2007-04-14

女性専用車両の作法

僕は朝の女性専用車両に乗ったことがないので、その中でどのような事件が生じているか知らない。だから「新製品!! ラッシュ時の女性専用車両の空気の缶詰」とか下らない妄想をたくましくするわけだが、配偶者から新たな知見を得た。

どんな時にも電車内でお化粧をする女性はいるものだが(これを僕は好ましく思っていない)、それらは大概チェック程度の軽いものだ。しかし配偶者は、女性専用車両で顔の脂をとり、乳液をぬり、ファンデーションをはたき、きっちりとお化粧をするおばさんを目撃したらしい。

ここまでなら知見と呼ぶほどのことではないが、配偶者の鋭い観察眼はおばさんの化粧後の顔と化粧前の顔が全く同じだったことに向けられ、その一点を憤慨していた。

お化粧にも女性専用車両にも縁のない僕からしたら、おばさんはマナーのなっていないナチュラルメイクの達人だろうとか思うだけだ。しかし経験豊富な配偶者は、電車内でお化粧をして「お見事!」と拍手できるものなら許すというし、そのような見事な化粧を見たこともあるらしい。

女性専用車両におけるお化粧の作法とは、周りの人にその技術をアピールすることであるという、どことなくスピーカーズ・コーナーを思わせるものであった。これを新たな知見と呼ばずになんと呼ぼう。

2007-04-12

見聞をひろめる

我が家では近頃コーヒー禁止令をしいている。コーヒーの匂いが配偶者の吐き気をひどくするためだ。また、以前から屋内禁煙令がしかれている。配偶者が煙草の匂いを嫌うためだ(考えてみるとどうしてこうも彼女の都合にあわせているのだろう?)。

しかし僕は愚かにもコーヒーと煙草を非常に好んでいる。以前から煙草は屋外ですっていたけれど、コーヒーを屋外でいれるのはちょっと面倒だ。そのため、今日どうしてもコーヒーを飲みたくなったので、近所の喫煙可能な外食店にいった。

席について本でも読もうかと思ったが、ちょっと騒がしいので読むことを諦め、ぼんやりと周りの音が聞こえてくるままにまかせてコーヒーと煙草を楽しんでいた。するといろいろと新鮮な情報が耳に入ってくる。普段なら意識的に聞かないようにするかBGM(ちなみに60年代ハードバップの有線放送かなにかで、聴いたことのある演奏ばかりだった)に集中するのだけど、聞こえるにまかせてみると、これはこれで面白かった。

A. 専門学校生らしき女性4人組
ノートとテキストらしきものを広げて大きな声でいろいろなことを話している。
「ほら、なんだっけ。特定非営利法人?」
「NBO」
「あっ、ビジネスね」
「そうそう」

僕が口をはさむのもどうかと思ったのでそっとしておいたけど、「三人よれば文殊の知恵」という古き英知はうまくはたらいていなかったようだ。彼女たちの成績に幸多かりしことを願う。

B. 看護師らしき女性2人組
職場の悪口をいろいろと話している。そう、たしかに職場の悪口は楽しい。特に上司や組織全体の悪口は格別だ。しかし会話の中に彼女たちが勤務している病院名が頻繁に出てくる。しかも結構目立つ病院だ。

「佐々木さん(仮名)ったらナースコール鳴ってても出ないんだから」とか、「先生よりも助手の方が情報を持ってるなんておかしいと思わない?」とか、「定時にあがれないなんて、冗談じゃないよね」とか、「職場環境の向上なんてさ、こんな余計な仕事してたんじゃ無駄じゃない」とか話をしている。

僕はその病院には絶対にいかないようにしようと思ったが、彼女たちの労働環境に幸多かれと願う。

ほかにも、僕には理解できない言語のカップルや、小学校入学をひかえた幼稚園児のお母さんとか、いろいろな会話が耳に入ってくる。まあこういうのに聞き耳を立てるのも悪趣味なものだが、聞こえてくるものはしょうがない。家で寝ているよりも、非常に見聞がひろがった。

2007-04-02

正しい日記の書き方

そもそも日記を書く(日記をつける)ということからしてかなり不自然な人間の行いなので、書かないのがもっとも正しい在り方だと思う。

それでも書くとする。正しく日記を書くためには、何のために書くかを明確にしなければならないが、自分に溜っているものを吐き出すためとか、備忘とか、近況報告とか、わかる人にしかわからない暗号通信文とかは、日記としては不純である。では日記の目的はなにかといわれると、僕にはわからないけど。

「しょせん我々はそれほど他人様に知らせるべき日常をおくってはいない」ということが前提となる。知らせて有用な情報ならば、日記という形式とは違う形で知らせるべきである。例えば業務報告、論文、などなど。従ってかりに日記を書くとしたら、他人様に知らせても有用ではない情報が日記の主な内容となる。

他人様に知らせて有用ではない情報をあえて知らせる積極的な理由は、ひとつは自己顕示である。例えば「本日ビル・ゲイツ氏と会食。財団の方向性についてサゼッションを行う」や、「奥田元会長から見舞いの品届く。相変わらずまめな奴だ」など、他人様が読んでも何のおもしろみもないことを書き、自分の存在をアピールする。

しかし我々76世代は、多少なりとも謙譲を美徳とする文化によってソーシャライズされている。その価値観に照らしあわせると、自己顕示など恥ずかしくてできたものではない。

第二の理由は単なる記録である。後世の民俗学者が楽できるように、現代の習俗を残すという崇高な理由がある。しかしこれも、同時代を生きる他人様が読んで面白いわけがない。例えば本日の僕の生活を記録すると、「05:00頃起床、しばらく憂鬱な気分のわるさに苦しむ。06:00頃多少前向きになってきたので、枕元にある愛用のThinkPad X22の電源を入れ、Debianを立ち上げる。自分のアカウントでログインし、emacsをターミナルから実行し、howmを立ち上げる。前日の入眠時間を記録し、思いつくままに現在の状況をメモする。ToDoをチェックし、今日するべきこと(病院に行くこと、某社のモデムを返却すること、定期券の払い戻しをすること、配偶者の食べられる食材を購入すること、配偶者の食べられそうな料理を用意すること、充分な休息をとること)を整理する。w3mのバッファをを立ち上げ、del.icio.usでとあるタグがつけられているサイトをチェックする。現在/.Jでモデレータになっているので、ひととおり流し読みし、三つ程モデレートする。iceweaselを立ち上げ、購読しているRSSフィードをチェックする。購読しているのは……」と、延々と続き(これでもまだ07:00になっていない)、これを他人様が読んでも面白くもなんともない。

したがって、特別有用な情報があるときをのぞき「書くべきことは何もない」と書くのが正しい。

もちろん「現在の日記はコミュニケーションツールである」という反論は予想されるので前もって言っておくが、我々76世代は「沈黙は金」という文化によっても多少なりともソーシャライズされている。無意味なおしゃべりは楽しいものだが、30歳ともなろう大人がおしゃべりに興ずるのは、文化的には美しいことはない。

先ほど「書くべきことは何もない」と書くのが正しいと書いたが、さらに日記ともなれば毎日続けるものである以上、「今日は」と前につけると時系列を記録できて便利である。間違えて「今日も書くべきことは何もない」などと書くと、「今日も何もないのか。それでは明日こそ」などと、生活するうえで日記をつけるという本来の順序が逆になり、日記をつけるために生活するという強迫観念にかられてしまう恐れがある。

以上論じてきたように、日記をつけて他人様に読ませる以上、正しい記述は以下の一文のみである。

「今日は書くべきことはなにもない」

毅然とした態度でこれを一週間、一ヶ月、一年と連続させることにより、没我の境地にいたることのできるひとも中にはいるかもしれないが、日記をつける目的は悟りを開くことではない。あくまで厳然と日々を記すことである。

さて、今日は書くべきことは何もなかった。以上日記を書いたつもりではない。(おそらくまだ続く)

2007-04-01

フェルマーの最終定理

四月一日に相応しくバカバカしいジョークを求めよ。この問題に関して、私は真に驚くべきジョークを思いついたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。