、文章が稚拙、内容が薄い、細部のリアリティがない、ストーリーを先読みできるしそれを裏切らない、既に先人によって深く掘られたテーマをもう一度浅く掘っている、などなど。あ、罵倒はひかえると先に書きましたが、この程度では十分な罵倒ではありません。

途中で読むのをやめようかと幾度も思いましたが、最後まで読み切った自分を褒めてあげたいです。

すばらしき愚民社会

すばらしき愚民社会』(小谷野敦)を読みました。大雑把に言うと時事評論の本です。

僕は雑誌を読まないし、論壇にも興味をまったく持っていませんので、本書に登場する誰かの主張などを(単行本になったものを除いて)吟味することができませんでしたが、著者の主張は極端ではあるもののおおむね正当で、ころころと主張の転向する時事評論家の書いたものではなく、まじめな学者の書いたものであるという感想を持ちました。ただ、社会学を知らずに社会学者には歴史性がないなどと宣うのはやめて欲しかったですね。一部の有名社会学者やある部門(例えば数理社会学)に歴史性がないだけです。

本書の主張は多岐にわたっていて、中心となるのは「大衆論」ですが、ここでいう大衆とは実際は学者社会や知識人社会を指しています。

目次は以下のようになっています

序 大衆論とその後
第一章 バカが意見を言う世の中
第二章 迷走する階級・格差社会論
第三章 日本の中間階層文化
第四章 「近世」を忘れた日本知識人
第五章 「説得力ある説明」を疑え! 丕ケ丕ケカール・ポパー復興
第六章 他人を嘲笑したがる者たち
第七章 若者とフェミに媚びる文化人
第八章 マスメディアにおける性と暴力
第九章 アカデミズムとジャーナリズム
第十章 禁煙ファシズムと戦う

僕の場合、要は書いてある内容を咀嚼できれば、右だとか左だとかはどうでもいいのです。本書の場合は過激すぎる表現や、著者の個人的交友範囲や肉体的・精神的問題に端を発する議論が散見されますが、おおむね納得できます。ただし、新聞・雑誌・TV・ラジオなどの、いわゆる日本論壇やらに精通していないとすんなりと内容を理解できないのが残念です。僕はそれらのどれにも興味をまったく持っていませんので。

面白いか、というと微妙です。論理展開はきわめて学者的で、要するに元資料を点検し、根拠となる証拠を出し、他者にも再現可能な形で陳述する、という王道です。その王道が批評などの世界では無視されているのか、著者は激しく攻撃していますから、その点少し不快になります。しかし議論を追っていくのは面白く、それでいて単調な(つまりかなりまっとうな)結論になりますのでつまらないし、様々な内容を扱っているため批判に対する批判に徹したりしているのもつまらない。つまりどちらとも言い切れません。

学問は面白いけれども、そのほとんどの部分は地道な単純作業やら何やらで埋まっています。想像力の飛躍や発想の転換や視点の変化などという大それたことは滅多に起こりません。そのつまらなくて地味な世界を無視するような「派手な」言論には魅力はあるものの、正当性は疑わしいものもありますし、資金面などの利害関係もあります。ですから僕は新聞・雑誌・TVなどへの興味を失ったのですが、著者は新聞にも雑誌にも目を通し、Web上での議論にも目を通し、時事評論的な単行本にも目を通し(そして質問や批判の手紙やメールを書き)、ずいぶん忙しい(あるいは暇な)人なのだな、と感心せざるを得ません。

もてない男』は素晴らしく面白かったな、と回顧してしまいます。

2008-09-25

ユージニア

ユージニア』(恩田陸)を読みました。

多分、傑作なのだと思います。というのも語り手が様々なのに、ひとつのまとまりのある作品になっていますし、聞き手である(文章の書き手である)人物の姿は杳として見えません。読みすすめるごとに不安になる小説でした。

傑作かどうかというのは、僕の場合はその作品にたいして何かをすぐに言えるかどうかで大体決めてしまうのですよね。で、本書の場合はきちんとした感想がすぐに言えません。

ミステリだと思って読んだから所々読み返したり、読み進めながら不審点に戻って確認したり、内容の整合性を頭の中で確認したりしましたが、語り手が様々なこと(多分作中に出てくる「本」も語り手の一人だったのでしょうね)と聞き手が見えないことで、漠として確信が持てないのです。

今更ながら断言しますが、これはいい作品でした。

2008-09-24

LOVE

LOVE』(みうらじゅん)を読みました。

新古書店で100円だったので購入したのですが、冷静に考えると、こういう下らない(下らないのは大好きです)エッセイの値段が100円、僕がこの本を読み終えるまでに使う時間が1時間くらい。そうすると機会損失としていくらのマイナスになるのだろうな、などと合理的な頭は考えてしまうのですが、みうらじゅんさんのくだらなさが好きなので買って、読みました。

イントロの言葉が秀逸です。


そう、愛なんてちっぽけな人間には一つしかないんだ。無報酬であげられるものは本当に一つしかないに決まってる。でもそんなこと言い切ったらモテなくなるから言いたくないけど

蓋し名言です。ただしある種の天才であるみうらじゅんさんの愛は、地中に湧く泉のように汲めども尽きず、エロやら仏像やら笑いやら漫画やら怪獣人形やらレコードやらに惜しみなく注がれています。まあ結局はバカ話なんですけど。

「かわいい女の子と面倒なことを省略してエッチしたい」とか「あれが欲しい」「これが欲しい」とか「こうすると、きっと僕はかっこいい」という僕もかつて(今でも?)持っていた少年の幻想を未だに持っていて、さらにそれを本にしてしまうあたりは凄いです。

あまり人にすすめられる本ではありませんが。

2008-09-23

θは遊んでくれたよ

θは遊んでくれたよ (講談社ノベルス)』(森博嗣)を再読しました。講談社ノベルズ再読として『φは壊れたね』を読んだので、その流れで。

再読しての感想は、『φは壊れたね』とほぼ同様です。スーパーお嬢様である西之園萌絵のお嬢様ぶりも紙数の都合かあまり描写されなくて萌えきれません。犀川先生や国枝先生の切れのある洞察や台詞も見あたりません。登場人物たちの魅力を味わうにはもっと描写が必要かと思われますし、肝心のミステリ要素は先が読めてしまうくらいに単純になってしまっていまし、学生も本作品出版時の学生とは思えないほど優秀です。

ちなみに僕の非常に親しい友人はC大学と思われる大学に無試験で入学しました。高校時代の彼の成績は下から数えた方が早いくらいのものでしたが、が、大学内ではトップクラスの秀才だったらしいです(無論大学で自分のやりたいことに専念できる、という環境もあったのでしょうが)。

本作品とはそれほど関係ありませんが、背後に見え隠れする天才である真賀田四季博士も、ソクラテス・プラトン・アリストテレスや、ニュートン・ガロア・アインシュタインなどの過去の天才たち(選択は適当です)と比べると、いかにも抽象的思考と合理性を追求した天才の一側面だけを強調した人物に思えてしまいました。つまり天才の複合的な人格をうまいこと排除して(この辺は四季シリーズに詳しいですが)いるので、その天才が平板に思えてきてしまうのです。

さらにいうと、本書の随所に引用されているJ・S・ミルの『On Liberty』は、引用されている箇所だけを読むと人間の理性を最大限に発揮するためには、というような印象を受けますが、『On Liberty』の中心となる主張は、「他者危害の原則」といわれる、人間の行動を制約するにはどのような条件が必要か、というものですので、真賀田博士の行動とは正反対となります。

こんなに悪口めいたことを書いているけれども、やっぱり僕は森博嗣さんの書いた「ミステリィ」が好きなのですよね。特に犀川&萌絵シリーズやVシリーズには痺れました。その名残でその後の作品も読んでしまう、という流れです。やっぱり作者は凄いです。

もうこのシリーズを再読するのはやめにしようと思いました。再読するなら前のシリーズですね。もう何度再読したかわからないくらいですが(四季シリーズは除く)。

2008-09-22

φは壊れたね

φは壊れたね』(森博嗣)を再読しました。講談社ノベルスを読みたくて、再読したことのない作品を選んだ結果、Gシリーズと相成りました。刊行当初は既に惰性となって森さんの作品を読んでいました。

犀川&萌絵シリーズやVシリーズと比べると、一冊の文章量が少ないせいか、それともそれまでのシリーズの積み重ねがあるせいか、Gシリーズにはあまり魅力を感じていなかったのです。トリックは平凡になり、ひたすらキャラ萌えの作品になってしまったような気がして。実際犀川&萌絵シリーズの登場人物が出てこなければ魅力半減してしまうような気がします。

で、再読してもやはり同じ感想でした。文体が好きとか詩的な雰囲気が好きとか、そうしたところを除けば、ミステリとしてはあまり読むべきところのない作品なのではないかな、と。当初の作品にあった理系学生のリアリティも薄らいでいますし。

さて、『φは壊れたね』を読んだはいいものの、Gシリーズ全てを再読しようか悩んでいます。

モーダルな事象

モーダルな事象』(奥泉光)を読みました。

本書はミステリの体裁をとりながら、ファンタジーだとか様々なごった煮のスタイルで構成されています。おなじみのトマス・ハッファーであるとか、フォギーとか、野々村鷺舟、宇宙音楽とかも出てきますし、ユーモアにあふれる文体も健在ですので、奥泉的世界に親しんだ人なら突飛な展開にも現実にはあり得ないようなファンタジー展開にもついて行けるだろうと思います。

はじめは筒井康隆さんの『文学部唯野教授』みたいなものを想像していました。僕の友人たちが勤めている大学の惨状とよく似た大学の内側がおもしろおかしく描かれていたりして、その世界になじみのある人ならば「うんうん」と頷けます。次第にミステリ色が濃くなり、いつも通りのトンデモ超文明やらファンタジー的世界も絡んできます。

著者の本を読むといつも思うのですが、奥泉さんは日本文学に精通しているはずなのに、あえてそれを壊したり茶化して見せるのがとても上手なのですよね。怜悧な文体からいきなりしまりのない文体に移行したり、伝統に則った「ありのまま」を完全に無視をしたり、作中に作者や過去の日本文学の作品を織り交ぜたり。そういったところも含めて、隅々まで楽しめます。

すんなりとこれはミステリであるなどと思って読むと、さほどたいしたことのない作品になってしまいそうですが、まあ奥泉さんなりの「文学」に対する挑戦なのかな。

ついでながら、著者に文句を言うわけではありませんが、おそらく奥泉さんの宇宙音楽は成立しないと僕は考えています。フィボナッチ数列は1、1、2、3、5、8、13、21、……というのが有名で、よく例に取り上げられますが、正確には数式で表現されます。ですから2、2、4、6、10、16、26、42、……というのもあり得るわけで、もしその数列に従って音楽をつくったら単純な二倍音になりますので、和音としては1からはじまる数列と2からはじまる数列とは調和しないはずです。まあファンタジーの世界ですので、きっと美しい調和が見られるのでしょう。

2008-09-18

京極堂シリーズの版元について

雑談です。

京極堂シリーズ(百鬼夜行シリーズ)の版元が変わるらしい、という話を配偶者にしました。ちなみに僕は遅くに目覚めた京極堂ファンで、シリーズ13冊全て講談社ノベルス版を購入しました。配偶者はあまりミステリが好きではないのですが、『姑獲鳥の夏』を僕が強烈にすすめたところ、その一冊だけは読みました。

以下、配偶者と僕の会話を、記憶している限り忠実に再現します。

僕:京極堂が講談社ノベルスから移るんだってさ

配:講談社ノベルスって?

僕:ほら、煉瓦みたいな厚い本。

配:ああ、怖い表紙のやつね。で、どうして?

僕:詳しくは知らないけど、編集部との意見の違いとか、色々あったんじゃない? 別な企画も立ち上がっているらしいし。

配:あ、きっとあれだよ、著者近影。

僕:何、それ?

配:(『姑獲鳥の夏』を手にとって)だって昭和38年生まれでこの写真は許せない。絶対生涯のベストショットだよ、これは。著者近影ってのは最近の写真、って意味だもの。

僕:(『邪魅の雫』の著者近影を見せて)いや、この通り若くない写真も使っているよ。

配:これも信用がおけない。きっと5年か10年くらいは鯖読んでいるんだよ。で、京極夏彦は著者近影は近くで撮った写真、という意味でさ、編集部としてはそれは許せん、という感じで意見の衝突が。

お手持ちの方は、講談社ノベルス版『姑獲鳥の夏』の著者近影をご確認ください。

2008-09-16

航路

航路(上)』『航路(下)』(コニー・ウィリス)を読みました。いやはや、長い。

小説のあらすじを紹介すると、ほとんどネタバレになってしまいそうなので、簡単に言うと臨死体験を「科学的に」研究する主人公たちとその所属している病院での物語です。科学的に臨死体験を研究する主人公たちの天敵として、トンデモ系臨死体験の導師的存在がいます。その二派の対立も面白いですが、病院内での決して椅子を暖めることのないどたばたも面白いし、もっと高尚には人間の生と死を考えさせてくれます。合計三部からなる小説なのですが、第一部も第二部も驚かされる結末となっていました。

長い小説には長い小説の面白さがあります。綿密に構成されたプロットや、存分に描ききるキャラクターなど。それにしても迷路のような病院内を右往左往するシーンが多すぎるのにはちょっとうんざりしました。もうちょっと短くまとまるのではないかな、という気がします。

僕は臨死体験本は結構好きなんですよ。シャーリー・マクレーン系のトンデモ本にもとりあえず目を通しますし、立花隆さんのノンフィクションや瀬名秀明さんのSFとかは2回以上読んでいます。というのも、僕自身が呼吸停止数十分・心臓停止数分という記録を持っていることもあります。その際に臨死体験をしたような気もしますが、後から話を作っている可能性もあるので、その体験を鮮烈なこととして記憶していませんし、したような気がする、という程度にとどめておいています。

僕の経験は1980年代初頭で、「臨死体験」という言葉も有名ではなく、その時は単純に変だなと思っていました。まあずいぶん前の話ですから、記憶はかなり歪められているでしょうね。

とりあえず臨死体験を「科学的」なアプローチから攻めようとしたSF作品として、一読には値しますし、キャラクターは類型的ですぅっと入り込めますし、ストーリーも練りに練っています(ちょっと伏線が多すぎ、という感じもしますが)。そして充分に感動的な作品となっています。それにこう書くとおまけのように聞こえてしまいますが生と死について考えさせられます(というか、僕の考えている臨死体験のイメージと似ていた)。

それにしても長かった。

2008-09-12

ユルスナールの靴

ユルスナールの靴』(須賀敦子)を読みました。考えてみたら、僕はユルスナールの作品も須賀敦子さんの作品も読んだことがなかったのですよね。

全編これユルスナールとそれにまつわる須賀さん自身の身辺雑記です。一人の作家に対してこれだけ思い入れることができるのは相当なものですが、意外にも須賀さんはユルスナールの作品に触れるのは遅かったそうです。気にはなるけれどもなかなか近づけない人、という感じですかね。風の噂でその人の便りは聞くけれども、気にはなりつつ、かといって踏み込んでいくこともできない。そういう人には、恋愛小説ではそのうちどっぷりとはまるのが常道です。恋愛小説に例えるのも失礼ですが。

文章は見事の一言に尽きます。どこで須賀さんが話をしているのか、ユルスナールが話をしているのか、だんだん錯覚を起こしてしまうくらいです。ユルスナールのエッセイなのに、立派な評伝ともいえますし、作品解説ともいえます。情景の描写なども抜群で、清心のお葬式やローマ・ギリシャの遺跡や、赤い芥子の草原など、とても視覚化しやすいうえ、文章の口当たりも優しくまろやかです。その上込み入った文章技法を使っていないのですから大したものです。

きっと須賀さんの中にはずっとユルスナールが棲んでいたのでしょう。身辺の事柄を通してユルスナールを語るという離れ業をやってのけながら、はじめて読む僕にさえユルスナールや須賀さんの人柄や作風が垣間見えてしまうのですから。

というわけで、どうという刺激はないけれども噛むほどにおいしいという類の本でした。

2008-09-11

紙葉の家

紙葉の家』(マーク・Z. ダニエレブスキー)を読みました。う~ん、困った。感想が書けない(感想が持てない)。

そもそもこの本自体、つい最近まで知らなかったのです。早速図書館から取り寄せて読んでみたら、なにやらよくわからないプロットだし、記法も非常に自由(というかでたらめ)だし、はじめに書いたとされる人とそれを編集したとされる人の注が膨大で、しかも本文とはあまり関係なかったり(そういうのは好きなんですよ。『中二階』は僕の愛読書です)。

とにかくなんだかよくわからないまま読み終えてしまいました。感想を持つようになるには、僕の感性がもっと磨かれるか、再読してもう少し丁寧に読むかしないといけないかもしれません。

どなたか、きちんとこの本を味わえた人の感想をお聞きしたいです。「これはあんた向きじゃない」のでしょうね。

死の本

死の本』(荒俣宏、京極夏彦、石堂藍、小阪修平、宮元啓一、田沼靖一、小池 寿子)を読みました。豪華な顔ぶれで、「死」についてのさわりをちょいと眺めた感じの本でした。黒地に白で文字が書かれていたので読みにくかったけど、図書館で借りた本なので「これはこれで書き込みとかしにくいから便利だな」と思いました。

目次:
第1章:死体とのお付きあい/荒俣宏
第2章:死の哲学/小坂修平

死の図像学I

第3章:獨弔/京極夏彦
第4章:インド死者の書/宮元啓一

死の図像学II

第5章:死をめぐる神話群/石堂藍
第6章:人の死/田沼誠一

死の図像学III


特におもしろかったのは第4章の「インド死者の書」で、アーリア人が侵入してくる以前からのウパニシャッドから輪廻の思想が現れていて、そこからアーリア系の諸民族へその思想が受け継がれていったと思われるというところ。それに仏教経由で東アジア方面に輪廻の思想が広がっていっても、その論理性は受け継がれなかったとされるところ。

見開きで片側1ページがもれなく「死」を描いたもの(絵画や彫刻の写真)になっているので、文章量は少ないですが、「図像学」を嗜む人にとってはおもしろい本となるのではないでしょうか。僕はあまり読み取れないのですが。

2008-09-08

パラダイス・モーテル

パラダイス・モーテル』(エリック・マコーマック)を読みました。一言で言うと、してやられました。しかも気持ちよく。

紹介文から引用します。

ある町で、ある外科医が妻を殺し、バラバラにしたその体の一部を四人の子供の体内に埋めこんだ。幼いころ、そんな奇怪な事件の話をしてくれたのは、三十年間の失踪から戻って死の床に伏していた祖父だった。いまわたしは裕福な中年となり、ここパラダイス・モーテルで海を眺めながらうたた寝をしている。ふと、あの四人の子供のその後の運命がどうなったか、調べてみる気になった…虚実の皮膜を切り裂く〈語り=騙り〉の現代文学。


はじめは文芸書として読んでいたのです。そうしたらミステリかなと思い、読み進めていくうちにこれはどうも違う、おかしいぞ、と感じたのです。

何となく違和感がありました。時代がおかしいんじゃないかとか、完全な空想話かとか、もしかしたらメタ・フィクションかもとか。そして最後には……。書かぬが花、というものでしょう。

フフン(自虐的な笑い)。この本を読んで気持ちよくなれるのは、ちょっとマゾがかった人かもしれません。僕は気持ちよくなれましたけどね。

マゾ?

2008-09-07

ラギッド・ガール

ラギッド・ガール―廃園の天使〈2〉』(飛浩隆)を読みました。前作の『グラン・ヴァカンス』の中で描かれる世界を補完する作品集、といってしまうとまるで付録のように聞こえてしまいますが、この作品群だけ取り上げても充分独立しています。

前作同様の「数値海岸」を主要な舞台としていますが、仮想世界と人間世界と半々ぐらいでしょうか。その「数値海岸」の成立や、その仮想リゾートに人間が訪れなくなった理由などが描かれているので、『グラン・ヴァカンス』をより楽しむためには必読かもしれません。

しかし、僕自身の感想としては『グラン・ヴァカンス』自体で充分に満足できる作品でしたので、ある意味蛇足のような、興ざめのような、自分の想像力を限定されるような、そういう肩すかし感もありました。しかし『ラギッド・ガール』にもまだ魔法的な不思議な部分はあるので、まだ同じ楽しみ方ができます。

しかし、文章も内容も美しく、残酷で、グロテスク。耽美耽美したところもなく突き放したような文体。通奏低音のように流れている、情念や感情など人間のグロテスクな部分と、機械の無機質なところがうまくマッチしています。

いや、今まで知りませんでしたが、こんなすごい作家がいたのですね。『グラン・ヴァカンス』とあわせて、心底感心しました。次作が楽しみですが、果たしていつ出ることやら。

2008-09-06

反社会学講座

反社会学講座』(パオロ・マッツァリーノちくま文庫 )を読みました。本書はWebで公開されていますので、どなたでも無償で読むことができますが、加筆修正が加えられている上、文庫版には「補講」がついていますので、読んでみました。

Webで公開され始めた頃、僕は大学院に在籍していました。そのときから話題になっていたのですが、本書は「反社会学」と銘打っているものの、とてもまっとうで古典的な社会学的手法を使って現代社会を笑い飛ばしています。本書の批判対象は社会学というよりもむしろ学会などの学者世界や、社会学的手法をとったかにみえる政策、新聞記事などの声の大きな意見、一部の有名社会学者による何らかのコメントなどだろうと思います。

というわけで、本書はまっとうで健全な社会学の入門書です。しかも「愛と笑いとツッコミと」をモットーにしている現代の戯作者、パオロ氏が書いていますので、笑えます。もしも笑えないとしたら、批判対象になっているのでしょう。

しかし方法がまっとうだとしても、本書に書いてあることをそのまま信じてしまうには、本書の分析は一面的過ぎます。参照しているデータは質量ともに限られている上、そのデータの社会的背景などは一般論でしかありません。主な論拠は単なる統計のマジックです。まあ面白ければそれでよい本なのですけどね。

2008-09-05

信じない人のための<宗教>講義

信じない人のための〈宗教〉講義』(中村圭志)を読みました。いろいろな宗教的背景のある人がいると思うけれども、僕にとっては前半部分の各有名宗教を簡単に紹介した部分よりも、後半の「宗教とはどのようなものか」とか日常的次元(こちら側)と宗教的次元(あちら側)の考察部分が面白かったです。前半部分はほとんど既知のことでしたので。

僕は信仰を持っています。とはいえ出家しているとか布教活動に努めているとかではなく、単に「私、信じています」「いつもこれこれの行いはします」というレベルですけど。そういう人でも、宗教とアイデンティティの考え方や宗教的に見える事柄(精神とか意識とか象徴とか)を考察することよりも人間社会(制度とか言語とか習慣とか)を考察したほうがより現実的であるとか、考えさせられる内容でした。

本書は信仰を持っていようがいなかろうが、読みがいのある本だと感想を持ちました。むしろ信仰ということを抜きにして、きわめて現実的に宗教のもたらすものを観察しようとしたときに、本書は最も役に立つのではないかと思います。

2008-09-04

ひとはなぜ服を着るのか

ひとはなぜ服を着るのか』(鷲田清一)を読みました。著者の本は多数読んでいますが、どうも僕には違和感があります。うまく合わない、というかなんと言うか。結局ロラン・バルトと考察対象の時代・場所以外に何が違うのかという感想を持ってしまうのです。多分著者は優れた哲学者なのでしょうけど(めちゃエロいおっさんやで、という意見を学会で同席した友人から聞いたこともあります)、ぴんとこないのです。その点、三浦雅士さんの『身体の零度』はエキサイティングでしたから、単に合わないのだと思います。

感想としては、つまるところ、衣服は人間の第二の皮膚である、ということをしつこく問いかけているだけです。そしてそれらの文章はどこかで読んだことのあるような文章で、おしゃべりなおじさんが管を巻いているように感じられました。まあ多数の著作をものしている筆者のことですから、僕がどこかでそれに触れている可能性が高い、というだけのことかもしれませんが、かつての著作と何が違う、というところもあります。

あまり好印象を受けませんでした。詳細に中身を詰めようとしても、まるでばらばらのテキストが著者の感覚で一連の文章になって、そこには明確な論理的なつながりがないかのようです。

ところで、この本を手に取ったきっかけは、「人はなぜ服をあえて着ないことがあるのか」という疑問に端を発しましたが、その視点はすっぽりと無視されているようです。

2008-09-03

図像学入門

図像学入門―目玉の思想と美学』(荒俣宏)を読みました。アラマタワールドを垣間見せてくれますが、この程度だと、まだまだこの博覧強記な巨人の一部でしかないんですよね。恐ろしい。しかも日常生活にはまったく役に立たないと来ている。

本書はものを見るのに必要な、さまざまな知識や考え方についての「入門」編です。「入門」とはいうものの、巨匠アラマタならではの濃さ。親切ではあるのですが、その博識がなければちっとも入門にはならないだろう、という感想を持ちました。ただし具体例に即して、筆者のものの見方を説明していきますので、追体験をしてみると「なるほど」と心地よくなれますが、一人でやってみろといわれると作品を前にして立ちすくんでしまいます。

第一部は「絵は観るな! 読むべし」と題されています。ヨーロッパ中世の、リアリズムが浸透する以前の絵を見る場合、そこに描かれているものを観るだけではなく、その絵に込められた意味を汲み取らなければいけない、と主張されています。

第二部は「図像学はおもしろい」と題されて、この本の中心部分になっていて、図像学の研究を講義形式で4講書かれています。その極意は「バカ・ボケ・パー」。絵の観方には、バカ・ボケ・パーの3つがあって、まず、ただバカ正直に、そこにあるものだけを観る「バカ」の観方。絵の背景にある「意味」を見出すべく、作者によって提供されたものをそのまま観る「ボケ」の観方。そして、絵画の描いているものを超えて別のゲシュタルト的次元に至る「パー」の観方。

第三部は「光学原論」。アートとしての写真ではなく、写像機という機械の持つ可能性や感じ取れる光を追求する写真家たち(半ばマッドサイエンティストのような人たちだ)をインタビューしています。それぞれ面白い人たちなのですが、おおよそ共通するのは現代風に規格化された写真よりはより人間の肉眼で捉えられる感性に近いものを追求しようという姿勢と、その形式としてレンズやフィルタを通さずに光を集約する、という技法です。「写真」という工業製品にありながらそこに「絵画」を表現する内容と生っています。

本書では芸術という分野に切り込んでいます。芸術はなんとなく崇高なもののような感じがしてしまうから、あえて図像(ずぞう)という言葉を選んでいるところもあります。絵画を見てわかるということの意味するものは、その作品に対して作者が意図したものを正確にトレースできるかと言うものではなく、さらにその先に、作品に意味を与えることさえ現代美術は要求しているようです。

「バカ」の観方は誰にでもできます。林檎が描いてある、花が描いてある、などなど、そのまま受け取ればよいのです。しかしそれ以上の観方となると、その描かれたものに込められた隠喩を汲み取らなければ絵画は「読め」ません。そこには巨匠アラマタならではの博覧強記が生きてくるのでしょうし、芸術鑑賞者のたしなみなのでしょう。例えばキャンバス下方に髑髏が描かれていたらそれは未来に向かっての頽廃・破滅の隠喩であるとか。膨大な意味づけの体系を身につけていない人ではこうした観方はできません。さらにはそれを飛び越えて、作品自体に鑑賞者側からクリエイティブに意味を付与するなど、よっぽど通暁していないと無理なのではないかとさえ思えてしまいます(単純に僕には西洋美学の素養がないだけかもしれません)。

しかしそうした観方を示唆してくれるので、まさしくこれは「入門」なのでしょう。そして著者の目を通して作品の観方を追体験するのは愉快なものです。

2008-09-02

グラン・ヴァカンス

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉』(飛浩隆)を遅まきながら読み、すごいSF的世界に圧倒されました。ただし、設定には少しSF的古さも残っています。

ネットワークのどこかにある仮想リゾート「数値海岸」の一区画で、人間が訪問しなくなってから1000年、AIたちは正体不明のプログラムである「蜘蛛」に襲撃される、というのが本書のあらすじです。これだけだとなんだかありきたりの使い古された設定に感じられますが、著者自身が書いているように「清新であること、残酷であること、美しくあること」を心がけて書かれた本書は、使い古された設定がとても新しく感じられます。

さて、陳腐なファンタジー作品は常に「ミドルアース(中つ国)」を再発明しようとしてしまいます。すでに指輪物語で完成された世界をもう一度作り直して新しい世界をつくろうとする、車輪の再発明のような努力をしてしまい、結果としてミドルアースには及ばない世界が出来上がる、という感じです。

本書はファンタジーではないけれども(とも言い切れないけれども)、はたして車輪の再発明だったのか。僕は決してそうは思いません。古い皮袋に新しい酒を入れている感じがしました。もっと単純な感想としては、グロテスクで、美しくて、切なくて、優しくて、残酷で、救いようがないです。基本的には闘争の話で、主人公たちは圧倒的な力の差でやられてしまいます。

そういえば高校生のころ、現代文の教師が「小説は読みはじめがつらい」といっていました。その世界にまだ没入できないうちは、手探りで世界を自分のなかに構築しないといけないからでしょう。その意味では本書はつらい本でした。世界がファンタジー作品のように完結していて、ネットワーク上のAIたちが主人公というように現実離れしているからです。僕ははじめのうちは人工生命を研究している友人に教えられた世界観をイメージしたり、自分の持っているコンピュータの知識を総動員しながら読んでいましたが、読み進めるうちに本書の世界に対する理解が深まり(魔法的な説明不可能なこともありますが)、世界を自分のものとすることができました。そうなるともう抜け出せません。冥府魔界とはこういうのを指すのでしょう。

3部作らしいので、次を読みたくなりました。

2008-09-01

仕事とセックスのあいだ

仕事とセックスのあいだ』(玄田有史 斎藤珠里 朝日新書)を読みました。僕はエロい話は大好きですが、残念ながらこの本はエロい話ではありません。まじめに労働経済学者とAERAの記者さんが一章ずつ書いた、労働とセックス(や出産)についての本です。

セックスについて語ることは僕は非公式には得意なのですが、公式には苦手です。本書で分析される対象に入るということもあるのですが、やっぱり後ろめたいです。なので、おおっぴらにセックスと労働のありかたについて書かれた本はそれだけで尊敬してしまいます。本書では主に玄田さんが統計的な分析を綿密に行い、斎藤さんがジャーナリストとしてやや主観的に報告をする、というかたちをとっています。

ですが各論から言ってしまうと、いろいろと疑問が出てきます。出発点がAERAの記事だからオフィス・ワーカーが対象となるのはどうしようもないとして、統計的分析にはそれほど疑問はわきません。しかし斎藤さんの章では、出産数が増えていて、社会政策として多産をサポートしているフランスのオフィス・ワーカーと日本のオフィス・ワーカーはずいぶん絶対数が違うだろうとか、フランス農村部はどうなっているのだろうとか、疑問は尽きません。福祉における北欧諸国に対する典型的な視点と同じように、単にうまくいっている国(フランス)を賛美しているだけのような気もします。

職場とセックスに関しても、セクシャルハラスメントの問題とか、長時間労働とか、ひいてはGDPの様子とか、これを読んでも個人単位でどうにかできるものは少ないでしょう。政策提言の本だったらよいのでしょうが、あくまでこれは新書ですから。職場の雰囲気やストレスや仕事のやりがいなどと個人のセックスに密接な関係があるという事実だけでも厳粛に受け止めるべきでしょう。

まあ、ワーク・ライフ・バランスについて考える一助となる本ではあります。とは言うものの仕事(報酬)は長時間でも過酷でもいいから欲しいし、楽しくセックスもしたい(人もいる)し、現在の日本はにっちもさっちもいかない状況にいるのではないか、と思います。特にオフィス・ワーカーにとっては。

ところで、別のソースからのうろ覚えでは、1970年代の会社では職場結婚が7割あった、というような記憶があるのですが、そういえば職場恋愛はしたことないな。職場に気になる異性がいると半数以上は仕事へのモティベーションがあがるらしいので、職場恋愛してみたいな(非公式発言)。

2008-08-30

ケータイ小説のリアル

ケータイ小説のリアル』(杉浦由美子 中公新書ラクレ)を読みました。先日読んだ『ケータイ小説は文学か』よりずっと面白かったです。というのも、綿密なインタビューやケータイ小説作家や編集者、出版社、書店員という本を作って売る一連の流れのほとんどすべての領域からのコメントも取っている点が一番の理由ではないかと想像するのですが、二番目に、筆者がきちんとケータイ小説を読んでいると想像される点です。

本書によると書籍になったケータイ小説は地方で売れる、との事。ケータイ小説の最近の傾向としては少女マンガに近い内容で(だから中学生の親も買い与えやすい)、恋愛への信仰が残り、東京に憧れを持たない地方都市での売れ行きがよい理由だろうと推測しています。

また、かつてのレイプ、援助交際、人工妊娠中絶は減少傾向にあるということも面白かったです。こうした事柄には読者が親近感を持てないのでしょう。それでいて中心購買層はセックスに関心があるので、昔ながらの少女マンガのような「少女的リアル」な内容が好まれるとのこと。それにプロの作家が書くとそうした「少女的リアル」が損なわれたり、作家と読者が一緒になって作る感覚が薄れるため、素人作家の日常体験を元にした内容となるとのことです。

それにケータイ小説を少女マンガや少女向けライトノベルとの流れで説明をつける点も面白かったです。タレント暴露本や大人の恋物語とは一線を画した風潮は、中心購買層となる読者の妄想とマッチする、ということです。何も読者側だけの話ではなく、作家のほうも妄想たっぷりに自己満足的に書くことで読者の妄想との共感を得ていく、というプロセスを辿るという説明には納得しました。僕は少女の妄想を理解していないので、納得だけしてさしたる評価はできないのですが。

さらには作家の敷居が低くなったことにも言及されています。実質のところは曖昧としている調査ですが、一時期最も書かれるブログは日本語によるものである、という発表がありました(それはポスト数のみによる調査だったので、各国の文化も考慮して文字数で調査したら違う結果が出ると僕は信じています)。そうしたブログでの物書きの延長としてケータイ小説を捉えているところも感心しました。ブログには本当のことを書く必要もないし、匿名で書く風潮もあります。それがケータイ小説作家たちがメディアに顔を出さない理由としています。

当世を闊歩するブログ、SNS、恋愛ゲーム、少女漫画、BL、二次創作などとの関連で考えるともっと面白いことになりそうです。あとはケータイ小説世代の日常的なメールのやりとりなどからテキスト分析や会話分析などをしたりすると僕は萌えますね。

本書を読んで、今後のケータイ小説はより「一人一生涯一小説」的なものになりそうな予感がしました。功成り名をとげたおじいさんの自伝ではなく、妄想真っ盛りな人たちの書く半自伝です。そうすると作家はなかなか育たないでしょうが、本は売れます。それと読者とのコラボレーションで作られる書籍も増えることでしょう。今までの作家は常に孤独な作業を強いられましたが、それも複数人で励ましあったり感想を述べあったりしながら書く風潮となることでしょう。才能ある作家の書く見事な文章に出会いたければ、今後しばらくの間は大丈夫でしょうが、数世代後のことを考えると薄暗い気持ちになります。

2008-08-29

ケータイ小説は文学か

ケータイ小説は文学か』(石原千秋 ちくまプリマー新書)を読みました。実際ケータイ小説が文学であろうとなかろうと、僕はあまり興味ありません。少女小説やコバルト文庫の流れに乗せられるものなのか、ライトノベルとの接近は今後ありうるのか、といったところが僕の興味です。

本書では「ケータイ小説は文学か」という問が意味をなさないことを指摘し、「ケータイ小説が文学への入り口になってくれればそれでいい」という言い草の欺瞞性を説き、「リアル」と「リアリティ」の区別をして、ケータイ小説の「少女的リアル」を指摘しています。結論としてはケータイ小説はポスト=ポスト・モダン小説という見地が見られるとのこと。

とまあ、あまり面白可笑しくない本だったのですが、ちくまプリマー新書でロラン・バルトとかジャン・ボードリヤールとか、ミシェル・フーコーとか持ち出して議論を進めるのには、編集部のストップがかからなかったのが不思議です。

でもケータイ小説のアイテムが列記されているところには感心しました。
・「誤配」が恋の特徴である(誤った相手と結ばれること)
・レイプされた少女は自分を「汚い」と感じること
・「中途半端」な態度が一番責められること
・「未練」が物語を複雑にすること
・告白することに重要な意味があること
・男には女を守る義務があること

ポスト=ポスト・モダンですが、筆者はフーコーの「真実のディスクール」や「パレーシア」という概念を取って論じています。フーコーは、性に関する言説がその人の「真実のディスクール」となったのが近代という時代である、といっています。そして自分だけの真理を語ることによって普遍的な真理を相対化・複数化・多元化するのが「パレーシア」です。ケータイ小説では自分の体験という真実・真理を元に書かれたことにされていますが、そこで性に対して働いていた「真実のディスクール」が空洞化して「パレーシア」の複数性を失ってしまった、というところからポスト=ポスト・モダンとしています。

ちょっと穿ちすぎじゃないですかね。議論のための議論という感じがして、僕は納得できませんでした。

2008-08-28

怖い絵

怖い絵』(中野京子)を興味本位で読みました。

本書で取り上げられている「怖い絵」とされる名画は、
・ドガ『エトワール、または舞台の踊り子』
・ティントレット『受胎告知』
・ムンク『思春期』
・クノップフ『見捨てられた街』
・ブロンツィーノ『愛の寓話』
・ブリューゲル『絞首台の上のかささぎ』
・ルドン『キュクロプス』
・ボッティチェリ『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』
・ゴヤ『わが子を喰らうサトゥルヌス』
・アルテミジア・ジェンティレスキ『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』
・ホルバイン『ヘンリー八世像』
・ベーコン『ベラスケス<教皇インノケンティウス十世像>による習作』
・ホガース『グラハム家の子どもたち』
・ダヴィッド『マリー・アントワネット最後の肖像』
・グリューネヴァルト『イーゼンハイムの祭壇画』
・ジョルジョーネ『老婆の肖像』
・レービン『イワン雷帝とその息子』
・コレッジョ『ガニュメデスの誘拐』
・ジェリコー『メデュース号の筏』
・ラ・トゥール『いかさま師』
です。本物を見たのは多分4点くらいしかありません。

なるほど解説付きで鑑賞すると怖いな、と思わせられますが、やっぱり怖いのは描かれたことの怖さよりも描かれなかったことの怖さだと思いました。著者である中野さんの思い入れたっぷりな記述には多少辟易させられますが。

一見して怖い『わが子を喰らうサトゥルヌス』、『ベラスケス<教皇インノケンティウス十世像>による習作』や、一見して不安にさせられる『思春期』のようなものもありますし、絵の背景やその社会情勢を知って怖さを覚える『エトワール、または舞台の踊り子』や『グラハム家の子どもたち』のようなものもあります。なんとまあ一枚の絵画とは色々なものを語りかけてくるな、という感じです

一番僕の印象に残っているのは、ジェリコーの『メデュース号の筏』です。この作品の前で30分ほど立ち尽くしてしまいました(実際にはソファに座って鑑賞していたのですがね)。

この作品のことはジュリアン・バーンズの『A History of the World in 10 1/2 Chapters』ではじめて知ったのですが、それ以来何かにつけて周辺の事情を調べていました。そして実物を見るとその迫力に圧倒されました。大スクリーンでアクション映画を見ることに慣れている現代人である僕でさえ圧倒されたのですから、19世紀初頭からこの絵に接する人はいったいどんな感想を持ったことだろうと想像をめぐらせてしまいました。この絵の場合は、決して背景を知っている必要もありません。ギリシャ・ローマ的な肉体が描かれていますので、それほどグロテスクなものではないのですが、絵に込められた何かが見るものを圧倒するのです。こう言ってしまっては元も子もないのですが、絵を見たことのない人にはわからないでしょう。

きっと他の作品についても同じことが言えるのだと思います。歴史を知らなかったり絵画に親しみがなかったりすると、この本だけでは絵画は見開きになってしまうか小さくなってしまいますし、説明もこれだけでは不十分かな、という感想です。

中野さんの『怖い絵2』は読むか読まないか気分しだい(多分)ですが、久世光彦さんの同名の本は読んでみようかな、という気になぜかなりました。

2008-08-27

眠れなくなる宇宙のはなし

眠れなくなる宇宙のはなし』(佐藤勝彦)を読みました。僕は不眠気味なので、眠れなくなるのは困るのですけれど、既知のことが多く、すらすらと途中睡眠を挟みながら読みました。

本書は知られている限り昔の人たちがどのように宇宙を見てきたか、というところからはじまり、その後の宇宙観の変遷と天文学の進展や観測器具の進歩、宗教との絡みなどを書いています。最終的には現在の宇宙論に行き着くのですが、ページ数の縛りもあってか新しいものほど内容は薄くなります。宇宙論がどのようなものなのか、というよりも、人は宇宙をどのようにみてきたのか、という内容の本でした。人と宇宙の関係を描いているといってもよいでしょう。

わくわくしますね。もともとは神様の領域だった宇宙がサイエンスの領域になり、最新の宇宙論ではサイエンスの領域でもあり半分は信念や信仰といってもよいくらいの場所になっています(超ひも理論なんて、平凡な頭の人間には観測も想像もできるわけないじゃないですか)。かつての素朴なような宇宙論も決して無知によるものではなく、当事最先端の思想や科学を取り入れたものであるというのは、改めて実感させられました。それに宗教とサイエンスの関係も考えさせられます。

それにしてもまた出たな、ダークマターとダークエネルギー。日曜日の朝、何とか戦隊に敵対する勢力としてふさわしい名前ですね。

2008-08-26

数学で犯罪を解決する

数学で犯罪を解決する』(キース・デブリン、ゲーリー・ローデン)を読みました。本書は数学を用いて犯罪を解決するアメリカドラマ「NUMB3RS」の舞台裏となっている数学を解説する本とのことです。僕はドラマを見ないから知らないけれど、ずいぶんな人気のようで。原題は『THE NUMBERS BEHIND NUMB3RS :Solving Crime with Mathematics』です。

僕は実生活にそれほど数学を役立てているわけではないけれども、興味本位で数学は好きですし、物事を抽象化し、モデル化するという面ではそこそこ考え方として役立っているような気がします。実生活の裏側でどれほど役立っているかはよくわかりませんが、きっとかなり役立っているのでしょう。

ところがこの「NUMB3RS」はフィクションですが、どうやら実際の犯罪捜査にも直接的に数学を役立てているケースはあるようで、ドラマの数学的な検証もかなりきちんとしたものとのこと。実際の犯罪捜査に数学が役立つなんてことがありうるのですね。で、解説となっている本書を読みました。地理的プロファイリング、データマイニング、画像エンハンス、ベイズ確率、暗号理論、ゲーム理論、ネットワーク理論、DNA鑑定等々、厳密には数学に属さない(これって統計学でしょみたいな)ものも結構ありますが、それぞれそれなりに役立てている様子です。個人的にはちょっと無理があるかなと思うところもありますが(特に僕はネットワーク理論やゲーム理論関連が好きなのですが「これはちょっと」という内容でした)。

感想といえば、結構初歩的(というか、詳細な説明がされていないからでしょうね)なモデルで役立ててしまえるのだな、ということです。数学はモデルとそこに投入するデータが正確な限り正確な答えを出します。人間の世界はそこまで厳密ではないから、範囲を絞り込んだりある程度曖昧でもよいから補助となればよい、くらいな使われ方のようですが、ちょっとした驚きです。もちろん「NUMB3RS」はまさしく言葉どおりサイエンス・フィクションなので、現実に使われるかどうかというのは可能性として大である、という程度だと思いますが。

あとは、本書で解説されている数学理論はごく一部のエッセンスですし、丁寧な解説があるわけでもないので、わかっているひとには物足りなく、わからないひとにはわからないまま、という感じもします。

それにしても、科学捜査が精密化し、数学まで捜査の応用範囲になってしまうと、古典的アームチェア・ディテクティブなど出番がなくなってしまいそうで、ともするとこれからのミステリは舞台設定がみんな過去になりそうな予感がしてなりません。ちょっと寂しいことなのか、それともミステリで活躍する人種の幅が広がり喜ぶべきことなのか。ちなみに僕は「理系ミステリ」と呼ばれるものではあまり数学は活躍していないな、という感想を持っています。

2008-08-25

スーツの神話

べつに僕の配偶者が「ス! ウ! ツ!」な人というわけではありません。

スーツの神話』(中野香織 文春新書)を読みました。17世紀頃から続く男性服の歴史のなかに現代のスーツを位置付けて、その起源から服飾史を辿って現代の様式にまで至る本です。

面白いのははじめに問いを立て、中で詳細を叙述し、終わりにはじめに立てた問に答える、という形です。17世紀頃から徐々に変わってゆく男性のファッションをめぐる考察が中心となっていて、そこはそこで面白いのですが、一番面白いのはやっぱり現代ですので、問いと答えだけ読んでも面白いです。

現代のスーツの原型は17世紀のイギリス貴族たちや社交界から生じた、という仮説は刺激的です。その論拠となるところは多少論理の飛躍はあるものの充分説得力を持ち(例えば上着から下のシャツを少しだけ出す流儀は18世紀と変わらないとか、その他いろいろ)、その変遷も単なる奇抜な発想からだけではなくて、伝統とそれに少しだけ加えるアレンジによって徐々に変化していったとするのも納得です。

つまり、その歴史自体が答えの一部となるのですが、スーツを着た男性はなぜ信頼が置けそう(で、セクシー)なのかというのは、連綿と続く伝統にほんの少しのスパイスを利かせているからである、ということだそうです。その伝統の中におかれる事がなかった女性はスーツ(いわゆる男性会社員が着るようなスーツです)を着てもどこかしっくりとしないし、季節を問わずにスーツを着るのも王や貴族の権威をその背中に担っているからである、としています。

もちろんファッションなどという奇妙奇天烈なものは正確な歴史論証にはむかない、どことなく移ろうもの、漂うもの、個人のセンスによって転覆するものだから、著者の男性服飾史はひとつの見方です。しかし面白ければよいという僕のようないい加減な読者だと、この本は充分に面白いのです。

一部納得できないのは、本書では触れられていませんが、魅力的な男性の形が変わってきたのはなぜか、というあたりです。中世の「なで肩でっ腹短足」が魅力的だった頃から、いきなりルネサンスを経て古代ギリシャ・ローマ的筋骨隆々黄金比のプロポーションが魅力的になったのか、一切議論されていません。書くまでもないことなのかもしれませんが、和装であれば今でも「なで肩でっ腹短足(加えて大顔)」のほうが押し出しがよいですが、その歴史を切り捨てた洋装はなぜ切り捨てることができたのか、僕は疑問を持ちました。

僕? スーツ? しばらく着てませんよ、そんなもの。

2008-08-22

永遠の森

永遠の森 博物館惑星』(菅浩江)を読みました。

さて、独り言モードに移って、僕は「美」について語らせると長いです。そもそも美とはなんぞやとか、身近なところで言えば美しい音楽とは何を備えているのか、とか現代音楽は何をもって美しさを表現するのか、とか。どうでもよいし長いので書きませんが。

結局答えなんて出ないんです。有史以前から人間は美しさを追及しているものの、結局のところ到底何らかの解答は得られず、結果としての美しさを得ているに過ぎません(そうでないのは、せいぜいが自然科学での人間原理的な美しさくらいなものでしょうか。信仰に近いともいえますが)。

まあ独り言はさておき、美しさの殿堂で働く人たちの人間くささが本書の白眉たるところだと思います。右往左往する調停役はいるし、いやな上司も生意気なルーキーもいるし、頼りになる同僚もいる。「美」という人間を経由しなければ感知できない存在でありながら、まるで人間を超越しているかのような存在に触れる学芸員たちの、そういったところが素敵な小説たらしめているのでしょう。

ちょっと難をつければ、データベースに直接接続されている割にはものすごく伝達効率の悪い「言語」というインタフェースに頼らなければいけない登場人物たち(一部例外を除く)が不思議です。電脳空間上ではもう少しインタフェースは自由であって欲しいな、というのが僕の望みです。

カンボジア・0年

カンボジア・ゼロ年』(フランソワ・ポンショー)を読みました。原著は1977年の出版ですので、クメール・ルージュの政権がまだ存続して、対外的には国内政治を秘密にしていたころの出版物です。出版された当時はあまりにもショッキングな内容だったため、相当なバッシングを受けたようです。しかし30年経ってみるとほぼ正しいことがわかってしまうのですから、先見の明というか眼力の鋭さというかはすごいですね。

本書の史料的価値は主に難民からのインタビューと民主カンプチアの公的放送とを比較して、できるだけ広範囲な出自からの証言を取ろうと精査しているところにあると思います。古い書籍のため、史実として新しく知ることは多くありませんでしたが、これまで僕がクメール・ルージュを理解しようとして読んできた書物の中の多くは本書を参照しているので、できるだけ一次資料に近いところに接するという意味で大変面白い本でした。

もちろんインタビューをただ編集して「事実はこのようなものと推測される」というだけの本ではありません。筆者なりの分析もありますが、すでに出版から30年経過しているのでそれほど斬新な分析ではありませんでした。しかし限られた資料だけからこれだけの内容を叙述するには大変な労力と能力が必要であろうと推測されます。筆者、いい仕事しましたね。

難民たちの証言というのは充分慎重に検討する必要があるというのは、きわめて当たり前のことです。避難してきた人の立場によっては現政権を批判するのが当然ですし。その当たり前なことをしっかりとやっている筆者の労力たるや、歴史家やジャーナリストは筆者(宣教師です)に見習うべき点が多いと感じました。決してプロパガンダに流れず(本書を引用してプロパガンダに利用することはとめられないにしても)、あくまで冷静で慎重です。

古い本ですが、当時のことを当時の人が綴った本として、僕は絶賛します。

2008-08-21

涼宮ハルヒの憂鬱

涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流)を不覚にも再読しました。

ご存知の方が多いと思いますが、萌え要素満載の本です。というか、ほとんどが萌え要素から構成されているといってよいかも知れません。これに「猫好き」「幼馴染」「関西方面方言」「姉」などの属性が加われば最強(?)といっても過言ではないでしょう。

ちゃっかりSF風味だし、そんなに物語に破綻も無駄もないし、文章だってそれなりにきちんとしたものだし、ハルヒ侮りがたし、という感じですね(しかし「なんちゃってSQL」はいただけません)。そもそも角川スニーカー文庫とか富士見ファンタジア文庫とか電撃文庫とかソノラマ文庫とか、きちんと売れる本を出しているわけだし。ジャンルは少し違いますが、僕もかつてD&D(Dungeons & Dragons)とかRQ(RuneQuest)とか、国産ではソード・ワールドとかのTRPG(テーブルトークRPG)にはまって、富士見書房の翻訳物やリプレイ集などを結構読んでいたので、親和性が高いのかも知れません。まあ好みはありますが。

先日読んだ『L文学完全読本』にはコバルト文庫やX文庫の変遷が書かれていたのですが、それと同じことがこうしたレーベルの本でも分析できるのではないか、と思いました。僕はよくその区分がわかっていないのですが、こういう形式の小説を1980年くらいから小説形式の変化や中心読者層をトレースして、メジャーな文学賞をとっている作家とリンクさせたりしたら面白そうだな、と思いました。学生の卒論とかなら、取り組み甲斐があると思います。

2008-08-19

物乞う仏陀

物乞う仏陀』(石井光太)を読みました。カンボジア、ラオス、タイ、ベトナム、ミャンマー、スリランカ、ネパール、インドの障害者を訪ね歩いたルポタージュです。

あらかじめ断っておきますが、「障害」は人によっては「障碍」と書いたり「障がい」「しょうがい」と書いたりしますが、僕は「障害」と書きます。概念として「インペアメント」「ディスアビリティ」「ハンディキャップ」といった線形モデルがずいぶん前にWHOから出されていますが、障害者団体によってはそれは医学的なモデルであると批判して、障害は社会的に規定されたものであるとする社会モデルを提唱していたりします。つまり日本語で「障害」と書いたときに意味するものは多様だ、ということで、僕はその多様さをすべて「障害」という表記で受け止めるつもりはありません。

さて、筆者の取材対象は障害者ですが、その多くは乞食や物売りとなっています。それがタイトルの「物乞う」になっているわけですが(「仏陀」は微妙にわかるようなわからないような)、国や地域によって本当に多種多様な生活があるものだと刺激を受けました。僕は障害者の介助をして生活費と学費にしていたし、肉親にいわゆる障害者がいるし、さらには「施設などに入らず、社会的役割を担い、経済的・精神的に自立して生活しようとする運動」の調査をしていたこともあって、その分野は興味本位ではない理解をしているつもりでいたのですが、東南アジアから南アジアにかけての障害者(それが先天的なものであろうと後天的なものであろうと)の実態を知ることはありませんでしたから、筆者の限られた見聞から得られた情報とはいえ、まさに刺激でした。

例えば障害者と社会生活との繋がりひとつとっても、筆者の出会ったカンボジアの傷痍障害者たちはあっけらかんと仲間同士で楽しく乞食をして、その稼ぎで酒を買い、買春をして使い切ってしまうとか、タイの全盲の障害者はおそらくマフィアとのつながりを持って路上でカラオケを歌って稼ぎにしているとか。近代化・都市化された地域での障害者はおおむね差別や偏見にあっているけれども、農村ではそうではなく地域社会での生活手段を割り当てられていたり、またはその逆に都市ではないからこそ無知や偏見からまったく見殺しにされていたり、筆者の見た実情は様々です。

もちろん僕の目から見たら苛酷な生活環境です。かつて僕が調査して回ったときにも、こうした状況には出会いませんでした。しかしなぜか生活が光っているように見える記述が多いのです。例えば家族を養うために乞食をする、買春をするために乞食をする、子供を学校に行かせるために乞食をする、れっきとした職業として乞食をする。そうした人々の中に何が宿っているのか、本書の文面からはうかがい知れないものさえあります。金銭的な面でなくとも、日常生活では冗談を言い合い、他愛もない世間話に興じ、笑い転げています。

なお、本書の最後(ムンバイ/ボンベイ)ではとても個人では扱いきれないほどの問題が提供されていました。マフィアが乳幼児を誘拐する。誘拐した乳幼児をレンタチャイルドとして乞食に貸しだす。レンタチャイルドは5歳頃に手や足を切られるなど何らかの障害を負わせられる。障害者として乞食になり、マフィアがあがりを掠める。マフィアも元をただせばストリートチルドレン出身だったりする。こうしたループで循環する、という問題。ただ問題が提供されるだけで、どうしろというものではないですが、どうにもしないというわけでもなし。ただただ「そこにそういうことがある」と認識するだけです。

本書を僕はとてもよい本であると評価しています。筆者の体当たり的な取材は視野が狭くなる危険性もありますが、本書に書かれている限りでは、筆者はきちんと取材対象と付き合っています。例えば友人として、協力者として、恋人として。こうした付き合い方や視点の置き方はフィールドワークの技法から言えば常軌を逸しているかもしれませんが、これもひとつの方法であると、僕は断じます。

あと「超個人的クメール・ルージュ祭り」がらみですが、現在のカンボジアでポル・ポト時代について触れてはいけない風潮になっているのは、当事を生きのびた人は直接にせよ間接にせよ粛清に関わっている可能性が高いためである、ということをおぼろげながら理解しました。他の書籍でも触れられてはいるのですが、本書の障害者を取材対象とした記述でも、はっきりと「何人殺したんだ?」という取材を仲介した人の発言が書かれていますので。

2008-08-18

L文学完全読本

L文学完全読本』(斎藤美奈子編・著)を読みました。いや~、この編者好きです。

L文学の「L」はレディ、ラブ、リブ、だそうです。おにいさんからおじさんに近づきつつある(と自分では思っている)僕は「L文学とは何ぞや」などと、まずはじめに考えてしまうのですが、それほど明確な定義はなされていません。女性作家による女性が主人公の文学、というくらいの意味ですが、それを理解するためのフレームワークが秀逸です。

とりあえず編者によるL文学の定義らしきものを引用すると、

それは少女小説を祖先とし、言語文化においてはコバルト文庫を踏襲し、物語内容においてはリブの感受性を受け継ぎ、先行するコミックやドラマやポップスなどの養分を吸収し、なんやかんやのあげく、90年代の後半に顕在化した
とのことです。

本書では、L文学に特徴的な本の装丁が語られます。『赤毛のアン』とか『小公子』とか『若草物語』とかの「少女文学」名作の系譜が語られます。L文学を理解するためにコバルト文庫やX文庫の作者の変遷やスタイルの変遷が語られます。L文学に関係する音楽や漫画やTVドラマが編年的に語られます。L文学の担い手たち26人に関するコラムが掲載されています(ちなみに僕の配偶者が好む作家が多かった)。ブックガイドも250冊と充実しています(ちなみに僕の既読の本は少なかった)。

いや、満喫させていただきました(おなかいっぱいになりました)。「女心のわからない男」として、L文学に精通するためには長く険しい道が控えていることもわかりました。そして、別に理解しなくても良いや、とあきらめかけている自分がいることもわかりました。いやはや。

2008-08-17

ポル・ポトの掌

ポル・ポトの掌』(三輪太郎)を読みました。以下では結構物語のネタをばらしているかもしれないので、気にする方はご注意ください。

主人公の日本の生活と現代のカンボジアがかわるがわる描かれます。主人公は大学在学中に株式の売買を覚え、株式のディーラーを職業とすることになります。しかし1990年くらいを境に主人公の身につけた株式売買の勘と理論は暗礁に乗り上げ、主人公の幼馴染かつライバルがカンボジアで命を落としたことを知り、カンボジアへと旅立ちます。

たいした読後感は持てませんでした。単純な二項対立の連続で、単純な暗喩の連続。あまりにも内省的過ぎる主人公やその周りの人たちとの会話。接地点があやふやな印象を受け、理想に駆られて書き綴った小説、という感じがしました。

二項対立は単純に言うと自由主義経済と社会主義経済。未来予測の確実性と蓋然性。真理の「アル」「ナイ」。それらをごた混ぜにして、あたかも哲学論議のような主人公の内省と登場人物たちのとの会話を軸に物語りは進んでいきます。

舞台としてカンボジアを選んだ必然性も、極端な社会主義政策を採った民主カンプチアのポル・ポトという魅力的な人物を選んだ、というだけのことに思えてしまいます。小説内では古代遺跡をめぐったりしていますが、たいした必然性(あるいは偶然性)はないように思えます。

タイトルとなっている「ポル・ポトの掌」ですが、この作品の一番の山場はやはりポル・ポトという人物にあるのでしょう。主人公とポル・ポトとの会話は短いですが、経済について、人の幸福について、宗教について、歴史をみる視点について語り合います。この場面だけを見れば非常に壮大な小説のようですが、そこにいたるまでの設定には無理があるように感じました。

すごくちょっとした発見。小説の面白さは細部にも宿る、ということですごく細かいところに感心したりするのですが、カンボジアではガソリンが黒い、ということが驚きでした。日本では通常の燃料用ガソリンはオレンジ色なので。

2008-08-16

夜に猫が身をひそめるところ

夜に猫が身をひそめるところ Think―ミルリトン探偵局シリーズ〈1〉』(吉田音)を読みました。順番は逆になりましたが、『世界でいちばん幸せな屋上』に続いて吉田音さんの作品(とされる)を読むのは本書で二冊目です。

『世界でいちばん幸せな屋上』もそうでしたが、本書もスタイリッシュな本です。ミステリともファンタジーともつかない小説だし、写真も装丁も綺麗(まあこれはクラフト・エヴィング商會の作品に一貫していることですが)。優しい語り口でどうしても好感を持たされます。

筆者である(とされる)吉田音さんを中心とする物語、菓子職人の物語、ホルン奏者の物語などが錯綜して、それらを一本の糸が紡ぎあわせるのですが、その一本の糸は猫のシンク。本書には多くの猫が登場しますが(写真つき!)、猫好きなら必読とまでは行かないまでも読んで愉快になれることは確実です。

ですが登場人物たちは猫のシンクによってひとつの物語になっているかもしれないことはわからず、謎は謎のままそれぞれ別々のストーリーが語られます。メタ物語とでも言うのでしょうか、そもそも作者がメタな存在だから当然といえば当然ですが。さらに僕は猫のシンクの「おみやげ」のうち、多くを語られることのなかった物語までも想像して楽しみました。ミルリトン探偵局の自家版です。

まさに幸せ色の小説とでもいうべきで、読み終わるまでもなく幸せな気分に浸れるのですが、さて『世界でいちばん~』とこちらと、どっちを先に読んだほうがよいか後になって悩みました。結果として一冊だけ読むなら『世界でいちばん~』を、二冊とも読むつもりなら『夜に猫が~』から読むのが、楽しみ方としては順当かな、と思います。

一箇所だけ苦情をいうなら、僕の拙い経験だけかもしれませんが、プロの楽器演奏者は本番前に自分の楽器を磨いたりしないと聞いたことがあります。僕が教わったところによると楽器を磨くのは練習のとき。本番前に磨くと万が一調整を狂わせてしまったときに取り返しがつかないことになるから、ということです。まあファンタジーでもありますし、重箱の隅をつつくような話ですが。

世界でいちばん幸せな屋上

世界でいちばん幸せな屋上 Bolero―ミルリトン探偵局シリーズ〈2〉』(吉田音)を読みました。本書はクラフト・エヴィング商會の四代目を期待されている(とされる)吉田音さんが書いた(とされる)ファンタジーのような、ミステリのような、童話のような、ちょっとだけ写真集のような分類しがたい本です。

クラフト・エヴィング商會の本を読むのは数冊目(よく覚えていない)ですが、吉田音さんの著書ははじめてです。順番どおりに『夜に猫が身をひそめるところ』から読もうかとも思いましたが、人からこちらをおすすめされたので、まずはこちらから読みました。

分類のしがたい本らしく、感想も書きにくいです。ただスタイリッシュで、幾本もの糸が縒り合わされて、事件らしい事件もなく、それでいて優しくて満足感の残る小説でした。

ファンタジーの伝統に従って時間の飛躍もあります。ミステリの伝統に従って謎もあります。それだけではなく、登場人物(シナモンの彼とか、その上司とか、レコード店の店長とか、ラジオのパーソナリティとか、歌わなくなった歌手とか、もちろん主役級の人物とか)が、とにかく魅力的なのです。この中の一人とでも友達になれたら、ささくれた僕の心も少しだけ優しくなれるのではないか、と思わせるほどに。

一作目も読もう。

2008-08-15

燃えるスカートの少女

燃えるスカートの少女』(エイミー・ベンダー)を読みました。

著者の作品を読むのははじめてですが、図書館から取り寄せていやな予感がしたのです。独り言ですが、訳者は僕がかつて「二度とこんなもの読むもんか」とひとり駄々をこねた作品を訳した管啓次郎さん。彼によるジャン=フランソワ・リオタールの訳書を読んで、読めども読めどもさっぱり内容が腑に落ちず、その責は原文にあるのか訳文にあるのか僕の頭にあるのか判断できなかったので理解することをあきらめました。

さて、本書は11篇が収められた短編集です。しかも奇想天外で超現実的で、ストーリーらしいストーリーはありません。きわめて短い短編に心身を没入できるかで勝負(なんの勝負?)がきまります。

きわめて悪い先入観を持ちながら本書を読み進めて、「悪くないかも」「そこそこよい」「結構よい」「とてもよい」に変化しました。中盤で「何だこれは?」というものもありましたが、結局ほとんど休みもせずに読みきってしまいました。

哀しい、優しい、残酷、言葉にすると陳腐ですが、ほとんどの短編で身体の変調(カフカの『変身』みたいな)とセックスが現れますが、むしろ肉体的感覚な小説ではなく精神的感覚な小説です。想像力を刺激し、不思議な世界に連れて行かれますが、不思議な世界は案外現実的な世界との接点があって、振り返って現実世界を見るような感じです。

好き嫌いは激しく分かれるかと思いますが、現代アメリカ小説に抵抗がなければ読んでも損はないと思います。

2008-08-14

火怨

火怨 上』『火怨 下』(高橋克彦)を読みました。

読む前はきっと風土記とかを中心史料とした歴史小説だと思ったのです。ところが読んでみると(おそらく)中央史料をもとに想像力をふんだんに駆使して描かれた熱い男たちのロマンでした。熱い男は嫌いではありません。好きでもありませんけど。ただなんとなく『サラリーマン金太郎』の歴史小説バージョンを読んでいるような気がしてきました。

ヒーローたちが活躍することに不満はありません。古代日本の未開地(失礼)を小説にするとしたらそれに変わる方法はないでしょう。しかしひねくれた僕はどうしても、その裏で農作業にいそしむ人たちや、兵糧を確保する人、兵站を維持する人、女子供老人が気になって仕方ないのです。それを描こうとすると「蝦夷とはなにか」という壮大な研究論文が出来上がってしまうので、無理な話でしょう。

いっそのこと、これを小説と認めるか否かは評価が分かれますが『空海の風景』みたいに、半分は現代の視点を持った道への探索行としてしまったら、どんな小説が出来上がったでしょうか。想像するとなんだか楽しくなります。

もちろんあれこれ言ったけれども、『火怨』に不満はありません。圧倒的な筆力で中央の正史に挑んでいます。登場人物たちへの筆者の個人的シンパシーもあるのでしょうが、みな魅力的であっぱれいい男です。それに戦略的な描写も巧みに描かれています。侵略と自己正当化の歴史でもある中央の正史に対する挑戦として、とても素敵なものです。

はて、女性読者(信長の野望を好むような人を除く)はこの小説を面白いと感じるだろうか、という疑問を抱きました。

2008-08-13

対話篇

対話篇』(金城一紀)を読みました。

一読した感想は「恥ずかしい」です。しばらく反芻して「村上春樹さんに似ているな」、そして「哀しい」と感じました。

「恋愛小説」「永遠の円環」「花」という3つの短編が収録されています。一篇ずつ本を閉じながら読みましたが、小説のディテールを削ぎ落として(こういうことをするから「女心がわからない」といわれます)骨組みだけを取り出すとほとんど何も残りません。不思議な能力があったりどうしようもない偶然があったりといった仕掛けは残りますが、要するに恋愛そして死と直面するときに何を思い、感じ、行うかという、小説の王道です。

決して貶しているわけではありません。小説の面白さは骨組みにもありディテールにもあります。そしてこの作品はディテールがとても印象的です。

「会わなくなったら死んじゃうのと同じ」

とか、
「あした、死ぬとしたら、何をする?」
Kの手がノブから離れ、頭がゆっくりとまわった。僕とKの視線がふたたび交わった。
「半年前、ある人にそう訊かれたんだ。僕はこう答えた。『好きな人のそばで過ごす』」
Kの顔に、同情とも嘲笑ともつかないかすかな笑みが浮かんで、消えた。

とか、
「本当に間抜けな話だよ」鳥越氏は、情けない声で言った。「私は彼女のことを本当に忘れてしまったんだ。それも、初めは忘れることに痛みをともなっていたのに、次第に痛みをおぼえることもなく、それがあたりまえのように記憶を失い続けてきたんだ。あんなに愛していたはずなのに……」


絶妙な会話回しで、心の襞をなでられるような感触です。そしてそういう感触は僕にとっては「恥ずかしい」ものなのです。

少し独り言をしますが、僕は死と直面したことがあります。聞き伝えなのでいい加減な数字ですが、僕は呼吸停止約40分、心臓停止約5分という記録保持者です。幸い現在も生きていますが、そのときは医者からは絶望視され、両親ともにあきらめかけたそうです。蘇生したときも「何らかの障害は残ります」と宣言されたそうですが「女心がわからない」くらいの障害にとどまっています。おそらく恋愛もしたことがあります。

さて、恋愛や死と直面したときに何を感じ、思い、行動するか。案外素直なもので「ラーメン食べたい」とかかもしれません。そこにウェットな物語も生じるかもしれません。しかし現実は小説と同じくらいに奇なもので、「何もありませんでした」という一番非ドラマティックなこともあります。そのたくさんの可能性のうち、小説に適したものを選択せずには小説として成り立ちません。そこに「恥ずかしさ」を感じてしまうのです。

もうひとつの読後の感想。そして文句なしに感動的な作品でもあります。人と会いたいな(配偶者と子供は帰省中)。

夏姫春秋

夏姫春秋(上) 』『夏姫春秋(下)』(宮城谷昌光)を読みました。これまでなんとなく読めなかった作品ですが、重い腰を上げてようやく読みました(ちなみに重い腰を上げた理由は、配偶者と子どもが実家に帰っているためで、100%読書漬けの時間を過ごしているためです)。

中国古代の歴史物語の面白さはわかっているつもりですが、ありていに言って「なんとなく普通」でした。この手のジャンル(例えば幕末歴史ものとか、日本の戦国史ものとか、江戸期ものとか)は、数を読むとパターンが見えてきてしまい、だんだん史料との距離感を楽しむようになってきます。

宮城谷さんはとても古代中国の歴史小説を描かせたら、間違いなく素晴らしい作家だと思います。比するなら好みは分かれるけれども司馬遼太郎さんくらいに。でもその素晴らしさに慣れてしまうと、その作家の普通レベル(つまりとっても高いレベル)では飽き足らなくなってしまう、という悲しい習性があります。藤沢周平さんの作品にしても、池波正太郎さんの作品にしても、予定調和的な満足感は得られるけれども、やっぱり予想したくらいの満足感だな、という感じです(例外もたまにはありますが)。

題材が面白いのだと思います。群雄割拠して、人生は運に翻弄され、諸国には英雄・俊傑がいて、などなど。その題材をいかに料理するかが歴史小説家の腕の見せ所ですが、宮城谷さんくらいの作家になると、うまく料理して当たり前という悲しい期待が寄せられてしまいます。悪女だったのか、悲劇のヒロインだったのかなどと詮索するのは無駄な深読みというものでしょう。

本書を読んで、不遜にもそのような感想を持ちました。「なるほど堪能させていただきました。で?」という感じのもので、卑近なところに似た例をとりだすなら豪華ハリウッド映画を見終わった後の満足感みたいな。

ちなみに歴史小説にフェミニズム・コードの警鐘は鳴りません。女性が主人公の本書でも、女性を描くのが上手いとか下手とか、人権や倫理がどうのとか、そういう感想は筋違いというものでしょう。それにしても夏姫、見てみたい。それ以上に抱いてごにょごにょ(倫理規定により削除されました)。

2008-08-12

ツ、イ、ラ、ク

ツ、イ、ラ、ク』(姫野カオルコ)を読みました。女性の書いた恋愛小説を読んで「女心のわかる男」になろうという野望です。ついでに言えば、先日『恋愛小説ふいんき語り』を読んだとき、「第一回ふいんき大賞」に選ばれていたのが本作品だったのです。選ばれたといっても、特別なことは何もありませんけれど。

物語は小学校二年生から始まります。随所に素敵な「神の視点」からの解説が入り、小学生の感覚と、それを突き放した大人の感覚が入り混じっているような錯覚に陥りそうです。ところでその「神の視点」が僕にはどうも理解しがたいのです。小学校三年生で「閨房の官能を匂わせてしまうしぐさ」とか、自慰をしたりとか。作中にも「そこは小学二年生、すぐに過去を忘れるのである。十秒前のことでも。よって、子供は純粋だと信じる一部の大人は、小学二年生とまったく同じに過去を忘れる力が優れているのかもしれない」とありますが、僕もその能力に優れているのか、それとも僕の知らないところでそのような官能の世界が繰り広げられていたのか。

物語の舞台が中学校に移っても、「神の視点」とは関係なく、主人公(かな? いろいろな登場人物の視点や神の視点が錯綜しているので)の行動や心理描写が、とても中学生とは思えないほどに成熟しているのです。それでもなお中学生であることを執拗なくらいに言外に主張しています。「中学生」とかぎ括弧でくくってそれらを一般化したときに想起されるものと、その時期を生き抜き、周囲や内面の観察も怠らず、しかもそれを忘れずにいたならば想起されるものと、どれほどの距離があるのでしょう。僕はぼんくらか、それとも物忘れの能力に長けていたのか。

そしてさらに主人公たちが34歳になったとき、ようやく僕は物語についていくことができる凡庸な読み手となりました。主人公たちが僕と同年代になったときに、ようやく僕の忘れていたものを思い出させるのです。思春期とはこのようなものだなどと美しい感傷に浸るのではありません。ロマンティックに思い出させるのではなく、あくまでもグロテスクなくらいにリアルに。素敵な「神の視点」は主人公たちを容赦なく突き放して冷静に観察していますが、凡庸な読み手である僕は観察される側に回ってはじめて、主人公たちに共感することができました。この作家は中毒になりそうですね。

どうやら僕はまだ「女心のわからない男」でいるしかないようです。

2008-08-11

趣味は読書。

趣味は読書。』(斎藤美奈子)を読みました。先日読んだ『妊娠小説』が面白かったので同じ著者の本を適当に図書館で選んだら、本書が一番手に取りやすい場所にあったので読みました。

本書は鬼才(と僕が『妊娠小説』を読んだだけで判断しました)によるベストセラー本解説書で、43作品を俎板に載せ、いったいベストセラーはどんな内容なのか、どんな人がそれを買うのかといったことを過激に述べています。真骨頂は本編で存分に披露される、ベストセラー本をこれでもかと叩きのめす毒舌振りと冷静な観察眼だろうと思いますが、序文の「本、ないしは読書する人について」だけでも読む価値があります。

以下、序文から引用します。

『趣味は読書。』なんていう酔狂な本を手にしたあなたは、すでに少数民族なのである。その証拠に、学校、職場、アルバイト先、あるいは親戚縁者等の中で、あなたと同じくらい本を読んでいる人、本の話ができる人っていますか? ほとんどいないでしょ。本に限らず、音楽でも映画でも演劇でもそれは同じ。「趣味は○○。」といえる人の数なんて、もともと限られているのである。

いっておくけど、読書量の多寡は、インテリジェンスの多寡とは必ずしも一致しない。たくさん本を読んでいても神経の鈍い人、判断力のない人はいくらでもいるし、その逆もある。「知識人」と「大衆」なんていう単純な階層論で割り切れるほど、本の世界は簡単ではないのだ。
と読書人を薙ぎ切っています。つまり読書界は階層型ではない、とのことです。

それでは階層型ではないとするとどうなっているのか。著者の斎藤さんの類型化によると、「読書界は多民族社会」であるとして、
  • 偏食型読者(特定ジャンルや作家を読む)
  • 読書原理主義者(本に対する無根拠な信仰を持ち、教養だ古典だと偉そうなことを言う)
  • 読書依存症(新刊情報にやたらくわしく、本に溺れている過食型)
  • 善良な読者(面白い本、感動できる本を読みたい。質や内容は問わない)
と割り切っています(この割り切り方が強引過ぎて素敵です)。そして世間のベストセラーを支えているのが「善良な読者」だというのです。善良な読者は別名では「読者ビギナー」であり、偏食になるかもしれないし、依存症になるかもしれないといういわば中間層です。そして社会・経済を活性化させるのはつねに新興の中間層であると力強く宣言しています。

さて、僕は臆することなく「趣味は読書です」ということにしているのですが、ひょっとしたら「読書は生活です」に近づいているかもしれない悪しき読者でもあるのです。どんな本を読んでも面白いところを見つけるし、逆につまらないところも見つけてしまう癖がありますし、たとえ面白いところを見つけることができなくとも、類書との比較をしてああだこうだと面白がります。著者の斎藤さんに言わせると、こういう読者は「邪悪な読者」ということになるのですが、そもそも著者自身が邪悪な読者の急先鋒ではないかと僕は思いますので、ここはひとつ著者の主張を飲み込んで、邪悪であり続ける楽しみをこれからも満喫したいと思います。たとえ出版界が斜陽産業だとしても。

ここからは半ば自慢話ですが、本書に取り上げられている43の作品、誰もが名前を聞いているけれども、案外読んでいる人は読書人の中には少ない、という作品だということですが、僕は35の作品を読んでいました(決してすべて買っているわけではないので、出版社を潤したわけでもないのですが)。そして僕の読んだ35の作品は、どれもそれなりに面白いところもあったのです。とすると、僕は「善良な読者」の心を持った「邪悪な読者」ということになり、清濁併せ持つ最強無敵の読者になってしまいます。あるいは僕は読書人ではないと言うことか。

本書は実に痛快(不快?)で、やっぱり斎藤美奈子さんは鬼才だ、という感想を僕は強めました。「なんでこんな本が売れている」という疑問を持ったことがある人にはおすすめですが、目次を見てご自分の好きな本があったら敬して遠ざけるべきかもしれません。