2010-12-08

なんちゃって『嵐が丘』

最近は、乗用車で移動することが多くなっています。「多い」というのは、運転している時間が一週間で15時間くらい。2009年3月に買った車の走行距離が、現時点で37,000キロくらい。その運転している時間が何となくもったいなくて、運転中に何かを聞くようにしています。例えばとある講義録を音声だけ流したり、好きな音楽を聴いたり(細かいところまで判らないので、流すだけになります)、Podcastとか落語とか。

そんな風に運転中に聞く王道、オーディオブックを図書館で借りてみました。ひとまずは既読で、ドラマティックなものとして、『嵐が丘』を選びました。『嵐が丘』なら舞台にも映画にもなっているから、オーディオブックも面白かろうと思ったのです。

オーディオブックまたは朗読CDって、原文をそのまま読み上げるタイプのものしか知りませんでした。ところがこの嵐が丘は当然のことながら脚色されたもので、どことなくクスッと笑ってしまいそうな感じなのです。ラジオドラマに似た恥ずかしさというか、舞台役者が体で表現することを禁じられたらこうなるのかな、という恥ずかしさというか。かの『嵐が丘』ではなくて、二昔前のソープオペラのように聞こえ、深夜の運転でも眠気に襲われずにすみました。

俳優に疎い僕にはまったくわかりませんが、「石橋蓮司、広瀬彩、坂本貞美、宮沢彰、前田倫子、中村元則、宇津木真、諏訪善平、二木てるみ」といった面々が出演しています。「サウンド文学館パルナス」というシリーズで他にもたくさんありましたので、怖いもの見たさ半分、また借りてみようと思います。

2010-12-05

『アーキテクチャの生態系』

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』(濱野智史)を読みました。本書はこの手の本にありがちなフォーマットを踏襲し、序論があり、全体の理論的枠組みを説明し、各論を展開し、結論があるというものでしたが、もっとも面白かったのはタイトルにもなっているような総論あるいは理論的枠組みではなく、2ちゃんねるの分析という「各論」にあたるところでした。

本書の出版は2008年なのですが、本書の中でもたくさん言及されている梅田望夫さんの『ウェブ進化論』に対抗している感がひしひしと伝わってきます。梅田さんはアメリカ的なウェブのあり方を称揚して、日本的なあり方を批判(というか、低く見ている)していましたが、濱野さんはそれを相対化します。「生態系」という言葉でうまく言い切れるか微妙だと思いますが、検索可能性の上に乗っかってつくられるウェブサービスの流れと、そうではないものの流れを綺麗に説明しているように感じました。

その中でも2チャンネル、はてなダイアリー、ニコニコ動画のコメント機能の分析は素敵でした。情報のフローを重視してコミュニティの閉鎖性を排するということや、機械的にゆるくリンクされるために匿名的なコミュニティーが形成されるということ、擬似的な同時性を形成することなど、はたと膝を打ちます。

日本のウェブサービスや情報端末製品は、「ガラパゴス」として揶揄されることが多いですが(ガラパゴスに失礼だと僕は思います)、局地的に発展する機能はその中心ユーザのニーズによって変化すると考えれば、日本のサービスや製品は上手く適応していると考えられるのですよね。本書はそんな価値観の逆転というか、多文化主義というか、そんなところが素敵でした。

ただ、もう少し詳細に見ればまた少し違ったことも言えるのではないかな、と僕は思います。本書の視点は基本的に、アメリカ発祥のサービス対日本発祥のサービスというものでしたが、アメリカ発祥のサービスであってもユーザの偏りがあることはすでに知られたことです。Facebookはフランス・ドイツ・イタリア・スペインといった非英語圏でもトップシェアですが、日本ではやっぱりmixiです。中国ではQQだし、もっともSNSのヘビーユーザが多いといわれるロシアではVKontakte、ブラジルでは不思議なことにOrkut。こうしたシェアの偏りは、決してサービス形態(本書の言葉ならアーキテクチャ)に左右されるものだけでもないと思うのです。

2010-12-04

『虐殺器官』

異様なまでに絶賛される(ように僕には思える)『虐殺器官』(伊藤計劃)を、ようやく読みました。といっても読み終えたのは少し前のことなのですが。

どうも上手く感想が書けないのですが、じっくり考えればもやが晴れるようになるかも知れません。とにかく今のところ、僕はあまり好意的な感想を持てませんし、個人として高く評価できません。

非常にドライな世界観だと思うのですよね。単に戦場であるとか、テクノロジーで諸感覚が制御されているとか、主人公がきわめて内省的であるとか、そういったところは二の次に思えるほどに。

(以下、核心に触れるネタバレにつき、白文字)そのドライなところのなかでも特に世界の終末観に関して、どうしてもジョン・ポールと主人公の言動のあたり、作中での整合性が見えません。どこかの会話や独白で、自分でも本当と信じている類の嘘を言っているかも知れませんが、もしそうだとしたら、それはまた主要テーマに近いところでねじれてしまいます。先進諸国の住民やら愛やらを取り上げる事なんて、なにも必要ないはずです。単にそこ(終末、あるいは死)に惹かれていったからそうする。それだけで充分だったはずなのに、妙にそれっぽい理由付けをしています。その理由付けだって一巡りして陳腐なプロパガンダになることくらい、本書の中でも示されています。(ネタバレここまで)

というわけで、ドライに徹し切れていないところを想像で補わないと、僕には納得ができませんでした。既読の方で僕と同じような引っかかりを感じた人はいませんか?

2010-12-01

『正しく決める力』

正しく決める力―「大事なコト」から考え、話し、実行する一番シンプルな方法』(三谷宏治)を読みました。するするっと読めてしまう本でしたが、その理由が平易な文体にあるのか、それとも書かれていることになじみが深いためか、あまり判別したくありません。

本書の要旨といえば、正しく決めるためのフレームワークが書かれていて、その枠組みは
・『重要思考』:差よりも重さに注意し、大事なことから考えること
・『Q&A力』:効率よく正しく理解・説明をして、大事なことを問い、答えること
・『喜捨法』:大事でないことを刈り込み、捨てること
という感じです。

この手の本を読み慣れると、書いてあることは既知のものばかりに感じますが、再確認するのもまたよいものです。しかし僕がいつまでたっても正しく決められないのは、正しく決めて正しく実行する力を正しく身につけていないのではないかと、どこまでもさかのぼってしまいます。ですから欠陥の多い我々(少なくとも僕)に向けて、なぜわかっちゃいるけど変われないのかを平易に解説する本があったら、喜んで読みますね。

あと、どうにも腑に落ちないこととして、本当に正しいと言い切れるのかという疑問がつきまといます。仮に256個の選択肢があるとして、この手の本ではそのうちのただひとつが正しいとされるかのような印象を受けますが、僕の感覚では明らかに正しい選択肢と明らかに正しくないのはそれぞれ26個くらいのように思えます。その26個くらいの選択肢のうちどれかひとつを疑いなく選べるのなら世界は幸せに感じられるでしょう。しかし経験から言えば、顔では自信たっぷりに決定をしていても背中には冷汗がダラダラと流れていて、かといって不安そうにしているわけにもいかないのでやせ我慢している、というのが実情ではないでしょうか。

ものごとを単純化すると気持ちよいし、シンプルな理解は強力な実行力を生みそうな気もします。ですが僕は世界の単純さよりも複雑さを信じていて、大事ではないと思って切り捨てた蝶の羽ばたきがどこでハリケーンを起こすかわからないと思っていたいのです。結果として、自信を持って言いきれないということは自信を持って言える、という変なことになり、こうして韜晦していくのです。

2010-11-30

「子どもサッカー」雑感

新聞を読んだら、就職に関するシンポジウムの記事がありました。その中での勝間和代さんの発言に、「子どもサッカーをやめて、大人のサッカーに移行すべきだ」というものがありました。新聞紙上に抄録されたものですから真意はよくわかりませんが、就職活動をする学生が、限られたリソースに全員が集中してしまうのではなく、効率よく目的を達成させるためにフォーメーションや戦術を工夫して、自分のポジションを確立するように、ということだと思います。

比喩が適切かどうかはともかく(僕は不適切だと思います)、勝間さんの日頃の発言もともかく、「子どもサッカー」ということだけを思い返しました。

僕が小学生の頃、やっぱりボールに全員が集中してしまうサッカーをしていました。そうすると個人の能力ばかりが決め手になってしまい、勝てる相手にはいつも勝てるし、負ける相手にはいつも負けます。ですから我々のチームは変な作戦を立てました。その作戦とは、1.自分たちよりも地力の弱い相手ならばいつも通りにする。 2.自分たちより地力の強い相手なら、ボールをすぐに外に蹴り出す。というものでした。

みんなでよってたかって外に蹴り出し、スローインされたボールにもまた群がって外に蹴り出す。これで時間を稼いでPKに持ち込むのです。PKなら、普通に試合をするよりも運任せだったり身体能力に左右される度合いが小さかったりで、勝てる見込みが大きくなりそうだったからです。

対戦相手や学校の先生からは、ものすごい不評でした。試合がとてもつまらないし。でも子どもなりに頭を使い、基礎体力の向上を図ったり戦術的な練習もしなくてすみ(そんなのは充分な時間と指導者が必要です)、しかも実際に勝つ可能性を高めるのですから、やり方としてはよかったと思うのです。これを勝間さんの就職に関する発言に無理矢理絡めると、どういう事になるのでしょうね。

2010-11-29

結婚式と手袋と決闘と

先日、会社の同僚の結婚式に出席しました。新郎(同僚)は40歳で新婦が26歳という年の差に少しびっくりしましたが、出席者の振る舞いの違いにも興味深いものがありました。新郎は会社で役員を務めるせいか、取引先の方も多く出席してくれていました。一方新婦側で仕事関係の出席者は職場の同僚のみで、幼児教育関係ということもあってかあまりギラギラしたところがありません。

結婚の儀式が終わり、偉いひとの祝辞を聞いて乾杯したら、新郎側の出席者(男性ばっかりで、黒々としています)は各々席を立って他のテーブルへ飲み物をついで回り、名刺を交換したりします。その時に新婦側の出席者は(女性ばかりで、色とりどりに鮮やかです)料理に手をつけ、テーブル内で話をしたり、新婦と写真を撮ったりしています。見た目の色の違いも含め、こうも対照的な結婚披露宴は久しぶりでした。

結婚式がプライベートなものだけではないことはわかっているつもりです。血縁関係の同族を認める儀式で、社会的つながりを強化する舞台で、たとえ人前式であっても宗教的な通過儀礼です。経済的に見れば財の交換だったり、離婚コストを高めるための保険だったり、バタイユの言う消尽や蕩尽だったりするかも知れません。様々な習俗が混ざり合ってしまい、昨今の結婚式では「それは一体どんな意味があるのか?」と疑問に思うことも難しくなりがちですし、かなり怪しい曰くをつけることもありますが、由来を辿ればきっとどこかに行き着くことでしょう。

そんなことを気にしながら食事をしていて、新郎の白手袋に目がとまりました。この手袋って、実際には使いませんよね。実に儀礼的で美しいものですが、意味が重すぎます。自衛隊に勤務している友人の結婚式ではサーベルを着用していましたが、それと同じようなもので、宗教的な穢れとかに配慮すると同時に、衣装で上下関係を表すものなのでしょう。そう考えているうちに、決闘の申込みに手袋を使う事を思い出しました。

どうして手袋なのだろうと前から疑問に思っていたのです。手袋を投げつけたり、手袋で叩いたりするには、まずは常時手袋を持っていなければなりませんしね。ところが結婚式における手袋の意味を考えたら、結構すんなりと解釈できそうです。決闘の第一義は個人間のいざこざを解決することでしょうが、法制史の流れと同様、社会的に同意の得られる取り決めとして各人が了解していなければ成り立ちません。

それで、決闘の歴史に興味が湧きました。ひとまず検索して引っかかった、『決闘裁判―ヨーロッパ法精神の原風景』と『図説 決闘全書』に目を通すつもりですが、どなたかおすすめがあったら教えて下さい。

2010-11-19

憎まれっ子、世にはばかる

三十過ぎてガンダムというのも気恥ずかしいものですが、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の19巻を読んで、気になったこと。

コア・ブースター(戦闘機と思って下さい)が被弾したためにホワイトベース(戦艦だと思って下さい)に帰艦したスレッガーのところへ、ミライが操舵を代わってもらってまで会いに来るいい場面(19巻187ページ以降)なのですが、その待機ルームの柱に落書きが。

「BRIGHT IS GAY」






















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ガンダムを知らない人のための余計な解説。このあたりの人間関係は以下のようになっています。
ブライト・ノア:
ホワイトベースの艦長。男性。実はミライのことが気になっているけど、ミライの婚約者のことで煮え切らなかったり、交戦中にもかかわらずスレッガーのところに行けるよう配慮したり。優柔不断。戦後にミライと結婚した事になっている。

ミライ・ヤシマ:
ホワイトベースの操舵手。女性。良家のお嬢様だけどお袋さん的。ブライトが気になっているが、偶然再会した婚約者とは住む世界が違うと見切りをつけ、ただいまスレッガーに心移り中。

スレッガー・ロウ:
パイロット。男性。物語中盤以降ホワイトベースに配属。お調子者で任侠肌でやくざっぽくて人生の達人風で職業軍人。この場面の後、戦死。

2010-11-17

『天才と狂人の間』

なんと言うことなしに、大正時代のベストセラー作家である島田清次郎の事が気になって、青空文庫から『地上 地に潜むもの』をさくさくっと読んだのですが、僕が現代人であるせいか、これという感慨を得ませんでした。いろいろと鼻につくところが多く、何よりも登場人物の誰も彼もが、まるで絵に描いたような(まあ小説に書かれているのですから、絵に描いたようであることは必然とも言えますが)人物であることに閉口しました。わけても主人公の大河平一郎の超人ぶりというか、世間を見下したようなとでもいうか、人類よりも一段高いところにいることに違和感を覚えたのです。

とはいうものの、当時(白樺派とか赤門派とか三田文学とか早稲田文学、後には文藝春秋の執筆陣とか)の作品とは明らかに一線を画しているというのはわかります。どちらかというと文芸作品と言うよりはプロパガンダや説教のようなもので、自然主義とか反自然主義とかいう文学史的流れとは全く違って、強いて言えば(僕の苦手な)人道主義的な性格が見え隠れします。ただし人道主義といってもあまりにも我が強くて、武者小路や志賀や有島といった作家のものとも(あまり多くを読んでいないので偉そうなことは言えませんが)相容れません。

それで島田清次郎の伝記(のような小説のような)である『天才と狂人の間』(杉森久英)を読みました。どうにもよくわからなかったのは、島田は非常な勉強家であったと言うことですが、読書から何を学んだのだろうかということです。当時の小説家にしては珍しく哲学や思想も読み、多くの海外小説も読んだとのことですが、そこから小説についてよりも政治主張を多く学んだとしたら、小説が崇高なプロパガンダになりそうです。『太陽の法』だってベストセラーなのですし。

つきあうとしたら始末におえない奴。傲慢で人とうまく交われず、相手にされないために孤高を貫き、古くからの友人知人は徐々に離れていきました。作品に関しては『地上 地に潜むもの』は完成度はさておきこれまでにない形の小説として成功し、社会主義の勃興する時流に乗り、続編が出れば同業者や批評家には覚えがめでたくなくとも飛ぶように売れるという。また僕には当時の読者層がよくわからないけれども、これを読んで鼓舞されたり熱狂したり熱いため息をついた人もいるのかも知れません(時代というものでしょう)。かなりの部分は時代的な偶然で作品が市場に認められたという印象を受けました。島田清次郎の作品に関しては、ケータイ小説がよく売れたことにどことなく似たものを感じます。

本書のタイトルである「天才」と「狂人」に関しては、行動特性から推測すると、かなり早い時期(少年期でしょうか)からの抑うつ傾向の混じった統合失調症であるとしか思えません(本書では早期痴呆症で収容されたとありました)。彼が早期の治療を受けていたら(といっても当時は薬物療法なんてありませんので、治療=社会的な死ですが)、彼の人生や文学的潮流はどのようになっただろうと考えるとすこし悲しくなります。

なんだかあまり気分の良くない読書をしましたので、楽しくなれるような事を考えました。いま『アミバ天才手帳2011 ん!?スケジュールをまちがったかな…』が世間を賑わせていますが、これをアミバ語録から島田語録に変えれば、本物の「天才手帳」がつくれそうです。熱き青少年にぴったり。

なお、本書を読んでジャーナリズムのあり方に対する警戒心や、幼い頃の貧しい境遇から生じたトラウマティックな功名心や、祖先・一族のかつての繁栄からくる妙な自尊心や高慢などを教訓として読むことも可能ですが、僕はそういう読み方はおすすめしません。どんな本からも教訓は得られますが、教訓とするにはあまりに特殊ケースなので。

2010-11-13

『鍵盤を駆ける手』

鍵盤を駆ける手―社会学者による現象学的ジャズ・ピアノ入門』(デヴィッド・サドナウ)を再読しました。本書は『病院でつくられる死』で有名な社会学者が、ジャズピアノの即興演奏を学ぶ課程を記録したものです。前に読んだのは学部生の頃で、その時には「現象学的社会学の名著」として読んだのですが、なんだかぴんと来なかったのです。

再読してもぴんと来ませんでした。とりあえず社会学の本として読めば、言語化しにくいところを精密に言語化したわけです。ジャズの即興演奏は意識的に行うものではなく、かなりの部分は身体感覚でやりとりするようなものです。こうしたことを内輪にしか通じない言葉では「制度化」とか言ったりましますが、似たものをあげるなら言語や文字を使うようなものです。練習過程で意識的に言語を使ったりしますが、それが道具として個人に定着すると、意識とはあまり関係なく言語を用いるようになります。上手に言葉を使える、というだけでなく、負の側面をあげるなら言語のルール内で思考や表現をするために、一見すると自由な道具を用いているようでその実不自由だったりします。

本書の方法論的なところにまずは疑問を持ちました。試みとして面白いとは思うのです。また、楽譜や音源を出さずに、徹底して「鍵盤の上を動く手のかたち」にこだわっているところも面白いです。ところがなかなか僕はぴんと来ません。果たしてジャズピアノを習得する方法として、サドナウのとったものが適切だったか? 即興演奏の性質はサドナウの個人的体験から一般化できるか? ミクロ社会学につきものの疑問だけれど、ジャズの即興演奏というあまり万人が経験するものではないことをフィールドとして、しかも観察者と被験者が同一人物で(実際こういうのはよくありますが)、まるっきりの見当違いという可能性が払拭できるのか?

また、ジャズの即興演奏というフィールドに関して、分析が適切だったかどうかも気になります。サドナウの「ジャズの即興演奏」に関する記述が、ピアニスト一人で完結できるところに尽きているので、インタープレイはどう分析するのでしょう。それに即興演奏として分析しているものが旋律だけ(つまり、ピアノで言えばほとんど右手だけ)というのも引っかかります。コードについては練習初期に形をたたき込んだことが書かれていましたが、それだけですむとは思えないのです。また即興演奏と言っても、ジャズの巨匠たちの録音を聴くと、別テイクの演奏も似通ったアドリブソロをしていることが多いです。つまり、まるっきりその時その場所でゼロから産み出されるものではなく、レコーディングには何らかの青写真を用意して意識的にコントロールすることが多い、ということです。

という、なんだかぼやけた感想です。

2010-11-12

『奇跡も語る者がいなければ』

奇跡も語る者がいなければ』(ジョン・マクレガー)を読みました。「…で、…で、…で」「…と、…と、…と」という感じで連綿と続く文体にはじめは戸惑いましたが、読み進めると何となく心地よくなってきました。

読み終えてから全体を思い返すと、実に凝った構成をしています。本書には軸がふたつあり、ひとつは夏の終わりの一日(プリンセス・オブ・ウェールズの命日)の、とある通りに生活する人々の描写で、もうひとつがそこの住人だった女性(眼鏡をかけた女の子)の3年後です。

3年前のその日夕刻に事件が起こったことが冒頭でにおわされますが、読み進めるまでは事件は明らかにされずに、未明から淡々と時間順に描かれていきます。そこに登場する人たちのほとんどは名前も明らかにされませんが、それらの人々が織りなす日常が綿密に綴られています。自分が世間を見たときには当然主観のために、自分を主人公と設定しがちです。しかし生活のほんの一時期に線が交差した人たちにもそれぞれの主観があるわけで、どこかひとつの視点というのを排して鳥瞰的に描写すると、どれもがみな物語の主軸となるような、そんな愛らしさが感じられました。

通りにはごく普通の人々が住んでいますが、その普通の人々の出来事がすべて誰か一人の身に起こったこととすると、その出来事は誕生から死までの様々なイベントを含んでいます。例えば不妊に悩んだ夫婦は、双子と一人の女の子に恵まれるといった誕生の物語を含んでいます。出征直前に結婚し、無事帰還した老人は、夫人との出会い・再会から現在に至るまでの恋物語を含んでいます。その同じ老人は病に冒され、遠くないうちに死にゆく苦しみの物語を含んでいます。火事によって手に火傷を負った男性は、幼い娘との生活の物語や、妻を亡くした離別の物語を含んでいます。通りの建物をデッサンしている学生は、風景と人物の関係を示唆しています。その他いろいろあげればきりがありませんが、そうした普通のことの特別さに自覚的だったドライアイの男の子は、自分の住んでいる通りの様々な些細なものを収集し、また写真に収めようとしていました。その姿は本書のひとつの軸とぴったり重なるように感じられます。

もう一つの軸となる眼鏡をかけた女の子の3年後も、予定外の妊娠という問題を抱えてどう対処するか悩んでいたりと、やはりいろいろな物語を含んでいますが、ドライアイの男の子の弟と出会って3年前を振り返ることによって、本書全体としては名もなき種々のかけがえのなさをはっきりとさせています。名前を知ることで人は物事に深くコミットしていきますが、それとは関係なく流れゆくかに見える物事にも、どこかで関わりを持ち繋がっていくことが鮮明になっていくのです。3年後に一人称で描かれる出来事は、3年前に三人称で描かれる出来事と「奇跡的」にリンクして、「名前」「双子」「生死」といったものでふたつの時間軸が捉えなおされ、3年前に起こった事件で結び合わされます。

本書のタイトルにもなっている、火傷を負った男が天使を見たがる幼い娘に語りかける一節を引用します。

娘よ、と彼は言い、そしてこの言葉を口にするときには、彼のありったけの愛が声の調子にこめられていて、娘よ、ものはいつもそのふたつの目で見るように、ものはいつもそのふたつの耳で聴くようにしなければいけない、と彼は言う。この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある、と彼は言う。奇跡のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの目の前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、その素晴らしいものを素晴らしいものとして見なければ、人間の生活はそのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう、と彼は言う。

奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう、と彼は言う。

それを自覚するかどうかはともかく、まさにそのような小さな奇跡の積み重ねが日常で、日常的な奇跡は単なる偶然に過ぎないかも知れないけれども、その確率は考えられないほどに小さなものです。ちっぽけな(けれども一体一体が異なる)人形がたくさん集まって、全体としてひとつの像を結んでいる(ひとつの作品だったり、ひとつの風景だったり)、といった場面が本書のどちらの時間軸にも現れ、形を変えながらふたつを繋げていますが、本書が描いているのは静的にはそうした像であり、動的にはその像が存在し変遷することの奇跡なのだろうと思います。火傷の男が語るように、生活の色が濃くなって豊かになれるような気がする、気持ちの良い小説でした。

2010-10-30

『ベッドルームで群論を』

「まず、牛を球と仮定しまして……」というジョークがある。数学者がものごとを極度に一般化することを皮肉ったものだけれども、近頃読んだ『ベッドルームで群論を――数学的思考の愉しみ方』(アラン・ヘイズ)は、その一般化する様を楽しむような本でした。本書はタイトルからは想像しにくいけれどもいろいろなジャンルの数学エッセイです。ネタとなるのは日常生活のふとしたところで著者が気になったことで、その理屈や一般形式をあれこれと考え、文献にあたり、コンピュータでプログラムを走らせ、統計処理し、などなど。

話題としては群論、ランダム性、暗号理論、分水界、NP完全、歯車、名前空間、3進法などと続いていくのですが、数学の専門家ではない著者が、その非専門家的な目で見た日常から、抽象的性格を取り出そうとするところに本書の一番のおもしろみを感じました。あらかじめ持っている知識を日常に当てはめるというのではなく、問題や疑問を自分のなかに抱え込み、あれこれ考えてしまうのです。さらにはエッセイを雑誌に発表した後に、読者から寄せられた意見などから、著者があらためて考えてみたら「やっぱりこうかも」と後日譚があるのも素敵です。つまり問いが開かれているというわけで。

いまでもありますが、「できるかな?」というウェブサイトが、2000年頃に大いに話題になりました。そのおもしろさはエロものにもありますが、僕の主観によると、日常のどうでもよい与太話を真剣に検証するところにありました。それが物理学版だとしたら、本書は数学版です。性格はずいぶん違うけれども、どことなく両者に近いものを感じました。

2010-10-28

えっち・アダルト

ふとした気まぐれで『ぼくたち、Hを勉強しています』(鹿島茂、井上章一)を読みました。どうでもよいような中年男性の猥談(自称「性談」)をアカデミックにしたようなもので、「ワイセツ」ではなく「えっち」で、しかも全然エロくない。直接的な表現がないのはおじさんたちがアカデミズムの世界にいることと、はっきり言ってどうでもよい矜持があるためでしょう。目的意識としては、おじさんたちだってモテたい、というところにあろうかと思います。

ある部分には女性から「冗談ではない」といわれそうなところもありますが、ざっくり読んでしまえばパンティと歴史の話、旦那衆が性文化を支えてきた話、かつて文化的な幻想がモテ要素になっていた話、出会いの場所や手段の話、Hをする場所の話など、「ふむふむなるほど」と楽しく読めます。性について大まかに語るとき、垂直的比較つまり歴史と、水平的比較つまり異文化の二軸でものを見るのは素敵なやり方ですが、それを雑談風にできるのも、碩学たる本書の著者たちが積み重ねてきた教養によるもので、読んでためになることは確かです(内容がためになるというわけではなく)。

だからといって読んでもモテるようにはならないと思いますよ。僕もモテたい。

その流れで『アダルト・ピアノ―おじさん、ジャズにいどむ』(井上章一)を読みました。これもまたどうしようももないような内容で(貶しているのではありません。絶賛しているのです)、モテるためにピアノを弾けるようになりたいという野望にとらわれた著者の奮闘が記されています(著者はライブハウスで演奏する腕前にはなりましたが、モテるようになったかは不明です)。

なかなか苦難の道だったようです。いわゆる正統的ピアノ練習を経ることなく、ひたすらにジャズピアノ(やカクテルラウンジピアノ)を目的としたために、クラシック畑の人から見れば指使いがおかしいと指摘されたり、はては指や腕の痛みや痔の発症があるなど。他人の苦難は蜜の味です。この苦難の道は最短ルートだったかと考えれば、決して効率よい練習だったとは思えませんが、「いまさらバイエルなんてやってられるか」という変な意地が「モテたい」という野望と相まってもう一つの柱となっているので、これでよいのでしょう。ピアノ教室に通い、美しいピアノ講師とおしゃべりするという安易な道は採らなかったようです。

しかし、大人の趣味としてピアノを演奏するなら別に正統でなくとも良いですし、ポピュラー音楽にはある種の大雑把さがありえますので、それでよいのだと割り切れます(僕だったら痛いのはいやですけどね)。変な癖があるのもその演奏の個性ということです。で、ピアノを弾けるようになるとモテるのかというと、これもまた疑問です。老人になったときにモテるかも知れません。

楽器をはじめる動機として、有名なジャズフルート奏者であるデイブ・バレンタイン(Dave Valentin)のことを思い出しました。10年以上前のジャズ雑誌(「スイングジャーナル」か「ジャズライフ」)でインタビューに答えていたのですが、彼がフルートをはじめたのは、気になる女の子がフルートをやっていたからだそうです。それでフルートをやったらモテたかというとこれは聞くも涙で、はじめの頃はいい感じにつきあえたのですが、彼がどんどん上手くなってその女の子を圧倒してしまったために、嫌われてしまったというのです。

楽器を演奏する男性諸賢は身に覚えがあることでしょうが、楽器をはじめるにあたってどこかで「モテたい」と思ったことがない人のほうが少数派でしょう(僕は男性なので、女性のことはよくわかりません)。でも冷静に考えればことは楽器に限らず、なにかに打ち込む姿は人によって「モテる」のですから、仕事でも趣味でも子育てでも、大いに下心を基礎にして打ち込めばよいと思います。僕もモテたい。

2010-10-23

『つながり』

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力』(ニコラス・A・クリスタキス、ジェイムズ・H・ファウラー)を読みました。

以前の仕事の絡みで、社会的ネットワークについてはいろいろな論文を読んできました。「スモールワールド実験」以来この分野では実証的な研究が多く行われましたが、基本的には歴史の長い共同体研究にルーツがあるのではないかと思います。本当にルーツをたどるなら、社会関係の成員どうしによるコミュニケーションで、どこかで発せられた情報が他の成員の行動にどのように影響するかを研究するというところから、かの有名な権力の定義である「ある社会関係の中で、抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性」あたりまで行き着くとまで思います。

しかし本書で紹介されている研究の新しさとおもしろさは、従来のように狭い範囲のネットワークを研究するのではなく、数百万人単位にまで及ぶ広範囲のネットワークを扱っているところで、その規模だけからいっても非常に興味深いものでした。

本書を読んで一番おもしろかったのは、伝染病のように社会的影響力が広がること、さらには条件によって広がり方が異なることを説明しているところでした。例えば「幸せ」や肥満や禁煙や趣味や支持政党などが、直接関わりのある(つまり隔たりが1の)人たちに影響を及ぼすだけではなく、隔たりが3の人にまで有意に影響を及ぼすということなどです。また、幸福や笑いといった好ましい特性のほうが、不幸などの好ましくない特性よりもネットワークを広がるのが速い、というのも驚きです。直感的には逆のような気がしましたので。

それにしても本書の途中で、性感染症やセックスパートナーのネットワークを分析対象とするところは、すこし苦笑いを禁じ得ません。そういったネットワークがいかに研究に値するかをこれでもかというほどに書いているのですが、なんだか冷めた目で見れば必死だな、という感じさえ受け取ってしまいました。

2010-10-08

バイエルが楽しい

今週はまだ一冊も本を読み終えていません。『憂鬱と官能を教えた学校』を読んで以来、キーボードで遊びまくっているのです。

ここのところ仕事で大きなプレッシャーを感じていたり、子どもが入院・手術をしたのでその付き添いをしたり、スケジュールがてんこ盛りだったりで、くたくたになっていました。そんなこんなで、配偶者と僕が楽をする目的で、子どもを連れて実家に行きました。家事や子どもの面倒を僕の両親にお任せして、とにかく楽をしているうちにちゃらちゃらとピアノで遊んだら、時間の感覚がなくなるくらいに集中できて、しかも気持ちがよいのです。

はじめはコードとスケールの確認と思ってぽろぽろとやったり、子どもと一緒に「かえるのうた」とかの童謡を歌っていたのですが、
・配偶者はピアノを弾かない
・子どもが今後楽器に触るとしたら、ピアノかな?
・積んである楽譜のうち、一番手軽に弾けるもの
とか考えて、懐かしのバイエルを開いたところ、バイエルってとても楽しくて美しいことに気がつきました。よく聞く話では、バイエルは音楽性が乏しいとか、ピアノのレッスンが嫌いになる子どもはバイエルを苦痛に思うとか言いますが、どうしてなんでしょう。音数が少ないとか、響きもメロディもシンプルとか、親しみにくいとか、いろいろ理屈は思いつきますが、美しさってその曲をさらう難易度には比例しませんよね。ちなみに「さらう」という表現で、音楽的というより機械的な表現を僕は意図しています。さらえるのと演奏できるのは別物で、僕にバイエルを演奏できる自信は今のところありません。

僕が好んで聴くJ.S.バッハのアリアの中には、すごく簡単にさらえる曲もあります。スヴャトスラフ・リヒテルの演奏する平均律クラヴィーア曲集とか、残響のせいかゆったりした曲が本当に素晴らしいのですが、そうした曲は楽譜上ではすごく簡単なものもあります。バイエルをさらってみると、そんなのを連想させてくれました(もちろん僕がリヒテルのように演奏できるわけではありませんし、バイエルはバッハではありません。あくまでイメージです)。

僕がメインでいじる楽器はあくまでもサックスで、ピアノは実に拙いものです。心が痩せてしまったときにサックスを練習すると僕はさらに落ち込む傾向がありましたが、そんなときに苦手な楽器で単純な曲をやってみると、リフレッシュできるのかも知れません。こういう感覚ってなんなのだろうなと考えてみると、「お、僕って結構やるな」という自画自賛とか自惚れとか、そういうことなのだろうなと思いました。楽器はついつい自分に厳しくなってしまいますが、苦手な楽器なら大目に見ますし、単純な響きの曲なら素直に綺麗だなと思えます。よく触っている楽器で単純な曲をやっても当たり前とかもっと上手にという感覚がつきまとってしまうのですが、苦手な楽器だとそれも許せそうです。

もっと指がこなれたら、落ち込んだときに「悲愴」の第2楽章あたりに手を出してみようかと考えている僕がいます。紋切り型表現としては「悲惨」になるはずです。

2010-10-03

『憂鬱と官能を教えた学校』

憂鬱と官能を教えた学校』(菊地成孔・大谷能生)を読みました。以下、音楽好きでも書いてあることが外国語のように聞こえるかも知れません。

大筋としては、いわゆる「バークリー・メソッド」を軸にして、実学にするか教養にするか、講義をしながら模索していったようで、本書はその講義録です。

実学の部分は、演奏者・作曲者・編曲者として必要な技能を身につけることを主眼としていて、講義が短いこともあってか、これははっきり言ってうまくいっていません。音楽の技術って身体化しなければいけないようなところもあるから、数ヶ月で身につくものではありませんしね。すごく駆け足で通り過ぎていく講義録を、僕はいちいち音を鳴らしながら確認していったのですが、やっぱりつらいです。頭でわかっても、演奏しようとしたらすっぽりと頭から抜け落ちますし、感覚的なものを身につけなければいけませんから。

これに関しては苦い記憶もあって、かの記念碑的名著であると同時に悪書で有名な渡辺貞夫さんの『ジャズスタディ』を熟読して、アレンジの幅を持たせようと試みたことがあるのです。結果として僕がいじったサックスソリ(サックスパートで一緒になって、ハーモニーを伴ったソロをするようなものです)では、凝ったものができたと自画自賛しましたが、僕を除く演奏者からは酷評を受けました。

それはともあれ、本書は教養の部分がとっても面白かったのです。それは20世紀中盤からメジャーになった音楽理論体系(体系と言っても柔軟なものです)と、その理論体系がもたらした商業音楽への貢献と、今後の可能性及び限界性を理解することなのですが、著者たちは実に幅広いところから話を持ってくるのですよ。

そもそもバークリーの教程が、倍音の理論からはじまって平均律を基礎としているそうですが、そこからが実に長いのです。平均律自体J.S.バッハの頃にポピュラーになったものだそうですが、それを記号化していったのが後の商業音楽の隆盛につながるというのです(少し怪しいと思います。ギリシャの旋法はそれではどうなるのかというのが疑問です)。記号化することで機械的な操作が可能になり(とはいうものの、結局のところ感覚に帰するものもあり)、機械的に操作することでより複雑に、より幅広く豊かな音響を作り出していくことができた、というのです。

最もこの流れも、現代的な(というのはここ数十年を指します)音楽ではハーモニーの操作をこれでもかと言うほどに複雑にして、一見無調性に聞こえるものもありますし、あえて調性を無くす音楽(現代的クラシックに顕著)もありますし、コード音楽でありながら進行感を無くす音楽もあります。このあたりに僕はなかなかついて行けないのですが。

途中コードやモードやリズムのがちがちに記号的・理論的なところ端折って、商業音楽の歴史や展望をさらうだけでも充分刺激的です。ただその際に、音は鳴らしながら読んだ方が良さそうです(というか、必須だと思います)。

それを読み終えて(図書館から借りたのでやむなく返却し、その後購入しました)、ふと気になったので『絶対音感』(最相葉月)を読みました。この本は出版当時僕の身の回りで多くの人が気になると言っていた本でしたが、読んでみるとなんとなく満足感が少ないです。絶対音感は音楽をする人にとってそう珍しいものではなく、あると便利な能力だけどなければないでどうにかなるもの、というのはわかりきったことです。絶対音感が邪魔になる人もいるし、逆に絶対音感がなくとも1セントの違いを聞き分ける人だってざらでしたし、特定の楽器ならほぼわかる人とか、A音だけ正確に出せる人とか、十人十色です。音感と技術と表現力はリンクはしているかも知れないけれど、案外独立してもいたりして、結局よくわからないものです。というわけで、本書に書かれていることがすごく当たり前なことに感じました。

2010-09-29

その本、売りますか?

周りのいろいろな方から意見を伺うと、本を手放す人が多いことは意外でした。僕はこれまでに本を売った経験が一度しかありません。その一度で売った本とは、技術系の教科書や参考書で、内容がすぐに古くなって使えなくなるものでしたが、それらを手放すときは、決心してからもなかなか着手できなかったのです。

本を手放す一番の理由は保管の問題と思われます。ならばはじめから所有しなければよいのですが、僕はそもそも図書館から楽しみの読書目的で本を借りることは、近年になるまでほとんどしていませんでした。図書館から借りる資料は、必要なところをコピーして(著作権的に微妙です)手元におきました。もちろん目を通すだけで済ませる資料も多いのですが。

楽しむための本をちょくちょく借りるようになったのは2007年3月からです。その頃配偶者が実家に帰っていて、彼女が図書館から借りていた本を代わりに返却したことがきっかけでした。図書館から本を借りるようになっても、やっぱり本は購入派であることに変わりありませんから、借りて読み終えたにもかかわらず、気に入った本は後で購入したりします。

ハズレの本や賞味期限切れの本(という言い方は失礼ですが)も、少し時間をおくとなぜか愛おしいのですよね。こうなるとフェティシズムの領域に近づきますが、学生の時に一山いくらで買った古本も二番煎じ感が目につく自己啓発系ビジネス書も保管してあるのは、それらを見ると当時のことを思い出すためです。選んで買って読んで失敗したり憤ったりしたのも、大切にしたい記憶だという、まるで老人のような心境です。

様々な識者が書く読書指南のようなものを読むと、買う派と借りる派の言い分は両方とも納得します。でも僕の経験から言えば、買って後悔したり保管に悩んで後悔したことよりも、借りて後々に手元になくて後悔したことの方が少しだけ多いような気がするので、今のところ買いますし、売りません。読まないことはわかりきっているのですけどね。ついでに僕の趣味でモノが増えるのは本と少しのCDだけですし、配偶者の服や靴やその他に比べれば占有スペースは小さく済んでいますから、あまり文句は言われません。

祖父や父母の本も、あまり捨てられることなく眠っています(前に尋常小学校の教科書を母に捨てられたと父が嘆いていました)。吉川英治は祖父の本でした。日本の古典文学や民俗学は母の本でした。父の本はこれとあげることができないほど読んでいます。それらを僕が読むように、僕の本もひょっとしたら子どもが読むようになるかも知れないという、ほんの少しの期待もあります。ロマンティックに過ぎますがね。

2010-09-22

初夜・最善世界・禁煙脳・面接

近頃読んだ本について、コメントを。

初夜』(イアン・マキューアン)
すごく圧倒されました。ついつい長く語りたくなってしまう本書は、1960年代初頭に、お互いに童貞と処女として結婚をした二人の、結婚初夜数時間の話です。出来事はその数時間のみなのですが、心理的な描写が非常に綿密に、そしてその心理を形作る過去がゆっくりと語られていました。

彼らは若く、教育もあったが、ふたりともこれについては、つまり新婚初夜については、なんの心得もなく、彼らが生きたこの時代には、セックスの悩みについて話し合うことなど不可能だった。いつの時代でも、それは簡単なことではないけれど、彼らはジョージアン様式のホテルの二階の小さな居間で、夕食のテーブルに着いたところだった

時代の心理とでも言うのでしょうか、この年代の人たちの青春記を読むと、性の問題というのはひどく滑稽に見えます。振り返ればほぼ現代の僕だって充分滑稽なのですが、輪をかけて喜劇的です。以前読んだ、1960年頃に自殺した大学生の手記みたいなものにも性の悩みが語られていましたが、若年者の性の悩みは他人や経験を経た人からは理解しがたいところがあります(北方謙三さんに人生相談すれば、「ソープに行け」ということになるのでしょうね)。それでもその時の悩みや喜劇がその後のあれこれをがらりと変えてしまうという恐ろしい領域が、きっと性というものなのでしょう。喜劇なのだけれど、時を経て俯瞰し、その滑稽さに気づいたときにはすでに重大な変化を経てしまった悲劇になっている、そんなもどかしさや怖さを感じました。

性の話だと男女ともにどうしても語りにくいものが含まれますので、語りにくいことをグラデーションのように並べて、自分の抱える問題について検討したらどうなるか、そしてそれが時とともに語りやすくなったり語りにくくなったりしたらどうなるか。そんなことをついつい考えてしまいます。また、本書の「事件」の後は男性主人公の視点から語られていますので、女性主人公がどのように振り返ったかは分かりません。

数学は最善世界の夢を見るか?――最小作用の原理から最適化理論へ』(イーヴァル・エクランド)
数学的なところを読み飛ばしても面白い本です。原著のタイトル(直訳すると可能な限り最善の世界)が表すように、数学に限らず「最も良い世界」について論考しています。はじめは神様やイデアの領域で世界が不完全なはずはない、あるいは不完全に見えるならば、それは悪い中でも最もましなのが現実世界であるというところからはじまります。しかし近代を経て神様が退却して世界創造の主人公は物理学にバトンタッチしますが、そこで物理的にもっとも「よい」道をたどるのが現実であるという話がうまれます。言ってしまえば「最小作用の原理」ですが、これは数学的(あるいは物理的)に間違っていることが説明されます。ならば数学的な世界ではなくて生物学的な世界や経済学的世界は、目的論的にではなく結果論的に最善のものを実現するように動くのではないか、という議論が行われます。

ウィトゲンシュタインの「世界とはそうであることの全てである」という言葉を思い出しました。自然界には最適化とか作用の最小化とかの意志は入り込めません。そこで人間社会のよりよい状態を夢想しても悲観する必要はない、というのが著者の個人的結論です。近代以降の科学が方法論として確立してきた、観測事実に基づいて論証する合理主義にはまだ最善世界へいたるための余地がある、という結論には大いに感服します。もっとも著者に言わせれば、こうした理性を信頼する態度も信仰の一形態だということですが。

目次
はじめに
第一章 時を刻む
 振り子/正確な時刻/計測の道具
第二章 近代科学の誕生
 オッカムの剃刀/機械としての世界/ライプニッツの見方
第三章 最小作用の原理
 屈折の法則/フェルマー対デカルト主義者/デカルト物理学対ニュートン物理学――モーペルテュイ登場/最小作用の原理/最小作用の原理の数学的発展/目的因論的説明の終わり――科学の役割
第四章 計算から幾何へ
 運動方程式は解けるのか?/因果列/ビリヤード――円形または楕円形の場合/ビリヤード――一般凸型の場合
第五章 ポアンカレとその向こう
 ポアンカレ/方程式を解かずに解を見つけるには?/古典力学の不確定性原理
第六章 パンドラの箱
 最小作用の原理の微視的根拠/時の矢
第七章 最善者が勝つのか?
 自然淘汰/偶然の役割/ゲーム理論
第八章 自然の終焉
 構築すべき世界/最適化のアイデア/社会組織
第九章 共通善
 社会的選択の理論/個人の利益と共通善
第十章 個人的な結論

脳内ドーパミンが決め手「禁煙脳」のつくり方』(磯村毅)
禁煙しようかなと思って読みました。しかしまだ僕は煙草を喫っています。恥ずかしながら。

ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?』(ウィリアム・パウンドストーン)
再読です。本書の半分以上は論理パズルの紹介です(僕は論理パズルが好きなので、楽しく読みました)。残りのわずかな紙数で、知能を推測することの意義や可能性について論じられていた記憶があったので再読したのですが、大して面接試験を行う上での参考にはなりませんでした。

少し前に流行った「フェルミ推定」とか論理パズルとか、受ける方も採る方も、座興以外に面接で役に立つのでしょうかね。論理パズルなんて長い歴史がありますから、多くのパターンを練習すればあまり悩むことなく形式的に解ける(つまり記号化して操作することができる)ものがほとんどですし、フェルミ推定については(元の意義はともかく面接場面では)推定する力ではなくて適切なストーリーをこじつける力が問われているように思えます。それにしても面接って難しいです。

2010-09-10

イヴ・夜叉・バナナ

吉田秋生さんの『イヴの眠り』を読んだら『夜叉』が読みたくなり、さらにシン・スウ・リンつながりで『BANANA FISH』にまで遡りたくなり、結局全部読みました。ハテ、ワタクシハ何ヲシテイタノダラウ。"こんな夜更けにバナナかよ"とつぶやきたくなります。

・アッシュの顔、初期と後期で変わりすぎ。
・ちょうどこの頃、髪型の流行に大きな変化があったかも。80年代は遠くなりにけり。
・静(と凛)とアッシュは、スター・システムみたい。
・他にもスター・システムみたいな登場人物は何人もいる。とくに敵役とやられ役。
・『光の庭』を読むと毎度泣いてしまう。
・30代中盤のおじさんが少女漫画を読んで泣いている姿は、見られたくない。
・でもこれ(バナナ)、僕が最も多感な頃に連載されていたのだから、それでよいのだ。
・以前は中心人物に感情移入して読んだけど、今は端役のことを考えてしまう。
・本物の天才と一緒に能力の問われる仕事したら、やな気分だろうな。
・今井さん(夜叉:洛北大学助手、イヴ:沖縄医科大学教授)、同情します。
・作者がどんな人か知りませんが、かなりマッチョな人と想像します。
・「異性・同性のレイプ、小児性愛、児童虐待、PTSD、独占欲」とだけ言葉を並べると、すごくいやな作品に思えた。

その他、今は『数学は最善世界の夢を見るか?――最小作用の原理から最適化理論へ』(イーヴァル・エクランド)を読んでいます。よくパロディにされる電気羊のように素敵なタイトルですが、「xはyの夢を見るか」はそろそろやめた方が良さそうな気がします。まだ半分程度しか読んでいませんが、神学・哲学(といっても当時の哲学は総合科学)・物理学・数学と、非常に守備範囲が広いです。前書きによると、このあとは生物学・経済学へと進んでいくようですが、著者間口広すぎ。あと、本書は訳注も含め翻訳がとても行き届いています。こんなに丁寧なのは近頃あまり読んでいないな、と思いました。で、最善世界の夢は見るのですかね? わかりません。

2010-09-07

センスが良いってどんなだろう

ぼくは散歩と雑学が好きだった。 小西康陽のコラム1993-2008』を読みました。じっくり読むには活字の量が多く、本書を図書館から借りた僕はちゃっちゃと読んでしまったのですが、手元に置いてどこからでも読み始めて読むのをやめて、というのに良さそうな本でした。なんだか小西さんの作曲・編曲(その他)を文字から聴くような気分になります。

ピチカート・ファイヴはもとより小西さんの作品を聴くと、なんとも言い表しにくいセンスの良さを感じるのです。センスが良いというのもいろいろありますが、強いてあげれば1960年代のバート・バカラックとか、同時期のポップアートと似た感触を僕は持ちます。明るくて楽しくて、ウキウキさせられて、孤独で、かわいくてセクシーで、憂いが見えるのです。地に足がついたりしっとりと手になじんだりという感覚よりもむしろ、懸命になって何かに手を伸ばす感覚です。

それにしても、何にしても好きが昂じると始末におえませんね。レコードも食べ物も映画もファッションも。本書の内容はそんなのばっかりです。

ついでといってはなんだけれど、「(株)ワダアキコ WADA AKIKO corporation」を聴きながら読みました。和田アキ子さんの持ち味が発揮されているかどうかはともかく、とにかく小西さんの作ったアルバムなんだな、というものです。

2010-09-03

ここ1ヶ月程度で読んだ本

ずいぶん長いこと、読んだ本の感想を書き留めていませんでした。すでに記憶が風化しつつあるものもありますが(果たして読んだ本はこれだけだっけ? という疑いもあり)、とりあえず書き連ねます。

NOVA 1 ――書き下ろし日本SFコレクション』(大森望編)
日本人作家によるSF短編集。以下ちょっとだけコメントするけれど、コメントしない作品は僕にとってつまらなかった訳ではありません。
■「忘却の侵略」(小林泰三)
シュレーディンガー風味のとぼけた味わいが素敵でした。主人公の少年に幸多かれと思います。
■「エンゼルフレンチ」(藤田雅矢)
読む前に「ほしのこえ」と同じ系統かと決めつけてしまいましたので、意外でした。
■「七歩跳んだ男」(山本弘)
ミステリと言うには微妙です。と学会的に楽しいけれど。
■「ガラスの地球を救え!」(田中啓文)
目次には「SFを愛する者たちすべての魂に捧ぐ」とありましたが、マンガとアニメを愛する者たちすべてに近い。
■「自生の夢」(飛浩隆)
僕の好み偏向が入るけれども、さすがとしか言いようがありません。文章の力をひしひしと感じます。

天才と分裂病の進化論』(デイヴィッド・ホロビン)
分裂病(いまとなっては「統合失調症」)の発症率は民族・文化・地域に関係なく一定。しかもその遺伝的形質はヒトのDNAが今のようなものになった頃からあるらしい。それで、人類の進化は分裂病(の要素をもったひと)に由来するのではないか、という大胆なお話し。分裂病の生化学的な説明部分はとても説得力があるのだけれど、進化との絡みではかなり飛躍があって、分裂病と進化をリンクするのは、分裂病が不飽和脂肪酸に関する酵素の異常であることと、人類が他の霊長類と比較すると皮下脂肪も胸・尻・脳の脂肪も肥大しているということ。それから、分裂病の家系で創造性豊かな者が現れる率が高い、という程度しかありません。おおよそどんなことにもいえるのだけれど、進化の一面を取り上げて、もう一つ何か(例えばウイルスでもミトコンドリアでも二足歩行でもネオテニーでも)の一面を取り上げれば、両者の関連をお話しとして作り上げるのは比較的簡単です。でもエキサイティングな本でした。ちなみに僕のきょうだいは統合失調症です。

影響力 その効果と威力』(今井芳昭)
あまり感想がありませんでした。「影響力」の知見は、ウェーバーによる支配の類型をこえるインパクトをもったものがいまだに現れません(あくまで僕にとって、ですが)。

法人税が分かれば、会社のお金のすべてが分かる』(奥村佳史)
各章の導入部でお茶目な記述があったのが面白かったほかには、あまり感想がありません。法人税が分かれば法人税のすべてが分かる、くらいにすべきだと思います。会計や税務のプロフェッショナルは、彼らのクライアントにとってのお金を稼ぐことの厳しさを、時として甘く見ているのではないかという微かな疑いを僕はもっています。会社のお金で悩むのは、どちらかというと日々のキャッシュフローだと僕は思いますし。

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者』(釈徹宗)
こんな人がいたのですね、というくらいの感想。ハビアンのことを理解するために現代日本の宗教状況を引き合いに出すのは、むしろ理解を損ねると思いました。僕の読み方の問題かも知れませんが、現代日本を理解するためにハビアンを持ってくるほうにシフトした方が、しっくり来ます。

人類が消えた世界』(アラン・ワイズマン)
すごく面白いのですが、いつまで読んでも暗い気持ちになります。ところどころで、意見の一致を見ていない(論争の種になるような)ことも一方的に書いたりしていますが、基調は「ある日突然人類が消えたら、世界はどうなるか」ということですから、とやかく言うのは野暮かも知れません。それでも生態系や環境などの複雑なシステムに関しては幾分説得力が弱く感じました。本書の最も面白いところは、人工構築物がどのように壊れていくか、というところだと思います。

ハンコロジー事始め―印章が語る世界史』(新関欽哉)
本書はゴミ捨て場から拾ったのですが、まさしく「拾いもの」でした。シュメールの印章からはじまって、有名な文明圏での印章の歴史を紹介しています。つまりは古代から近代にかけての文明間の交流を描いてもいるのです。図や写真も多く、手に取るに喜ばしい本でした。

R.O.D 1』(倉田英之)
あまり感想がありません。続編はたぶん読まないでしょう。

バッカーノ!1932―Drug & The Dominos』(成田良悟)
あまり感想がありませんが、たぶん続編も読むでしょう。ライトノベルにしては案外読みにくい部類に入るのではないかと思いました。

2010-08-12

『インシテミル』

インシテミル』(米澤穂信)を読みました。この本を手に取るに当たって僕の主体性はそれほどなく(といっても映画化につられたのではなく)、「配偶者が読んだから読む」という流され型の読書でした。

配偶者曰く、この本のAmazonでのレビューは、初期に書かれたものほど手厳しく、最近になるにつれ甘くなる傾向があるそうです(本当かどうかは確認していません)。読者の偏りというものを考えるとなかなか興味深い事例ですね。本が出版され(作家好きや一部の読書好きに評価され)、「このミス」にノミネートされ(作家好きとは関係なくミステリ好きに評価され)、受賞し(広く読書好きに評価され)、映画化が決定し(読書好きでもない人にも評価され)、という流れは、どんどん評価者の好みの幅や前提知識・経験が拡散する流れです。一部の(悪く言えばマニアックな)人にのみ受け入れられる作品ではないことのひとつの現れかとも思いますが、大きなことは言わない方が身のためですね。

僕は読み始めてすぐにいやな感じがしました。まるで『バトルロワイヤル』の焼き直しをまたもやするのではないかという予感でしたが、これは半ば杞憂に終わりました。読み進めるにつれて『そして誰もいなくなった』や典型的クローズド・サークルへのオマージュかとも思いましたが、これは半ば当たったようです。オマージュと言うより、先行ミステリを敬して茶化した感じがしました。例えば火かき棒の説明に『まだらの紐』を持ち出して、「これを曲げ、そして戻すことができるだろうか」なんてふざけています。(火かき棒といえば、僕が始めて『まだらの紐』を読んだとき、火かき棒というものが囲炉裏に刺さっているものしかイメージできなくて困った記憶がありますが、どうでもよいことです。小さい頃にイメージ検索があれば、かなり読書の質が変わったでしょうね)

読み終えて僕がどう思ったか。ひとつには、ミステリ好きがにやりと笑うようなくすぐりが気持ちよかったです。そしてひとつには、整合性に関する不満がありました。例えば(核心に触れるネタバレにつき、ここから白字)本書の犯行には計画が不可欠ですが、それをするには時間が足りなすぎます。仮に10億円必要としても、アルバイトにくるまでにわかっている報酬は2000万円弱だから、どれほどボーナスを期待しても50倍になるなど僕には思えません。メモランダムを書き換えるにしても、はじめは閉鎖されていた遊戯室が空くまでワープロがあるかどうかは不明ですから、凶器をすり替える計画はルールを説明された1日目の午後(この作品では意図的に0日目・1日目・2日目が混同されているようでした)以降に遊戯室が開き、そこにワープロがあることを知り(しかも感熱紙式ではないことを知り)、誰にも知られずにプリントできないと立てられません。最短で考えれば不可能ではありませんが、知っていることと知るはずのないことが少し都合良すぎですし、ワープロに残っていた履歴は1日目のものですから、あらかじめルールを知っていたとしか思えません。(ネタバレここまで)その他細かいところでいろいろと不備があり(例えばミルグラム実験は、様々な観点から実験方法が変更されていますので、昨今同じ実験をするわけがありません)、きっとパズラーには不評でしょうね。でも「本格」に見せてじつはおちゃらけという風も垣間見られ、そもそも謎解きは本書の主要な要素ではないのではないかという感じもします。

では主要な要素はなにか。よくわかりませんでした。

2010-08-06

デジタル書籍と読書の記憶

本を読む現代人の例に漏れず、僕も本のデジタル化に凄く興味があります。ですが黎明期に電子ブックを買ったりしたものの、紙の本よりも素敵な読書環境はいまだに想像できません。たまには本を PDF化したり、携帯電話やパソコンで青空文庫形式の本を眺めますが、Kindle(など)を購入しようという気には今のところなりません。

Kindleなどの電子ブックリーダーを使うと、きっと素敵な経験が得られることでしょうが、紙の本よりも読書体験が均一になりそうなので、印象が残りにくいのではないかと思っています。開いたときのインクの匂いとか、カビの匂いだとか、押花・押葉とか、コーヒーのレシートとか(へそくりとか)、虫を叩いた跡とか、本文への書き込みとか、見返しに残した買い物メモとか、手触りとか、重さとか、装丁とか、紙の厚さや質感とか、教科書に描いたパラパラ漫画とか、イライラしたときに投げつけたりとか、エッチな本を隠すスリルとか、紙魚に眉を顰めたりとか、本棚のあちらからこちらへ移したりとか、布団の下に敷いて床冷えをしのいだりとか、いろいろな要素が読書体験の一部になっているような気がするのです。

思い返して下さい。女の子に振られた日に読んでいた本は、内容よりも本の質感と重さが思い出されます。寒い冬の日に田舎の駅で人を待っていたときに読んでいた本は、冷たくなった本が記憶に鮮明です。大水で電車が止まってしまったときに読んでいた本は、読んだことよりもうんざりして本を閉じたことをよく憶えています。小学校の図書室で何度も借りた本は、背表紙が割れてばらばらになりかけていました。プレゼントされた本はラッピングが凝っていました。プレゼントする本をどのように包もうか考えて、雑貨屋さんで包装紙を買いました。雨に濡れてふやけてしまった本を見れば、その時の雨の匂いがよみがえるようです。幼かった兄と奪い合った絵本は、中身よりも表紙をよく思い出します。気になる女の子と書店でばったり会ったときにどの書架の前に立ちどの本を買ったかは、書店がつぶれても店内図を書けますし、その本は彼女の記憶とセットです。

そうした記憶がこれからは一様のものになるとしたら、情景とセットにして記憶されている本の内容も紐づける対象が減ってしまうので、体験は少しだけ平板なものになってしまうのではないかなどと、電子ブックリーダーを使う前から心配しています。使い始めはきっと同じように記憶に残ると思うのです。僕は『ドグラ・マグラ』を携帯電話で再読しました。折口信夫の『死者の書』はパソコンで読みました。それらを読んだときの情景は、まだ珍しいものだから鮮明に覚えていますし、Amazon.comで買った数冊のPDFも、買った経緯から読んだシチュエーションまで比較的よく憶えています。ですがそれは特別だからこそ記憶にあるのであって、当たり前のことになると判別をつけにくくなるのではないでしょうか。

すごく感傷的かも知れませんが、読書って内容が伝わればそれでよいものでもないと思うのですよね。内容の伝達に限ればもっと効率の良いメディアはあるのでしょうが、これまで紙の本が培ってきた、モノに淫するような傾向もまだ捨てがたく感じますし、本の内容ではない感覚の記憶をくすぐるからこそ、これから読む本もおもしろさも増すのではないかと思います。

2010-08-05

小説家という職業・英語は多読

何度も「自分には大して才能がない」と書かれているのを読むと、世界を産み出す想像力とそれをアウトプットする速さは明らかに天才的だろ、と何度も突っ込みたくなります。1日2時間の執筆を10日間、それで小説を一作書き上げるのは常人とは思えません。そんな『小説家という職業』(森博嗣、集英社新書)を読みました。

作品の好き嫌いはともかく(僕は初期の「森ミステリィ」が大好きです)、天才ですね。結論は「小説家になりたいなら、小説を読むな」「小説家になりたいなら、とにかく小説を書け」ということでしょうが、それだけでは話にならなりません。そこで著者の経験談からすれば、自分が提供できる作品を市場のニーズにすりあわせるための深い自省と作業があるのですね。職業小説家に徹しすぎていてクールすぎます。本書に書かれている森さんの方法論と戦略・戦術は、結果としてうまくいったから良かったのですが、近年のライトノベルのようにきちんとビジネスとして読者のニーズをできる限り汲むような作り方をしている作品群と比較して、なにが独自なのかはよくわかりません。一足早かったのでしょうかね。

出版不況だとかなんだとかいろいろ喧しいですが、森さんはその中で、どのようにすれば職業としての小説家がビジネスとしての創作をすることができるのかについて、考えをめぐらせています。どんな環境にあっても、なくなることがないのはメーカー(この場合は小説家)であるというあたり、確かにその通りだとは思いました。どことなく徹底していないと感じたのは、文字で感動を与える形態が依然として続くのだろうかと僕が思っているためです。森さんは様々なところで超合理的(というか、多少SF的)なことを書きますが(本当にそう思っているかどうかは不明)、突き詰めれば文字を媒体にして人が感動をするのは、もっとシンプルになり得るとはお考えではないようです。それが少し引っかかるところで、元小説家になる予定の人として小説を擁護しすぎているのではないかと思いました。

その他、『英語は多読が一番!』(クリストファー・ベルトン、ちくまプリマー新書)を読みました。英語を練習するためには小説をたくさん読みましょうという本で、タイトル以上のことはあまりありませんでしたが、細かいところで
・よくあるニックネームの一覧
・知らない単語の推測
・スラングの推測の仕方
あたりが役立ちそうです。細かいところが光る本でした。

ところが「多読」とはいっても、本書の話は小説に限定されているのですね。僕はノンフィクションばかり読んできましたが、僕が英語のできない理由はここにあったかと、無理矢理自分を納得させたいです。

2010-07-29

エレベータ・ガソリン料金・秒速5cm

雑談です。

東北地方某県の県庁に用事があって赴いたのですが、そこのエレベータがかなりの年代物で、近年味わったことのない浮遊感を得ました。思えば近頃のエレベータは発進・到着時には絶妙に速度を調節して、加速度を感じさせないようなものになっていることを再発見しましたが、かつてはいつでもエレベータに酔うような感覚があったのですよね。故きを温ねて新しきを知る、という感じです。

県庁から途中2カ所に立ち寄りながら60kmほど離れた別の街に移動する際、ガソリンの残量が気になったので、道沿いのガソリンスタンドに掲示されている値段を気に留めながら車を運転していました。そこで気がついたのは単なる思い過ごしかも知れないけれど、都市部と比べて山間部のスタンドほど、普通料金と会員料金の差額が大きいように見えることです。勝手に推測するなら、一見さんを多く呼び込める可能性のある人口集中地帯は普段の料金を安くし、その可能性の低いところではリピートユーザを囲い込むもくろみなのかな、と想像しますが、本当のところはどうなのでしょうね。

今週はじめて映画(DVD)を見る時間の余裕があったので、ホテルに持参のノートPCにて、以前から見よう見ようと思っていた「秒速5センチメートル」(新海誠監督)を見ました。僕のツボにジャストフィットです。「ほしのこえ」以来のおなじみ新海カットといい、あるようなないようなストーリーといい、心象を風景に託して描写する手法といい、見事に監督の自己満足(自意識過剰というかも)を見せられた気がします。

(ネタバレかも知れないので白字。反転して下さい)三話の連続した短編をつなぎ合わせた形式なのですが、はじめのどうしようもなく若くて甘々で恥ずかしいところ(中学生)から、中盤の妙に世界に対して構える恥ずかしいところ(高校生)、終盤の失われて取り戻せないものにこだわり続ける痛々しいところ(大人)まで、とにかく恥ずかしくて身につまされて、身悶えするほどに僕の幻想をくすぐりました。二話目のロケット発射シーンと、三話目の「One more time, One more chance」にあわせた風景のラッシュは、(ここまで)僕にとっての完璧な演出でした。

今日読み終えた『音楽好きな脳』に、以下の素敵な記述がありました。

音楽を聴く脳のストーリーは、脳のいくつもの領域が、管弦楽を奏でるかのように絶妙な調和をとりながら機能していくストーリーだ。そこには、人の脳の最も古い部分と最も新しい部分がともに関わり、後頭部にある小脳から両目のすぐ後ろにある前頭葉まで、遠く離れた領域が加わっている。そこでは、論理的な予測システムと感情的な報酬システムとの間の神経化学伝達物質の放出と取り込みに、綿密な演出が施されている。私たちがある曲を好きになるのは、以前に聞いた別の曲を連想し、それが人生の感傷的な思い出にまつわる記憶痕跡を活性化させるからだ。

まさに上記で指摘されているとおり、このアニメ映画は、以前みた情景や心象を連想し、それが僕の感傷的な記憶を活性化させました。北関東は太陽系外と同じくらい遠いのです。ただし好みの音楽が個人によって異なるのと同様、このアニメは受け入れられない人にはひどくつまらないものでしょうね。配偶者は「すごくつまらなかった」といっていましたし。

2010-07-26

近頃の読書

いま『音楽好きな脳―人はなぜ音楽に夢中になるのか』(ダニエル・J・レヴィティン)を3分の1くらいまで読んだのですが、この本は音楽好きと科学好きにとってはとっても面白い本の予感がします。まだはじめのほうなので、音楽の構成要素を物理的に解釈するとどういうことなのかとか、脳による解釈はどのように行われるかという話ですが、目次によると、さらに進めばもう少し脳と心の働きについて突っ込んだことが書かれているようです。

その他、近頃読み終えた本。

■『バッカーノ!1931 鈍行編―The Grand Punk Railroad』と『バッカーノ!1931 特急編―The Grand Punk Railroad

アニメにもなっている有名ライトノベルですから話の筋は置いておき、誤字(誤植か、それとも意図的なものか)の多さが気になりました。漢数字の二がカタカナのニになっているとかではなく、凶行が強硬になるような、変換ミスのようなものが目につきます。

それにしても、「レイルトレーサー」の怪物ぶりは反則だと思いました。すでに不老不死とか悪魔とかの反則をしているから別によいといえばよいのですが、ファンタジー世界で魔法と関係なく魔物と仲良しとか、SF世界で科学と関係なく魔術的だったりとか、そんな感じです。

■『仕事で疲れたら、瞑想しよう。 1日20分・自分を浄化する習慣 (ソフトバンク新書)』(藤井義彦、ソフトバンク新書)

「瞑想やってみたら良かったよ」という気軽な感じです。著者自身、瞑想を誰かに教えたり伝えたりする立場にいるのではなく、「瞑想をしていますよ、いいですよ」という立場だし、霊的なものとか神秘的なものとかには立ち入らないので、比較的信頼感がありました。

とはいうものの「本当の自分に向き合う」とか、胡散臭く感じてしまいます。僕も「座る」習慣があるので瞑想の良さはわかるつもりなのだけれど、そんなに大層なものでもないような気がするのですよ。人に勧めるために効果のほどを大々的にいうのでしょうが、眉唾という可能性もあります。合う人には合うのでしょうがね。

2010-07-19

カミソリの進化

大学生の頃に駅前で試供品をもらって以来、僕はT字カミソリで髭を剃っています。元々髭の薄い質なので、それほどカミソリに負荷はかけていないのですが、このカミソリの買い換えって数年に1回程度です。替え刃式なのに、替え刃がどこにも売っていないくらいの頻度です。

さて、5年ぶりくらいにカミソリを買い換えるにあたり、品にこだわりはないので、ドラッグストアに並んでいるものの中から最もコストパフォーマンスの良さそうなものを選びました(眺めるだけでわかるものではないのですが、値段とグレードと替え刃の数で決めます)。今回買ったのは4枚刃、刃が振動するタイプで、替え刃3つ付きで約600円でした。

ずいぶん前に企業経営の話を読んだなかに、ジレットだかシックだかの最大のライバルは現在までの自社であるということが書いてありました。その意味することは、常に新しい製品を出し続けて自社製品を超える満足を提供しないと商品が売れないということですが、カミソリなんてそれほど複雑なものではないから、イノベーションはそうそう起こるまいとたかをくくっていました。

ところが使ってみるとこれまでとは本当に違う感覚で、かなり驚きました。こんなに刃をたくさん使う必要はなんだろうか(掃除が面倒そう)とか、振動すると皮膚まで切れてしまうのではないかとか、いろいろ不安もありましたが、髭がっひっぱられる感覚はないし、皮膚を削る感じもしないし、引っかかりもしない。なんだかなめらかな棒やプラスチックか何かをあてているようで、鋭利な刃物をまったく感じさせません。

これがなんだか変な感じなのですよね。『ガラスの仮面』とかスケバン刑事とかで、安全カミソリの刃を衣装の襟や封筒に入れたり誰かを傷つけるために使ったりしたのに対し、本当に隔世の感があります。道具がその本性を全く隠してしまっているかのようで、その危険性を多少は表に出したほうが安全に使えるのではないかなどと考えてしまいました。

2010-07-16

『ゼノンのパラドックス』

僕が学部生で哲学を受講していたとき、ある講義で教授はゼノンのパラドクスについて話をしたのですが、無限級数の問題がどうして哲学的な謎になるのか僕にはどうしても理解できませんでした。アキレスと亀のパラドクスを例にとれば、1) アキレスと亀の距離は0に収束する。2) 仮に収束を解として認めないなら、「アキレスは追いつけない」のではなく「問いをやめられない」の錯覚であり、アキレスが追いつけるかどうかは問題ではなくなる というような感じでかみついたのです。

そんなこんなとは関係なく、『ゼノンのパラドックス―時間と空間をめぐる2500年の謎』(ジョセフ・メイザー)を読みました。どことなくすっきりしない感想を持ちましたが、パラドクスが微分の話にとどまらないということは得られて良かった知見です。本書は決してゼノンのパラドクスに焦点を当てているのではなく、運動(物理的な意味での)と時間・空間について話を巡らせています。本書では古代ギリシャでの制約(無限の概念を封じたこと、無理数がないことなど)を、数学的・物理学的に徐々に拡張しても、やはり運動には不明な部分があるという歴史を、物語風にたどっていきます。

こうした数学(特に微分のあたりまで)と物理(特に相対論・量子論以前)の物語という面ではとても良い本だと思いました。速さ=距離÷時間という小学校で習うことも、時間という計量可能な数値を持たなければ考えることもできませんし(機械式時計の発明以前は、小さな時間を計測することができなかった)、もっと現在に近いところ(過去100年程度)でも、物体の運動を極大と極微にするとどう考えることができるのか、とか、「わあ、びっくり」と思い知らされます。

ただ、全体の見通しを立てにくい本です。ちょっと話が拡散しすぎているような印象を受けました。

目次
第1部 ざわざわとした不条理
 1. 運動の逆説を語る前に
 2. アテネへ
 3. アリストテレスが見た世界
第2部 ゼノン、ルネサンスを生き延びる
 4. 速さが量となる
 5. ガリレオ・ガリレイ――近代科学の父
 6. 惑星の舞踏
第3部 ゼノン、時の砂に埋もれる
 7. 止まって動く――時間と時計
 8. デカルト、そしてxとyの魔術
 9. 矢の軌跡
 10. りんごから啓蒙時代へ
第4部 ざわざわとした不条理ふたたび
 11. 光の速さ
 12. アインシュタインの時空革命
 13. おっと、また粒々になるじゃないか
 14. 隣はない、でも「隣」って何だ?
 15. 一筋の流れ

『バッカーノ! The Rolling Bootlegs』

いまさらですが、『バッカーノ!―The Rolling Bootlegs』(成田良悟)を読みました。思うところはいろいろありますが、お祭り騒ぎは楽しく、まさに消費のための読書という感じです。

言葉が一風変わっているところ(誤字や誤記かも知れない)や、1930年代のニューヨークでは知るはずのないこと(とくに直喩で気になった)や、「偶然」「必然」「螺旋」「永遠」「監獄」といった言葉が直截すぎてなんだか気にさわることはさておき、楽しく読みました。

こういう小説を読むときの作法として、どの登場人物に萌えるか、という重要な問題があります。その際に前提として共有されている「キャラクター」という考え方に、近頃僕は引っかかりを感じているのですよね。記号のように「この人物はこういう人」と当てはめたり、逆に「よく知られるこういう行動(や属性やetc.)の集合でこういう人物」となっていたりするのは、小説を楽しむ程度なら何の問題もありませんが、現実にまで敷衍されたりすると、人間の複合的な性質を軽視することになってしまうのではないかな、と思っているのです。

「キャラ」について上記のようなことを高校時代の友人に話したら、「それって東浩紀がずいぶん前に書いていたことだよね」といわれました。何となく「しまった」という感じ。

熱い講演を聞きました

仕事のからみで大久保秀夫氏(株式会社フォーバルの創業者)の講演会に参加しました。要点の一つはCRM(Cause-Related Merketing)、一つはBOP(Base of the Pyramid)、もう一つは「決断」です。

CRM(普通にいわれるCRMではありません)の要点は、社会にどんな貢献ができるのかを中心に考える、ということ。「儲かるか」から「競合はどうだろうか」と考えて、「法的にクリアできるだろうか」と検討をして事業を進めるよりも、「この事業には社会的価値があるだろうか」「誰もやらないのだろうか」と考えて「事業として採算が合うか」と検討してゴーサインを出すのが、大久保氏の考える最良な順番だということです。社会的価値についてはいろいろな事例があげられたけれど、興味深かったのは就職人気企業ランキングの上位にNPOが入っていること。牽強付会気味に聞こえたけれど、「トップエリートはJPモルガンを蹴ってもTeach for Americaを選ぶ」とか。その理由付けとして、すでに紋切り型になりつつあるマズローの欲求階層説をあげていました。曰く、承認欲求以上の欲求(自己実現欲求)を求めるためとか。理由付けは少し眉唾な感じです。

もう一つの要点は、ピラミッドの下側をビジネスの場所としていくということ。言い換えるなら伸びない市場よりも伸びる市場で、ということ。まあいってみれば当たり前なことですが、講演者はメコン川流域に力を注いでいらっしゃるそうです。

また、講演の中心的テーマの「決断」については、「魂の決断」をすることが成功と失敗を分けるとのことでした。「体の決断」(暑い、寒い、眠い、疲れた)ではなく、「心の決断」(好き、嫌い、得する、損する)ではなく、善か悪か・正か否かという基準で純粋に行うとのことです。また、自分が「余命三ヶ月」だとしたら何にプライオリティを置くかという観点から決断するということです(僕が余命三ヶ月だったら仕事はしません)。

ビジネス書やビジネス系講演会のパターンは、一つは数字や事例をあげて理論に当てはめていくタイプと、もう一つは熱意や動機やポリシーや不撓不屈といった心持ちを熱く語るタイプだろうと何となく思っています。後者の講演を聞くメリットは、そのときに気分を高揚させることができることですが、気持ちのこととなると熱しやすく冷めやすいのが人情というもの。スーパーマンにならできることよりも、僕としてはありきたりのいろいろな性格を持った人にできることのほうが好きですが、ありきたりの人だと「成功」はできないのでしょうね。

著書の『The 決断 決断で人生を変えていくたったひとつの方法』をいただきました。そのうち読むと思います。

2010-07-10

『死亡フラグが立ちました!』

死亡フラグが立ちました!』(七尾与史)を読みました。歯切れの良さが素敵なゲーム感覚の作品でした。

本書は第8回「このミステリーがすごい!」大賞最終候補作品を加筆(というより、絞り込み)修正したものだということです。僕の感想は、ミステリーとしてはいかがなものか、というものです。そもそもミステリーって、すごく限定された作法を持ちますよね。犯人は登場人物の中にいなければいけないし、奇想天外なトリックは許されるにしてもまったく現実感のないものは許されません。その点で言えば、この作品は犯人探しの面白みもトリックの工夫もさほどありません。

犯行は「風が吹けば桶屋が儲かる」のように行われます(この位ならネタバレではないと信じつつ)。その理屈は、かの『緋色の研究』でホームズがワトソンの身辺事情を言い当てたときのように、かなりこじつけです。ストーリーはかなり先読みできます(実際僕は、本書の2/5くらいで読み進めたところで予想し、ほぼその通りになりました)。登場人物達はどこかで類型化されたことのあるような人たちで、まさしく「キャラクター」と呼ぶにふさわしい感じです。

ですがそれがきっちりと組み合わさったときのおもしろさというのは、新しい感覚といえなくもないかな、と思いました。感触が似ているといえば、映画の「下妻物語」のようなもので、パッチワークのようにすでにある「お約束」をつなぎ合わせて、それらの「お約束」がイベントを経て伏線になり、軽く楽しく、すっきりさっぱり、テンポ良く進んでゆきます。

「キャラが立っている」という言い方をしますが、新しいキャラを創造しようとするか、既存のキャラを修正しようか、それともこれまでのキャラを純化しようか、というような選択肢があったなら、本書はその最後の純化する道をたどったのでしょう。これをおもしろく感じるには、読み手がかなり均質である必要があるな、と思いました。映画やドラマや漫画や小説やゲームといったコンテンツをある程度消費した経験のある人には、様々な説明をしなくとも世界を読み取ってくれるメリットがあるし、メタな楽しみかたをするところもあります。ですが反面、経験の蓄積が浅い人(例えば小学生とか)だったらどう読むだろうと思うと、すこし気になります。今のところお約束となっている様々なことは、これまでのいつかに斬新だったことで、それらのエッセンスを抽出したようなものだからおもしろいとは思うのですが、おやじギャグのたどる道と同様、うまくワクを作らないと寒いだけになってしまいます。

書いているうちに、こういうのは「紋切り型」や「クリーシェ」と同じことだなと気づきました。まるで紋切り型表現だけでおもしろいことを言う人もいるし、寒いだけになる人もいるようです。そして本書は、おもしろくなったほうの素敵な例でしょう。

2010-05-11

lubuntu(lxde)にdropboxをインストールする

僕が使っているPCの一つはThinkPad X22といった時代物なので、OSは軽いものが好ましいけれど、なんやかんやで(特に環境を作ったり壊したりするのは)楽な方がよい。そこでLubuntuを使っている。

もう一つ、ずいぶん長いことhowmを使っているので、そのファイルと多少の写真などを複数のPCで同期させるために、Dropboxを使っている。

このDropbox、Ubuntu用のdebは公式サイトで用意されているのだけれど、nautilusが必須だ。かといってnautilusが重いので、非力なPCにはできるだけ入れたくない。そこでLubuntuにDropboxを入れるやり方を探したら見つかった

  1. cd
  2. wget -O dropbox.tar.gz http://www.dropbox.com/download\?plat=lnx.x86
  3. tar -zxof dropbox.tar.gz
  4. wget -nd http://dl.dropbox.com/u/6995/dbmakefakelib.py
  5. wget -nd http://dl.dropbox.com/u/6995/dbreadconfig.py
  6. python dbmakefakelib.py
最後のスクリプトにはgccが必要。これで同期をとってくれるようになる。今後ファイルの同期をとりたいときには、
~/.dropbox-dist/dropboxd
を実行すればOK。ただしパネルに表示されるdropboxのアイコンから操作しようとすると、ファイルマネージャが決められているようで、nautilus抜きではほとんど使い物にならない。さて、楽なのかどうか。

2010-04-13

茶人たちの日本文化史

茶人たちの日本文化史』(谷晃)を、人に触発されて読みました。

僕自身日本文化に精通している訳ではないけれども、若い人間(若いです!)にしては日本の伝統に通じているとは思っています。例えば幼いころには琴を稽古していましたし、育った家庭では日常的に和歌や詩などをネタにして雑談していましたし、主に書物を通じていわゆる「日本文化」には接しているつもりです。

しかし、茶についてはほんの少しの知識と通り一遍の経験しかありません。まあ他の伝統文化についても通り一遍のことしか身につけていないのですが。そんな僕にはとても役に立つ本でした。

茶の湯は村田珠光からはじまり、利休によって大成され、といった作法的茶道本のレベルではなく、茶が日本に伝わったところから話ははじまります。そして平安の貴族階級や僧侶、その後の武家階級や町人に広がっていったところや、現在につながる茶の湯がどうやってつくられて、どう変わってきて、日本文化にどう関わってきたかが、時代を追って書かれている本です。

本書のいちばん良いところは、茶が日本に根付き、遊興にしても修行にしても、文化の領域まで高まっていったことを、文献を豊富に参照しつつ人物を中心にして歴史的に紹介している点だと思います。茶の湯と日本文化の今後について筆者は警鐘を鳴らしていますが、そのあたりは少し割り引いて読んだ方がよいかな、という感じでした。

いやはや、知らないことが多くて困ります。趣は異なりますが、岡倉天心の『茶の本』を再読したくなりました。

2010-02-23

手帳の予定欄

手帳の予定欄に空白部分を作らないようにすると、時間の使い方が能率的になる、という記事があった。

考えてもみてほしい。手帳にアポイントが定まった「緊急事項」や「緊急かつ重要事項」しか書き込んでおらず、半分以上が空白だったとしたら。あなたの一日はどのように過ごされることになるだろう。

僕の経験上、その一日はきわめて非効率な一日となる。アポイント以外の時間を「空き時間」として自ら設定してしまうからだ。他にやることがたくさんあるにもかかわらず、のんびりとした、目的意識の無い非生産的な時間の使い方になってしまうのだ。

であるならば、アポイントの定まっていない「緊急ではない重要事項」を入れてしまえばいい。

(改行と段落は勝手に修正)

僕は現在中小企業の代表をしているが、労働時間は基本的に自由時間から成り立っている。そんな僕の手帳はそれなりにアポイントの予定もあるものの空白部分が多いが、TODOリストも多い。何を優先すべきかがかなり頻繁に変わるので、時間の管理をするよりはTODOの管理をしたほうがなんとなくうまくまわるような気がしてそうしているのだが、やっぱり時間を効率よく使いたいという思いは絶えない。

しかし僕は、時間にしても何にしても計画を立ててそれを守るのが苦手なたちで、性格をMBTIで診断するとINTPになる。とはいうものの、自分にあったやり方を探す上で、手帳に空白を作らないようにするというのは一つの参考にはなるので、試してみようかと思った。

ちなみに現状では、howmがもっともうまく使えている。

2010-02-03

『ヒューマニティーズ 外国語学』

外国語学 (ヒューマニティーズ)』(藤本一勇)を読みました。

とっても壮大な論を展開しています。この「ヒューマニティーズ」のシリーズはどうやら論じている学問領域について、

  • どのようにして生まれたか
  • 学ぶ意味は何か
  • 社会の役に立つのか
  • 未来はどうなるか
  • 何を読むべきか
で統一しているようです。この『外国語学』もそのフォーマットに則っていますが、僕の想像していた内容はあっさりと裏切られました。

基本的に、本書は言語と権力の関係について論じています。特に近代以降の話ですが、外国語を学ぶという営みが帝国主義的な性格を帯びていることから始まり、外国語に限らず「国語」さらには言語そのものの持つ権力性を解説し、それを相対化して言語自体を使って言語外のものをあぶり出す行為について論じられています。

いくつか疑問に思うところもありました。「外国語学」という学問分野が作られたのはきわめて新しいことでしょうが、それ以前だって人は外国語を身につけていました。それに仮に日本の外国語教育が英仏独(露中)の技術や法制度や思想を取り入れることを目的として成立したならば、例えば欧米の外国語学はどうなのでしょう。英語の歴史にしてもフランス語の歴史にしても、いわゆる近代国家の成立と同時期に言語が統一されていることは確かですが、それはあくまでも「国民」や「国語」の話。そうした地域での外国語学はちょっと性質が違うのではないかという感想を持ちました。もう少し感想を具体的に言えば、トップダウン型の言語統一ではなく、ボトムアップ型の言語統一(そのようなものがあるかは知りませんが)では、権力のゲームは支配の様相ではなく訓育や合意の様相を示すのではないかな、と。例えばグーテンベルグやルターをきっかけにゲルマン諸語とラテン語の関係はどう変わったのかな、とか。

そんなこんな。難しい話ですが、「権力」という語が使われすぎていて、これをMachtとかpowerとかと読み替えるべきなのか悩みました。単に「力」とでもすべきところではなかろうかとも思いますが、権力論をはじめたらきりがないのでそれはあまり考えず。

2010-01-27

握手の作法

雑談です。「握手の練習をしたことがありますか?」というコラムがありました。その中に気になる記述がありましたので、引用します。

そこでマナー関連の本を、都立中央図書館でざっと20冊ほど読んでみたところ、握手について書かれているのはたったの3冊! 満漢全席に招待された時や、仲居さんへのポチ袋の渡し方、訪問先のインターフォンの押し方に至るまで詳細に書いておきながら、「握手」という大事な儀礼についてほとんど語られていないのは意外であった。


ちょっと待て。僕はこれまでマナー関連の本というのは意識して読んだことはほとんどないけれども、大抵はエッセイで握手の仕方が書かれた本をいくつも読みましたよ。ぱっと思いつくのでは伊丹十三さんの何か(『女たちよ!』か『ヨーロッパ退屈日記』だったような)、景山民夫さんの何か(思い出せない)、サトウサンペイさんの何か(『スマートな日本人』だと思う)。その他に、山口瞳さんの何か(『礼儀作法入門』だろうか)や山藤章二さんの何かで読んだような気もします。

この認識の違いはいったい何なのでしょう。しばし頭をひねって、どうでもいい、という結論に達しました。

2010-01-25

『使える! 経済学の考え方』

使える!経済学の考え方―みんなをより幸せにするための論理 (ちくま新書 807)』(小島寛之)を読みました。

即物的に使えるか否かというなら、使えないでしょう。そもそも謎の多いタイトルで、何が使えるのか(経済学が? 考え方が? )、何に使えるのか(日常生活に? 経済理解に? 仕事に?)はっきりしませんが、本書の主な内容は経済学理論の数理的解説です。著者のブログから引用すると、

この本のテーマは、一言で言えば、「幸福」や「自由」や「公正」や「平等」をどうやって、そして、なぜ、数理的に議論するか、それをわかっていただくこと。
だそうです。

ついでだから本書の目次も引用します。
序章 幸福や平等や自由をどう考えたらいいか
第1章 幸福をどう考えるかーーピグーの理論
第2章 公平をどう考えるかーーハルサーニの定理
第3章 自由をどう考えるかーーセンの理論
第4章 平等をどう考えるかーーギルボアの理論
第5章 正義をどう考えるかーーロールズの理論
第6章 市場社会の安定をどう考えるかーーケインズの貨幣理論
終章 何が、幸福や平等や自由を阻むのかーー社会統合と階級の固着性


そこに焦点を絞って本書を読むと、確かに著者の狙ったことはよく理解できます。名著と言って良いかも知れないくらいに。ただし僕はずっと経済学で言うところの「効用」が前提のように扱われていることに引っかかってしまい、すんなりとした感想は持てませんでした。ミクロ経済学で盛んに使われる便利な概念ですが、この「効用」をかなりのくせ者だと僕はずっと思っているのです。

ゲーム理論などにもっとも顕著なことですが、瞬時に効用を計算できるような理念型的な人間は、それこそノイマンのような天才でしかないのではなかろうかという疑問はよく口にされます。それ以外にも僕は、選好の順位を明確に認識しているとか、時間が経過してもそれらが変わらないと仮定することが不思議でなりません。それに効用を計算しようとしても、それらがヴェーバー・フェヒナーの法則のように物理量の対数と比例した感覚なのではないかとか、まるで通貨の代わりのようには効用を扱えないのではないかとか、いろいろ思っているのです。とはいってもそういった疑問は実験経済学とか行動経済学とかで研究されているのでしょうが。

2010-01-13

『グローバリズム出づる処の殺人者より』

グローバリズム出づる処の殺人者より』(アラヴィンド・アディガ)を読みました。話題になっていた本ですが、話題通りにおもしろい。

本書は中国の首相に宛てて、インドの起業家が田舎の貧困家庭での生い立ちから語りおこした手紙(メール?)の形式で進められています。主人公は(以下あらすじなので白字)家庭事情により学校をあきらめさせられ、茶店での単純労働を経て金持ちの運転手となりデリーで生活をします。後にその雇い主を殺して奪ったお金でバンガロールで事業をおこします(白字おわり)。

最近のインドのイメージといえば、ソフトウェア産業の振興で経済的に注目されている地域というものですが、ソフト屋さんばかりではなくてその周辺のサービス産業も様変わりをしていることでしょう。それでも古くからある社会体制はそこまでの変化を見せず、いろいろな場所でそれぞれの「檻」となっているようです。本書のおもしろいのは、その「檻」同士の桎梏を描いている点ではなかろうかと僕は感じました。

かつてインドは世界でもっとも豊かな国だったそうで、その時代にカーストが固定化されました。その方がそれぞれの人にとって都合が良かったからなのでしょうね。それが固定化されているために、経済的な格差が生じてもカースト間の移動が難しくなり、生産形態が農業を中心にしようと工業が盛んになろうと官僚制が導入されようと、ある仕事はある人たちのもの、という状況が続いています。

ヴェーバーがよく書いていたことですが、支配の形態は正当性によるもの、伝統的なもの、カリスマによるものといろいろあります。なぜ個々の人が不利益を被ってまでそうした支配を受け入れるかと考えると、一部には自分で納得したものもあるでしょうし、有無を言わさぬ暴力によって従わされているところもあるでしょう。しかし圧倒的多数はその支配自体を自分に内面化していることで安定を得ているものです。

本書では使用人が雇い主の資産を強奪しないことが「使用人根性」として描かれていましたが、こうしたものは生活のありとあらゆる場面から強化されます。例えば信仰する神からして違います。初等教育課程も家庭環境やら政治状況やらでスムーズに進まないことが多いです。家でも学校でも従うことの正当性や合理性に慣れ、将来の展望も規定され、置かれた状況を当然のものとして受け入れることになります。これは貧困層のみの話ではなく、資産階級も自分よりも上位のヒエラルキーを当然のものとして受け入れることとなります。

本書の登場人物たちはそれぞれ象徴的な役割を持っています。主人公の雇い主はアメリカへ留学していましたのでアメリカ的な考え方も持っていますが、親や親族と結婚についてもめていましたし、利権や税金のために贈賄をすることに絡められています。バスの車掌から政治活動をするようになった登場人物は、比較的新しくインドに現れた政治的エリートとして階層をのぼっていきます。中国の首相だって宛先としてしか登場しませんが、中国の政治や経済の状況をインドと対照させられます。もちろん主人公はもっとも大きな役割を担い、起こりつつある変化を象徴します。

この小説について語る人は往々にして、ルポタージュやノンフィクションとフィクションを対比させたり、「インドの実像」について語りますが、僕はそうした点にはそれほど惹かれませんでした。パール・バックの『大地』や魯迅の『阿Q正伝』に似ていると言えば似ていますし、そうした「フィクションによって現実をよりリアルに伝える」とかいう話はすでにし尽くされている感があります。それよりも僕の目には、登場人物がアイコンのようにちりばめられ、それらの互いの関わり方が現代(インドに限った話ではありません)を戯画化しているように感じられるところが素敵と映りました。受け取りようによっては惨憺たる話ですが、それをうまく軽やかにする主人公の皮肉な語り口も訳文も素敵でした。

2010-01-12

20歳の20冊

雑談です。20歳は遠きにありて思うもの、近くば寄って目にもみよ、と。

出版文化産業振興財団(僕はこの財団を知りませんでした)が「20歳の20冊」を選んでいるそうです

以下、その20冊を。

  • 穴 (ルイス・サッカー)
  • 雨鱒の川 (川上健一)
  • アメリカ 過去と現在の間 (古矢旬)
  • 1分間でわかる「菜根譚」 (渡辺精一)
  • 肩胛骨は翼のなごり (デイヴィット・アーモンド)
  • しゃべれどもしゃべれども (佐藤多佳子)
  • 12歳からの現代思想 (岡本裕一朗)
  • ジョゼフ・フーシェ (シュテファン・ツワイク)
  • スローター・ハウス5 (カート・ヴォネガット)
  • 生物と無生物のあいだ (福岡伸一)
  • 世界の言語入門 (黒田龍之助)
  • 蝉しぐれ (藤沢周平)
  • ナイフ (重松清)
  • 人間臨終図巻Ⅰ(山田風太郎)
  • 母恋旅烏 (荻原浩)
  • ペスト (カミュ)
  • やわらかな心をもつ (小澤征爾・広中平祐)
  • 夜のピクニック (恩田陸)
  • 歴史とは何か (岡田英弘)
  • わたしを離さないで (カズオ・イシグロ)

僕の既読は7冊でしたが、どことなく愛読家向けではないようなラインナップに思えます。

どんな20冊がよいのかあれこれ考えるのもよいけれども、20歳ってあまりにも幅が広すぎて難しそうですね。年代でわける推薦図書って小学校○年生とか中学生とかなら比較的決めやすい(といっても至難の技です)かと思うけど、20歳ともなればある程度の趣味嗜好が固まっていそうですから。

20歳の僕なら成人式でこれらの本を勧められようが贈られようが「僕は僕の読みたいものを読む」と無視すること間違いなしです。むしろ反発して、これらの本から遠ざかるかもしれません。

2010-01-08

『ブリッジブック社会学』

ブリッジブック社会学』(玉野和志編)を読みました。大学一年生向けの教科書みたいなものなのです。

この本の執筆者の一人である友人に会ったときに「あの本、おもしろい?」と聞いてみたところ、曰く「僕の書いたところはおもしろい」と、ずいぶん大きく出たものでした。それならばひとつ読んで、からかってやろうと手に取りました。

読んでみると、友人が格好良すぎて惚れました。日頃から量的調査や数理モデルばかりにこだわる社会学者を毛嫌いする発言をしている彼なのですが、彼の面目躍如とでも言う内容で、大学一年生に読ませたら少し毒になってしまうのではないかと思わせるほどです(僕は量的調査や数理モデルが好きですし)。とにかく友人の言ったことは本当でした。

もっとも素敵だと感じた一文を引用します。

数量化すれば自動的に客観的で科学的な社会学になるわけではない。何より、「数える」ことそれ自体が、日常的な行為理解に論理的に依存している。自殺率を調べるためには自殺を数えなければならないが、そのためには自殺とその他の死が区別されていなければならない。そして、その区別の理解可能性を支えているのは、決して数字ではなく、社会生活のなかで「人の死」に直面したとき、その原因や理由、意図や動機を理解する人びとの実践なのである。このことを忘れて、人びと自身による行為理解から切り離された数量化を行うなら、それは決して社会生活の科学にはなり得ない。


本書全体で言えば、近頃流行りの教科書のように社会学的な概念や理論を使って現代社会をどう理解するかという体裁をとらず、オーソドックスな学説史のように有名社会学者をほぼ順番に紹介しています。特徴的なのはマルクスによる近代社会(資本主義社会)の悲観的な観察をどのように乗り越えられるのか、という問題意識(本当にあったかどうかわからないですね)をヴェーバー、デュルケム、ジンメルが理論・方法論として確立したものが社会学の源流で、社会学に共通するものの見方なのだ、という大きな図式が提示されていることです。その三者を批判・継承しつつ、パーソンズ・シュッツ・ガーフィンケル・ゴフマン・ルーマン・ハーバーマス・ブルデュー・ギデンズといった社会学者の流れを解説しています。

社会学のわかりにくさとおもしろさは、対象が他の学問領域と同じということがあげられると僕は思います。研究対象が同じでもどうして一つの学問領域として成り立つかといえば、研究方法や対象への視座が違うから、というわかったようなわからないような説明がよくされますが、本書はその視点をうまく説明しています。つまるところ、法・経済・文化・宗教といった社会的構築物(これは僕の言い方であり、本書ではこんなに無防備な言い方はしません)によって人間の行為が決定されるわけではなく、必ず行為主体の主観的実践が含まれ、それが社会的構築物を所与のものとしつつそれらに影響を与えていく、ということです。おそらくこれは編者の主張なのでしょうが、本書は一貫してこのスタンスから学説を紹介しています。

それぞれの社会学者が、どのような社会環境で、どのように先人の学問とつながり、どのような問題を解決するために研究をし、どういう成果をみたか、といったところに重点が置かれているので、学説がどのようなものだったのかということには詳しくは触れられていません。ですから公務員試験の「社会学」などには読んでもまったく役に立たないでしょうが、社会学に興味のある大学一年生向けとしてはとてもよくできている本です。ただし、とある章は他とのつながりも薄く、本書全体の流れを幾分断ち切っていると思いました。