2008-02-29

顔を洗う

僕には、朝に顔を洗うという習慣がない。そのために配偶者に野蛮人扱いされた(結婚して数年経っているのに、なにをいまさら)。僕は起き抜けにシャワーを使う習慣があるから、顔を洗わなくてもいいじゃないかと思うのだけど。さて、朝シャワーを使う文化圏にいる人たちは、起き抜けに顔を洗うのだろうか、という疑問が生じた。

アメリカ映画などを見た範囲で思い出すに、「顔を洗ってきなさい」というようなせりふを覚えていない。「シャワーを浴びてきなさい」みたいなせりふには覚えがある。これは単純に僕の記憶が偏っていて見えていないだけなのか、それとも本当に顔を洗うことが少ないのかは不明である。そもそも人は見たいものだけを見る。僕は朝に顔を洗うことはどうでも良いので、興味の対象外なのだ。詳しい人がいたら教えて欲しい。

わからないことがあると、自分の記憶やらなにやらを引っ掻き回して「たぶんこんなところではないかな」という見当をつけて、近頃ではGoogle様にお伺いをたてて、たいてい望む結果は得られないのでそのまま問題はお蔵入りする。何かの拍子に別の疑問や記述と組み合わさって、また頭をもたげることになる。というわけで顔を洗うことに関してはとりあえずお蔵入り。昔の大きな駅では蒸気機関車の煤煙を落とすために、洗面所(顔を洗う場所)が必須だったらしいという怪しい収穫があったけど。

ちなみに僕の妄想的な朝の風景はこんな感じだ。「お寝坊さん、ハニー」といいながら、パンとスクランブルエッグとフルーツジュースをお盆に載せた配偶者が寝室に入ってくる。サイドテーブルにお盆を載せ、ベッドにいたまま、起きていきなりの食事をとる。食事を持ってきた配偶者はベッドに腰をかけ、今日のこと、昨日のことなどを面白おかしく話しをする。もちろん非現実的な話だ。現実の僕の生活はひとりで起きて、シャワーに入り、食事を自分の分だけ用意をして、ネットのニュースなどを読みながら食事をとる。まだ配偶者と息子は寝ているので、起こさないようにこっそりとすべてを行う。なんとも味気ないものだ。

ついでに言うと、僕の息子(5ヶ月になろうとしている)には、起きたら顔を洗うという習慣がない。配偶者も、起き抜けには汗(と涎)だらけになっている息子の顔を蒸しタオルでぬぐってやるようなことはせず、涎かけで口の周りをぬぐうだけだ。僕に対する扱いと息子に対する扱いの差はいったいなんだろう。息子が成長したら、顔を洗うように配偶者流儀でしつけるだろうか、それともシャワーを浴びるよう僕の流儀を押し付けるだろうか。戦いはまだはじまってさえいない。

2008-02-28

冷血

少し前の休日に実家に帰りました。実家には僕の愛しい既読本が山と積まれているほか、下手をしたら中学校の図書室よりも本が多いのではないかと思うくらいに祖父母・父母の本も山と詰まれています。

実家に帰るたびに増えている本を眺めてはため息をつき、面白そうなものを数冊抜き出してネコババするのですが、今回は僕の希望を父に伝えて、選んでもらうことにしました。希望は
・ペダンティックなもの
・謎解きの要素があること
・楽しいもの
・比較的出版の新しい文庫本で、字が大きいこと
でした。

すすめられたのは『冷血』(トルーマン・カポーティ)でした。楽しいものを読みたがっている息子に何を読ませようとしたのだか。もちろん読みましたけど、クールで無常感の漂う作品だという感想を持ちました。冷血なのは父です。

2008-02-27

本の読み方

読む価値のない本などない、というのがありきたりだけれども僕の信条です。僕にとって面白くない本もあるし、人におすすめできない本もあるけれど、出会う人と出会うときによってはその同じ本がかけがえのない一冊になったりする、とロマンティックに考えているのです。

しかし実際の問題として僕の時間は限られていて、目に留まる本をすべて読むわけには行きません。そこでどのように本を読むかが問題になるのですが、これはまだまだ未熟者ゆえ、これといった方法が見つかっていません。

僕にとって、はじめて自覚的に本を読むようになったのは『本を読む本 』(モーティマー・J. アドラー他)を学生のころに読んでからでした。それまではそれこそ目に留まる本を片っ端から読み殴っていたのですが、
・その本は何を書いているか
・その本は類書とどう違うのか
・その本の一番のポイントは何か
・その本と同じ内容を扱っているものと比べると、何が違うのか
・別のアプローチがあるか
といったことに気を配りながら読むようになりました(フィクションは除く)。

話は少し変わって、知り合いなどから「フォトリーディングや速読法を練習したのか」と聞かれることがあります。残念ながら僕はそうした技術を見につけていないのですが、そうした読み方のできる人は少しもったいないことをしているような気もしてきます。というのは、本を読むのは知識を得るためばかりではなく、純粋に活字を追うことが楽しいからだったりするわけで、その意味では僕の読み方ももったいなく思えることがあります。

その「もったいない感覚」と費やす時間と得られるものとを秤にかけて、あれやこれやと悩んでいるのが現状です。いっこうに進歩していません。

2008-02-26

『男の凶暴性はどこからきたか』感想

男の凶暴性はどこからきたか』(リチャード・ランガム、デイル・ピーターソン)を読みました。実に読み応えのある面白い本でしたので、僕が何か要約めいたものを書くとそれが誰かの妨げにならないかと心配になってしまいます。

僕は残念ながら男なので、このようなタイトルの本を読むと申し訳ない気分になるのだけれど、原題の『DEMONIC MALES Apes and the Origins of Human Violence』の方が本書の内容をきちんと表現していると思います。つまり「暴力性の由来が氏か育ちか」という問題をまずは氏のほうから考察する内容で、人類が分化したあたりの近縁種や現在の霊長類の攻撃行動から人類の凶暴性を考えてみよう、という内容でした。

僕自身の傾向としてはどうしても育ちを重視しがちなのですが、やはり氏に由来するところもあるよな、と認めながら読ませられますし、遺伝子決定論には与したくないけれども、ある社会形態での繁栄に有利な生殖行動は獲得形質として遺伝するよな、と思わされます。

人類の起源、文化・文明と暴力、チンパンジーの暴行、オランウータンのレイプ、ゴリラの子殺しなど、それぞれをとってみても興味深いのですが、それらがすべて人類(の男の暴力性)と結びつけて一冊が編まれているので、どこを読んでも一本筋の通った素敵な本でした。また、各章の終わりには疑問形で次の章で答えるべき問題が書かれているので、各章の間のつながりもとてもスムースです。

2008-02-21

創造的資本主義

B・ゲイツ氏の「創造的資本主義」は世界にとってプラスか?という記事を読んだ。「創造的資本主義」とは大雑把に言うと、善意の企業リーダーたちが、社会的貢献度の高いもの(例えば地球レベルでの資源問題や、地域間格差のある人材問題の解決を試みるなど)であれば、不採算プロジェクトであろうともお金を出していこう、というものらしい。

ところが、アメリカでは税制上の理由もあり、寄付(非課税になるとか)が盛んだ。これは数学的民主主義的な目から見れば、多数による社会貢献である。一部のリーダーが支援する対象を決めるよりは、無数の目による支援のほうが妥当ではないか、というのが一点。

第二点に、企業活動そのものは社会貢献ではないか、という意見が出されている。確かに企業存続のためには、ステークホルダーに何らかの利益をもたらさなければならないだろう。そしてステークホルダーたちは第一点のように、個々人で寄付をする。ということはつまり、企業が利益を追求することが創造的資本主義の求めるところと同じなのではないか、というような話。

そしてさらに、

貧しい国がいつまでも貧しいのは、そうした国の政府が堕落していて民主主義的でなく、民衆を抑圧しているからだ。そうした国では財産権が保証されず、起業家を目指す人々が家を担保にして資金を借り受ける機会が失われている。裁判のシステムは機能しておらず、個人どうしで契約を結ぶことが制限されている。外国からの支援金は、堕落した役人によってスイス銀行の口座に隠される(スイス銀行の秘密口座に隠された金額は、サハラ砂漠以南のアフリカだけで、2005年には約1500億ドルあった)。そして、食料援助は国内の農作物の価格を下落させ、地元の農民を苦しめる。
と書いている。

単なる支援活動と「創造的資本主義」とをない交ぜにしている感もあるので、著者の意見には賛成できない。まずは寄付が盛んなのはアメリカの税制に由来するもので、ほかの国に当てはめていうことはできない。そして寄付や支援に多くの人の目が集まっても、その多くの場合は小規模あるいは短期的なプロジェクトとなりがちである(僕の独断だ)。また多くの人の目を集める方法についても疑問が残る。マスを対象とする情報伝達には、僕は基本的には不信を持っているし、個々人が独立して情報収集できない限りは、マスを主体とした意思決定は多くの場合は「衆愚制」となる(僕の独断だ)。

例えば従業員10,000人の会社で、10,000人が独立して活動するのと、会社がイニシアティブをとって活動するのでは、リソースが圧倒的に違う。きちんとした方向にそのリソースを振り向けることができれば、個々人で活動するときよりは成果は大きいだろう。そして卑近な話だが、成果が大きければ個々人の自尊心だって満たされやすくなる。

また政治機構が堕落しているからだ、という主張に対しては、それをどのようにすればより幸福の総量が多いものにできるかという問題に答えるものではないし、「創造的資本主義」であろうがなかろうが支援することはできる(あるいはできない)。

僕はビル・ゲイツ氏の思い描く未来像に賛成をしたい。

2008-02-19

効率の良い開発とは

ZDnet Japanに「Matzに聞いてみた:効率の良い開発についてどうお考えでしょう?」という記事があった。とても参考になるし、RubyだJavaだPHPだという垣根を越えて賛同できる。

記事はおおむね、フロントエンドとバックエンド、あるいはデザイナとプログラマという境界が曖昧になっている、そしてウォーターフロー式の開発ではスピードが足りないので、よりアジャイル開発に近いものが求められている。というような内容。

Rubyが効率の良い開発に最適かどうかはさておき(僕はRubyは得意ではない)、オーバーヘッドの少ない開発、小さな開発・リリースを繰り返す、という見方には非常に賛成。僕も常々そう思っている。

ただし、記事の中にあった楽天の開発方法については異議がある。楽天市場などではいざ知らず、グループ全体では「外注をしない」は必ずしも本当とはいえない。また、ざっくりと作って改良を続けていく、というプロセスも良し悪しがある。例えば楽天のライバル会社の例では、作り直すときには結局スクラッチから書き直さざるを得ないほどにプログラマ個人の独断で作られていたり、どこの会社とは言わないがテストコードが非常に少ないので小さな改良をするためのコストがとても大きかったりする。

つまり小さな開発・リリースをするための前提として、決まったアプリケーションフレームワークを使うとか、決まった形でテストコードを残すとかしないと、結局ドキュメンテーションのしっかりした開発と同じ程度のオーバーヘッドが生じる。コード自体やバージョン管理システムの履歴をドキュメント代わりにするためには、それなりの決まりごとが必要で、それを省略すると悲しいことになってしまう。とはいえこれは凡庸なプログラマにとっては言わずもがなのことなので、Matz氏は省略しただけのことかと思う。

実際に外から楽天のサイトを見て、クールなアプリケーションだと思えるだろうか。もしも思えないとしたら、その中では多くのプログラマが無言で泣いているのだ。

2008-02-13

狭い世界

僕の幼いころ、「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という標語が巷間にのぼっていたが、僕はこの標語が嫌いだ。僕は日本や世間が予想以上に狭いと感じたことは、これまで一度としてない(狭いと感じたとしても、予想した程度にしか感じない)。日本は僕の行動範囲よりもはるかに広く、僕の世間は2億6千万の瞳のうち、きわめてわずかしか知らない(思えば当時はずいぶん矛盾したことを言っていたものだ。例えば先の標語は「ディスカバー・ジャパン」というキャッチフレーズとは真っ向から対立する)。

しかし実際に、世界は僕が思うより狭い。1929年にカリンティ・フリジェジュが考えたことだというが、世界中の任意の誰かから任意の誰かにたどり着くには、仲介者を5人はさむだけでよい、という。たどり着くまでには6人必要なのでこれを「六次の隔たり」と呼んだりする。これはスタンリー・ミルグラムの実験によってもある程度は確からしいことが結果として表され、注目を集めた。最初にソーシャルネットワークサービスを開始したとよく引き合いに出されるSixDegrees.com(本当に最初かどうかはわからないが、初期であることは間違いない。ほかにも1995年にサービスを開始したClassmates.comがある)やGREEの名前の由来は、この「六次の隔たり」にある。

ミルグラムの実験はアメリカで行われたから平均約6人という結果になったけれども、その後の実証実験については寡聞にして知らないし、僕の感想では実験が成立する条件もどうやら曖昧なようだ。ただ6人かどうかはわからないけれども、数えられないほど大きな数ではないことは確かだ。

ところが、これを実感することはめったにない。例えば喫茶店でたまたま隣り合ったひとが僕の「知り合いの知り合い(の知り合いetc.)」である可能性はそれなりに高いはずだけれど、日常的に振舞っていたらおそらく知りえない情報だ。

日本では平均的な知人の数は130人程度といわれている。しかしこの知人の数は均一に散らばっているわけではない。「知り合いの知り合い」の見込み数は130^2の16,900だけど、人間がかぶる率はそのネットワークが密になっている度合いに応じるし、当然ながら行動範囲にもよる。僕が茨城県北部のハンバーガーチェーン店に入った場合と、東京都心部のコーヒーチェーンに入るのでは、おそらく後者のほうが知り合いに出会う確率が高い。

いろいろな可能性を考えて、僕が「知り合いの知り合い」でつながっていそうな人の出没しそうな場所と時間を入念に選んでも、当たり前だけれど、隣に座った人と会話が弾む場面などそうはない。仮に話が弾んだとしても、僕の特定の「知り合いの知り合い」について話をする確率は低いし、その「知り合いの知り合い」を相手が知っていなければならない。よく「世間は狭いね」というせりふを耳にするが、狭い世界を偶然実感したにすぎない。狭い世界を実感するためにはかなりの博打を打たなければならないけれども、その程度の博打なら日常的に行っている、ということだ。ある特定の機会にその偶然を狙うことは難しいが、連続して続いているゲームではまま起こることである。

ことによると共通の「友達の友達」がいるけれども、その偶然を知らずに、黙って隣同士でコーヒーを飲む。どことなく詩的な情景ではないかと感じてしまう僕がいる。

2008-02-12

書評を鵜呑みにすべきではない

この数学書がおもしろい』(数学書房編集部編)を読みました。数学に携わる41人の人がおすすめの数学書を紹介するのです。

この手の「本の本」の常として「ふんふん、なるほど」というくらいの感想しか持ちませんでしたが、数冊読んでみたいな、という本に出会いましたし、それぞれの選者の思い入れや世界観にいっぺんに触れることができるのは楽しい経験です。

選ばれる本の傾向は結構ばらばらですが、やっぱり高木貞治氏の『解析概論』は大人気。僕の義弟(物理のPh.Dをとっている)もこの古い本を読んでいましたし、自然科学の道を選ばなかった僕もなぜか読んでいます。

その他いろいろな人が本をあげている中でひとり、本を一切紹介していない人(浦井憲氏)がいました。以下、浦井氏の文章を引用します。

あなたが物理学的な世界観で満足するタイプの人でない限り、分かりやすいとか、お勧めとか、あるいはあの本は良くないとか、そういった一般的書評を、決してうのみにすべきではない、ということです。
(中略)
少なくとも実際に手に取り、頁を眺め、これは読みたいという文系的直感があるなら、それを優先させるにためらうところなどまったくありません。


この言葉をじっくりと受け止めようと思いました。

「もしも」の世界を想像してときめく

もしもあなたが猫だったら?』を読みました。以前著者の『99.9%は仮説』を読んで楽しい思いをしたのですが、この本もなじみやすく面白かったです。

  • もしもあなたが猫だったら

  • もしも重力がちょっぴりだけ強かったら

  • もしもプラトンが正しかったら

  • もしもテレポーテーションされてしまったら

  • もしも仮面をつけることができたら

  • もしも小悪魔がいたならば

  • もしもアインシュタインが正しかったならば


こうした目次を見るだけでわくわくしてしまいます。そして読み進むにつれて満足が増してゆきました。思考実験と大きく構えなくとも、「もしも」の世界を想像してときめくだけで充分だと思います。翻って、「もしも」ではない世界を相対的に見ることができればなお、この本を読んだ甲斐があるというものでしょう。

人類の栄光をささえてくれるバカ

多くの人を魅了しているらしい『大江戸曲者列伝―幕末の巻』を読みました。感想を的確に表現するには、北杜夫の言葉を引用します。

バカには二種あり、始末に困るバカと、人類の栄光をささえてくれるバカとがある。さらに真理を述べれば、人類はすべて程度の異なるバカから構成されており、それ以外の人間はただの一人もいない

2008-02-10

『六番目の小夜子』感想

六番目の小夜子』を読みました。こういう感想を持つとつくづく年齢を重ねたものだなと思いますが、とても甘酸っぱく、爽やかで、不思議と好奇心と不安に満ちた生活をみんながおくってきたものだ、と思いました。誰しもにありそうでなさそうな、日常的で非日常的な、上手い舞台設定と物語だと感心しました。

ミステリと読んでもファンタジーと読んでもホラーと読んでも青春小説と読んでも、どこかしら何か足りない、けれどもしっとりと満足できる、素敵な小説でした。恩田陸さんの作品にははずれがないな、と不遜ながら思います。

僕の通っていた高校は、当時創立100年を迎える学校でした。通っていた大学も大学院も同じように明治期から続く古い学校で、それらの中で同じような、それでいてみんな異なる心持を持った学生たちが、それぞれに異なる時間を過ごしながら、その場所は100年以上も基本的には同じ枠組みを連綿と持っていることに感慨を覚えます。

自分の学生生活について人と話をしたくなる、そんな物語でした。

2008-02-06

メッセージ性

上野駅近くの喫茶店で、芸術系の学生らしき人が会話しているのが聞こえた。曰く「誰もが納得する絵ってどんなのよ?」「……。例えばモナリザとか?」等々。結構大きな声で話をしていたので部分的に聞こえてしまったのだけれど、興味深かった(往々にして学生の集団は話し声が大きい)。その学生らしき人は「メッセージがズバッと伝わるような作品ならいい絵って言えるんじゃない?」というようなことを言っていたが、僕はそれには異を唱えたい(その場所で議論に参加するほど厚顔ではないが)。

「芸術は技術よりも何を伝えるかが重要である」という意見があることは承知しているし、それも部分的には賛成できる。しかし良い作品には良いといわれるだけの背骨がしっかりしているものだ。僕も非常に拙く楽器を演奏するので大きなことは言えないが、演奏について話をしたい。

良い演奏はほぼ例外なく技術的に上手い演奏だ。下手な演奏には滅多に良い演奏はない。そして多くの人が感動できる演奏は間違いなく良い演奏である。「一部の人間だけが感動できる」と限定すれば演奏は下手でも構わないかもしれないが、それは演奏以外の何かが付加要素として加味されているだけだ。そして悲しいことに、多くの人に向かって演奏するときには、演奏者はその場に居合わせた人全員に向かうか、それとも全員を無視しなければいけない。自分の恋人のために作曲された歌は、自分の恋人以外の人まで巻き込まなければ自己満足でしかない。

絵画も同じことだろう。自分にとって特別な人にだけ向けた稚拙な絵はその人にとっては感動できるものとなりうるが、そうした文脈を離れて絵画として人の目にさらされたときには文脈はひとまず無視され、「作品と鑑賞者」というさまざまな個別の文脈で鑑賞される。その時に鑑賞者が何を感じるかは、あくまで作品自体から発せられるものしか汲み取ることはできない。

では上手い演奏ができたらその後はどうするか。これについては持論があり、自分が最も良いと思えるものを提供することだ。他人の判断などには目もくれず、自己満足を追求することで、受け入れてくれる人は受け入れるし、そうでなければ残念でした、ということになろう。もっと卑近なところで話をすれば、人に贈り物をするときもそうだ。送られた人が喜ぶかどうかはもちろん考えるが、多くの人に贈る場合には個別に考えていられないので、自分が提供できる最良のものは何かと考える。つまり「オレ様基準」がベターなのではないか、ということだ。

もうひとつ、誰も彼もに伝わりやすいメッセージを込めることにも異論を唱えたい。伝わりやすいものには伝わりやすいだけの抽象化や単純化がなされているはずだ。「古池や 蛙飛び込む 水の音」という俳句をひねったところで、伝わりやすい表面的な意味は極めて単純なものの、伝わるものは非常に複雑だ。言語を介さない芸術作品ならなおのこと、伝わりにくいものを伝えようとしなければならないだろう。そうでないなら交通標語でも大書しておいたり、着目ポイントに解説でも書き入れておけばよいのだ。

安易なメッセージを込めることには反感を覚える。「これこれの作品にはこれこれのメッセージが込められている」どなどと言われると、そのメッセージだけを言葉にすれば、もっと簡単かつ単純に伝わるではないかと文句を言いたくなる。

2008-02-05

おとなのバンド

先週末にバンドの練習をしました。

過去5年くらい、僕の所属している(しているようなしていないような)ビッグバンドは活動ポリシーがはっきりしていて、年に練習は4回、ライヴは毎年1回ワンマンライブを、メンバーは基本的に結成時から固定、というバンドです。

メンバーの高齢化が進んでいて、平均年齢はおそらく40代前半です。そうすると学生バンドのような勢いや意気込みがなくなり、ある意味熟練の境地に達しています。

練習でもその熟練ぶりは発揮されます。音楽性を追求するバンドではないので、

コンサートマスター:「そこ、縦あってませんね」
(注:演奏のタイミングがそろっていないことです)

演奏者:「それが味なんだよ」

コンサートマスター:「そこ、ちょっと味がきつすぎませんか」

演奏者:「善処します」

コンサートマスター:「そこ、アーテュキレーション揃えましょうか」
(注:演奏の表情がばらばらなことを意味します)

演奏者:「じゃあ、自然な感じで」

コンサートマスター:「ここもエコロジーな感じでお願いします」

というように、非常にアバウトな練習風景となります。これこそ楽しむための音楽で、聴かせるための音楽ではないとはっきりと割り切ったバンドだな、と自画自賛しています。それにしても練習が楽しかった。

2008-02-03

雪と執事と偉大さと

今日は休日出社をする予定だったけれども、朝に社長から電話があり、「雪が降っていたので無理して出社しなくともよいよ」とのこと。厚意に甘えて(社長に仕事を投げて)家でゆっくりすることにしました。

東京の雪は好きです。かつて田舎暮らしをしていたころはそれほど好きでもなかったけど、毎日無用なほどの音に囲まれて生活していると、雪が降っているときにほんの少し静けさを取り戻す感じが、好ましく思えるようになりました。

と、ほんの少しいつもよりも静かな環境で、以前人からおすすめいただいた『日の名残り』(カズオ・イシグロ)を読みました。印象としてはこの本は喧騒で読むべき本ではなく、こういう日にしっとりと読むべき本で、ちょうどよい読書の日を選ぶことができたと満足しています。

伝統的な英国というものを皮膚感覚としてわかっているわけではない僕としては、この本の伝統的な描写がよくわかるわけではありません。こういうところは育った文化の違いに苦しめられるところです。例えば伝統的な日本を風景として書いた本であれば、日本のいろいろな時代の古典をそれなりに読んできているのでよくわかるものですが。

でも立派な仕事をしようと追求する姿勢には普遍性があるのか、そうした部分は楽しめましたし、物悲しい自己反省や身の回りのくさぐさに対する認識の変化など、とても身にしみました。もちろん話としても語り口としても面白く(とても抑制されたユーモアが手放しで好きです)、素敵な小説でした。

2008-02-02

10倍アップするわけない

効率が10倍アップする新・知的生産術』をついつい読んでしまった。今では後悔しています。

こういう本を読む心理は、自分の生産性が低いことに悩んでいるためだろうと思うけれども、読んだからといって自分の生産性があがるわけではない。そもそも著者と僕とでは知的活動のフィールドが違い、著者の経験則は僕には当てはまらない。というよりも、万人に通用する知的生産術などありえないのではないかと思う。

それに、「知的生産」の定義にも思うところがある。すばらしい作曲をすることや優れた小説を書くことは間違いなく知的生産だろうが、ほかの人より10倍優れた作品をものした人は、著者の言うような実践をしているわけではないし、著者の言うようなことをしたからといって優れた作品を生産できるわけでもないはず。またホワイトカラーといわれる就業スタイルの人でも、僕になじみの深いプログラマなどは10倍の生産性の違いは当たり前だが、著者の言うようなことと無縁な場合が多いし、どちらかというとインスピレーションに近いものが生産性を支えているような気がする。

それでも僕は、藁にすがる思いで本書のようなものを読んでしまう。ナサケナヤ。

2008-02-01

「炎上」を考える

「炎上」といって真っ先に思い浮かぶのが『金閣寺』という人は珍しく、近頃ではブログ・SNS・掲示板などでの「炎上」が時たま話題になる。いわゆる「祭り」に関しては素敵な指摘(『カーニヴァル化する社会』)があるので、そちらを読むととても難しいことが書いてあるのでぜひ参照いただきたいが、もっと卑近な例で考えてみた。

壊滅的につまらない結論からいうと、結局ニュータイプでもない限り、他人はわかりあえないから「炎上」する、ということだ(正義や面白おかしさを振りかざして特定個人を攻撃する、いわゆる「祭り」は考えない)。

大雑把にいって、何かをわかろうとしたときにはまず対象を観察し、それを自身の認識スキーム(シェマ)に対応させて理解する。あくまでも自分の内面化しているシェマに対応させる(あるいは自分のシェマを変化させる)わけだから、デジタルな同一化ではなく曖昧なものだ。何も理解が不可能であるということではなく、理解の結論として選択される認識状態の可能性が多すぎる、ということだ。

そうした不完全な理解には、かなり本質的な理解から、表層を眺めただけの理解まで、様々なレベルがある。僕のような凡人はシェマが小さく硬直化しているのと、理解のコストが高いためあまり本質的なところまで踏み入りたくないので、表層的な理解が主なものとなる。

表層的な理解になるからこそ、一部分だけをとってきて、一言物申したくなる。当然それは書いた人からすれば勘違いもはなはだしいので、書いた人はさらに一言物申したくなる。しかし残念ながら、書いた人は読む人を過大評価していて、読者は「ある程度」書かれている内容を理解していると思っているのだ。「ある程度」にはそれこそブエノスアイレスから東京までくらいの幅(もっと正確に言うとM78星雲から銀河系までくらいだろうか)があり、それを新橋から銀座までくらいに思ってしまうのだ。

より理解をすり合わせるためには何が必要か。「炎上」を防ぐためには、より多くの情報の交換では役に立たない。そもそも情報が多くなるからこそ「炎上」するのだ。一言でいうと、もっとゆるくて曖昧な理解を促進せよ、ということになると思うが、それについて書くのも面倒になってきたので、いつか気が向いたらつらつら駄文を綴るかもしれない。