2009-04-24

『ダイバーシティ』

ダイバーシティ』(山口一男)を読みました。タイトルの「ダイバーシティ」という単語は経済学や経営学などで最近よく使われています。けれどもその使われ方はいたって即物的に、「経済発展のために多様な人材を活用する」というような解釈となっています。それに対して本書ではもう少し広い意味で、多様性を肯定的に考える思想として紹介されています。

本書の前半は、社会学のいくつかの概念を肴にしたファンタジー風の物語です。ここで取り扱われている概念は「囚人のジレンマ」「共有地の悲劇」「予言の自己成就」「アイデンティティ」「ダイバーシティ」「カントの道徳哲学」「規範と自由」「統計の選択バイアス」「事後確率」といったものです。こうした概念がベースにありますが、物語はいたって平易な語り口ですので、馴染みがなくともすいすいと読めると思います(逆に馴染みがあると退屈に感じるでしょう)。物語形式にして学術的な話題を取り扱うものは多数ありますが、本書はそのなかでもよい作品だなと僕は感じました。似ていると感じるものをあえてあげるなら、レイモンド・スマリアンが哲学や論理学を扱った物語でしょうか。大抵の物語風解説書というものは、いつの間にか講義形式になったり、ソクラテスもかくやという高度な対話をしてしまったりするものですが、本書は肴になっている概念を大胆に単純化して、すごくすっきりと仕上がっています。

ところで「ダイバーシティ」ですが、本書でも述べられているように、金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」でこれ以上なく見事に表現されているのですよね。カタカナとしては新参の言葉ですが、何を今さらという気も少しします。

後半は著者が担当するゼミでの対話(著者の一人称形式)のような形をとっています。ここで取り扱われるのは一言でいえば日米文化比較ですが、規範や罪の意識を内面化する(あるいは社会化する)基準の違い、というようなことを扱っていて、それをイソップ物語の日米での違いから語りおこしていくのは読んでいて面白いです。この手の本の例にもれず、スペシャルな学生たちが登場しますが。

2009-04-20

中・高生の恥ずかしい頃

"文学少女"と恋する挿話集 1 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。本書よりはこれまでのシリーズ本編のほうが僕の心をぐっと掴んではなさないようです。この短編集は本歌取りではないし、肝心の物語を読み解く場面がないうえ、本編との絡みがあまりないので、シリーズものであることのメリットをあまり享受していないような気がしました。それに心葉くんのことを「受け」だなんていう遠子先輩はちょっと。

それでも、読むとむずむずさせられ、中学生や高校生の恥ずかしい頃をしきりに思い出させられました。僕も中学生の頃はバレンタインデーにワキワキしたりしたものです(結局中学生のときにもらったことはありませんでしたし、高校は男子校だったので無縁でした)。恋らしきものもしたような気がするし、恥の多い10代をおくってきました。

お酒の席などが延々と続くと、いつしか話題に隙間がうまれたりします。そうしたときにうってつけなのが恥ずかしい話。もちろん自分の恥ずかしい話などこれといって披露したいわけでもないのですが、話しているうちに「僕はもっと恥ずかしいことをしていたに違いない」などと自分の恥部を探し、曝してしまったりするのです。マゾっ気というのとは少し違うでしょうけれども、皆が自分の恥ずかしい話をさらけ出すという快感。本書はこういうのに似ています。

その他の近頃読み終えた本。
ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)』(池田信夫)
哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)』冨田恭彦
資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言』中谷巌

『ハイエク』と『資本主義はなぜ自壊したのか』は真っ向から衝突するような内容。よくいわれる「新自由主義」の定義が経済学ではっきりしていないからか、後者は新自由主義を批判するし、前者はハイエクを紹介しながらその経済学的な重要性を解説しています。いずれにせよ、人間が理性的な存在であるということに疑問符をつけているのは両者とも同じで、あとは自由をどう見積もるかというだけのような気がします。

二者の視点がもっとも対立しているのは、日本社会で経済格差は広がっているのかそうではないのか、もし広がっているならそれに対してとることのできるアクションは何かというところ。よく目にする話題だけれど、格差って本当のところはどうなっているのでしょうね。僕にはどうもよくわかりません。

2009-04-08

『日本語が亡びるとき』

文学作品ではない分野でのよい本を読むと、良きにせよ悪しきにせよ色々な感想を持ちます。逆のことを言えば、散々悪いことを言われる本は実はよい本ではないかと思うわけです。今回読んだ『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(水村美苗)は、僕にとってのよい本でした。どこかの誰かみたいに「すべての日本人が読むべき」とかは思いませんが、日本語や文学や科学や情報流通に興味があるなら、ぜひ読むべき本でしょう。

すでに読んだ人にもまだ読んでいない人にも迷惑でしょうが、僕なりに本書の骨子を要約すると、近代以前にラテン語や漢語が特権的に占めていた「普遍語」による叡智の蓄積は、現在英語によってなされているので、近代を通じて表現力が鍛えられてきた「国語」は否応なしに(亡びるとまでは言わなくとも)変質する、というようなことです。その変質は、著者によると質的衰退なのかも知れません。

もう少し長く言い換えます。この「普遍語」は、歴史的には「現地語」で情報が流通していた時代の後に、ある程度同一な世界で共通言語を用いる必要から選択されたが(これが近代以前のラテン語など)、この言語はおおよそ複数言語を用いる者によって使われてきた。さらに時代がくだると、国民国家の形成と並行して叡智となりうる情報量の増大により、「現地語」をもとにつくられた言語である「国語」で情報が流通するようになり、普遍的な情報も複数の「国語」で語られた(これが英語・フランス語・ドイツ語など)。この時代に様々な歴史的偶然と先人の努力により、日本語も普遍的情報を表現する言語として日本人によって用いられた。しかし現在はかつての単なる「国語」だった英語が「普遍語」として用いられているので、叡智は英語で蓄積されるだろう。かつて日本語など各「国語」が使われてきたのは様々な物理的制約と思想的な恣意性によるものだったが、現在はそうした障壁が低くなっているので、隔絶された言語としての日本語を用いて普遍的情報を語るコストが高くなっている。したがって今後は日本語を用いるよりも英語を用いる方が普遍的情報を扱うには便利になり、日本語の知的・質的水準が低くなるといった内容でした。

著者の議論は論旨が明快で、日本語に関して憂えているところにもいちいち共感してしまうのですが、さてさて、本書に色々なツッコミどころはありそうです。細かなところはさておき、僕は3つくらいの論点に対して違和感を持ちました。

まずは現地語について。僕は、現地語の文学的重要性は薄められたとしても必ず残ると思っています。本書の中でも述べられているように、叡智には文脈に依存しないものとするものがあります。前者を代表するのは科学でしょうし、後者を代表するのは文学でしょう。前者が普遍性や論理性を重視するならば、後者は呪術性や情念を重視するかも知れません。そして現地語のもとになる話し言葉は、共同体の情報伝達に有意義であることを最重視していると僕は思っています。現地語は普遍的な情報を扱うには不向きですが、同一の社会的背景を持っている人とのあいだで情報を伝達させるにはとても便利です。例えば色の名前を翻訳するのはときとして非常に困難が伴うでしょうし、情感の表現は現地語に勝るものはありません。しかしこれらの表現されるものは共通の文脈を持っていなければ他人には理解が難しいものであり、普遍的に流通されるものではありません。

ですから現地語による文学は、なにはともあれその現地語を用いる人たちの生活や社会や環境に根ざしたものとなっていることでしょう。ならば、すでに「大きな物語」の有効性が疑われている現在、そうした「小さな物語」の重要性はさほど減じることはないのではないかと思うのです。問題は優れた知性がそうした現地語による芸術表現をするかという点ですが、日本語が「現地語」と化しても、日本のような社会形態の中で表現される内容ならば、日本語で表現せざるを得ない状況は残るのではないかな、と思うのです。こう考えたときに、日本語で表現せざるを得ない状況がなくなるのは社会形態がフラットになった場合ですが、いくら情報が世界的に流通する環境になったとしても、身体性に由来するような暗黙的な知性は極めて情報伝達が難しいので、まだまだ完全にフラットになる状況は遠いだろうと思うわけです。

次に日本語で使われる文字に関して。著者は日本語の文字について「漢字・ひらがな・カタカナ」があり、それぞれ使い方によって表現される内容は異なるといっています。例として萩原朔太郎の「ふらんすへ行きたしと思へども」を「フランス」に変えたり、現代語にかえたりして見せます。確かに受け取れるもの・表現されるものはおおいに変わるのですが、僕としては文字そのものの持つ呪術性や文化的重層性に触れてくれるとなお嬉しかったです。

日本で使われる文字は中国で使われる文字と同じく、古くは占いのためにつくられました。さらには占いを司り、まつりごと(祭・政)を執り行う権力者の用に益するものとして、その一文字一文字に多くの意味を与えられてきました。この分野に僕は詳しくはありませんが、文字の歴史を繙けば表意文字でなおかつ表音文字であるような存在は他にもあるとして、いまだに象形文字的な性質も持っているものはそう多くはないでしょう。文字自体が異界とのつながりを持つもので、さらにはその文字によって記されたものが発音されたときに呪となるような文字体系は、単に表される内容のみの話ではありません。文字を使うことによって、壮大な言い方をしてしまえば鬼神をも哭かしているのです。

そして書き言葉と手書き文字に関して。著者は日本語が亡びつつあると警鐘を鳴らしていますが、著者が言うように日本語の叡智の主なものが書かれたものだとするならば、すでに亡びています。その証拠に、ほとんどの人は100年昔に手書きで書かれたものさえ読めなくなっているではないですか。なるほど活字ならば100年前の文章でも容易に読めるでしょうが、その頃の肉筆は仮にペンで書かれていようと、ほとんど読めたものではありません。その点アルファベットのような簡単な記号ならばかなり古いものでも判別可能です。

日本語(中国語もそうですが)の素晴らしさとして文字の多様性をあげるならば、その文字を書くことも読むことも日本語の知識でしょう。その日本語の知識は活字に慣らされ、人間の手による芸術的な記号を読めなくなっているのは、すでに言語の伝わり方として不完全なものになっているとしか思えません。明治以降、特に第二次世界大戦後の日本語教育で標準的な活字を学んだことにより、日本語は手書きの文字としては過去と決別しているのです。もしも近代日本文学を芸術の一つの高みとするならば、それはその作家たちが書いた文字を読めることをもってその伝統を受け継いでいると言えるのではないでしょうか。

まとまらないけれど、力尽きたのでこれまで。