2007-05-31

あの10円で何ができたか

物心がついて以来、何とは無しにギザギザのついた10円青銅貨を使わないようにしている。といっても収集している訳ではなく、単に何かの拍子に手元に入ってきた10円玉を使わないだけであるので、使用済み硬貨であり、骨董価値はほとんど無い。

今日思い立って数えてみた。結果が以下である。

昭和26年:4枚
昭和27年:28枚
昭和28年:26枚
昭和29年:40枚
昭和30年:7枚
昭和31年:0枚
昭和32年:7枚
昭和33年:2枚
合計:114枚

調べてみると、昭和30年前後の物価がどうということを単純に比較はできない。しかしあえて単純に比較するために、どれだけ給料があるかで比較すると、東京の事業所規模30名以上の平均現金給与額は平成14年では487,767円、昭和30年では21,975円だから、おおよそ22倍になっている。

ということは、大雑把に言って昭和30年の10円は現在のおよそ220円と無理矢理考えても良さそうだ。無理矢理なので、識者はツッコミを入れないで欲しい。

すると、僕がささやかに使わないでいる10円玉は、当時の金額で考えても本当にささやかな額でしかないことがわかる。しかしささやかながら、たぶんこれからも使わないでいるだろう。

2007-05-21

論理パズルの愉しみ

パズラーの皆さん、お元気ですか?

自称論理パズルファンとして、『試験に出るパズル』を再読しました(105円で売っていたので、実家にあるけどつい買ってしまった)。正直な感想をいうと、本当に奇妙で不自然なお話です。

そもそも論理パズルなんていうものは、虚数空間と同じくらいにしか現実的ではないものだと思っています。だいたい太郎君が雅子さんの席に座り、次郎くんが紀子さんの席に座り、雅子さんが紀子さんと席を交換し・・・なんていう話を聞くと、きょうびボックスシートは流行らない(かつて伊豆高原に行こうとしたとき、冷凍みかんを買ったけどロングシートだったので食べられなかったという個人的怨みあり)とか、4人の関係はどうなっているのかとか、そんなに頻繁に席を変えるほどの長距離ということは、お泊まりだろうけど、部屋割りはどうなるのだろうかとか、いろいろ妄想してしまいます。他にも本当のことしか言わない天使と嘘しかつかない悪魔の見分けがつかないとか、比叡山が許してもバチカンや宗教画家は許さないと思います。

それを無理矢理小説にしてしまうのだから、これはもう完全に現実とは乖離したフィクションの世界であるということをしみじみと確認しながら読みつつ、その仮想世界の中でどれだけ整合的であるか、という趣味の領域に踏み込めない人には、この楽しさは理解しようもないでしょう。

さて、この世の中には論理的であることがそこそこ良しとされている風潮があります。「仕事に生かす論理なんとか」とか、書店にいけば大抵目につきます。で、僕はそれらは「役には立たない」と断言できないまでも、直接役に立つ訳ではないと思っています(ITエンジニアをしていると、直接役に立つこともありますが)。こうした論理パズルの世界は、純粋に楽しみとして眺めているくらいでちょうどよいのではないか、と思うのです。仕事に役立てようとか、議論に強くなりたいとか、そんな動機でこの特殊な世界に浸かるよりは、単純に知識を積みあげるか、中学校の数学をきちんと理解した方がよっぽど有益だと思います。

こういう感想は、論理パズルファンの視点から世界を見ているからだとは思いますね。我ながら。

2007-05-14

フェヒナーの法則とハナゲ

ウェーバー・フェヒナーの法則というものを以前聞いたことがあったのを、今日本を読んでいたときに思い出した。この法則は要するに「原則として、人間の中程度の刺激のもとでの五感は与えられた刺激の強度に比例し、気づくことができる刺激差は与えられた刺激の変化にたいしてその対数の変化として感じられる」というようなものだ。

すごくいいかげんにいうと、1ハナゲの刺激強度が1で、底を10とすると、2ハナゲの刺激強度は100、3ハナゲは1000といったところか(痛みの基準として、国際的に通用している単位である「ハナゲ」を採用しているが、この単位を知らない場合は「やゆよ記念財団」を参照のこと)。

近頃「感動する体験」に漠然とした興味がわいているのだけど、五感ではないからこうした法則を使うのは絶対に無理だ。しかしLittle things please little mindsという諺があらわすように定式化できたりしたら楽しいだろうな、と思う。

2007-05-08

ほとけごころ

僕は今まで自分の姉について他人に多くを語ったことはないが、姉についてかなり長い独り言を書く。

姉は僕より6歳年上である。父曰く、幼時の姉は平均的な基準から見て明らかに言葉を話し始めるのが遅かったらしい。小学校にあがり、いわゆる特殊学級、つまり障害者クラスに入ることを勧められたらしいが、祖父の働きかけで普通学級に通った。中学校も同様である。障害を分類することにさほどの意味をここでは感じられないが、今でいうところの「学習障害」のようなものだろう。

姉は中学校から不登校を始めた。その真意は僕にはよくわからない。卒業後に極めて自由な私立高校に入学した(その様子が公共放送でも放映された)。高校卒業後は僕にもよく把握できないが、ときたま作業所のようなところにいったりもしたが、ほとんどは家にいたと思う。

僕自身に関する自覚的な決定は、姉の存在によって影響されるところがかなり大きい。大学に入学するときに障害者教育を勉強しようと思ったのもそのためだし(結果として養護学校教員の単位は取得したが、身につけたのは教育社会学的なものだったような気がする)、大学卒業後に実家に戻ったのも両親の事を考えるところもあるが、姉の事を考えたところもある。その後に家業を放り投げて大学院に進んだが、そこで社会学の視点から社会運動、とりわけ障害者運動の研究の真似事をしたのも姉の事が心のどこかに引っかかっていたからだろうと後から思う。

はっきりいっておくが、僕は情け深い人間ではないし、血縁や何かを最重要視することもない(と思う)。僕は僕の主観的判断により明らかに思慮分別のない人間や明らかに無知蒙昧な人間が好きではないうえ、姉は以上のどれにも当てはまる。

ここまでは長い前置き。今朝とある本を読んでいたとき、先月実家に帰った時の事を思い出した。ここからが本題。

どういうわけだか僕の実家ではいわゆる日本の古典的な教養を身につける事が当然となっていた。和服を着るにもさほど困らないし、お茶の席できちんとした作法は心得ていないが、そこそこに振る舞うこともできる。教育期間を通じて、古文などとりたてて勉強しなくともおおよそ読めたし、実家での日常会話にも能や歌舞伎、和歌などがざっくばらんに散りばめられていた。

そうした実家で育っていながら、姉はそうしたものを一切身につけていない。先月母と姉が桜の下での野点に招かれた話を聞いた。姉にとっては初めての席で、一切の作法をわきまえていない。通常なら席に至るまでの主人の心配りをめで、席について菓子や茶をいただき、器をめで、主人にお返しするなり同席の人にお渡しする、という一連の流れを全くわかっていなかった。かくいう僕もさほどわかってはいない(ちなみに僕の配偶者は茶道部だった)。

そこで母は、「私のすることを真似すればいいからね」といい、姉はそれを真似た。その際にも姉は「回すんだよね」といいながら、器をぐるぐると回転させたり面白可笑しい所作をしたらしい。ところが茶を喫した姉は「おいしいね」と大きな声でいったという。

さて、ここからがようやく肝なのだが、様々な理屈や文物をかじり、席についても場を乱さないようにするだろう僕の茶の体験(その他の体験でもよい。例えばおいしいコーヒーを飲んだりとか)と、姉の上記の体験を比較したときに、どちらがより純粋に主人の心配りを楽しんだかというと、間違いなく姉の方に軍配があがるだろう。いくら古人が花を歌ったものを知ろうと、どれほど釉に通じようと、所詮そのようなものは死んだ知識であり、今ここでまさに向き合っている体験を直接的に深めるものではない。姉がこれまでにどのような苦悩に向き合ったか、どのような自己を形成してきたか僕には知りようもないが、その喫茶の直接体験の深さは僕をはるかに凌ぐものであったと想像する。

各人の個性化であれ、コミュニティの連帯であれ、生産活動であれ、社会改革であれ、あるいは社会秩序の維持であれ、その美しさの根源には体験の深さがあると僕は大雑把に思っている。僕から見て完全な愚者であり、ほぼ狂人であり厄介者である姉は、その茶席では僕よりもはるかに輝いていた。ここ数ヶ月、ともすれば生きることを放棄しがちであった僕は、姉のその輝きに今朝になって気がついた。迂闊であったという他はないし、僕のような非情な人間でもふと胸が熱くなった。