2010-08-12

『インシテミル』

インシテミル』(米澤穂信)を読みました。この本を手に取るに当たって僕の主体性はそれほどなく(といっても映画化につられたのではなく)、「配偶者が読んだから読む」という流され型の読書でした。

配偶者曰く、この本のAmazonでのレビューは、初期に書かれたものほど手厳しく、最近になるにつれ甘くなる傾向があるそうです(本当かどうかは確認していません)。読者の偏りというものを考えるとなかなか興味深い事例ですね。本が出版され(作家好きや一部の読書好きに評価され)、「このミス」にノミネートされ(作家好きとは関係なくミステリ好きに評価され)、受賞し(広く読書好きに評価され)、映画化が決定し(読書好きでもない人にも評価され)、という流れは、どんどん評価者の好みの幅や前提知識・経験が拡散する流れです。一部の(悪く言えばマニアックな)人にのみ受け入れられる作品ではないことのひとつの現れかとも思いますが、大きなことは言わない方が身のためですね。

僕は読み始めてすぐにいやな感じがしました。まるで『バトルロワイヤル』の焼き直しをまたもやするのではないかという予感でしたが、これは半ば杞憂に終わりました。読み進めるにつれて『そして誰もいなくなった』や典型的クローズド・サークルへのオマージュかとも思いましたが、これは半ば当たったようです。オマージュと言うより、先行ミステリを敬して茶化した感じがしました。例えば火かき棒の説明に『まだらの紐』を持ち出して、「これを曲げ、そして戻すことができるだろうか」なんてふざけています。(火かき棒といえば、僕が始めて『まだらの紐』を読んだとき、火かき棒というものが囲炉裏に刺さっているものしかイメージできなくて困った記憶がありますが、どうでもよいことです。小さい頃にイメージ検索があれば、かなり読書の質が変わったでしょうね)

読み終えて僕がどう思ったか。ひとつには、ミステリ好きがにやりと笑うようなくすぐりが気持ちよかったです。そしてひとつには、整合性に関する不満がありました。例えば(核心に触れるネタバレにつき、ここから白字)本書の犯行には計画が不可欠ですが、それをするには時間が足りなすぎます。仮に10億円必要としても、アルバイトにくるまでにわかっている報酬は2000万円弱だから、どれほどボーナスを期待しても50倍になるなど僕には思えません。メモランダムを書き換えるにしても、はじめは閉鎖されていた遊戯室が空くまでワープロがあるかどうかは不明ですから、凶器をすり替える計画はルールを説明された1日目の午後(この作品では意図的に0日目・1日目・2日目が混同されているようでした)以降に遊戯室が開き、そこにワープロがあることを知り(しかも感熱紙式ではないことを知り)、誰にも知られずにプリントできないと立てられません。最短で考えれば不可能ではありませんが、知っていることと知るはずのないことが少し都合良すぎですし、ワープロに残っていた履歴は1日目のものですから、あらかじめルールを知っていたとしか思えません。(ネタバレここまで)その他細かいところでいろいろと不備があり(例えばミルグラム実験は、様々な観点から実験方法が変更されていますので、昨今同じ実験をするわけがありません)、きっとパズラーには不評でしょうね。でも「本格」に見せてじつはおちゃらけという風も垣間見られ、そもそも謎解きは本書の主要な要素ではないのではないかという感じもします。

では主要な要素はなにか。よくわかりませんでした。

2010-08-06

デジタル書籍と読書の記憶

本を読む現代人の例に漏れず、僕も本のデジタル化に凄く興味があります。ですが黎明期に電子ブックを買ったりしたものの、紙の本よりも素敵な読書環境はいまだに想像できません。たまには本を PDF化したり、携帯電話やパソコンで青空文庫形式の本を眺めますが、Kindle(など)を購入しようという気には今のところなりません。

Kindleなどの電子ブックリーダーを使うと、きっと素敵な経験が得られることでしょうが、紙の本よりも読書体験が均一になりそうなので、印象が残りにくいのではないかと思っています。開いたときのインクの匂いとか、カビの匂いだとか、押花・押葉とか、コーヒーのレシートとか(へそくりとか)、虫を叩いた跡とか、本文への書き込みとか、見返しに残した買い物メモとか、手触りとか、重さとか、装丁とか、紙の厚さや質感とか、教科書に描いたパラパラ漫画とか、イライラしたときに投げつけたりとか、エッチな本を隠すスリルとか、紙魚に眉を顰めたりとか、本棚のあちらからこちらへ移したりとか、布団の下に敷いて床冷えをしのいだりとか、いろいろな要素が読書体験の一部になっているような気がするのです。

思い返して下さい。女の子に振られた日に読んでいた本は、内容よりも本の質感と重さが思い出されます。寒い冬の日に田舎の駅で人を待っていたときに読んでいた本は、冷たくなった本が記憶に鮮明です。大水で電車が止まってしまったときに読んでいた本は、読んだことよりもうんざりして本を閉じたことをよく憶えています。小学校の図書室で何度も借りた本は、背表紙が割れてばらばらになりかけていました。プレゼントされた本はラッピングが凝っていました。プレゼントする本をどのように包もうか考えて、雑貨屋さんで包装紙を買いました。雨に濡れてふやけてしまった本を見れば、その時の雨の匂いがよみがえるようです。幼かった兄と奪い合った絵本は、中身よりも表紙をよく思い出します。気になる女の子と書店でばったり会ったときにどの書架の前に立ちどの本を買ったかは、書店がつぶれても店内図を書けますし、その本は彼女の記憶とセットです。

そうした記憶がこれからは一様のものになるとしたら、情景とセットにして記憶されている本の内容も紐づける対象が減ってしまうので、体験は少しだけ平板なものになってしまうのではないかなどと、電子ブックリーダーを使う前から心配しています。使い始めはきっと同じように記憶に残ると思うのです。僕は『ドグラ・マグラ』を携帯電話で再読しました。折口信夫の『死者の書』はパソコンで読みました。それらを読んだときの情景は、まだ珍しいものだから鮮明に覚えていますし、Amazon.comで買った数冊のPDFも、買った経緯から読んだシチュエーションまで比較的よく憶えています。ですがそれは特別だからこそ記憶にあるのであって、当たり前のことになると判別をつけにくくなるのではないでしょうか。

すごく感傷的かも知れませんが、読書って内容が伝わればそれでよいものでもないと思うのですよね。内容の伝達に限ればもっと効率の良いメディアはあるのでしょうが、これまで紙の本が培ってきた、モノに淫するような傾向もまだ捨てがたく感じますし、本の内容ではない感覚の記憶をくすぐるからこそ、これから読む本もおもしろさも増すのではないかと思います。

2010-08-05

小説家という職業・英語は多読

何度も「自分には大して才能がない」と書かれているのを読むと、世界を産み出す想像力とそれをアウトプットする速さは明らかに天才的だろ、と何度も突っ込みたくなります。1日2時間の執筆を10日間、それで小説を一作書き上げるのは常人とは思えません。そんな『小説家という職業』(森博嗣、集英社新書)を読みました。

作品の好き嫌いはともかく(僕は初期の「森ミステリィ」が大好きです)、天才ですね。結論は「小説家になりたいなら、小説を読むな」「小説家になりたいなら、とにかく小説を書け」ということでしょうが、それだけでは話にならなりません。そこで著者の経験談からすれば、自分が提供できる作品を市場のニーズにすりあわせるための深い自省と作業があるのですね。職業小説家に徹しすぎていてクールすぎます。本書に書かれている森さんの方法論と戦略・戦術は、結果としてうまくいったから良かったのですが、近年のライトノベルのようにきちんとビジネスとして読者のニーズをできる限り汲むような作り方をしている作品群と比較して、なにが独自なのかはよくわかりません。一足早かったのでしょうかね。

出版不況だとかなんだとかいろいろ喧しいですが、森さんはその中で、どのようにすれば職業としての小説家がビジネスとしての創作をすることができるのかについて、考えをめぐらせています。どんな環境にあっても、なくなることがないのはメーカー(この場合は小説家)であるというあたり、確かにその通りだとは思いました。どことなく徹底していないと感じたのは、文字で感動を与える形態が依然として続くのだろうかと僕が思っているためです。森さんは様々なところで超合理的(というか、多少SF的)なことを書きますが(本当にそう思っているかどうかは不明)、突き詰めれば文字を媒体にして人が感動をするのは、もっとシンプルになり得るとはお考えではないようです。それが少し引っかかるところで、元小説家になる予定の人として小説を擁護しすぎているのではないかと思いました。

その他、『英語は多読が一番!』(クリストファー・ベルトン、ちくまプリマー新書)を読みました。英語を練習するためには小説をたくさん読みましょうという本で、タイトル以上のことはあまりありませんでしたが、細かいところで
・よくあるニックネームの一覧
・知らない単語の推測
・スラングの推測の仕方
あたりが役立ちそうです。細かいところが光る本でした。

ところが「多読」とはいっても、本書の話は小説に限定されているのですね。僕はノンフィクションばかり読んできましたが、僕が英語のできない理由はここにあったかと、無理矢理自分を納得させたいです。