2008-09-30

レックス・ムンディ

レックス・ムンディ』(荒俣宏)を読みました。

いやはや、巨人アラマタの凄さは小説でも健在だと感じました。『ダ・ヴィンチ・コード』と『パラサイト・イヴ』と『神々の指紋』を足して、アラマタ流の世界観を盛り込んだ感じです。と書いても、僕の感じたアラマタの凄さが上手く伝わるかどうかわかりませんが。

博覧強記の著者が、古代巨石文明やら人類の進化やら神やらキリストやらを、一冊の決して長くはない小説にまとめてしまうところが恐ろしいです(『ダ・ヴィンチ・コード』なんて文庫で三冊ですよ)。ただし、一冊にまとめてしまったからこそ、細かいところにもっと説明があった方がいいんじゃないかな、という感想も持ちました。例えば先日日記に書いた『ウイルス進化論』のような内容も含んでいますので、ヨーロッパ史やキリスト教史や考古学や風水や遺伝論や、といった諸々のことに通じていないと、小説のどこまでが事実でどこまでが創作か、という線引きが難しくなってしまいます。

この作品は先が読めます。ですからストーリーは平凡と言ってしまえば平凡なのですが、その先読みを次々と理由付けていくところに、僕は一番の魅力を感じました。その理由付けには、それほど無理もなくトンデモ科学やら信仰やらを盛り込んでいますし、もしもノンフィクションとしておもしろおかしく書いても、さほど違和感は感じないでしょう。それがこの巨人アラマタの凄さです(というか、著者のノンフィクションでも、この小説の題材は扱っています)。

堪能させていただきました。もっと長い小説になってくれれば、もっと堪能できたことでしょうが。

2008-09-29

ウイルス進化論

ウイルス進化論』(中原英臣、佐川峻)を読みました。

これは面白いです。ダーウィンの進化論や、ネオ・ダーウィニズムの主張を知らなければ読むべきではないと思いますが、それらを知っているなら斬新な視点やダーウィニズムの反駁の仕方など、読むべき点は多いです。論理的な無茶もかなりしていますが、それを含めて議論の仕方は面白いです。

本書ではウィルスによって遺伝子が運ばれ、とある生物の遺伝子にそのウィルスの遺伝子が組み込まれ、生物の遺伝情報を変化させることによって進化が起きるという主張をしています。確かにレトロウィルスは逆転写酵素を持ちますし、ウィルスの遺伝情報で宿主の遺伝情報を書き換えます。つまり、進化はウィルスによる伝染病である、という主張です。

ツッコミどころはとっても多いので、それらのところに難癖をつけるのも楽しいですが、とりあえず著者らの主張を全て飲み込んで理解しようとすると、凄く違う世界が開けてくるので、それを空想するのは楽しい経験です。僕は生物学者ではない素人だけれども、どうも怪しいと思わせるところが多いので、きっとこれはトンデモ科学の一種でしょう。

特に進化の方向性に関する議論には慎重にならざるを得ません。下手をするとインテリジェント・デザイン説のようになってしまう危険性もあります。また大きな問題としては、カンブリア紀に代表されるような環境の激変期に非常に多種の生物が発生したことはウイルス進化論では説明できません。種の増減(特に増)がこの説ではうまく説明できないのです。

ですが読み物として楽しいです。信じてしまうとちょっと問題ありでしょうけれど、ウィルスによって進化する可能性もある(レトロウィルスによって遺伝情報が書き換えられるのは確かですから)、ということは保留しておいた方が良いかもしれません。つまり本書の副題である「ダーウィン進化論を超えて」というのではなく、ダーウィン進化論の一部を補完する内容にはなり得ます。著者たちは根本的に相容れないと考えているようですが。

まあ、進化論自体が仮説ですので楽しみ方は色々ですが、とりあえず素人としては色物よりは定番を信頼しておけばいいかな、と思います。

2008-09-26

『あたし彼女』っていうか

第3回日本ケータイ小説大賞に『あたし彼女』という作品が選ばれたそうです。ここのところケータイ小説に興味を持ち始めたし、PCから全文閲覧可能とのことなので、早速読んでみました。

苦行、ってゆーか

なにこれ

とか

フツーに

途中であきらめる

みたいな

全然あり?

審査員って

本当に……本当に

ぜんぶ読んだのかな

なんて

疑う

あたしもアレだけど

言葉のリアリティーって

みんなこんな言葉で

書いてるわけ?

バカばっかり

ってゆーか信じれない

信じたい

ってゆーのはあるけど

言文一致?

あ、あたし難しいコトバ

使っちゃった

みたいな

という感想でした。電車の中で携帯電話をいじっている人のうち、仮に1%がこの手のケータイ小説を読んでいるとしたら、空恐ろしくて。それよりも瀬戸内寂聴さんがケータイ小説に挑戦した、という記事を読んで、僕もこれくらいの境地に達したいものだ、と反省する次第です。

NHKにようこそ!

NHKにようこそ!』(滝本竜彦)を読みました。いや、勢いに任せて読んでしまった、という表現の方が正しいかもしれません。

内容を自分で要約(?)するのも面倒なので、「BOOK」データベースから引用します。

俺は気づいてしまった。俺が大学を中退したのも、無職なのも、今話題のひきこもりなのも、すべて悪の組織NHKの仕業なのだということを!…だからといって事態が変わるわけでもなく、ずるずるとひきこもる俺の前に現れた清楚な美少女、岬ちゃん。「あなたは私のプロジェクトに大抜擢されました」って、なにそれ?エロスとバイオレンスとドラッグに汚染された俺たちの未来を救うのは愛か勇気か、それとも友情か?驚愕のノンストップひきこもりアクション小説ここに誕生。


この文章を鵜呑みにした僕が愚かでした。罵倒したいところはいくらでもあるけれども、とりあえずひかえます。しかしこの小説が人気だったことが不思議です。

良い点としては、ひきこもりの妄想が描かれているところでしょう。描かれていると行ってもリアルだとかいうレベルではありません。この程度の描かれ方ならどこぞの掲示板を読めばわかるくらいです。悪い点は多々あるけれども、文章が稚拙、内容が薄い、細部のリアリティがない、ストーリーを先読みできるしそれを裏切らない、既に先人によって深く掘られたテーマをもう一度浅く掘っている、などなど。あ、罵倒はひかえると先に書きましたが、この程度では十分な罵倒ではありません。

途中で読むのをやめようかと幾度も思いましたが、最後まで読み切った自分を褒めてあげたいです。

すばらしき愚民社会

すばらしき愚民社会』(小谷野敦)を読みました。大雑把に言うと時事評論の本です。

僕は雑誌を読まないし、論壇にも興味をまったく持っていませんので、本書に登場する誰かの主張などを(単行本になったものを除いて)吟味することができませんでしたが、著者の主張は極端ではあるもののおおむね正当で、ころころと主張の転向する時事評論家の書いたものではなく、まじめな学者の書いたものであるという感想を持ちました。ただ、社会学を知らずに社会学者には歴史性がないなどと宣うのはやめて欲しかったですね。一部の有名社会学者やある部門(例えば数理社会学)に歴史性がないだけです。

本書の主張は多岐にわたっていて、中心となるのは「大衆論」ですが、ここでいう大衆とは実際は学者社会や知識人社会を指しています。

目次は以下のようになっています

序 大衆論とその後
第一章 バカが意見を言う世の中
第二章 迷走する階級・格差社会論
第三章 日本の中間階層文化
第四章 「近世」を忘れた日本知識人
第五章 「説得力ある説明」を疑え! 丕ケ丕ケカール・ポパー復興
第六章 他人を嘲笑したがる者たち
第七章 若者とフェミに媚びる文化人
第八章 マスメディアにおける性と暴力
第九章 アカデミズムとジャーナリズム
第十章 禁煙ファシズムと戦う

僕の場合、要は書いてある内容を咀嚼できれば、右だとか左だとかはどうでもいいのです。本書の場合は過激すぎる表現や、著者の個人的交友範囲や肉体的・精神的問題に端を発する議論が散見されますが、おおむね納得できます。ただし、新聞・雑誌・TV・ラジオなどの、いわゆる日本論壇やらに精通していないとすんなりと内容を理解できないのが残念です。僕はそれらのどれにも興味をまったく持っていませんので。

面白いか、というと微妙です。論理展開はきわめて学者的で、要するに元資料を点検し、根拠となる証拠を出し、他者にも再現可能な形で陳述する、という王道です。その王道が批評などの世界では無視されているのか、著者は激しく攻撃していますから、その点少し不快になります。しかし議論を追っていくのは面白く、それでいて単調な(つまりかなりまっとうな)結論になりますのでつまらないし、様々な内容を扱っているため批判に対する批判に徹したりしているのもつまらない。つまりどちらとも言い切れません。

学問は面白いけれども、そのほとんどの部分は地道な単純作業やら何やらで埋まっています。想像力の飛躍や発想の転換や視点の変化などという大それたことは滅多に起こりません。そのつまらなくて地味な世界を無視するような「派手な」言論には魅力はあるものの、正当性は疑わしいものもありますし、資金面などの利害関係もあります。ですから僕は新聞・雑誌・TVなどへの興味を失ったのですが、著者は新聞にも雑誌にも目を通し、Web上での議論にも目を通し、時事評論的な単行本にも目を通し(そして質問や批判の手紙やメールを書き)、ずいぶん忙しい(あるいは暇な)人なのだな、と感心せざるを得ません。

もてない男』は素晴らしく面白かったな、と回顧してしまいます。

2008-09-25

ユージニア

ユージニア』(恩田陸)を読みました。

多分、傑作なのだと思います。というのも語り手が様々なのに、ひとつのまとまりのある作品になっていますし、聞き手である(文章の書き手である)人物の姿は杳として見えません。読みすすめるごとに不安になる小説でした。

傑作かどうかというのは、僕の場合はその作品にたいして何かをすぐに言えるかどうかで大体決めてしまうのですよね。で、本書の場合はきちんとした感想がすぐに言えません。

ミステリだと思って読んだから所々読み返したり、読み進めながら不審点に戻って確認したり、内容の整合性を頭の中で確認したりしましたが、語り手が様々なこと(多分作中に出てくる「本」も語り手の一人だったのでしょうね)と聞き手が見えないことで、漠として確信が持てないのです。

今更ながら断言しますが、これはいい作品でした。

2008-09-24

LOVE

LOVE』(みうらじゅん)を読みました。

新古書店で100円だったので購入したのですが、冷静に考えると、こういう下らない(下らないのは大好きです)エッセイの値段が100円、僕がこの本を読み終えるまでに使う時間が1時間くらい。そうすると機会損失としていくらのマイナスになるのだろうな、などと合理的な頭は考えてしまうのですが、みうらじゅんさんのくだらなさが好きなので買って、読みました。

イントロの言葉が秀逸です。


そう、愛なんてちっぽけな人間には一つしかないんだ。無報酬であげられるものは本当に一つしかないに決まってる。でもそんなこと言い切ったらモテなくなるから言いたくないけど

蓋し名言です。ただしある種の天才であるみうらじゅんさんの愛は、地中に湧く泉のように汲めども尽きず、エロやら仏像やら笑いやら漫画やら怪獣人形やらレコードやらに惜しみなく注がれています。まあ結局はバカ話なんですけど。

「かわいい女の子と面倒なことを省略してエッチしたい」とか「あれが欲しい」「これが欲しい」とか「こうすると、きっと僕はかっこいい」という僕もかつて(今でも?)持っていた少年の幻想を未だに持っていて、さらにそれを本にしてしまうあたりは凄いです。

あまり人にすすめられる本ではありませんが。

2008-09-23

θは遊んでくれたよ

θは遊んでくれたよ (講談社ノベルス)』(森博嗣)を再読しました。講談社ノベルズ再読として『φは壊れたね』を読んだので、その流れで。

再読しての感想は、『φは壊れたね』とほぼ同様です。スーパーお嬢様である西之園萌絵のお嬢様ぶりも紙数の都合かあまり描写されなくて萌えきれません。犀川先生や国枝先生の切れのある洞察や台詞も見あたりません。登場人物たちの魅力を味わうにはもっと描写が必要かと思われますし、肝心のミステリ要素は先が読めてしまうくらいに単純になってしまっていまし、学生も本作品出版時の学生とは思えないほど優秀です。

ちなみに僕の非常に親しい友人はC大学と思われる大学に無試験で入学しました。高校時代の彼の成績は下から数えた方が早いくらいのものでしたが、が、大学内ではトップクラスの秀才だったらしいです(無論大学で自分のやりたいことに専念できる、という環境もあったのでしょうが)。

本作品とはそれほど関係ありませんが、背後に見え隠れする天才である真賀田四季博士も、ソクラテス・プラトン・アリストテレスや、ニュートン・ガロア・アインシュタインなどの過去の天才たち(選択は適当です)と比べると、いかにも抽象的思考と合理性を追求した天才の一側面だけを強調した人物に思えてしまいました。つまり天才の複合的な人格をうまいこと排除して(この辺は四季シリーズに詳しいですが)いるので、その天才が平板に思えてきてしまうのです。

さらにいうと、本書の随所に引用されているJ・S・ミルの『On Liberty』は、引用されている箇所だけを読むと人間の理性を最大限に発揮するためには、というような印象を受けますが、『On Liberty』の中心となる主張は、「他者危害の原則」といわれる、人間の行動を制約するにはどのような条件が必要か、というものですので、真賀田博士の行動とは正反対となります。

こんなに悪口めいたことを書いているけれども、やっぱり僕は森博嗣さんの書いた「ミステリィ」が好きなのですよね。特に犀川&萌絵シリーズやVシリーズには痺れました。その名残でその後の作品も読んでしまう、という流れです。やっぱり作者は凄いです。

もうこのシリーズを再読するのはやめにしようと思いました。再読するなら前のシリーズですね。もう何度再読したかわからないくらいですが(四季シリーズは除く)。

2008-09-22

φは壊れたね

φは壊れたね』(森博嗣)を再読しました。講談社ノベルスを読みたくて、再読したことのない作品を選んだ結果、Gシリーズと相成りました。刊行当初は既に惰性となって森さんの作品を読んでいました。

犀川&萌絵シリーズやVシリーズと比べると、一冊の文章量が少ないせいか、それともそれまでのシリーズの積み重ねがあるせいか、Gシリーズにはあまり魅力を感じていなかったのです。トリックは平凡になり、ひたすらキャラ萌えの作品になってしまったような気がして。実際犀川&萌絵シリーズの登場人物が出てこなければ魅力半減してしまうような気がします。

で、再読してもやはり同じ感想でした。文体が好きとか詩的な雰囲気が好きとか、そうしたところを除けば、ミステリとしてはあまり読むべきところのない作品なのではないかな、と。当初の作品にあった理系学生のリアリティも薄らいでいますし。

さて、『φは壊れたね』を読んだはいいものの、Gシリーズ全てを再読しようか悩んでいます。

モーダルな事象

モーダルな事象』(奥泉光)を読みました。

本書はミステリの体裁をとりながら、ファンタジーだとか様々なごった煮のスタイルで構成されています。おなじみのトマス・ハッファーであるとか、フォギーとか、野々村鷺舟、宇宙音楽とかも出てきますし、ユーモアにあふれる文体も健在ですので、奥泉的世界に親しんだ人なら突飛な展開にも現実にはあり得ないようなファンタジー展開にもついて行けるだろうと思います。

はじめは筒井康隆さんの『文学部唯野教授』みたいなものを想像していました。僕の友人たちが勤めている大学の惨状とよく似た大学の内側がおもしろおかしく描かれていたりして、その世界になじみのある人ならば「うんうん」と頷けます。次第にミステリ色が濃くなり、いつも通りのトンデモ超文明やらファンタジー的世界も絡んできます。

著者の本を読むといつも思うのですが、奥泉さんは日本文学に精通しているはずなのに、あえてそれを壊したり茶化して見せるのがとても上手なのですよね。怜悧な文体からいきなりしまりのない文体に移行したり、伝統に則った「ありのまま」を完全に無視をしたり、作中に作者や過去の日本文学の作品を織り交ぜたり。そういったところも含めて、隅々まで楽しめます。

すんなりとこれはミステリであるなどと思って読むと、さほどたいしたことのない作品になってしまいそうですが、まあ奥泉さんなりの「文学」に対する挑戦なのかな。

ついでながら、著者に文句を言うわけではありませんが、おそらく奥泉さんの宇宙音楽は成立しないと僕は考えています。フィボナッチ数列は1、1、2、3、5、8、13、21、……というのが有名で、よく例に取り上げられますが、正確には数式で表現されます。ですから2、2、4、6、10、16、26、42、……というのもあり得るわけで、もしその数列に従って音楽をつくったら単純な二倍音になりますので、和音としては1からはじまる数列と2からはじまる数列とは調和しないはずです。まあファンタジーの世界ですので、きっと美しい調和が見られるのでしょう。

2008-09-18

京極堂シリーズの版元について

雑談です。

京極堂シリーズ(百鬼夜行シリーズ)の版元が変わるらしい、という話を配偶者にしました。ちなみに僕は遅くに目覚めた京極堂ファンで、シリーズ13冊全て講談社ノベルス版を購入しました。配偶者はあまりミステリが好きではないのですが、『姑獲鳥の夏』を僕が強烈にすすめたところ、その一冊だけは読みました。

以下、配偶者と僕の会話を、記憶している限り忠実に再現します。

僕:京極堂が講談社ノベルスから移るんだってさ

配:講談社ノベルスって?

僕:ほら、煉瓦みたいな厚い本。

配:ああ、怖い表紙のやつね。で、どうして?

僕:詳しくは知らないけど、編集部との意見の違いとか、色々あったんじゃない? 別な企画も立ち上がっているらしいし。

配:あ、きっとあれだよ、著者近影。

僕:何、それ?

配:(『姑獲鳥の夏』を手にとって)だって昭和38年生まれでこの写真は許せない。絶対生涯のベストショットだよ、これは。著者近影ってのは最近の写真、って意味だもの。

僕:(『邪魅の雫』の著者近影を見せて)いや、この通り若くない写真も使っているよ。

配:これも信用がおけない。きっと5年か10年くらいは鯖読んでいるんだよ。で、京極夏彦は著者近影は近くで撮った写真、という意味でさ、編集部としてはそれは許せん、という感じで意見の衝突が。

お手持ちの方は、講談社ノベルス版『姑獲鳥の夏』の著者近影をご確認ください。

2008-09-16

航路

航路(上)』『航路(下)』(コニー・ウィリス)を読みました。いやはや、長い。

小説のあらすじを紹介すると、ほとんどネタバレになってしまいそうなので、簡単に言うと臨死体験を「科学的に」研究する主人公たちとその所属している病院での物語です。科学的に臨死体験を研究する主人公たちの天敵として、トンデモ系臨死体験の導師的存在がいます。その二派の対立も面白いですが、病院内での決して椅子を暖めることのないどたばたも面白いし、もっと高尚には人間の生と死を考えさせてくれます。合計三部からなる小説なのですが、第一部も第二部も驚かされる結末となっていました。

長い小説には長い小説の面白さがあります。綿密に構成されたプロットや、存分に描ききるキャラクターなど。それにしても迷路のような病院内を右往左往するシーンが多すぎるのにはちょっとうんざりしました。もうちょっと短くまとまるのではないかな、という気がします。

僕は臨死体験本は結構好きなんですよ。シャーリー・マクレーン系のトンデモ本にもとりあえず目を通しますし、立花隆さんのノンフィクションや瀬名秀明さんのSFとかは2回以上読んでいます。というのも、僕自身が呼吸停止数十分・心臓停止数分という記録を持っていることもあります。その際に臨死体験をしたような気もしますが、後から話を作っている可能性もあるので、その体験を鮮烈なこととして記憶していませんし、したような気がする、という程度にとどめておいています。

僕の経験は1980年代初頭で、「臨死体験」という言葉も有名ではなく、その時は単純に変だなと思っていました。まあずいぶん前の話ですから、記憶はかなり歪められているでしょうね。

とりあえず臨死体験を「科学的」なアプローチから攻めようとしたSF作品として、一読には値しますし、キャラクターは類型的ですぅっと入り込めますし、ストーリーも練りに練っています(ちょっと伏線が多すぎ、という感じもしますが)。そして充分に感動的な作品となっています。それにこう書くとおまけのように聞こえてしまいますが生と死について考えさせられます(というか、僕の考えている臨死体験のイメージと似ていた)。

それにしても長かった。

2008-09-12

ユルスナールの靴

ユルスナールの靴』(須賀敦子)を読みました。考えてみたら、僕はユルスナールの作品も須賀敦子さんの作品も読んだことがなかったのですよね。

全編これユルスナールとそれにまつわる須賀さん自身の身辺雑記です。一人の作家に対してこれだけ思い入れることができるのは相当なものですが、意外にも須賀さんはユルスナールの作品に触れるのは遅かったそうです。気にはなるけれどもなかなか近づけない人、という感じですかね。風の噂でその人の便りは聞くけれども、気にはなりつつ、かといって踏み込んでいくこともできない。そういう人には、恋愛小説ではそのうちどっぷりとはまるのが常道です。恋愛小説に例えるのも失礼ですが。

文章は見事の一言に尽きます。どこで須賀さんが話をしているのか、ユルスナールが話をしているのか、だんだん錯覚を起こしてしまうくらいです。ユルスナールのエッセイなのに、立派な評伝ともいえますし、作品解説ともいえます。情景の描写なども抜群で、清心のお葬式やローマ・ギリシャの遺跡や、赤い芥子の草原など、とても視覚化しやすいうえ、文章の口当たりも優しくまろやかです。その上込み入った文章技法を使っていないのですから大したものです。

きっと須賀さんの中にはずっとユルスナールが棲んでいたのでしょう。身辺の事柄を通してユルスナールを語るという離れ業をやってのけながら、はじめて読む僕にさえユルスナールや須賀さんの人柄や作風が垣間見えてしまうのですから。

というわけで、どうという刺激はないけれども噛むほどにおいしいという類の本でした。

2008-09-11

紙葉の家

紙葉の家』(マーク・Z. ダニエレブスキー)を読みました。う~ん、困った。感想が書けない(感想が持てない)。

そもそもこの本自体、つい最近まで知らなかったのです。早速図書館から取り寄せて読んでみたら、なにやらよくわからないプロットだし、記法も非常に自由(というかでたらめ)だし、はじめに書いたとされる人とそれを編集したとされる人の注が膨大で、しかも本文とはあまり関係なかったり(そういうのは好きなんですよ。『中二階』は僕の愛読書です)。

とにかくなんだかよくわからないまま読み終えてしまいました。感想を持つようになるには、僕の感性がもっと磨かれるか、再読してもう少し丁寧に読むかしないといけないかもしれません。

どなたか、きちんとこの本を味わえた人の感想をお聞きしたいです。「これはあんた向きじゃない」のでしょうね。

死の本

死の本』(荒俣宏、京極夏彦、石堂藍、小阪修平、宮元啓一、田沼靖一、小池 寿子)を読みました。豪華な顔ぶれで、「死」についてのさわりをちょいと眺めた感じの本でした。黒地に白で文字が書かれていたので読みにくかったけど、図書館で借りた本なので「これはこれで書き込みとかしにくいから便利だな」と思いました。

目次:
第1章:死体とのお付きあい/荒俣宏
第2章:死の哲学/小坂修平

死の図像学I

第3章:獨弔/京極夏彦
第4章:インド死者の書/宮元啓一

死の図像学II

第5章:死をめぐる神話群/石堂藍
第6章:人の死/田沼誠一

死の図像学III


特におもしろかったのは第4章の「インド死者の書」で、アーリア人が侵入してくる以前からのウパニシャッドから輪廻の思想が現れていて、そこからアーリア系の諸民族へその思想が受け継がれていったと思われるというところ。それに仏教経由で東アジア方面に輪廻の思想が広がっていっても、その論理性は受け継がれなかったとされるところ。

見開きで片側1ページがもれなく「死」を描いたもの(絵画や彫刻の写真)になっているので、文章量は少ないですが、「図像学」を嗜む人にとってはおもしろい本となるのではないでしょうか。僕はあまり読み取れないのですが。

2008-09-08

パラダイス・モーテル

パラダイス・モーテル』(エリック・マコーマック)を読みました。一言で言うと、してやられました。しかも気持ちよく。

紹介文から引用します。

ある町で、ある外科医が妻を殺し、バラバラにしたその体の一部を四人の子供の体内に埋めこんだ。幼いころ、そんな奇怪な事件の話をしてくれたのは、三十年間の失踪から戻って死の床に伏していた祖父だった。いまわたしは裕福な中年となり、ここパラダイス・モーテルで海を眺めながらうたた寝をしている。ふと、あの四人の子供のその後の運命がどうなったか、調べてみる気になった…虚実の皮膜を切り裂く〈語り=騙り〉の現代文学。


はじめは文芸書として読んでいたのです。そうしたらミステリかなと思い、読み進めていくうちにこれはどうも違う、おかしいぞ、と感じたのです。

何となく違和感がありました。時代がおかしいんじゃないかとか、完全な空想話かとか、もしかしたらメタ・フィクションかもとか。そして最後には……。書かぬが花、というものでしょう。

フフン(自虐的な笑い)。この本を読んで気持ちよくなれるのは、ちょっとマゾがかった人かもしれません。僕は気持ちよくなれましたけどね。

マゾ?

2008-09-07

ラギッド・ガール

ラギッド・ガール―廃園の天使〈2〉』(飛浩隆)を読みました。前作の『グラン・ヴァカンス』の中で描かれる世界を補完する作品集、といってしまうとまるで付録のように聞こえてしまいますが、この作品群だけ取り上げても充分独立しています。

前作同様の「数値海岸」を主要な舞台としていますが、仮想世界と人間世界と半々ぐらいでしょうか。その「数値海岸」の成立や、その仮想リゾートに人間が訪れなくなった理由などが描かれているので、『グラン・ヴァカンス』をより楽しむためには必読かもしれません。

しかし、僕自身の感想としては『グラン・ヴァカンス』自体で充分に満足できる作品でしたので、ある意味蛇足のような、興ざめのような、自分の想像力を限定されるような、そういう肩すかし感もありました。しかし『ラギッド・ガール』にもまだ魔法的な不思議な部分はあるので、まだ同じ楽しみ方ができます。

しかし、文章も内容も美しく、残酷で、グロテスク。耽美耽美したところもなく突き放したような文体。通奏低音のように流れている、情念や感情など人間のグロテスクな部分と、機械の無機質なところがうまくマッチしています。

いや、今まで知りませんでしたが、こんなすごい作家がいたのですね。『グラン・ヴァカンス』とあわせて、心底感心しました。次作が楽しみですが、果たしていつ出ることやら。

2008-09-06

反社会学講座

反社会学講座』(パオロ・マッツァリーノちくま文庫 )を読みました。本書はWebで公開されていますので、どなたでも無償で読むことができますが、加筆修正が加えられている上、文庫版には「補講」がついていますので、読んでみました。

Webで公開され始めた頃、僕は大学院に在籍していました。そのときから話題になっていたのですが、本書は「反社会学」と銘打っているものの、とてもまっとうで古典的な社会学的手法を使って現代社会を笑い飛ばしています。本書の批判対象は社会学というよりもむしろ学会などの学者世界や、社会学的手法をとったかにみえる政策、新聞記事などの声の大きな意見、一部の有名社会学者による何らかのコメントなどだろうと思います。

というわけで、本書はまっとうで健全な社会学の入門書です。しかも「愛と笑いとツッコミと」をモットーにしている現代の戯作者、パオロ氏が書いていますので、笑えます。もしも笑えないとしたら、批判対象になっているのでしょう。

しかし方法がまっとうだとしても、本書に書いてあることをそのまま信じてしまうには、本書の分析は一面的過ぎます。参照しているデータは質量ともに限られている上、そのデータの社会的背景などは一般論でしかありません。主な論拠は単なる統計のマジックです。まあ面白ければそれでよい本なのですけどね。

2008-09-05

信じない人のための<宗教>講義

信じない人のための〈宗教〉講義』(中村圭志)を読みました。いろいろな宗教的背景のある人がいると思うけれども、僕にとっては前半部分の各有名宗教を簡単に紹介した部分よりも、後半の「宗教とはどのようなものか」とか日常的次元(こちら側)と宗教的次元(あちら側)の考察部分が面白かったです。前半部分はほとんど既知のことでしたので。

僕は信仰を持っています。とはいえ出家しているとか布教活動に努めているとかではなく、単に「私、信じています」「いつもこれこれの行いはします」というレベルですけど。そういう人でも、宗教とアイデンティティの考え方や宗教的に見える事柄(精神とか意識とか象徴とか)を考察することよりも人間社会(制度とか言語とか習慣とか)を考察したほうがより現実的であるとか、考えさせられる内容でした。

本書は信仰を持っていようがいなかろうが、読みがいのある本だと感想を持ちました。むしろ信仰ということを抜きにして、きわめて現実的に宗教のもたらすものを観察しようとしたときに、本書は最も役に立つのではないかと思います。

2008-09-04

ひとはなぜ服を着るのか

ひとはなぜ服を着るのか』(鷲田清一)を読みました。著者の本は多数読んでいますが、どうも僕には違和感があります。うまく合わない、というかなんと言うか。結局ロラン・バルトと考察対象の時代・場所以外に何が違うのかという感想を持ってしまうのです。多分著者は優れた哲学者なのでしょうけど(めちゃエロいおっさんやで、という意見を学会で同席した友人から聞いたこともあります)、ぴんとこないのです。その点、三浦雅士さんの『身体の零度』はエキサイティングでしたから、単に合わないのだと思います。

感想としては、つまるところ、衣服は人間の第二の皮膚である、ということをしつこく問いかけているだけです。そしてそれらの文章はどこかで読んだことのあるような文章で、おしゃべりなおじさんが管を巻いているように感じられました。まあ多数の著作をものしている筆者のことですから、僕がどこかでそれに触れている可能性が高い、というだけのことかもしれませんが、かつての著作と何が違う、というところもあります。

あまり好印象を受けませんでした。詳細に中身を詰めようとしても、まるでばらばらのテキストが著者の感覚で一連の文章になって、そこには明確な論理的なつながりがないかのようです。

ところで、この本を手に取ったきっかけは、「人はなぜ服をあえて着ないことがあるのか」という疑問に端を発しましたが、その視点はすっぽりと無視されているようです。

2008-09-03

図像学入門

図像学入門―目玉の思想と美学』(荒俣宏)を読みました。アラマタワールドを垣間見せてくれますが、この程度だと、まだまだこの博覧強記な巨人の一部でしかないんですよね。恐ろしい。しかも日常生活にはまったく役に立たないと来ている。

本書はものを見るのに必要な、さまざまな知識や考え方についての「入門」編です。「入門」とはいうものの、巨匠アラマタならではの濃さ。親切ではあるのですが、その博識がなければちっとも入門にはならないだろう、という感想を持ちました。ただし具体例に即して、筆者のものの見方を説明していきますので、追体験をしてみると「なるほど」と心地よくなれますが、一人でやってみろといわれると作品を前にして立ちすくんでしまいます。

第一部は「絵は観るな! 読むべし」と題されています。ヨーロッパ中世の、リアリズムが浸透する以前の絵を見る場合、そこに描かれているものを観るだけではなく、その絵に込められた意味を汲み取らなければいけない、と主張されています。

第二部は「図像学はおもしろい」と題されて、この本の中心部分になっていて、図像学の研究を講義形式で4講書かれています。その極意は「バカ・ボケ・パー」。絵の観方には、バカ・ボケ・パーの3つがあって、まず、ただバカ正直に、そこにあるものだけを観る「バカ」の観方。絵の背景にある「意味」を見出すべく、作者によって提供されたものをそのまま観る「ボケ」の観方。そして、絵画の描いているものを超えて別のゲシュタルト的次元に至る「パー」の観方。

第三部は「光学原論」。アートとしての写真ではなく、写像機という機械の持つ可能性や感じ取れる光を追求する写真家たち(半ばマッドサイエンティストのような人たちだ)をインタビューしています。それぞれ面白い人たちなのですが、おおよそ共通するのは現代風に規格化された写真よりはより人間の肉眼で捉えられる感性に近いものを追求しようという姿勢と、その形式としてレンズやフィルタを通さずに光を集約する、という技法です。「写真」という工業製品にありながらそこに「絵画」を表現する内容と生っています。

本書では芸術という分野に切り込んでいます。芸術はなんとなく崇高なもののような感じがしてしまうから、あえて図像(ずぞう)という言葉を選んでいるところもあります。絵画を見てわかるということの意味するものは、その作品に対して作者が意図したものを正確にトレースできるかと言うものではなく、さらにその先に、作品に意味を与えることさえ現代美術は要求しているようです。

「バカ」の観方は誰にでもできます。林檎が描いてある、花が描いてある、などなど、そのまま受け取ればよいのです。しかしそれ以上の観方となると、その描かれたものに込められた隠喩を汲み取らなければ絵画は「読め」ません。そこには巨匠アラマタならではの博覧強記が生きてくるのでしょうし、芸術鑑賞者のたしなみなのでしょう。例えばキャンバス下方に髑髏が描かれていたらそれは未来に向かっての頽廃・破滅の隠喩であるとか。膨大な意味づけの体系を身につけていない人ではこうした観方はできません。さらにはそれを飛び越えて、作品自体に鑑賞者側からクリエイティブに意味を付与するなど、よっぽど通暁していないと無理なのではないかとさえ思えてしまいます(単純に僕には西洋美学の素養がないだけかもしれません)。

しかしそうした観方を示唆してくれるので、まさしくこれは「入門」なのでしょう。そして著者の目を通して作品の観方を追体験するのは愉快なものです。

2008-09-02

グラン・ヴァカンス

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉』(飛浩隆)を遅まきながら読み、すごいSF的世界に圧倒されました。ただし、設定には少しSF的古さも残っています。

ネットワークのどこかにある仮想リゾート「数値海岸」の一区画で、人間が訪問しなくなってから1000年、AIたちは正体不明のプログラムである「蜘蛛」に襲撃される、というのが本書のあらすじです。これだけだとなんだかありきたりの使い古された設定に感じられますが、著者自身が書いているように「清新であること、残酷であること、美しくあること」を心がけて書かれた本書は、使い古された設定がとても新しく感じられます。

さて、陳腐なファンタジー作品は常に「ミドルアース(中つ国)」を再発明しようとしてしまいます。すでに指輪物語で完成された世界をもう一度作り直して新しい世界をつくろうとする、車輪の再発明のような努力をしてしまい、結果としてミドルアースには及ばない世界が出来上がる、という感じです。

本書はファンタジーではないけれども(とも言い切れないけれども)、はたして車輪の再発明だったのか。僕は決してそうは思いません。古い皮袋に新しい酒を入れている感じがしました。もっと単純な感想としては、グロテスクで、美しくて、切なくて、優しくて、残酷で、救いようがないです。基本的には闘争の話で、主人公たちは圧倒的な力の差でやられてしまいます。

そういえば高校生のころ、現代文の教師が「小説は読みはじめがつらい」といっていました。その世界にまだ没入できないうちは、手探りで世界を自分のなかに構築しないといけないからでしょう。その意味では本書はつらい本でした。世界がファンタジー作品のように完結していて、ネットワーク上のAIたちが主人公というように現実離れしているからです。僕ははじめのうちは人工生命を研究している友人に教えられた世界観をイメージしたり、自分の持っているコンピュータの知識を総動員しながら読んでいましたが、読み進めるうちに本書の世界に対する理解が深まり(魔法的な説明不可能なこともありますが)、世界を自分のものとすることができました。そうなるともう抜け出せません。冥府魔界とはこういうのを指すのでしょう。

3部作らしいので、次を読みたくなりました。

2008-09-01

仕事とセックスのあいだ

仕事とセックスのあいだ』(玄田有史 斎藤珠里 朝日新書)を読みました。僕はエロい話は大好きですが、残念ながらこの本はエロい話ではありません。まじめに労働経済学者とAERAの記者さんが一章ずつ書いた、労働とセックス(や出産)についての本です。

セックスについて語ることは僕は非公式には得意なのですが、公式には苦手です。本書で分析される対象に入るということもあるのですが、やっぱり後ろめたいです。なので、おおっぴらにセックスと労働のありかたについて書かれた本はそれだけで尊敬してしまいます。本書では主に玄田さんが統計的な分析を綿密に行い、斎藤さんがジャーナリストとしてやや主観的に報告をする、というかたちをとっています。

ですが各論から言ってしまうと、いろいろと疑問が出てきます。出発点がAERAの記事だからオフィス・ワーカーが対象となるのはどうしようもないとして、統計的分析にはそれほど疑問はわきません。しかし斎藤さんの章では、出産数が増えていて、社会政策として多産をサポートしているフランスのオフィス・ワーカーと日本のオフィス・ワーカーはずいぶん絶対数が違うだろうとか、フランス農村部はどうなっているのだろうとか、疑問は尽きません。福祉における北欧諸国に対する典型的な視点と同じように、単にうまくいっている国(フランス)を賛美しているだけのような気もします。

職場とセックスに関しても、セクシャルハラスメントの問題とか、長時間労働とか、ひいてはGDPの様子とか、これを読んでも個人単位でどうにかできるものは少ないでしょう。政策提言の本だったらよいのでしょうが、あくまでこれは新書ですから。職場の雰囲気やストレスや仕事のやりがいなどと個人のセックスに密接な関係があるという事実だけでも厳粛に受け止めるべきでしょう。

まあ、ワーク・ライフ・バランスについて考える一助となる本ではあります。とは言うものの仕事(報酬)は長時間でも過酷でもいいから欲しいし、楽しくセックスもしたい(人もいる)し、現在の日本はにっちもさっちもいかない状況にいるのではないか、と思います。特にオフィス・ワーカーにとっては。

ところで、別のソースからのうろ覚えでは、1970年代の会社では職場結婚が7割あった、というような記憶があるのですが、そういえば職場恋愛はしたことないな。職場に気になる異性がいると半数以上は仕事へのモティベーションがあがるらしいので、職場恋愛してみたいな(非公式発言)。