2009-12-27

『〈本の姫〉は謳う』

<本の姫>は謳う』(全4巻、多崎礼)を読み終えました。『煌夜祭』に大いに感心して、多崎さんの作品を他に読んでみたいと思っていたので手に取った次第です。

『煌夜祭』の雰囲気とはとっても違うと感じました。『煌夜祭』から感じたのは独特な世界で展開されるしんしんとした悲しみと、静かに抑制された雰囲気だったのですが、この作品はライトノベル回帰とでもいおうか、いかにもな行動・いかにもな舞台設定・いかにもなボケ、つまり軽くなったとでもいいましょうか。決して嫌いではないです。

嫌いではないと言っても、詰めの甘さをいろいろなところで感じました。この物語の重要な要素は文字と本なのですが、文字(「スペル」)の源泉は結局のところ何かとか、文字(「スタンプ」)の技術はどのように継承されるかとか。でも文字や本を使って描かれる物語には魅力的なものがあり、著者は本がとっても好きなのだろうな、という印象を受けます。

その他にも、登場人物たちは魅力的と言えば魅力的なのですが、一面では類型的なキャラクターを当てはめているだけではないかとか、台詞の語尾を特徴的にすればキャラクターがたつと勘違いしているのではないかとか、(以下少しネタバレ)物語の時間軸が3つあるのですが、それらの相互の関わり方が不思議な力で強引にまとめられているとか(ネタバレここまで)、各種名称の作り込みが安直すぎるとか、魔法の関わらない工業的技術がかなり曖昧になっているとか、まあいろいろと。

文句はつけたくなるけれども、4巻まで読ませるおもしろさがあったのでしょうね。物語の終盤になっても、このお話は収束するのだろうかというハラハラドキドキ感は格別でした。読み進めるほどにその先が気になる質の作品でした。でも僕は『煌夜祭』の方がずっと好きです。

本書を読んで、不覚にも目頭の熱くなるシーンがありました。自覚はしているのですが、僕は音楽が絡むと涙腺がゆるみます。特に音楽で大勢をあおり立てるような場面に弱いです。

2009-12-25

核兵器廃絶都市宣言

雑談です。

クリスマスに"Happy Xmas (War Is Over)"を聴いて思わず涙ぐみました。それのついでで思い出したのですが、大小いろいろな自治体が掲げている「核兵器廃絶都市宣言」っていったい何なのでしょうね。以前から気にはなっていたのですが、オバマ大統領のノーベル平和賞のように、実態が全くわからないものだと思っていたのです。

Googleで検索して上位に表示されたものを引用しますが、川崎市の核兵器廃絶平和都市宣言だと、

「真の恒久平和と安全を実現することは、人類共通の念願である。」
人類が本当に平和を実現しようと思ったのか疑問です。人類という規模で平和を実現しようとした時代は僕の知る限りありません。

「しかるに、核軍備の拡張は依然として行われ、人類の生存に深刻な脅威を与えている。」
人類は核軍備以外の原因でも生存に深刻な脅威を与えられています。人類という規模ならば、核軍備などよりもむしろ貧困の方が問題でしょう(貧困と平和はかなり密接な関係がありますが)。

「わが国は、世界唯一の被爆国として、被爆の恐ろしさ、被爆者の苦しみを声を大にして全世界の人々に訴え、再びこの地球上に広島、長崎の、あの惨禍を繰り返させてはならない。」
まったくですが、川崎市が声を大にしてもあまり説得力がなさそうですし、川崎市が「わが国」のなすべきことを決めてしまってよいのでしょうか。

「このことは、人類が遵守しなければならない普遍的な理念であり、我々が子孫に残す唯一の遺産である。」
唯一の遺産とはずいぶん大きく出たものです。「このこと」の範囲が不明ですが、普遍的な理念でもなければ唯一の遺産でもないでしょう。

「川崎市は、わが国の非核三原則が完全に実施されることを願い、すべての核保有国に対し、核兵器の廃絶と軍縮を求め、国際社会の連帯と民主主義の原点に立って、核兵器廃絶の世論を喚起するため、ここに核兵器廃絶平和都市となることを宣言する。」
目標となる状態を実現させるために何をするかが政策というものと思われますが、ここではいくつもの状態が提起されているので、読む方としては困ります。結局のところ「世論を喚起する」だけが実質的目標なのではないでしょうか。

いくつかの自治体の宣言を眺めたうえで言えば
  • (自治体が)核兵器を持たない宣言をする
  • (世界中で)核兵器を持たないよう求める
  • 核兵器を存在させないよう(自治体の)住民を啓蒙する
というあたりが共通項のようです。核兵器廃絶をする主体は自治体なのかというとそうでもなくて、国や世界全体に対しても物申すような宣言ぶりです。よくわからないのは、それでは核反応の研究機関は設置してもよいのだろうかとか、兵器以外の用途で核反応を利用することはできないのだろうかとか、核兵器を運搬してもよいのだろうかとか、自治体に管理責任のない土地に核兵器を保管してもよいのだろうかとか、訳がわかりません。それに宣言をした地方自治体が独自に核兵器事業を行うなど予算的に考えにくいですから、地方自治体の仕事だとは考えられません。啓蒙だって「核兵器を廃絶しましょう」と言ったところで、どれほど実効があるかわかりません。

そもそもその宣言で平和をうたうことが多いのですが、核兵器の有無と平和とは関係はありません。平和を願うなら平和宣言にすればよいでしょう(それも意味のなさそうなことですが)。

効果のほとんど期待できない事業と見えるのですよね。情緒的に反対しにくいですが、無駄な労力だと思うし、生物兵器や化学兵器の扱いはどうなのかとか考えると核兵器に限定する理由は情緒的なものでしょう。この宣言のおかげで誰かが得をするのかも知れません。

2009-12-15

『つかぬことをうかがいますが…』

つかぬことをうかがいますが…―科学者も思わず苦笑した102の質問』(ニュー・サイエンティスト編集部編)を読みました。「ニュー・サイエンティスト」のQ&Aコーナーを編集したもので、楽しかったです。

雑誌のQ&Aといっても専門家が答えるのではなく、読者の質問に読者が答えるのです。答えるのがどのような人かは様々ですが、科学に造詣の深そうなひともそうでなさそうな人もいます。明らかに間違った回答もあるし、回答に寄せる補足的回答もあるし、ジョークの回答もあります。こう書くと巷のQ&Aサイト(OKWaveのようなの)を想像するかも知れませんが、まあそれに近いですね。違いは編集されたものということもありますが、質問(と回答)がある程度は科学的な内容であることくらいですかね。

ごくわずかですが、目次からいくつか抜粋します。

  • あの祝砲ってやつは、ほんとは弾丸が落ちてきたとき危険なんじゃないですか?
  • 羊はなぜ、横によければいいものを、いつまでも車の前を走るのでしょうか?
  • 冷凍庫では冷たい水より温かい水のほうが早く凍るって、ほんとうですか?
  • もしもタイムマシンでいつだかわからない時代へ送られてしまったら、どうしたらいまが何年何月何日かわかりますか?
  • 写真を見るだけで、日が昇るところか沈むところか見わけることはできますか?
  • ティア・マリアというコーヒーリキュールにクリームを薄い層になるよう注ぐと、表面に活発なドーナツ形の循環パターンが表れます。どういうわけですか?
こういった質問に興味を持ったら、それに対する侃々諤々とした回答を追っていくと、まるで自分もその議論に加わったかのような感覚を味わえます。先に挙げた祝砲の質問に対して、王立陸軍理科大学のかたが弾丸の初速と到達高度と地表に落ちてきたときの垂直速度を答えると、メルボルン在住のかたが各種の弾丸によって変わることを数字をあげて説明し、それに加えて垂直に弾丸を発射した後にどれだけ付近に落ちてくるかを実験した結果をロンドンのかたが解説し、ファイフ州(スコットランド)のかたが第二次世界大戦中に戦闘機の機関砲から排出される薬莢を拾った経験を語ります。

特におもしろいのは、回答が正解ではない可能性を秘めていること、回答が結ばれていないところです。あれやこれやと寄せられる回答を読んで、どの答えを採用するかは読者次第というところも多少あり、唯一無二の「答え」は保留されるあたり、まさに科学的です。

2009-12-12

ハイリホー

かなり雑談です。

はじめての現代数学』(瀬山士郎)を読みました。古典的な数学体系からはじまって非ユークリッド幾何学やら無限やらが問題にされてきたところを語り、集合論、位相幾何学、論理学(特に不完全性定理)、ファジイ理論、フラクタル理論、カタストロフィー理論などを解説しています。

最近読んだガウアーズの『1冊でわかる数学』もおもしろかったけれども、そっちは言葉を尽くしてエッセンスを伝えようとするのに対して、こちらはわかりやすい比喩で(単純化した表やら式やら図やらで)エッセンスを伝えるような趣があり、どちらも軽くて楽しいです。ついでにいうと、ガウアーズの本は耳目を集めやすい不完全性定理やカオス理論をあえて避けていましたが、こちらにはそういうこだわりはなく、きわめて広い範囲を俯瞰しています。

著者は微妙なジョークのセンスをお持ちのようで、横書きの数学啓蒙書にしては珍しく、頻繁に他愛もない冗談が入っています。その中で僕の琴線に触れたのが、ε-δ法の解説で「ここにもあの、時代の叫び声、ハイリホーがかすかに響いてくるが(後略)」というところです。こんな他愛もない軽口ですが、なぜかツボにはまってしまいました。

本書は1988年の出版です。丸大ハンバーグのCMはちょうどその頃だったはずで、いまでも「ハイリハイリフレハイリホー ハイリハイリフレッホッホー」の曲が耳にこびりついています。嘉門達夫が「はいれ風呂」と歌ったのもなぜかよく覚えています。これが「背理法」になってしまう情けないセンスに脱帽しました。本当にお気軽な感じです。

でも僕が読んだのは2009年に早川で文庫化されたものですから、訳のわからない人もきっと多いのだろうな、と。まるでガンダムのようなおっさんホイホイですね。

2009-12-09

腐っても鯛(の骨)

雑談です。今日は生家にお邪魔しているのですが、晩ご飯はエボダイ(西ではボウゼとか全国的にはイボダイとか)の干物でした。「エボダイは鯛なのか」という父の疑問から話が発展して、「腐っても鯛」の話になりました。

僕は小学生の時に「腐っても鯛の骨」と教わりました。腐ったとしても鯛の骨は硬いまま残るという意味で、優れたものが表面的にはだめになっても、芯には優れたものが残るということを表すそうです。小学生の時の記憶なのですが、それを家に帰って話したら「腐っても鯛」だと母からバカにされたのです。意味は腐ったとしても品格が残るということで、没落貴族とかに使うのだと。それ以来僕も「腐っても鯛」と使うようになりました。

その話を今日混ぜ返したら、やっぱり母は「腐っても鯛の骨」とはいわない、とのことです。ここで僕が思い出したのは、北大路魯山人の何かで、「腐っても鯛というけれども、それはとんだ了見違いである。季節外れだったり活きがよくなかったりする鯛は、新鮮な鰯に遙かに劣るのだ」というようなことが書かれていたことでした。それもなるほどと思うので、「腐っても鯛」より「腐っても鯛の骨」のほうが理屈には合っているなと思うのです。ことわざ辞典とかをひいても鯛の骨は出てきませんが、腐ったらやっぱり品格も何もないと思うし、骨はやっぱり硬いと思うのですよね。

父は「腐っても鯛」「腐っても鯛の骨」の両方使うようでしたけれど、どうなっているのでしょうね。ちなみにエボダイはスズキ目・イボダイ科でした。

2009-12-05

『科学』『学習』休刊について

雑談です。かつての愛読者として寂しい話だけれど、売れないのならばしょうがない。なぜあれほどまでに多くの読者をつかんでいたものが休刊になるのか、つらつらと想像してみました。

・販売の問題
学研のおばちゃんが個別宅配をするコストは非常に大きいです。かつて書籍類の流通がそれほど統合されていなかった頃には、出版社-取次-書店の流れの中で、取次に比較すると出版社と書店の数が圧倒的に多かったため、そのどちらかにボトルネックが生じていました。特に書店が各世帯の近くにない場合、出版社としては訪問販売員を使った方が営業機会を逃さないことでしょう。しかし今は流通がかなり効率的になったため、さほどの障害はありません(離島や僻地はのぞく)。

それから、昨今の世帯状況も訪問販売員の足かせとなっています。小学生の子供がいる家庭で昼間に誰かがいるようなところは、きっと80年代と比べると少なくなっていることでしょう(どこかに統計資料があるはず)。学研のおばちゃんが各世帯を回るより、商品の配達は郵送や宅配便で、営業活動はダイレクトメールで、というほうが合理的になっていると思われます。

・制作の問題
昨今の『科学』や『学習』は、以前と比べると12ヶ月でループするような編集が多くなっています。以前の内容は学校の学習内容とはさほど関係なく作られていたのに対し、あくまで比較的ですが、昨今は学校に準ずるような(いってみれば通信教育のような)内容となっていました。学校と関係ないものでもやはり1年でループするならば、興味のあるところだけ買えばよい、ということになってしまいます。つまり、雑誌という形態よりも単行本に近くなってしまい、また通信教育との差別化がうまく図れないようなものとなってしまっていました。それでも出版社は単行本のように在庫を置きませんので、定期購読していないと欲しいものが手に入らず、定期購読していると欲しくないところも送られてくる、という中途半端さ。


おそらくこういったところだろうと想像します。『科学』は僕がかつてわくわくした雑誌なので、自分の子供にもわくわくして欲しいのですが、これから先はどのようなものがあるだろうかと探しています。ベネッセは個人的に楽しくない(学校の内容とおなじものでしょ)ので、『大人の科学』とかデアゴスティーニの何かとか、そのあたりが候補となりそうなのですが、いかんせん幼い子供だけで楽しめるようなものが見あたりません。困りました。