2007-10-31

はじめてのT

以前キーボードを買おうかと思ったが、職場から支給されたPCについてさりげなく社長に文句を言ったら、ThinkPad X41Tを使わせてもらえることになった。実はそれに至るまでに、X61sを買いたいという希望も出したのだが、少し値段が高いので僕が躊躇してしまった。

はじめてのタブレットPC使用なので何にしても慣れていないが、今後色々と楽しく(仕事に役立つように)使えそうだ。キータッチも気に入っているし、これまでのThinkPad同様にWindowsキーがないところも潔くて気持ちよい。タブレットの有用性をまだ感じられないことはさておき。

2007-10-30

目標と経験

どうも近頃「本当の自分」とか「人生の目標」とかが気になってしかたがない。僕自身の考えは、それらのことを考えるのはナンセンスである、というように一貫しているが、そうは考えない人も多数いることは承知している。

特に経営層(起業家含む)や管理者層によく見受けられるが、「夢を実現する」とか「目標があってこそ行動がある」とか読んだり聞いたりする。確かにそれらのことは正しいと思う。しかし僕が気になるのは、そもそもその夢や目標はどこから来たのか、ということだ。特に人事評価に「目標管理」が込められていたりすると話は厄介だ。

目標を達成することは、日頃の業務を行う上で様々な制約がなければ比較的たやすい。もちろんたやすく達成できる目標を設定した場合だが、このような目標なら立てる必要もなく、形式的なものになってしまう。逆に達成困難な目標を設定した場合、達成の障害となるのは外的要因もさることながら組織の内部的要因なことも多々ある。つまり企業活動で目標管理を個人の業績評価に用いる場合、その個人にどれだけの裁量権があるかによって、目標管理の有用度が異なる。もちろん経営層には目標管理が有用だろうが、一般的な社員には飾り物でしかなくなってしまう。

次に、そもそも目標を設定する事自体が非常に難しいということだ。取ってつけたような目標ならば比較的たやすく設定できるが、果たしてその目標は立てた本人の幸福に結びつくだろうか。例えば僕が金融資産10億円を生涯の目標にしたとする(これが妥当な数字かどうかは問わない)。しかしそのために払う犠牲は大きいだろうし、そもそも僕は10億円も使う必要も使える自信もない。

取ってつけたような目標(没個人的な目標)を立てる意味がないならば、目標は何を根拠にして立てればよいのか。僕が思うにはその人がどのような経験をしてきたかに依存する、としか言えない。企業活動の中でも家庭生活でも、その人が何を快く感じ、何に嫌悪するかがそのまま(あるいはまったく逆のことが)目標の根拠になるのではないかと思う。これを言い換えると、自分の幼年期から現在に至るまでどのような経験をしたか、自分が収入を得るようになってからこれまでにどのような経験をしてきたか、そうした蓄積をきっちりと記憶している(あるいは意識的に思い返す)ことが目標設定の根拠になるのだ。

また企業内に話を戻して、個人の業績評価に目標管理を盛り込むことに、僕はそれほど異議を唱えない。しかしそれはある程度の経験のある人間にのみ適用させてこそ意味があるし、指示される人間に適用させるのは無駄というものだ。

かく言う僕は、それほど目標を持っていない。とりあえず「できること」しかしないつもりだし、「できないこと」はなるべく避けるようにしている。そしてできるだけ「やりたいこと」をするようにして、それが「やるべきこと」と沿うようにこっそりと画策している。その程度でも充分役に立つ「目標管理」なのではないかと自画自賛している。なにも大上段に構える必要はないのだ。

2007-10-27

男女間には謎がある

近頃は夜に洗濯をすることが多いので、ふと思った。花王によると働く女性の40%は夜洗いをしているそうだが、それならばよく吊り広告でみる「1週間の着こなしテクニック」的なものは立つ瀬がないのではないか、と。

僕の現状では、持っている服をTPOにあわせて毎日交換すると1週間もたないので、夜に洗濯をすることは必然なのだが、ワードローブの豊富な働く女性はどのような着まわしをしているのだろうか。青山一丁目付近で見かける働く女性達は、僕の偏見に満ちた観察によると、少なくとも1週間以上は同じ服を着ていないように感じられる。すると夜洗濯をするのは目にみえない衣類に限ったことなのか、それとも休日昼間は洗濯ができない事情があるのか。はたまた雑誌の惹句は真に受けないほうがよいのか。

かくも男女の間の相互理解は難しい。

2007-10-25

明日は我が身、昨日の我が身

僕はこうしてうつになった--心の病と戦う技術者たちという涙なくしては読めない記事があった。まさにその通りで、決してさぼっているわけではないし、激務に耐えられないわけでもない。僕は自称エンジニア(実際にエンジニアかどうかはともかく)だし、ステレオタイプな「仕事がきつい」「残業時間が多い」というような経験もしてきた。しかし精神面での病気に罹る理由はそればかりではない。

多少話は飛躍するが、人的ネットワークにはスモールワールド的な性格とスケールフリーな性格がある。親密な関係をもった他者と三角のリレーションをもち、各人が複数のコミュニティに所属することと、ハブとなる人がいるために、任意の他者に到達するのは6次程度の少ない数で到達できる。一方少数の有名人などは非常に多くのリンク(被参照リンク)を持ち、多数の凡人は少ないリンクしか持たない。

どういう理由か説明はできないが、技術者が孤立したノードとなることがうつになる原因ではないかと、僕は漠然と考えている。「安心社会」「信頼社会」という言葉で代用ができると思うが、スモールワールド的な性格の「安心社会」に何らかの理由で所属することができず、当然ハブともなりえず、スケールフリー的性格の「信頼社会」で参照されることがない、そういう状態になりがちなのではないかと想像する。

想像するだけで根拠はないのだが。

2007-10-24

自分が!

先日古い友人と会ったが、その人が妙に「自分探し」みたいな病気に罹っていたことが気になった。「自分のやりたい仕事」とか、「自分らしいプライベート」とかいう話を散々したのだ。

僕は、そもそも仕事とプライベートを分けることがナンセンスだと思うし、いわゆる「自分探し」のように自分らしいものを自分で探すこともナンセンスだと思う。その理由を説明するのが面倒だが誤解を承知で簡単に言うと、仕事とプライベートを分ける明確な境界線がないことと、あらゆるペルソナをひっくるめてすべて自分だ、ということだ。自分を構成する物質や情報は絶えず変化し、他者や周囲の環境と混ざり、コピーされる。その中で統一的な自己など持ちようもなく、既にそこにいる自分以外の自分などはどこにもいないと思う。仕事と思っているものも仕事ではないと思っているものも、それを行うのは自分であると思っているものなのだから、どこにでも自分の持つあらゆるペルソナがひょっこりと顔を出すはずだし、やりたかろうががやりたくなかろうが、何らかのアクションを起こすという事実には仕事もプライベートも区別がない。

話は少し変わって、就職活動など自己PRをしなければならない場面では「将来のビジョン」とか「どんなビジネスパーソンになりたいか」とか聞かれるものだが、そういった質問に(本心か否かは知らないけど)すらすらと答えられる人がいることが信じがたい。もちろんごく一部の限られた人はなりたい将来の自分が明確になっていて、それに向けての地道な活動を続けているのだろうが、一介の凡人であれば「明確な目標を持てればそれに越したことはない」程度のものではないだろうか。面白ければやる、面白くないことをできるだけ避ける、それを繰り返していくうちに少しずつなりたい自分(あるいはなってしまうと予測される自分)が見えてくるのではないか。生活を連綿と続けているうちに、なるようになるし、ならないようにはならないのだ。

自分と他人には明確な境界線がない。同じように自分の行っていることはすべて、緩やかに連続しているが厳密には分断されている。それだけのことだ。

2007-10-10

たった1%

職場近くの喫茶店で、耳に入ってきた会話をそのまま聞いてしまった。当然ながら詳細はわからないけれど、30台くらいの男女の会話であり、年収1千万円を超える共通の知人にお金の無心をしたい、というような内容だった。真剣にお金を借りる話ではなく、ちょっとした愚痴程度の話だ。

僕の注意をひいたのは、彼らが10万円程度のお金を「あいつにしてみればほんの1%」と繰り返していたからだ。1%くらいのお金なんだからおごってくれてもいいだろう? というニュアンスである。確かに1%という数字は正しい。それに「1%ならいいだろう」という気分もわからなくもない。しかし考えてもみると、年収500万円の人だったら5万円をおごってくれてもいいだろう、という話にはなかなかならない。

数学者のジョン・アレン・パウロスは、フォーブス400に載っている人たちに向けて、研究中のプロジェクトに対する25,000ドルの資金供与を求めたという。対象者の平均資産は4億ドルで、資金を求めたのは資産の0.00625%にもかかわらず、親切な手紙はたくさん受け取ったもののお金は全く手に入らなかったそうだ。彼は「もしも全く見知らぬ人が価値あるプロジェクトに25ドル(これは彼の全財産の0.00625%だそうだ)の寄付を求めてきたら、自分はきっと提供するだろう」という目論見を富裕者に対しても同じように見込んだらしい。手紙が帰ってきたのだから結構なことだが、この人をくったような話は示唆に富む。

ベルクマンの法則として知られているように、恒温動物であれば、大型の種ほど寒冷地に生息する。これは体温が奪われるのは体表面からであり、体表面は体長の2乗に比例し、熱量は体重(体長の3乗)に比例するためであるとされる。これと似た話で寒冷地に生息するものほど突出部が短くなる。これらは環境に依存して体型が変わる例であるが、同じような例として、自分の体重を支える必要から象の足の断面積は広く、キリンの足の断面積は狭い。ウルトラマンの足の太さではおそらく立つことすらできないし、かりに立つことのできる特別な骨格を持っているとしても地面が足の底に耐えられない。つまり何がいいたいかというと、単純なミニチュアや単純な拡大では用をなさない、ということだ。

はじめの話に戻って、年収およそ1万円の少年時代に大した理由なく100円をおごった僕は、年収およそ100万円だった学部生時代に1万円を大した理由なく使うことはなかった。現在でも年収の1%を大した理由なく人に譲ることはない(お小遣い制なので、使える金額はそれほど変わっていないという事実はともかく)。同じ理屈をどのような年収の人にも当てはめることができるような気がする。つまり自分の身にしてみれば収入に対する比率ではなく絶対額の問題であり、他人の話をするときには比率で考えてもよいと思っている浅ましい自分がいる、ということだ。

2007-10-07

二世誕生

私事ですが、2007年10月06日07:40に、子供が生まれました。男児、2994グラムです。

つるつるの肌です。名前はまだありません。

2007-10-05

キーボードを買おうかと思う

仕事先から支給されたPCがDELLのINSPIRONだった。僕には入力デバイスへの様々な下らない拘りがあり、まずはキーボードの配列を自分好みに変える。例えばひらがなキーや変換キー、無変換キーは使ったことがないし、半角/全角キーやWindowsキーもいらないので、ノートPCでは省略されがちなAltやCtrlに代えたり、「1」の左はEscにする。また、「A」の左にCtrlがないと気に入らないしCaps Lockは使わないのでそこをCtrlにする。JIS配列とASCII配列では強いていえばASCIIのほうが好みだが、他人が混乱しないためと他のキーボードを触るときのために自宅でも会社でもJIS配列にしている。

自分好みの配列になると、それだけで入力のストレスがかなり減る。配列を変えたら次は各アプリケーションの動作のしかたを変える。例えばエディタを使うときにはNotepad.exeでもMeadowでも(仕事用のPCはWindows XPだった)大体同じ動きをするように変更する。例えば行頭に移動するときにはCtrl-aにするし、カーソルの移動はCtrl-bやCtrl-fなどにする。いわゆるemacs風のキーバインドだが、こうしないと入力中にストレスがたまる。

さて、これらの一連の作業を終えて気持ちよく入力ができるようになったが、問題はここからだった。DELLに文句をいうつもりはないが、今までIBM製のノートPCに慣れていた僕の感覚には、キーボードがしっくりこない。近頃のThinkPadのキータッチは昔のものと比べると悪くなっていると言われるが、それでも秀逸なものである(ような気がする)。支給されたDELLのノートPCは、僕の感覚からするとどうもペカペカというかカスカスというか、妙なタイピング感覚である。もちろんそうしたタイプ感を求める人もいるだろうが、僕の好みではない。

このままでは気持ちよく仕事をすることができない。キーボードを叩いていると、しばらくするとタイプ感が気になってしょうがない。キーを叩くときに何やら変な音まで聞こえてくるかのようだ。そこでノートPCにキーボードを接続するという、スペースを無駄に使う愚行を考えた。現在どのキーボードにしようか悩んでいるところだが、やはり慣れたキーボードがよいだろうから、自宅で愛用しているRealforceを買おうかとも思うが、いかんせん値段が高い。僕の可処分所得にはお小遣い制を採用しているので、配偶者の許可を得なければお小遣いの範囲では買えない。今月は配偶者が実家に帰る予定なので、いわゆる「鬼のいぬまの」なんとやらでこっそりと買ってしまおうかとも企むが、この手の悪事には良心が疼いてしまう。

どなたかRealforceに似たタイプ感でもっと安いJIS配列のキーボードがあったら教えてほしい。おそらくないだろうが。

2007-10-03

引用の定義

Web魚拓が仕様変更されたことを知ったが、以前から疑問に思っていた「引用」について、このリニューアルで教えられるところが大きかった。以前から個人的に引用のWebアプリを作ろうとしてはやめ、作ろうとしてはやめを繰り返していたところだったので助かった。

引用とは、著作権法第三十二条の定義によると、

公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない
とある。

この条文を読んだだけではやはり疑問は解消されない。「引用の目的上正当な範囲」とはどこまでなのか。Wikipedia曰く、最高裁判所第三小法廷昭和55年3月28日判決によると、
  1. 文章の中で著作物を引用する必然性があること
  2. 質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」の関係にあること。引用を独立してそれだけの作品として使用することはできない。
  3. 本文と引用部分が明らかに区別できること。例『段落を変える』『かぎかっこを使用する』
  4. 引用元が公表された著作物であること
  5. 出所を明示すること(著作権法第48条)
とのこと。

かつて森毅氏のエッセイで読んでうろ覚えになっていることだが、彼の試験問題は持ち帰ってどこで解答を作成してもよかったそうだ。その代わり自分の言葉で解答しなければならない、という条件をつけたという。できあがった解答を森氏が読むと、どこぞからの盗作が非常に多かったことを森氏は嘆いて、「『(長い引用)』だそうだがオレにはよくわからん」という解答を書けばよいのに、と書いていた。どうもこのままだと森氏に提出する解答は引用の要件を満たしていないようだ。

ということで、記念に魚拓。OKだろうか。

2007-10-02

いずこも同じ秋の夕暮れ

CNET Japanに韓国IT業界ビッグ3と、ソフトウェア市場の現状という興味深い記事が載っていた。一読してすぐに思ったことは「どこも同じか」ということだ。残念ながら日本のIT業界と良く似ていて、ソフトウェア強国ということを叫んでも業界はなかなかに動かない。

特に、

ビッグ3をはじめとした大手SI企業は契約上では契約主であはあるものの、実際の作業は下請け企業に任せきり、その下請け企業には“食いつなぐことができる”程度の対価しか支払わず、利益のほとんどを持っていくという状況だ。それでもSI市場しかない韓国において下請け企業は生き残りのために仕事を受けざるを得ない。劣悪な環境で働く下請けの技術者が、安い賃金で体に無理をかけてまでソフトウェア開発に従事できるかといえばそうではなく、業界を離れる人が後を絶たない
というあたりなど、大雑把に見れば実に良く似ている(とはいうものの、IT業界といってもほとんどWeb系SIの世界しか知らない僕自身の経験から判断することしかできないが、かつて一次請けとして、その後発注者として、そして現在中小企業に関わる身として「似ている」という判断はそれなりに正しいと思う)。また全く知らない業界だが、聞き及ぶところからアニメ業界やゲーム業界、携帯電話業界など、おそらく似たような仕組みだろうと想像する。

こうした業界の仕組みからどうしたら中小企業が抜け出せるかを考えるのが、現在の僕の仕事のひとつだが、大雑把に考えているところをいうと、ひとつにはユーザ企業のリエンジニアリングを提案すること、ひとつにはロングテール狙いで営業すること、ひとつにはマーケットをセグメント化して営業すること、ひとつには品質の向上を図ることなどなどだが、どれもこれも言うは易し、行うは難しだ。

しかし法で規制するのはすこし行き過ぎではないかと思う(よその国のことだし口をはさむことではないのは承知しているが)。規制された業界では所詮規制内でしか活躍できない程度の企業しか育たず、結果として業界が国際競争力を失うのではないか、と思う。この感想は、僕がかつて県単位で強烈に規制されていた業界で、規制緩和の煽りをくらって青息吐息になっている(なっていた)企業に在籍していた経験からいっている。

つまるところ、競争をする地域や業界規模はともあれ、競争に勝てる企業には何かがあるというだけのことで、その何かを実現しないことには競争力はつかない、という当たり前な話だ。


検索してこのページにたどりつく人がいるので、念のために追記しておくと、「さびしさに 宿をたち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮れ」は良暹法師の歌で、後拾遺和歌集に入っています。また小倉百人一首では70番になっています。

中秋の名月

すでにその時期は去ったが「中秋の名月」と呼ばれる頃(大体それくらいの時期)に何度も月を見上げ、なるほど名月だと感心した。どの時期の月であろうと大きさは同じだと頭ではわかってはいるものの、どういうわけだか大きく見える。

よく知られたことだが、地平線や水平線に近い太陽や月が大きく見えのは錯覚である。人曰く、近い距離に比較対象があるため、実際の距離よりも近く、そして大きく見えるという。科学に詳しい人だと屈曲率の話をするかもしれないが、心理的な大きさは屈曲率から導き出せる大きさよりもはるかに大きい(というより、識別できないほどにしか大きくならないはずである)。従って、心理的な錯覚というわけだ。

証拠になるかどうか、写真を撮ってみた。名月に申し訳ないが、僕の持っている写真機と僕の技術では綺麗にとれなかったし、大きくもなかった。残酷な結果である。

時に、月の美しさを感じる僕の感覚は、曇りのないまっさらな月よりも、朧に煙った月や雲隠れの月の方をより美しいとしている。これも僕に刷り込まれた文化的なものだと何となく思っている。

これも有名な話だが、「月の砂漠」の歌詞に朧な月が出てくるが、アラビア半島の砂漠では、ほとんどの場合月はしんと冴えわたり、年に数回しか煙ることがないという。その年に数回の煙るときは、ゆったりと王子様とお姫様がラクダに乗って道を行くことなど不可能だ、とのこと。

往々にして、現実は想像よりも美しくないものだ。