2009-02-26

『小さな会社生き残りのルール』

小さな会社 生き残りのルール』(市川善彦)を読みました。後悔すべきなのか、そうでないのか悩ましいです。

書いてあることにはいちいち納得してしまうのですが、何にせよモーレツ社長の奮闘を前提として、地道に着実に確実に会社を成長させていくための精神論が満載でした。先達の言葉をありがたく頂戴するにやぶさかではありませんが、経験に即した精神論が目立つと引いてしまうのも僕の性格です。

「そんなこと言ったって、御社は業績伸びていないでしょう?」と言われれば、はい、その通りです。僕が代表をしている会社は今期赤字見込みでやりくりしています。

『まっとうな経済学』

まっとうな経済学』(ティム・ハーフォード)を読みました。原題は"The Undercover Economist"です。

ヤバい経済学』がとっても面白かったし、似たタイトルなので手に取ったのですが、何というか興奮しませんでした。「覆面経済学者」ではなくこの日本語タイトルをつけた出版社の勝ちですね。よく知られた経済理論を使って、身の回りから世界経済にいたるまで、徐々に範囲を広げながら説明していく様は素敵なのですが、なんとしてもそれが普通すぎて。経済学関連の本を読み慣れていない人にとっては面白いかも知れません。

2009-02-18

衝動買い

雑談です。

今日は往復6時間も電車に揺られていました。朝6時に自宅を出る時、慌てていたのか寝ぼけていたのか、本を持ってこなかったことに気づいたのは駅のホーム。長い移動時間にノートPCを広げて仕事をしてもよかったのですが、僕はそんなに仕事熱心ではありませんので、慌ててキオスクでX世代からY世代くらいをターゲットにしているビジネス雑誌を買いました。

誌名はあげませんが、「仕事に役立つ本」みたいな特集をしていて、なかには興味深いものもあったのですが(特に古典。『職業としての政治』と『論語』は再読したいなと思わされました)、僕が雑誌を読むのは多くても年に数回程度ということもあり、ビジネス雑誌の面白さとか有意義さとかがほとんどわからないのです。有名人の写真がたくさん載っているので、「ああこの人はこんな顔だったのか」という程度しか有意義な発見はありませんでした。

あっという間に読み終えてしまい(コストパフォーマンスを考えると、雑誌って高いですね)、次の乗換駅のキオスクを覗いたらサイモン・シンの『宇宙創成』(新潮文庫)がありました。彼の『ビッグバン宇宙論』は読んだことがあるのですが、むらむらと再読したい気分に駆られて衝動買い。移動中に上巻を読み終えてしまいました。

やっぱり面白い。既読ですので知識としては新しい発見はないのですが(思い出すことはあります)、それでも面白いのは文章の力なのかそれとも構成の妙なのか。

2009-02-16

『サブリミナル・インパクト』

サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)』(下條信輔)を読みました。

俗説ですが、映画のフィルム一コマに「コーラを飲もう」という映像を入れておくと、意識化でそのメッセージが伝わって、上映後にはコーラを飲みたくなる、というような話がありました。僕がそれを聞いたのは中学生の時でしたが、心底怖くなりました。もっともこれは信憑性が非常に薄いし、再現もできないそうですから、なんちゃって科学の類でしょう。本書はそういったオカルトチックな話ではなく、認知神経科学における潜在知覚の話です。

目次
序章:心が先か身体が先か 情動と潜在認知
第1章:「快」はどこから来るのか
第2章:刺激の過剰
第3章:消費者は自由か
第4章:情動の政治
第5章:創造性と「暗黙知の海」


とても多岐にわたる内容と充実した記述で、簡単にはまとめられないのですが、大変面白かったとだけは言えます。人間の活動は顕在的意識によって決定されるという、つまりは近代的な人間観がベースとしてきた「合理的で理性的な個人」というのは実際のところかなり怪しい概念で、情動や周囲の環境が大きく意志決定に影響を与えている、という事でした。これは概念的な話ではなく、実験と観察によって確認されているので読み応えがありました。

その上で現代社会を見るとどんなことが言えるのかという話まで含んでいます。マーケティングやら政治やらの世界では当たり前のことになっていますが、繰り返し同じ情報にさらされていると、その人はその情報に重み付けをしてしまいます。TVCMしかり、街頭演説しかり。そうした過剰な情報にさらされた場合の自由意志とはどのようなものか、周囲からの情報によって人はどのように影響を受けるのか、といったことを説明しています。情報操作される危険性という話ではありません。あくまで人間の活動がどのようになっているかという話ですので、善悪の判断はしていません。

そしてさらに人間の創造性の根拠を、これは仮説ながらも披露しています。発見というものが「知らないことを内発的に知るようになる」ことだとしたら、そこにはパラドクスが生じます。こうしたパラドクスの生じる原因として、デカルト的な人間観があるというのですね。それに対してスピノザ的な人間観のように、まずは環境と身体の相互作用があり、それから身体的あるいは情動的な基盤の上に精神が構成されていると考えると、パラドクスは生じません。マイケル・ポランニーが主張した「暗黙知」を踏まえて、認知心理学的にはそのような人間観をとるようです。

全編を通して、仮説は仮説として、またわかっていることははっきりと書かれていますので、不満や不消化はありませんでした。それに著者の語り口がとてもチャーミングですので、ついつい引き込まれてしまいます。大満足です。

『心もからだも「冷え」が万病のもと』

心もからだも「冷え」が万病のもと (集英社新書 378I)』(川嶋朗)を読みました。

タイトルの通り、冷えが万病のもとだそうで。著者は西洋医学を学んだ後に東洋医学を学んで、現在はいわばホリスティック医療を実践している方です。僕は代替医療とか民間療法というと、いささか胡散臭いと見てしまいがちなのですが、それらには数千年単位の試行錯誤という重みがありますからね。たかだか数百年の歴史しか持たない科学的アプローチで説明できなくとも、それなりの治療効果があるのならば、襟を正して進言には耳を傾けることにします。

本書では冷えが現代人に蔓延していて、身体の不調のみではなく精神の問題も引き起こしていると警鐘を鳴らし、具体的で簡単な対策を明確に書いています。個人的な実感としてもそこそこ納得ができ、まあそういうものもありかな、という感想です。ただし、ホメオパシーなどの再現性がないと報告されている医療類似行為が「効果があると証明されている」などと書かれているのはフェアではないと思いました。これも科学信仰の一種かな、と。

ただ、著者も書いていることですが、これまで僕が知り合った人のなかで民間療法を推奨する人は、西洋医学を排除しがちなのですよね。逆もまたしかりですが、そういう偏った見方にはなりたくないものです。まあ怪しいな、と思う気持ちも忘れたくはないのですが。ちなみにホメオパシーは知人から強烈にプッシュされて、断るのに一苦労しました。

2009-02-14

『バカと天才は紙二重』

バカと天才は紙二重 (ベスト新書)』(ドクター・中松)を読みました。新古書店の100円の棚に置いてあったのに加えて、(多分)直筆サイン入り! ついでに怪しげな発明品勧誘の葉書も入っていて、大いに楽しみました。

政治的なことはともかく、長年のファンなのです。「ピョンピョン」を知った時にはそれこそ痺れましたし、「ウデンワ」には笑い転げました。フロッピーディスクの発明という胡散臭い話も、ここまで押しまくれば良いのかという感慨にふけりましたし。

本書は全編胡散臭い話に溢れています。先の東京都知事選でも公約に掲げた「ミサイルUターン」も説明されていますが、おそらく天才ではない僕にはさっぱりわかりません。この本に限った話ではありませんが話の誇張の仕方も天才的で、日本の愛すべき人物としては筆頭候補になるのではないか、と思います。

それにしても「科学的」に研究された色々な話が、少しも科学的に説明されていないのはやっぱり天才のなせる技でしょうね。

『ゼロ年代の想像力』

ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)を読みました。

もともと僕は批評やら論壇やらというものにさほど興味がないのですが、本書のような批評ははっきりと嫌いです。サブカルチャーを題材にして現代社会の諸相を探ってみるような内容となっていますが、そもそも著者はサブカルチャーを論じたいのか、現代社会を論じたいのか、僕にはまったくわかりませんでした。もしも前者ならば、現代にはこれこれの事象があり、その鏡映としてこれこれの作品を生み出す想像力が形成される、というような論法になるはずなのに、事象に関しては象徴的にしか触れられていませんし、後者ならばサブカルチャーという想像力の産物をもって非想像的なものを論じるわけにもいかないでしょう。もっとも同時代作家たちの想像力というものを過小評価して象徴的な出来事で規定される、という立場をとるのなら文句は言いませんが、それは本当に過小評価です。

上記の二つがない交ぜになっているので、本書は僕にとっては不可解なものとなりました。取り上げている作品を丁寧に構造分析する様やものすごい単純化をする様は見事ですが(牽強付会とか無い物ねだりだろうという感想もあります)、社会を論ずるには題材不足です。

「大きな物語」から「小さな物語」へという流れもよく言われることですが(そしてその正当性に僕は多少の疑問を持っていますが)、本書では「小さな物語」のなかでも「引きこもり/心理主義/セカイ系」から「バトルロワイアル/決断主義的動員ゲーム/サヴァイヴ系」という流れを想定しています。確かに作品群ではそのような流れがあったのでしょうし、心性あるいは作家の想像力という面では傾向として正しく解説しているとは思います。しかし、本書の記述は実際のデータに依存せずに、言論に言論を重ねるような思索(僕の感想を正直に言えば「思い込みと思いつき」)から生じているため、果たしてそれは本当なのだろうかという疑いが常にまとわりつきます。もしも本当なら誰にでも追跡調査できるようにデータを挙げろ、と言いたくなります。あたかも、この世界にはつきものの印象批評がいまだに罷り通っているようでした。

「小さな物語の決断主義的動員ゲームが破綻しないように、プレイヤーがゲームの設計そのものを変更しながら運営してゆく」というような結論というか、筆者の模索している具体的な行動指針も、まったく新鮮みがありません。既に80年代のフランスで言われていたようなことを言葉を換えて言い直したようで、僕は面白くありませんでした。

まあこれは僕の趣味の問題ですので、思想好きには魅力的な本なのでしょうね。僕は思想よりも地味な調査や観察やデータ対話式理論や経験の蓄積に基づいた暗黙知や純粋な論理が好きです。

2009-02-12

『ぼくたちはきっとすごい大人になる』

ぼくたちはきっとすごい大人になる』(有吉玉青)を読みました。

「イン・ザ・ベイスメント」「悪い友達」「一心同体」「∮ シュルッセル」「ママンの恋人」「ぼくたちはきっとすごい大人になる」の6編が収められています(4編目はト音記号ですが、径路積分記号で置き換えました)。どの短編も小学生が主人公で、子どもの視点から描かれています。

さて、「子どもの視点」というとイノセントなものを想像しがちですが、この作品を読んだ僕の感想もイノセントなものでした。大人には見えていない(と大人が想像する)無垢な子どもの世界、というようなものが描かれているような気がして、ちょっと不満です。もちろん子どもには子どもの世界があるのでしょうが、それは大人の世界とそれほどかわりはないのではないか、などと僕は思うのです。無知が想像を招き、想像が現実に変わるような世界だとは思いますが、だからといって見ている世界が違うわけではありませんし、仮に違う世界なのだとしたら年齢にかかわらず視点の数だけ違う世界を想定しなければ理屈に合いません。大人の世界がわからなければ、わからないなりの理解をしたのではないかな、と僕の記憶は言っています。

当然のことながら、常識という思考回路ができあがっていない時には新鮮な感覚で情報を処理していたとは思うのですが、何というかもやもや感が残り、『ツ、イ、ラ、ク』の子ども描写のようなもののほうが好きです。

『フリーズする脳』

フリーズする脳―思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)』(築山節)を読みました。

簡単に言ってしまえば、高次脳機能を使わないとボケるよ、ということのようです。確かに便利な生活というのはつまりそれほど頭を使わなくとも良い生活です。携帯電話に電話番号を記憶させているから自分では覚えていられない、ネットで情報検索すればある程度必要なものは見つかるので物事を記憶しない。思い当たる節も多々あり、ちょとどきどき。

僕なりの異論もあり、できるだけ簡便で自動的な生活様式のほうがその他のことにリソースを注ぎやすいのではないか、などと素人考えしてしまいます。GTDなんかはその典型で。それに脳が外部記憶を持つようになったのは書記体系ができてからのことだし。文明の進行によってどの程度高次脳機能が使われなくなったのかという疑問もあります。

2009-02-09

『もっとも美しい対称性』

もっとも美しい対称性』(イアン・スチュアート)を読みました。バビロニアの昔から現代にいたるまでの数学の歴史を、群論とその数学的対称性を中心にして解説しています。ですから本書でもっとも大きな位置を占めるのは「群」ですし、数体系です。

目次
第1章 バビロンの書記
第2章 王族の名
第3章 ペルシャの詩人
第4章 ギャンブルをする学者
第5章 ずる賢いキツネ
第6章 失意の医師と病弱な天才
第7章 不運の革命家
第8章 平凡な技術者と超人的な教授
第9章 酔っぱらいの破壊者
第10章 軍人志望と病弱な本の虫
第11章 特許局の事務員
第12章 量子五人組
第13章 5次元男
第14章 政治記者
第15章 数学者たちの混乱
第16章 真と美を追い求める者たち


本書は色々な読み方で楽しめます。まずは全編通して数学者列伝としても読めますし、数体系の歴史とも読めます。前半はn次方程式の歴史としても読めます。後半は相対論と量子論の統合へ心血を注ぐ人たちのドラマとも読めます。どのような読み方をしても面白いのは、基本軸がものすごくしっかりとしているからでしょう。基本となるのは「真は美である」ということと「美は真であるか?」という問いです。本書の最後はこのように締めくくられています。「物理学においては、美は自動的に真を保証するわけではないが、その助けにはなる。/数学においては、美は真でなければならない。偽はすべて醜いのだから」

ただ、例外型リー群が本書のなかでもとりわけ重要な位置を占めているにもかかわらず、本書ではリー群の説明が足りないかな、と思いました。あとは現代の数学には僕の理解の及ばないところもあり、そのあたりは正直よくわかりませんでした。本書はほとんど数式を使わずに書かれているのですが、もう少し数式を用いてくれたほうがわかりやすいのにな、と思わされるところもあり。

2009-02-08

『密教的生活のすすめ』

密教的生活のすすめ (幻冬舎新書)』(正木晃)を読みました。僕自身不真面目な真言宗徒なので多少は密教的生活を送っているとは思いますが、参考までに。

著者なりの現代生活に役に立つ密教の実践、といったところが紹介されています。ですが著者は上座部仏教に対する尊敬の念(というかなんというか)が薄いのか、多少誤解もあるようで、そのあたりは割り引いて読んだ方がよいかな、という感じもしました。

面白かったのは後期密教の瞑想方法(エロい!)だとか、著者の実践しているマンダラ塗り絵。マンダラ塗り絵の説明にユングの説を持ってくるあたり胡散臭さ満点ですが、なにはともあれ面白そうです。皆さん、マンダラの塗り絵をして心身共に健康になりましょう! なんて言ってもだれも賛成できないでしょうね。

『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』

仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか (幻冬舎新書)』(山本ケイイチ)を読みました。話題になった本なので気になっていたのですが、あまり読もうとは考えていませんでした。そもそも「仕事ができる」と「筋トレをする」には因果関係がないことはわかりきっています。ましてや「筋トレをする」と「仕事ができる」においてをや。

ところが100円で売っていたのを見つけて読んでみたところ、結構面白い。タイトルに絡んだところでは、目標を設定してそれにむけて具体的な行動を続けることができる人は、仕事も筋トレもできる、というところでしょう。別にそんなことなら筋トレでなくともよいとは思います。僕はほとんど毎日座っていますが(いわゆる座禅に近いものです)、これだって立派に条件に当てはまると思いますし、外国語の練習だって同じようなものでしょう。だから「~はなぜ座禅をするのか」とか「~はなぜ外国語を練習するのか」でも本が書けます。

この本の面白いところは、筋トレの方法論そのものとその背景にあります。一朝一夕で結果の出せるトレーニングはないという当たり前なことを前面に出して、トレーニングと生活の質を結びつけているところです。何かのトレーニング(この本の場合は肉体のトレーニング)をすることは時間をコントロールしてある程度の制約を設け、目標を設定して行動を起こしその成果を目標へフィードバックさせるとともに行動を修正する、というモデルを設けることです。これは確かに生活の質を向上させるでしょう。

そしてもう一つの面白いところは、背景です。現状として著者は仕事ができる一部の人は筋トレをしていると見ていますし、そこに何らかの関係を見ています。関係自体はさほど不思議なものではありません。それよりもその関係が前提となった時に起こりうる経済的変化が気になります。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で述べたことですが、禁欲的・倫理的な行動が資本主義というシステムを機能させたように、筋トレもまた同じような精神構造によって社会的変化を起こしうるのではないか、というのが僕の勝手な感想です。

さて、筋トレしよう。

2009-02-04

『ローマはなぜ滅んだか』

ロ-マはなぜ滅んだか (講談社現代新書)』(弓削達)を読みました。こういう刺激的なタイトルにはついつい惹かれてしまいます。

ローマ帝国滅亡の原因については色々な憶測が巷を流れていますが、本書では当然何か一つのものに原因を求めたりはしません。経済史とローマ史を専門とする著者らしく、ローマのインフラやら経済体制やら、果ては文化や人間観まで解説をしています。

本書の一番面白かったところは、最後の部分で「中心」と「周辺」の交互作用について触れているところでした。ローマ帝国自体ギリシャ文明にとっての周辺ですし、それを飲み込んで新しい中心となったようです。また都市国家というものも偏在する中心として帝国内で機能し、その周辺を磁石のように引き寄せます。そしてさらに新しい周辺として飲み込みつつも飲み込みきれなかったゲルマン系民族との関係で、ついにローマが飲み込まれる側になったあたりの説明は、とても参考になりました。

また本書はローマ時代を通じて現代を見る視点から書かれていますので、そのままとは言えませんが、現在の経済的先進国とそれを追い上げる国の関係として読むことも出来ます。ただ個人的な望みとしては、宗教と文化の問題をもう少し取り上げてくれるともっとローマ時代に親しむことが出来るな、と感じました。僕にとっての謎は、ローマの国教がキリスト教になったことですので。

2009-02-03

『ザ・チョイス』

ザ・チョイス―複雑さに惑わされるな!』(エリヤフ・ゴールドラット)を読みました。著者のこれまでの著作同様、物語形式で経営理論やら問題解決方法やらを解説しています。

『ザ・ゴール』以来、惰性で筆者の全著作を読んでしまっているのですが、シリーズのまとめとでもいうような内容でした。「制約条件の理論」の応用方法が何かしらの領域に新しく適用されるわけでもなく、何が述べられているかはあまりはっきりしていません。

すごく乱暴に言えば、考え方自体の再考のようなもので、一種の人生哲学みたいなものです。仮説・検証と、結果の再現性・反論可能性などの自然科学的方法論をビジネスなどの社会科学的領域に応用させるためにはどうしたらよいか、ということが焦点ですが、それにもまして著者の人間観や人生観が矢面に出てきます。曰く人間は善良であるとか、相互に利益を得るような解決策があるとか、変化を嫌うとか、物事はシンプルであるとか。

さて、面白いかどうか。正直言ってあまり面白くはありませんでした。「カンバン」やら「カイゼン」やらに馴染みのある日本で仕事をしている人にとっては、当たり前な考え方なのではないかな、などと思ってしまうのです。僕も新入社員だった頃には「『なぜ?』を3回繰り返す」とか散々言われましたし。

2009-02-02

『キーボード配列QWERTYの謎』

キーボード配列QWERTYの謎』(安岡孝一、安岡素子)を読みました。

読者の側が勝手に期待する夾雑物を除けば、純粋に面白い本です。本書はキーボードの配列がどのようにして現在のかたちに変わってきたのかということを、技術史として描いています。合理的理由から配列が決定されたのではなく、試行錯誤とマーケットの都合で現在の配列になっているようですね。書かれている内容が興味深いだけではなく、古いタイプライターや特許申請用のスケッチなどの図版がたくさん載っていますので、そちらも大いに楽しめます。

僕も一時期は「QWERTY配列はタイプライターのアームがジャムすることを防ぐために、わざと打鍵しにくく設計された」という俗説を信じていましたが、どうやらそうではないことを聞き及びました。本書ではその経緯が詳しく書かれているので、キーボードに興味のある方は楽しく読めることでしょう。かといって過度な期待はするべきではありません。あくまで技術史であり、憶測は慎重に避けられているので、最初期のキーボード配列がQWERTYに近かった理由は技術者(発明者)の試行錯誤としてしか記されていません。従って、どうしてこういう配列になったのかという疑問に充分応えるものではありません。

僕はDVORAK配列に憧れたり親指シフトを使ってみようかと考えたりもしましたが、結局今のところはJIS配列とASCII配列を使うくらいです。emacsに慣れてしまったせいもありますが、愛用のキーボードはHappy Hacking Keybord Proをそのままの配列で使うのと、もう一つはRealforce 91 UBKの「Ctrl」を「CapsLock」と、「Esc」を「半角/全角」と入れ替えているものです。要は好みと慣れと言うことで。

2009-02-01

『「教えない」英語教育』

「教えない」英語教育 (中公新書ラクレ (176))』(市川力)を読みました。

タイトルはどう捉えていいものかわかりにくいですが、「早期英語教育」を中途半端にしても「子ども英語」しか身につかず、「大人英語」を身につけるためには「後期英語教育」を充実させようという話でした。小学校低学年くらいまでは遊びとして英語に触れることはよいとしても、本格的に英語を使って何らかのコミュニケーションをとるためには小学校高学年以降に焦点を置いて、それ以前の教育で下準備をしましょう、ということです。

著者のスタンスは、教育場面では英語"を"教えるのではなく、英語"で"教える、ということです。とは言っても、なにも教育用言語を英語にしようとかいうことではなく、知りたい・伝えたいという欲求を英語でかなえたり、他教科の教育内容も踏まえて英語で生徒たちとコミュニケーションをとるという方法です。そのためには母語の基礎が必要で、論理的思考力やら説明能力やらを培っておかなくてはならないとのこと。はやりの言葉で言うなら母語をレバレッジにして学ぶ、ということでしょうか。

かくいう僕の英語学習は小学校高学年からで、おきまりのように中学校の学習内容を先取りして学びました。中学生の頃には海外のゲームで遊んだり、高校生の頃には英語で読書したりしましたが、大学・大学院でようやく英語で意思疎通をする必要が生じたために道具として英語を練習するようになりました。ではそれで使えるようになったかというとかなり疑問ですが(おしゃべりは出来ないし、日常生活は不便です)、もっと早くから英語教育を受けたかったとは思いませんし、早期英語教育の効果には大いに疑問を持っています。所詮そんなものは遊びだろうという感想で、きちんと使えるようになるためにはいずれにせよ本人の多大な努力が必要ですし、学習する必然性もあったほうがよいでしょう。

僕の知り合いには英語に堪能な人が多く、それらの人たちの多くは日本語で長い教育期間を経てきた人たちですが、一部は英語圏やヨーロッパで教育を受けた人たちです。それらの人たちに共通するのは、どこで教育を受けようと、本人は決して自然に語学に堪能になったわけではないという事です。現在僕の子ども(1歳3ヶ月)が保育園に通っていますが、活動内容の報告を見ると「英語」というのがあるのですよね。一体何をしているのやら。

『黒死病』

ひそかに尊敬している人が読んでいたので、『黒死病―ペストの中世史 (INSIDE HISTORIES)』(ジョン・ケリー)を読みました。まるで小説のように読める本で、時間と場所を追ってどのようにペストがヨーロッパを席巻したかが描かれています。

内容の紹介などは割愛して、僕が興味深く思ったのは人口の変動や年齢構成の崩壊、労働力の減衰を通して、後の時代の経済的・科学的・工業的な進展の礎となった可能性がある、ということでした。

現在、経済的先進国(日本も含む)の年齢構成は明らかに生物学的には不均衡です。こうした時代にどのような歴史的展開があるのかは先行きが見えませんが、少なくとも歴史的な前例があることは頭に留めておくと有意義かも知れません。

また、宗教やら人種やら特定の病気やら、いわゆるスティグマの問題も示唆に富みます。どのように偏見が成立し、どのように社会不安を醸成し、どのような暴力的な噴出を見たかということは、14世紀ヨーロッパに限らず現代でも世界各地で起こっています。悲しいけれども人間が集団で生活する以上は「内部」と「外部」をわけないことにはアイデンティティの存続は難しいものです。それでも敢えて外部との接触を持とうとした時に何が出来るのか、考えさせられました。

内/外の区分って、大げさに考えなくともすごく自然に見られるのですよね。例えば「うちの会社」とか日常的に耳にしますし。