2008-08-30

ケータイ小説のリアル

ケータイ小説のリアル』(杉浦由美子 中公新書ラクレ)を読みました。先日読んだ『ケータイ小説は文学か』よりずっと面白かったです。というのも、綿密なインタビューやケータイ小説作家や編集者、出版社、書店員という本を作って売る一連の流れのほとんどすべての領域からのコメントも取っている点が一番の理由ではないかと想像するのですが、二番目に、筆者がきちんとケータイ小説を読んでいると想像される点です。

本書によると書籍になったケータイ小説は地方で売れる、との事。ケータイ小説の最近の傾向としては少女マンガに近い内容で(だから中学生の親も買い与えやすい)、恋愛への信仰が残り、東京に憧れを持たない地方都市での売れ行きがよい理由だろうと推測しています。

また、かつてのレイプ、援助交際、人工妊娠中絶は減少傾向にあるということも面白かったです。こうした事柄には読者が親近感を持てないのでしょう。それでいて中心購買層はセックスに関心があるので、昔ながらの少女マンガのような「少女的リアル」な内容が好まれるとのこと。それにプロの作家が書くとそうした「少女的リアル」が損なわれたり、作家と読者が一緒になって作る感覚が薄れるため、素人作家の日常体験を元にした内容となるとのことです。

それにケータイ小説を少女マンガや少女向けライトノベルとの流れで説明をつける点も面白かったです。タレント暴露本や大人の恋物語とは一線を画した風潮は、中心購買層となる読者の妄想とマッチする、ということです。何も読者側だけの話ではなく、作家のほうも妄想たっぷりに自己満足的に書くことで読者の妄想との共感を得ていく、というプロセスを辿るという説明には納得しました。僕は少女の妄想を理解していないので、納得だけしてさしたる評価はできないのですが。

さらには作家の敷居が低くなったことにも言及されています。実質のところは曖昧としている調査ですが、一時期最も書かれるブログは日本語によるものである、という発表がありました(それはポスト数のみによる調査だったので、各国の文化も考慮して文字数で調査したら違う結果が出ると僕は信じています)。そうしたブログでの物書きの延長としてケータイ小説を捉えているところも感心しました。ブログには本当のことを書く必要もないし、匿名で書く風潮もあります。それがケータイ小説作家たちがメディアに顔を出さない理由としています。

当世を闊歩するブログ、SNS、恋愛ゲーム、少女漫画、BL、二次創作などとの関連で考えるともっと面白いことになりそうです。あとはケータイ小説世代の日常的なメールのやりとりなどからテキスト分析や会話分析などをしたりすると僕は萌えますね。

本書を読んで、今後のケータイ小説はより「一人一生涯一小説」的なものになりそうな予感がしました。功成り名をとげたおじいさんの自伝ではなく、妄想真っ盛りな人たちの書く半自伝です。そうすると作家はなかなか育たないでしょうが、本は売れます。それと読者とのコラボレーションで作られる書籍も増えることでしょう。今までの作家は常に孤独な作業を強いられましたが、それも複数人で励ましあったり感想を述べあったりしながら書く風潮となることでしょう。才能ある作家の書く見事な文章に出会いたければ、今後しばらくの間は大丈夫でしょうが、数世代後のことを考えると薄暗い気持ちになります。

2008-08-29

ケータイ小説は文学か

ケータイ小説は文学か』(石原千秋 ちくまプリマー新書)を読みました。実際ケータイ小説が文学であろうとなかろうと、僕はあまり興味ありません。少女小説やコバルト文庫の流れに乗せられるものなのか、ライトノベルとの接近は今後ありうるのか、といったところが僕の興味です。

本書では「ケータイ小説は文学か」という問が意味をなさないことを指摘し、「ケータイ小説が文学への入り口になってくれればそれでいい」という言い草の欺瞞性を説き、「リアル」と「リアリティ」の区別をして、ケータイ小説の「少女的リアル」を指摘しています。結論としてはケータイ小説はポスト=ポスト・モダン小説という見地が見られるとのこと。

とまあ、あまり面白可笑しくない本だったのですが、ちくまプリマー新書でロラン・バルトとかジャン・ボードリヤールとか、ミシェル・フーコーとか持ち出して議論を進めるのには、編集部のストップがかからなかったのが不思議です。

でもケータイ小説のアイテムが列記されているところには感心しました。
・「誤配」が恋の特徴である(誤った相手と結ばれること)
・レイプされた少女は自分を「汚い」と感じること
・「中途半端」な態度が一番責められること
・「未練」が物語を複雑にすること
・告白することに重要な意味があること
・男には女を守る義務があること

ポスト=ポスト・モダンですが、筆者はフーコーの「真実のディスクール」や「パレーシア」という概念を取って論じています。フーコーは、性に関する言説がその人の「真実のディスクール」となったのが近代という時代である、といっています。そして自分だけの真理を語ることによって普遍的な真理を相対化・複数化・多元化するのが「パレーシア」です。ケータイ小説では自分の体験という真実・真理を元に書かれたことにされていますが、そこで性に対して働いていた「真実のディスクール」が空洞化して「パレーシア」の複数性を失ってしまった、というところからポスト=ポスト・モダンとしています。

ちょっと穿ちすぎじゃないですかね。議論のための議論という感じがして、僕は納得できませんでした。

2008-08-28

怖い絵

怖い絵』(中野京子)を興味本位で読みました。

本書で取り上げられている「怖い絵」とされる名画は、
・ドガ『エトワール、または舞台の踊り子』
・ティントレット『受胎告知』
・ムンク『思春期』
・クノップフ『見捨てられた街』
・ブロンツィーノ『愛の寓話』
・ブリューゲル『絞首台の上のかささぎ』
・ルドン『キュクロプス』
・ボッティチェリ『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』
・ゴヤ『わが子を喰らうサトゥルヌス』
・アルテミジア・ジェンティレスキ『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』
・ホルバイン『ヘンリー八世像』
・ベーコン『ベラスケス<教皇インノケンティウス十世像>による習作』
・ホガース『グラハム家の子どもたち』
・ダヴィッド『マリー・アントワネット最後の肖像』
・グリューネヴァルト『イーゼンハイムの祭壇画』
・ジョルジョーネ『老婆の肖像』
・レービン『イワン雷帝とその息子』
・コレッジョ『ガニュメデスの誘拐』
・ジェリコー『メデュース号の筏』
・ラ・トゥール『いかさま師』
です。本物を見たのは多分4点くらいしかありません。

なるほど解説付きで鑑賞すると怖いな、と思わせられますが、やっぱり怖いのは描かれたことの怖さよりも描かれなかったことの怖さだと思いました。著者である中野さんの思い入れたっぷりな記述には多少辟易させられますが。

一見して怖い『わが子を喰らうサトゥルヌス』、『ベラスケス<教皇インノケンティウス十世像>による習作』や、一見して不安にさせられる『思春期』のようなものもありますし、絵の背景やその社会情勢を知って怖さを覚える『エトワール、または舞台の踊り子』や『グラハム家の子どもたち』のようなものもあります。なんとまあ一枚の絵画とは色々なものを語りかけてくるな、という感じです

一番僕の印象に残っているのは、ジェリコーの『メデュース号の筏』です。この作品の前で30分ほど立ち尽くしてしまいました(実際にはソファに座って鑑賞していたのですがね)。

この作品のことはジュリアン・バーンズの『A History of the World in 10 1/2 Chapters』ではじめて知ったのですが、それ以来何かにつけて周辺の事情を調べていました。そして実物を見るとその迫力に圧倒されました。大スクリーンでアクション映画を見ることに慣れている現代人である僕でさえ圧倒されたのですから、19世紀初頭からこの絵に接する人はいったいどんな感想を持ったことだろうと想像をめぐらせてしまいました。この絵の場合は、決して背景を知っている必要もありません。ギリシャ・ローマ的な肉体が描かれていますので、それほどグロテスクなものではないのですが、絵に込められた何かが見るものを圧倒するのです。こう言ってしまっては元も子もないのですが、絵を見たことのない人にはわからないでしょう。

きっと他の作品についても同じことが言えるのだと思います。歴史を知らなかったり絵画に親しみがなかったりすると、この本だけでは絵画は見開きになってしまうか小さくなってしまいますし、説明もこれだけでは不十分かな、という感想です。

中野さんの『怖い絵2』は読むか読まないか気分しだい(多分)ですが、久世光彦さんの同名の本は読んでみようかな、という気になぜかなりました。

2008-08-27

眠れなくなる宇宙のはなし

眠れなくなる宇宙のはなし』(佐藤勝彦)を読みました。僕は不眠気味なので、眠れなくなるのは困るのですけれど、既知のことが多く、すらすらと途中睡眠を挟みながら読みました。

本書は知られている限り昔の人たちがどのように宇宙を見てきたか、というところからはじまり、その後の宇宙観の変遷と天文学の進展や観測器具の進歩、宗教との絡みなどを書いています。最終的には現在の宇宙論に行き着くのですが、ページ数の縛りもあってか新しいものほど内容は薄くなります。宇宙論がどのようなものなのか、というよりも、人は宇宙をどのようにみてきたのか、という内容の本でした。人と宇宙の関係を描いているといってもよいでしょう。

わくわくしますね。もともとは神様の領域だった宇宙がサイエンスの領域になり、最新の宇宙論ではサイエンスの領域でもあり半分は信念や信仰といってもよいくらいの場所になっています(超ひも理論なんて、平凡な頭の人間には観測も想像もできるわけないじゃないですか)。かつての素朴なような宇宙論も決して無知によるものではなく、当事最先端の思想や科学を取り入れたものであるというのは、改めて実感させられました。それに宗教とサイエンスの関係も考えさせられます。

それにしてもまた出たな、ダークマターとダークエネルギー。日曜日の朝、何とか戦隊に敵対する勢力としてふさわしい名前ですね。

2008-08-26

数学で犯罪を解決する

数学で犯罪を解決する』(キース・デブリン、ゲーリー・ローデン)を読みました。本書は数学を用いて犯罪を解決するアメリカドラマ「NUMB3RS」の舞台裏となっている数学を解説する本とのことです。僕はドラマを見ないから知らないけれど、ずいぶんな人気のようで。原題は『THE NUMBERS BEHIND NUMB3RS :Solving Crime with Mathematics』です。

僕は実生活にそれほど数学を役立てているわけではないけれども、興味本位で数学は好きですし、物事を抽象化し、モデル化するという面ではそこそこ考え方として役立っているような気がします。実生活の裏側でどれほど役立っているかはよくわかりませんが、きっとかなり役立っているのでしょう。

ところがこの「NUMB3RS」はフィクションですが、どうやら実際の犯罪捜査にも直接的に数学を役立てているケースはあるようで、ドラマの数学的な検証もかなりきちんとしたものとのこと。実際の犯罪捜査に数学が役立つなんてことがありうるのですね。で、解説となっている本書を読みました。地理的プロファイリング、データマイニング、画像エンハンス、ベイズ確率、暗号理論、ゲーム理論、ネットワーク理論、DNA鑑定等々、厳密には数学に属さない(これって統計学でしょみたいな)ものも結構ありますが、それぞれそれなりに役立てている様子です。個人的にはちょっと無理があるかなと思うところもありますが(特に僕はネットワーク理論やゲーム理論関連が好きなのですが「これはちょっと」という内容でした)。

感想といえば、結構初歩的(というか、詳細な説明がされていないからでしょうね)なモデルで役立ててしまえるのだな、ということです。数学はモデルとそこに投入するデータが正確な限り正確な答えを出します。人間の世界はそこまで厳密ではないから、範囲を絞り込んだりある程度曖昧でもよいから補助となればよい、くらいな使われ方のようですが、ちょっとした驚きです。もちろん「NUMB3RS」はまさしく言葉どおりサイエンス・フィクションなので、現実に使われるかどうかというのは可能性として大である、という程度だと思いますが。

あとは、本書で解説されている数学理論はごく一部のエッセンスですし、丁寧な解説があるわけでもないので、わかっているひとには物足りなく、わからないひとにはわからないまま、という感じもします。

それにしても、科学捜査が精密化し、数学まで捜査の応用範囲になってしまうと、古典的アームチェア・ディテクティブなど出番がなくなってしまいそうで、ともするとこれからのミステリは舞台設定がみんな過去になりそうな予感がしてなりません。ちょっと寂しいことなのか、それともミステリで活躍する人種の幅が広がり喜ぶべきことなのか。ちなみに僕は「理系ミステリ」と呼ばれるものではあまり数学は活躍していないな、という感想を持っています。

2008-08-25

スーツの神話

べつに僕の配偶者が「ス! ウ! ツ!」な人というわけではありません。

スーツの神話』(中野香織 文春新書)を読みました。17世紀頃から続く男性服の歴史のなかに現代のスーツを位置付けて、その起源から服飾史を辿って現代の様式にまで至る本です。

面白いのははじめに問いを立て、中で詳細を叙述し、終わりにはじめに立てた問に答える、という形です。17世紀頃から徐々に変わってゆく男性のファッションをめぐる考察が中心となっていて、そこはそこで面白いのですが、一番面白いのはやっぱり現代ですので、問いと答えだけ読んでも面白いです。

現代のスーツの原型は17世紀のイギリス貴族たちや社交界から生じた、という仮説は刺激的です。その論拠となるところは多少論理の飛躍はあるものの充分説得力を持ち(例えば上着から下のシャツを少しだけ出す流儀は18世紀と変わらないとか、その他いろいろ)、その変遷も単なる奇抜な発想からだけではなくて、伝統とそれに少しだけ加えるアレンジによって徐々に変化していったとするのも納得です。

つまり、その歴史自体が答えの一部となるのですが、スーツを着た男性はなぜ信頼が置けそう(で、セクシー)なのかというのは、連綿と続く伝統にほんの少しのスパイスを利かせているからである、ということだそうです。その伝統の中におかれる事がなかった女性はスーツ(いわゆる男性会社員が着るようなスーツです)を着てもどこかしっくりとしないし、季節を問わずにスーツを着るのも王や貴族の権威をその背中に担っているからである、としています。

もちろんファッションなどという奇妙奇天烈なものは正確な歴史論証にはむかない、どことなく移ろうもの、漂うもの、個人のセンスによって転覆するものだから、著者の男性服飾史はひとつの見方です。しかし面白ければよいという僕のようないい加減な読者だと、この本は充分に面白いのです。

一部納得できないのは、本書では触れられていませんが、魅力的な男性の形が変わってきたのはなぜか、というあたりです。中世の「なで肩でっ腹短足」が魅力的だった頃から、いきなりルネサンスを経て古代ギリシャ・ローマ的筋骨隆々黄金比のプロポーションが魅力的になったのか、一切議論されていません。書くまでもないことなのかもしれませんが、和装であれば今でも「なで肩でっ腹短足(加えて大顔)」のほうが押し出しがよいですが、その歴史を切り捨てた洋装はなぜ切り捨てることができたのか、僕は疑問を持ちました。

僕? スーツ? しばらく着てませんよ、そんなもの。

2008-08-22

永遠の森

永遠の森 博物館惑星』(菅浩江)を読みました。

さて、独り言モードに移って、僕は「美」について語らせると長いです。そもそも美とはなんぞやとか、身近なところで言えば美しい音楽とは何を備えているのか、とか現代音楽は何をもって美しさを表現するのか、とか。どうでもよいし長いので書きませんが。

結局答えなんて出ないんです。有史以前から人間は美しさを追及しているものの、結局のところ到底何らかの解答は得られず、結果としての美しさを得ているに過ぎません(そうでないのは、せいぜいが自然科学での人間原理的な美しさくらいなものでしょうか。信仰に近いともいえますが)。

まあ独り言はさておき、美しさの殿堂で働く人たちの人間くささが本書の白眉たるところだと思います。右往左往する調停役はいるし、いやな上司も生意気なルーキーもいるし、頼りになる同僚もいる。「美」という人間を経由しなければ感知できない存在でありながら、まるで人間を超越しているかのような存在に触れる学芸員たちの、そういったところが素敵な小説たらしめているのでしょう。

ちょっと難をつければ、データベースに直接接続されている割にはものすごく伝達効率の悪い「言語」というインタフェースに頼らなければいけない登場人物たち(一部例外を除く)が不思議です。電脳空間上ではもう少しインタフェースは自由であって欲しいな、というのが僕の望みです。

カンボジア・0年

カンボジア・ゼロ年』(フランソワ・ポンショー)を読みました。原著は1977年の出版ですので、クメール・ルージュの政権がまだ存続して、対外的には国内政治を秘密にしていたころの出版物です。出版された当時はあまりにもショッキングな内容だったため、相当なバッシングを受けたようです。しかし30年経ってみるとほぼ正しいことがわかってしまうのですから、先見の明というか眼力の鋭さというかはすごいですね。

本書の史料的価値は主に難民からのインタビューと民主カンプチアの公的放送とを比較して、できるだけ広範囲な出自からの証言を取ろうと精査しているところにあると思います。古い書籍のため、史実として新しく知ることは多くありませんでしたが、これまで僕がクメール・ルージュを理解しようとして読んできた書物の中の多くは本書を参照しているので、できるだけ一次資料に近いところに接するという意味で大変面白い本でした。

もちろんインタビューをただ編集して「事実はこのようなものと推測される」というだけの本ではありません。筆者なりの分析もありますが、すでに出版から30年経過しているのでそれほど斬新な分析ではありませんでした。しかし限られた資料だけからこれだけの内容を叙述するには大変な労力と能力が必要であろうと推測されます。筆者、いい仕事しましたね。

難民たちの証言というのは充分慎重に検討する必要があるというのは、きわめて当たり前のことです。避難してきた人の立場によっては現政権を批判するのが当然ですし。その当たり前なことをしっかりとやっている筆者の労力たるや、歴史家やジャーナリストは筆者(宣教師です)に見習うべき点が多いと感じました。決してプロパガンダに流れず(本書を引用してプロパガンダに利用することはとめられないにしても)、あくまで冷静で慎重です。

古い本ですが、当時のことを当時の人が綴った本として、僕は絶賛します。

2008-08-21

涼宮ハルヒの憂鬱

涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流)を不覚にも再読しました。

ご存知の方が多いと思いますが、萌え要素満載の本です。というか、ほとんどが萌え要素から構成されているといってよいかも知れません。これに「猫好き」「幼馴染」「関西方面方言」「姉」などの属性が加われば最強(?)といっても過言ではないでしょう。

ちゃっかりSF風味だし、そんなに物語に破綻も無駄もないし、文章だってそれなりにきちんとしたものだし、ハルヒ侮りがたし、という感じですね(しかし「なんちゃってSQL」はいただけません)。そもそも角川スニーカー文庫とか富士見ファンタジア文庫とか電撃文庫とかソノラマ文庫とか、きちんと売れる本を出しているわけだし。ジャンルは少し違いますが、僕もかつてD&D(Dungeons & Dragons)とかRQ(RuneQuest)とか、国産ではソード・ワールドとかのTRPG(テーブルトークRPG)にはまって、富士見書房の翻訳物やリプレイ集などを結構読んでいたので、親和性が高いのかも知れません。まあ好みはありますが。

先日読んだ『L文学完全読本』にはコバルト文庫やX文庫の変遷が書かれていたのですが、それと同じことがこうしたレーベルの本でも分析できるのではないか、と思いました。僕はよくその区分がわかっていないのですが、こういう形式の小説を1980年くらいから小説形式の変化や中心読者層をトレースして、メジャーな文学賞をとっている作家とリンクさせたりしたら面白そうだな、と思いました。学生の卒論とかなら、取り組み甲斐があると思います。

2008-08-19

物乞う仏陀

物乞う仏陀』(石井光太)を読みました。カンボジア、ラオス、タイ、ベトナム、ミャンマー、スリランカ、ネパール、インドの障害者を訪ね歩いたルポタージュです。

あらかじめ断っておきますが、「障害」は人によっては「障碍」と書いたり「障がい」「しょうがい」と書いたりしますが、僕は「障害」と書きます。概念として「インペアメント」「ディスアビリティ」「ハンディキャップ」といった線形モデルがずいぶん前にWHOから出されていますが、障害者団体によってはそれは医学的なモデルであると批判して、障害は社会的に規定されたものであるとする社会モデルを提唱していたりします。つまり日本語で「障害」と書いたときに意味するものは多様だ、ということで、僕はその多様さをすべて「障害」という表記で受け止めるつもりはありません。

さて、筆者の取材対象は障害者ですが、その多くは乞食や物売りとなっています。それがタイトルの「物乞う」になっているわけですが(「仏陀」は微妙にわかるようなわからないような)、国や地域によって本当に多種多様な生活があるものだと刺激を受けました。僕は障害者の介助をして生活費と学費にしていたし、肉親にいわゆる障害者がいるし、さらには「施設などに入らず、社会的役割を担い、経済的・精神的に自立して生活しようとする運動」の調査をしていたこともあって、その分野は興味本位ではない理解をしているつもりでいたのですが、東南アジアから南アジアにかけての障害者(それが先天的なものであろうと後天的なものであろうと)の実態を知ることはありませんでしたから、筆者の限られた見聞から得られた情報とはいえ、まさに刺激でした。

例えば障害者と社会生活との繋がりひとつとっても、筆者の出会ったカンボジアの傷痍障害者たちはあっけらかんと仲間同士で楽しく乞食をして、その稼ぎで酒を買い、買春をして使い切ってしまうとか、タイの全盲の障害者はおそらくマフィアとのつながりを持って路上でカラオケを歌って稼ぎにしているとか。近代化・都市化された地域での障害者はおおむね差別や偏見にあっているけれども、農村ではそうではなく地域社会での生活手段を割り当てられていたり、またはその逆に都市ではないからこそ無知や偏見からまったく見殺しにされていたり、筆者の見た実情は様々です。

もちろん僕の目から見たら苛酷な生活環境です。かつて僕が調査して回ったときにも、こうした状況には出会いませんでした。しかしなぜか生活が光っているように見える記述が多いのです。例えば家族を養うために乞食をする、買春をするために乞食をする、子供を学校に行かせるために乞食をする、れっきとした職業として乞食をする。そうした人々の中に何が宿っているのか、本書の文面からはうかがい知れないものさえあります。金銭的な面でなくとも、日常生活では冗談を言い合い、他愛もない世間話に興じ、笑い転げています。

なお、本書の最後(ムンバイ/ボンベイ)ではとても個人では扱いきれないほどの問題が提供されていました。マフィアが乳幼児を誘拐する。誘拐した乳幼児をレンタチャイルドとして乞食に貸しだす。レンタチャイルドは5歳頃に手や足を切られるなど何らかの障害を負わせられる。障害者として乞食になり、マフィアがあがりを掠める。マフィアも元をただせばストリートチルドレン出身だったりする。こうしたループで循環する、という問題。ただ問題が提供されるだけで、どうしろというものではないですが、どうにもしないというわけでもなし。ただただ「そこにそういうことがある」と認識するだけです。

本書を僕はとてもよい本であると評価しています。筆者の体当たり的な取材は視野が狭くなる危険性もありますが、本書に書かれている限りでは、筆者はきちんと取材対象と付き合っています。例えば友人として、協力者として、恋人として。こうした付き合い方や視点の置き方はフィールドワークの技法から言えば常軌を逸しているかもしれませんが、これもひとつの方法であると、僕は断じます。

あと「超個人的クメール・ルージュ祭り」がらみですが、現在のカンボジアでポル・ポト時代について触れてはいけない風潮になっているのは、当事を生きのびた人は直接にせよ間接にせよ粛清に関わっている可能性が高いためである、ということをおぼろげながら理解しました。他の書籍でも触れられてはいるのですが、本書の障害者を取材対象とした記述でも、はっきりと「何人殺したんだ?」という取材を仲介した人の発言が書かれていますので。

2008-08-18

L文学完全読本

L文学完全読本』(斎藤美奈子編・著)を読みました。いや~、この編者好きです。

L文学の「L」はレディ、ラブ、リブ、だそうです。おにいさんからおじさんに近づきつつある(と自分では思っている)僕は「L文学とは何ぞや」などと、まずはじめに考えてしまうのですが、それほど明確な定義はなされていません。女性作家による女性が主人公の文学、というくらいの意味ですが、それを理解するためのフレームワークが秀逸です。

とりあえず編者によるL文学の定義らしきものを引用すると、

それは少女小説を祖先とし、言語文化においてはコバルト文庫を踏襲し、物語内容においてはリブの感受性を受け継ぎ、先行するコミックやドラマやポップスなどの養分を吸収し、なんやかんやのあげく、90年代の後半に顕在化した
とのことです。

本書では、L文学に特徴的な本の装丁が語られます。『赤毛のアン』とか『小公子』とか『若草物語』とかの「少女文学」名作の系譜が語られます。L文学を理解するためにコバルト文庫やX文庫の作者の変遷やスタイルの変遷が語られます。L文学に関係する音楽や漫画やTVドラマが編年的に語られます。L文学の担い手たち26人に関するコラムが掲載されています(ちなみに僕の配偶者が好む作家が多かった)。ブックガイドも250冊と充実しています(ちなみに僕の既読の本は少なかった)。

いや、満喫させていただきました(おなかいっぱいになりました)。「女心のわからない男」として、L文学に精通するためには長く険しい道が控えていることもわかりました。そして、別に理解しなくても良いや、とあきらめかけている自分がいることもわかりました。いやはや。

2008-08-17

ポル・ポトの掌

ポル・ポトの掌』(三輪太郎)を読みました。以下では結構物語のネタをばらしているかもしれないので、気にする方はご注意ください。

主人公の日本の生活と現代のカンボジアがかわるがわる描かれます。主人公は大学在学中に株式の売買を覚え、株式のディーラーを職業とすることになります。しかし1990年くらいを境に主人公の身につけた株式売買の勘と理論は暗礁に乗り上げ、主人公の幼馴染かつライバルがカンボジアで命を落としたことを知り、カンボジアへと旅立ちます。

たいした読後感は持てませんでした。単純な二項対立の連続で、単純な暗喩の連続。あまりにも内省的過ぎる主人公やその周りの人たちとの会話。接地点があやふやな印象を受け、理想に駆られて書き綴った小説、という感じがしました。

二項対立は単純に言うと自由主義経済と社会主義経済。未来予測の確実性と蓋然性。真理の「アル」「ナイ」。それらをごた混ぜにして、あたかも哲学論議のような主人公の内省と登場人物たちのとの会話を軸に物語りは進んでいきます。

舞台としてカンボジアを選んだ必然性も、極端な社会主義政策を採った民主カンプチアのポル・ポトという魅力的な人物を選んだ、というだけのことに思えてしまいます。小説内では古代遺跡をめぐったりしていますが、たいした必然性(あるいは偶然性)はないように思えます。

タイトルとなっている「ポル・ポトの掌」ですが、この作品の一番の山場はやはりポル・ポトという人物にあるのでしょう。主人公とポル・ポトとの会話は短いですが、経済について、人の幸福について、宗教について、歴史をみる視点について語り合います。この場面だけを見れば非常に壮大な小説のようですが、そこにいたるまでの設定には無理があるように感じました。

すごくちょっとした発見。小説の面白さは細部にも宿る、ということですごく細かいところに感心したりするのですが、カンボジアではガソリンが黒い、ということが驚きでした。日本では通常の燃料用ガソリンはオレンジ色なので。

2008-08-16

夜に猫が身をひそめるところ

夜に猫が身をひそめるところ Think―ミルリトン探偵局シリーズ〈1〉』(吉田音)を読みました。順番は逆になりましたが、『世界でいちばん幸せな屋上』に続いて吉田音さんの作品(とされる)を読むのは本書で二冊目です。

『世界でいちばん幸せな屋上』もそうでしたが、本書もスタイリッシュな本です。ミステリともファンタジーともつかない小説だし、写真も装丁も綺麗(まあこれはクラフト・エヴィング商會の作品に一貫していることですが)。優しい語り口でどうしても好感を持たされます。

筆者である(とされる)吉田音さんを中心とする物語、菓子職人の物語、ホルン奏者の物語などが錯綜して、それらを一本の糸が紡ぎあわせるのですが、その一本の糸は猫のシンク。本書には多くの猫が登場しますが(写真つき!)、猫好きなら必読とまでは行かないまでも読んで愉快になれることは確実です。

ですが登場人物たちは猫のシンクによってひとつの物語になっているかもしれないことはわからず、謎は謎のままそれぞれ別々のストーリーが語られます。メタ物語とでも言うのでしょうか、そもそも作者がメタな存在だから当然といえば当然ですが。さらに僕は猫のシンクの「おみやげ」のうち、多くを語られることのなかった物語までも想像して楽しみました。ミルリトン探偵局の自家版です。

まさに幸せ色の小説とでもいうべきで、読み終わるまでもなく幸せな気分に浸れるのですが、さて『世界でいちばん~』とこちらと、どっちを先に読んだほうがよいか後になって悩みました。結果として一冊だけ読むなら『世界でいちばん~』を、二冊とも読むつもりなら『夜に猫が~』から読むのが、楽しみ方としては順当かな、と思います。

一箇所だけ苦情をいうなら、僕の拙い経験だけかもしれませんが、プロの楽器演奏者は本番前に自分の楽器を磨いたりしないと聞いたことがあります。僕が教わったところによると楽器を磨くのは練習のとき。本番前に磨くと万が一調整を狂わせてしまったときに取り返しがつかないことになるから、ということです。まあファンタジーでもありますし、重箱の隅をつつくような話ですが。

世界でいちばん幸せな屋上

世界でいちばん幸せな屋上 Bolero―ミルリトン探偵局シリーズ〈2〉』(吉田音)を読みました。本書はクラフト・エヴィング商會の四代目を期待されている(とされる)吉田音さんが書いた(とされる)ファンタジーのような、ミステリのような、童話のような、ちょっとだけ写真集のような分類しがたい本です。

クラフト・エヴィング商會の本を読むのは数冊目(よく覚えていない)ですが、吉田音さんの著書ははじめてです。順番どおりに『夜に猫が身をひそめるところ』から読もうかとも思いましたが、人からこちらをおすすめされたので、まずはこちらから読みました。

分類のしがたい本らしく、感想も書きにくいです。ただスタイリッシュで、幾本もの糸が縒り合わされて、事件らしい事件もなく、それでいて優しくて満足感の残る小説でした。

ファンタジーの伝統に従って時間の飛躍もあります。ミステリの伝統に従って謎もあります。それだけではなく、登場人物(シナモンの彼とか、その上司とか、レコード店の店長とか、ラジオのパーソナリティとか、歌わなくなった歌手とか、もちろん主役級の人物とか)が、とにかく魅力的なのです。この中の一人とでも友達になれたら、ささくれた僕の心も少しだけ優しくなれるのではないか、と思わせるほどに。

一作目も読もう。

2008-08-15

燃えるスカートの少女

燃えるスカートの少女』(エイミー・ベンダー)を読みました。

著者の作品を読むのははじめてですが、図書館から取り寄せていやな予感がしたのです。独り言ですが、訳者は僕がかつて「二度とこんなもの読むもんか」とひとり駄々をこねた作品を訳した管啓次郎さん。彼によるジャン=フランソワ・リオタールの訳書を読んで、読めども読めどもさっぱり内容が腑に落ちず、その責は原文にあるのか訳文にあるのか僕の頭にあるのか判断できなかったので理解することをあきらめました。

さて、本書は11篇が収められた短編集です。しかも奇想天外で超現実的で、ストーリーらしいストーリーはありません。きわめて短い短編に心身を没入できるかで勝負(なんの勝負?)がきまります。

きわめて悪い先入観を持ちながら本書を読み進めて、「悪くないかも」「そこそこよい」「結構よい」「とてもよい」に変化しました。中盤で「何だこれは?」というものもありましたが、結局ほとんど休みもせずに読みきってしまいました。

哀しい、優しい、残酷、言葉にすると陳腐ですが、ほとんどの短編で身体の変調(カフカの『変身』みたいな)とセックスが現れますが、むしろ肉体的感覚な小説ではなく精神的感覚な小説です。想像力を刺激し、不思議な世界に連れて行かれますが、不思議な世界は案外現実的な世界との接点があって、振り返って現実世界を見るような感じです。

好き嫌いは激しく分かれるかと思いますが、現代アメリカ小説に抵抗がなければ読んでも損はないと思います。

2008-08-14

火怨

火怨 上』『火怨 下』(高橋克彦)を読みました。

読む前はきっと風土記とかを中心史料とした歴史小説だと思ったのです。ところが読んでみると(おそらく)中央史料をもとに想像力をふんだんに駆使して描かれた熱い男たちのロマンでした。熱い男は嫌いではありません。好きでもありませんけど。ただなんとなく『サラリーマン金太郎』の歴史小説バージョンを読んでいるような気がしてきました。

ヒーローたちが活躍することに不満はありません。古代日本の未開地(失礼)を小説にするとしたらそれに変わる方法はないでしょう。しかしひねくれた僕はどうしても、その裏で農作業にいそしむ人たちや、兵糧を確保する人、兵站を維持する人、女子供老人が気になって仕方ないのです。それを描こうとすると「蝦夷とはなにか」という壮大な研究論文が出来上がってしまうので、無理な話でしょう。

いっそのこと、これを小説と認めるか否かは評価が分かれますが『空海の風景』みたいに、半分は現代の視点を持った道への探索行としてしまったら、どんな小説が出来上がったでしょうか。想像するとなんだか楽しくなります。

もちろんあれこれ言ったけれども、『火怨』に不満はありません。圧倒的な筆力で中央の正史に挑んでいます。登場人物たちへの筆者の個人的シンパシーもあるのでしょうが、みな魅力的であっぱれいい男です。それに戦略的な描写も巧みに描かれています。侵略と自己正当化の歴史でもある中央の正史に対する挑戦として、とても素敵なものです。

はて、女性読者(信長の野望を好むような人を除く)はこの小説を面白いと感じるだろうか、という疑問を抱きました。

2008-08-13

対話篇

対話篇』(金城一紀)を読みました。

一読した感想は「恥ずかしい」です。しばらく反芻して「村上春樹さんに似ているな」、そして「哀しい」と感じました。

「恋愛小説」「永遠の円環」「花」という3つの短編が収録されています。一篇ずつ本を閉じながら読みましたが、小説のディテールを削ぎ落として(こういうことをするから「女心がわからない」といわれます)骨組みだけを取り出すとほとんど何も残りません。不思議な能力があったりどうしようもない偶然があったりといった仕掛けは残りますが、要するに恋愛そして死と直面するときに何を思い、感じ、行うかという、小説の王道です。

決して貶しているわけではありません。小説の面白さは骨組みにもありディテールにもあります。そしてこの作品はディテールがとても印象的です。

「会わなくなったら死んじゃうのと同じ」

とか、
「あした、死ぬとしたら、何をする?」
Kの手がノブから離れ、頭がゆっくりとまわった。僕とKの視線がふたたび交わった。
「半年前、ある人にそう訊かれたんだ。僕はこう答えた。『好きな人のそばで過ごす』」
Kの顔に、同情とも嘲笑ともつかないかすかな笑みが浮かんで、消えた。

とか、
「本当に間抜けな話だよ」鳥越氏は、情けない声で言った。「私は彼女のことを本当に忘れてしまったんだ。それも、初めは忘れることに痛みをともなっていたのに、次第に痛みをおぼえることもなく、それがあたりまえのように記憶を失い続けてきたんだ。あんなに愛していたはずなのに……」


絶妙な会話回しで、心の襞をなでられるような感触です。そしてそういう感触は僕にとっては「恥ずかしい」ものなのです。

少し独り言をしますが、僕は死と直面したことがあります。聞き伝えなのでいい加減な数字ですが、僕は呼吸停止約40分、心臓停止約5分という記録保持者です。幸い現在も生きていますが、そのときは医者からは絶望視され、両親ともにあきらめかけたそうです。蘇生したときも「何らかの障害は残ります」と宣言されたそうですが「女心がわからない」くらいの障害にとどまっています。おそらく恋愛もしたことがあります。

さて、恋愛や死と直面したときに何を感じ、思い、行動するか。案外素直なもので「ラーメン食べたい」とかかもしれません。そこにウェットな物語も生じるかもしれません。しかし現実は小説と同じくらいに奇なもので、「何もありませんでした」という一番非ドラマティックなこともあります。そのたくさんの可能性のうち、小説に適したものを選択せずには小説として成り立ちません。そこに「恥ずかしさ」を感じてしまうのです。

もうひとつの読後の感想。そして文句なしに感動的な作品でもあります。人と会いたいな(配偶者と子供は帰省中)。

夏姫春秋

夏姫春秋(上) 』『夏姫春秋(下)』(宮城谷昌光)を読みました。これまでなんとなく読めなかった作品ですが、重い腰を上げてようやく読みました(ちなみに重い腰を上げた理由は、配偶者と子どもが実家に帰っているためで、100%読書漬けの時間を過ごしているためです)。

中国古代の歴史物語の面白さはわかっているつもりですが、ありていに言って「なんとなく普通」でした。この手のジャンル(例えば幕末歴史ものとか、日本の戦国史ものとか、江戸期ものとか)は、数を読むとパターンが見えてきてしまい、だんだん史料との距離感を楽しむようになってきます。

宮城谷さんはとても古代中国の歴史小説を描かせたら、間違いなく素晴らしい作家だと思います。比するなら好みは分かれるけれども司馬遼太郎さんくらいに。でもその素晴らしさに慣れてしまうと、その作家の普通レベル(つまりとっても高いレベル)では飽き足らなくなってしまう、という悲しい習性があります。藤沢周平さんの作品にしても、池波正太郎さんの作品にしても、予定調和的な満足感は得られるけれども、やっぱり予想したくらいの満足感だな、という感じです(例外もたまにはありますが)。

題材が面白いのだと思います。群雄割拠して、人生は運に翻弄され、諸国には英雄・俊傑がいて、などなど。その題材をいかに料理するかが歴史小説家の腕の見せ所ですが、宮城谷さんくらいの作家になると、うまく料理して当たり前という悲しい期待が寄せられてしまいます。悪女だったのか、悲劇のヒロインだったのかなどと詮索するのは無駄な深読みというものでしょう。

本書を読んで、不遜にもそのような感想を持ちました。「なるほど堪能させていただきました。で?」という感じのもので、卑近なところに似た例をとりだすなら豪華ハリウッド映画を見終わった後の満足感みたいな。

ちなみに歴史小説にフェミニズム・コードの警鐘は鳴りません。女性が主人公の本書でも、女性を描くのが上手いとか下手とか、人権や倫理がどうのとか、そういう感想は筋違いというものでしょう。それにしても夏姫、見てみたい。それ以上に抱いてごにょごにょ(倫理規定により削除されました)。

2008-08-12

ツ、イ、ラ、ク

ツ、イ、ラ、ク』(姫野カオルコ)を読みました。女性の書いた恋愛小説を読んで「女心のわかる男」になろうという野望です。ついでに言えば、先日『恋愛小説ふいんき語り』を読んだとき、「第一回ふいんき大賞」に選ばれていたのが本作品だったのです。選ばれたといっても、特別なことは何もありませんけれど。

物語は小学校二年生から始まります。随所に素敵な「神の視点」からの解説が入り、小学生の感覚と、それを突き放した大人の感覚が入り混じっているような錯覚に陥りそうです。ところでその「神の視点」が僕にはどうも理解しがたいのです。小学校三年生で「閨房の官能を匂わせてしまうしぐさ」とか、自慰をしたりとか。作中にも「そこは小学二年生、すぐに過去を忘れるのである。十秒前のことでも。よって、子供は純粋だと信じる一部の大人は、小学二年生とまったく同じに過去を忘れる力が優れているのかもしれない」とありますが、僕もその能力に優れているのか、それとも僕の知らないところでそのような官能の世界が繰り広げられていたのか。

物語の舞台が中学校に移っても、「神の視点」とは関係なく、主人公(かな? いろいろな登場人物の視点や神の視点が錯綜しているので)の行動や心理描写が、とても中学生とは思えないほどに成熟しているのです。それでもなお中学生であることを執拗なくらいに言外に主張しています。「中学生」とかぎ括弧でくくってそれらを一般化したときに想起されるものと、その時期を生き抜き、周囲や内面の観察も怠らず、しかもそれを忘れずにいたならば想起されるものと、どれほどの距離があるのでしょう。僕はぼんくらか、それとも物忘れの能力に長けていたのか。

そしてさらに主人公たちが34歳になったとき、ようやく僕は物語についていくことができる凡庸な読み手となりました。主人公たちが僕と同年代になったときに、ようやく僕の忘れていたものを思い出させるのです。思春期とはこのようなものだなどと美しい感傷に浸るのではありません。ロマンティックに思い出させるのではなく、あくまでもグロテスクなくらいにリアルに。素敵な「神の視点」は主人公たちを容赦なく突き放して冷静に観察していますが、凡庸な読み手である僕は観察される側に回ってはじめて、主人公たちに共感することができました。この作家は中毒になりそうですね。

どうやら僕はまだ「女心のわからない男」でいるしかないようです。

2008-08-11

趣味は読書。

趣味は読書。』(斎藤美奈子)を読みました。先日読んだ『妊娠小説』が面白かったので同じ著者の本を適当に図書館で選んだら、本書が一番手に取りやすい場所にあったので読みました。

本書は鬼才(と僕が『妊娠小説』を読んだだけで判断しました)によるベストセラー本解説書で、43作品を俎板に載せ、いったいベストセラーはどんな内容なのか、どんな人がそれを買うのかといったことを過激に述べています。真骨頂は本編で存分に披露される、ベストセラー本をこれでもかと叩きのめす毒舌振りと冷静な観察眼だろうと思いますが、序文の「本、ないしは読書する人について」だけでも読む価値があります。

以下、序文から引用します。

『趣味は読書。』なんていう酔狂な本を手にしたあなたは、すでに少数民族なのである。その証拠に、学校、職場、アルバイト先、あるいは親戚縁者等の中で、あなたと同じくらい本を読んでいる人、本の話ができる人っていますか? ほとんどいないでしょ。本に限らず、音楽でも映画でも演劇でもそれは同じ。「趣味は○○。」といえる人の数なんて、もともと限られているのである。

いっておくけど、読書量の多寡は、インテリジェンスの多寡とは必ずしも一致しない。たくさん本を読んでいても神経の鈍い人、判断力のない人はいくらでもいるし、その逆もある。「知識人」と「大衆」なんていう単純な階層論で割り切れるほど、本の世界は簡単ではないのだ。
と読書人を薙ぎ切っています。つまり読書界は階層型ではない、とのことです。

それでは階層型ではないとするとどうなっているのか。著者の斎藤さんの類型化によると、「読書界は多民族社会」であるとして、
  • 偏食型読者(特定ジャンルや作家を読む)
  • 読書原理主義者(本に対する無根拠な信仰を持ち、教養だ古典だと偉そうなことを言う)
  • 読書依存症(新刊情報にやたらくわしく、本に溺れている過食型)
  • 善良な読者(面白い本、感動できる本を読みたい。質や内容は問わない)
と割り切っています(この割り切り方が強引過ぎて素敵です)。そして世間のベストセラーを支えているのが「善良な読者」だというのです。善良な読者は別名では「読者ビギナー」であり、偏食になるかもしれないし、依存症になるかもしれないといういわば中間層です。そして社会・経済を活性化させるのはつねに新興の中間層であると力強く宣言しています。

さて、僕は臆することなく「趣味は読書です」ということにしているのですが、ひょっとしたら「読書は生活です」に近づいているかもしれない悪しき読者でもあるのです。どんな本を読んでも面白いところを見つけるし、逆につまらないところも見つけてしまう癖がありますし、たとえ面白いところを見つけることができなくとも、類書との比較をしてああだこうだと面白がります。著者の斎藤さんに言わせると、こういう読者は「邪悪な読者」ということになるのですが、そもそも著者自身が邪悪な読者の急先鋒ではないかと僕は思いますので、ここはひとつ著者の主張を飲み込んで、邪悪であり続ける楽しみをこれからも満喫したいと思います。たとえ出版界が斜陽産業だとしても。

ここからは半ば自慢話ですが、本書に取り上げられている43の作品、誰もが名前を聞いているけれども、案外読んでいる人は読書人の中には少ない、という作品だということですが、僕は35の作品を読んでいました(決してすべて買っているわけではないので、出版社を潤したわけでもないのですが)。そして僕の読んだ35の作品は、どれもそれなりに面白いところもあったのです。とすると、僕は「善良な読者」の心を持った「邪悪な読者」ということになり、清濁併せ持つ最強無敵の読者になってしまいます。あるいは僕は読書人ではないと言うことか。

本書は実に痛快(不快?)で、やっぱり斎藤美奈子さんは鬼才だ、という感想を僕は強めました。「なんでこんな本が売れている」という疑問を持ったことがある人にはおすすめですが、目次を見てご自分の好きな本があったら敬して遠ざけるべきかもしれません。

2008-08-10

妊娠小説

妊娠小説』(斎藤美奈子)を読みました。もともと文芸評論というものをめったに読まない上、著者と同姓同名の知人が思い出されてしまって、斎藤美奈子さんの著作を読むのははじめてです。

一読して、実に頭の切れる方だな、と思わされました。視点も斬新だし、文芸批評のフレームワークに則っているような則っていないような議論の展開といい、作品や時評にいちゃもんをつけながらも絶妙な皮肉で和らげたり、批評ものとしてではなく、読み物としても小気味よくて面白かったです。間違いなく快著ですね。槍玉に挙げられている文芸作品(=妊娠小説)を読んでいようがいなかろうが、笑えることは確かです。

一時期、優生保護法の変遷とそれにまつわる議論や、人工妊娠中絶を扱った文芸作品とかいろいろと読んでいたのですが、本書を読んで目から鱗が落ちました。なるほど、こういう切り口もあったのだ、と。

ところでこの作品、斎藤さんの「処女作」なんですよね。皮肉というか。

2008-08-09

村田エフェンディ滞土録

村田エフェンディ滞土録』(梨木香歩)を人からおすすめ頂いて読みました。梨木さんの著作を読むのは『家守綺譚』に続いて二作目です。

『家守綺譚』と少し風情は違いますが、やはり文章は美しく眼差しは優しく、とっても綺麗な小説でした。文明開化の頃の異国滞在で、同郷人や同好の士のサポート、そして民族や国家の対立が若者(といっても現代の若者よりも数段大人びていますが)視点で描かれ、とてもよい小説を読んだ、という満足感でいっぱいです。神々も登場しますし。

『家守綺譚』とこの作品は二つでひとつのようです。そして著者の意図は知りませんが、おそらくテーマは同じところから来るのだろうな、と思いました。一言で言ってしまうととたんにつまらなくなりますが、文化の多様性のようなものだろうと思います。

ところで、鸚鵡。最高でした。

2008-08-08

ラムちゃんなどなど

所用があり、銀座に行きました。

ついでなので教文館ナルニア国でしばし絵本を眺め、招待券を持っていたので松屋銀座でやっている高橋留美子展に行きました。

うる星やつら、めぞん一刻、らんま1/2、犬夜叉、その他の短編の原画を眺め、一刻館管理人室の復元展示といったところは普通に楽しみましたが、いろいろな漫画家の描いた「ラムちゃん」をみて、内心大笑いしました。

僕が気に入ったのは
・あだち充さんのラムちゃん
まさにあだち充さんの描く顔だった

・島本和彦さんのラムちゃん
妙に熱く、諸星あたるがラグビーのヘッドギアをしていた

・あずまきよひこさんのラムちゃん
風香のコスプレ?。なぜかよつばと手をつないでいた

・原哲夫さんのラムちゃん
原形をとどめていなかった。ユリアにも似ていないし、なんだったんだろう

・安野モヨコさんのラムちゃん
やっぱりと思ったけれど、働きマンの松方弘子が服を変えただけって感じ

などなど。楽しかったです。

はじめての課長の教科書

はじめての課長の教科書』(酒井穣)を読みました。

1,500円クラスのビジネス本として、値段対満足度が高いと感じました。欧米式のマネジメント本やその2番煎じの多いこの手の本としては珍しく、ミドルアップダウン型の日本式組織を想定して書かれているので、役立ち度は高いと思います。

ちょっとは不満もあります。理論的には野中郁次郎氏のナレッジ・マネジメント理論が本書のベースになっていると思われるのですが、僕は氏の著書を読む限りでは引っかかる点があるのです。引っかかる点を簡単に言うと感情面を考慮していない点と、ナレッジ単体を独立したものとして扱いがちな点です。また「暗黙知」の誤用(というか、ポランニーとは違う使い方。単なる文書化されていない知識と何が違うのか)も気になります。ところが、本書は理論と実践面ではあまりきちんと整合していないんです。部下のモティベーション管理が重要である、とか。だから僕の不満は少しだけになります。

2008-08-07

世界屠畜紀行

動物を殺して肉をつくる話ですので、嫌いな方はあらかじめご注意下さい。

人が読んでいたのに興味をひかれて、『世界屠畜紀行』(内澤旬子)を読みました。文章は雑ですがとても面白い本で、ぜひ色々な人におすすめしたいです。まずは配偶者におすすめしましたが、すげなくかわされました。

僕は現在肉をほとんど食べません。別にベジタリアンではないのですが、体質的なものや好みもあるのか、自然と食生活がそうなってしまっただけです。母親が肉嫌いという家庭環境もあるかも知れません。けれども、食肉を作る過程とか動物を屠ることだとか、わくわくするほど大好きなのです。スプラッタ趣味ではなく。

体験談から話をします。僕の生家は山奥でしたので、お隣さんがたまには山で猪を捕ってきて庭先でしめたりしていました。どういうわけだかそういうのは大人の男の仕事だったので(多分決まりごとではありません)、子どもの僕は興味津々と眺めるだけです。

はじめて家畜を自分の手でしめたのは高校生のころでした。屋久島に旅行に行き居候をしていたのですが、その居候先で山羊を2頭もらったから、ひとつ宴会をしよう、と。そしてせっかくだから若輩の僕にやらせてあげよう、と。手順を説明すると気分を害する人もいるかもしれませんが、頚動脈を切り、腹を裂き、内臓を洗い、肉を切り分ける、というような感じです(今考えると違法行為だったのかもしれません)。経験のある人たちに教えてもらい、僕はあまり手を出せなかったのですが。

本書では世界各地の屠畜(家畜を肉にすること)を取材して、丁寧にもイラストつきで解説しています。同時に人間が肉を食べること(=ほかの命を奪うこと)について、宗教と肉食の関係について、屠畜にまつわる差別について、などなどを取材したり著者が考えたりしたことが書かれています。非常に多岐にわたっていて面白いですが、単純にどういう風に食肉ができるのか、という過程を追いかけるだけで面白いです。文章も読みやすくユーモラスですし。

食育は「バランスよく食べましょう」という話ではなく、命あるものを殺すことからはじめると幼い子どもにとって面白いものになるのではないか、などと本書を読んで考えてしまいました。でも下手をするとトラウマになったりして。

ちょっと補足します。僕は無意味な動物虐待には賛成できませんが、生きている以上ほかの生き物に迷惑をかけるのは必要悪(?)とみなしています。因果はめぐるけれども、所詮罪深い凡人。ありがたく毎日の食事を受け入れたいと思っています。肉食に関する嫌悪感がまったく無いとも言い切れません。それが牛・豚・鶏・馬・羊・魚など諸々の見慣れた食物であれば嫌悪感はありませんが、僕がそれを食べる習慣を持たずに嫌悪感を覚える生き物もいます。ただし、できるだけおいしく残さずに食べつくすのが、せっかく命を亡くした動物のためになると考えます。

さらには農作物であろうと、きっちりと「もったいない」と思いながら無駄なく食べる必要があるとも考えています。別に肉食に限った話ではないのです。そのあたりは『典座教訓』や『赴粥飯法』に近い感覚というか。僕は禅宗徒ではありませんが。

それはさておき、宗教と肉食のタブーについて、ちょっと面白い体験談があります。以前元ユダヤ教徒で現在キリスト教徒のユダヤ系アメリカ人とイタリアンレストランで食事をしました。その時に彼が、日本語で書いてあるメニューをいちいち僕に訳させたり解説させたりするのです。この料理の原料は何か、どういう風に料理してあるんだなどと。もうユダヤ教徒ではないんだから、コーシェル(ユダヤ教で食べて良いもの)は無視していいじゃない? と僕が聞くと、「小さいころから食べたことがないから、今でも食べられない」そうです。おいしいとかおいしくないとかではなく、単なる食わず嫌いなのかとも思うのですが、なにせ宗教がらみですから微妙なことは聞けません。

日本人が動物を殺すことに対して忌避感やなんとなく後ろめたいものを感じるのは、仏教の殺生戒からきたのではなかろうか、と著者は訝しんでいますが、どうなんでしょうね(ちなみに僕は仏教徒のつもりでいますが、殺生戒は気にもしていません)。

2008-08-06

恋愛小説ふいんき語り

モテたい、とははっきりとは申し上げられません。とりあえず既婚者ですから。でもせめて女心がわかるようになって、僕のことを「女心のわからない男」と非難する配偶者を見返したい。そんな思いで『恋愛小説ふいんき語り』(麻野一哉、飯田和敏、米光一成)を読みました。

面白い。

女性作家の恋愛小説を肴にして、ゲーム作家三人で批評(?)したりゲーム化するとしたらどうするかとかバカ話をしています。そのバカ話が大変に面白い。例えば『博士の愛した数式』は数学萌え、若い家政婦萌え、ルート君萌え、メモが留められた博士萌えと、萌え要素が多すぎるから引く、とか。『蹴りたい背中』をゲーム化するとしたら黙々とアップランを続けるハツをただ眺めるだけとか、「寂しさは鳴るか鳴らないか」で強硬に主張をしたり。恋愛小説をワリカン問題で分析したり。

さらには三人で回り持ちする注釈が面白い。本当にどうでもいいようなことにきちんと注を入れたりして。絶対読者のためではなく、自分が面白ければそれでよしとする注釈です。例えば

カラーボックス
色がついた箱!
とか、
「BOMB!」
学研が毎月発行する、女性アイドルのグラビア雑誌。水着メインで、全裸はない。高校生ならともかく、大人が粉飾するエロ本にするには、おとなしすぎる。というか、逆にやばいような気がする。ちなみに麻野は、初心を忘れないよう、三年に一度ほどは購入する。
とか。

「なるほどこういう読み方をすればモテないのだな」となんとなく感じます。そしてそれをとても面白がる僕も、きっとモテないのでしょう。女性作家の恋愛小説って、数えられるくらいしか読んだことないな、多分。

この本を反面教師として、モテる男への道をまっすぐに進みたいと決意しました。この決意は配偶者には内緒です。

2008-08-05

カンボジア史再考

「超個人的クメール・ルージュ祭り」の一環で『カンボジア史再考』(北川香子)を読みました。本書はばりばりの専門書で、素人さんお断りな本ですから、僕はぜんぜん消化できていません。ただひたすら、超巨大国家(中国やらインドやら)に挟まれた地域というものは、周囲の影響を受けつつ人種的にも文化的にも坩堝状態になるのだな、という感想です。これは日本にもいえたことですが、日本の場合は交易の最末端となるためにものすごい影響は受けてこなかったとも思えますが、もしも東南アジアのように交通・交易の要所となっていたらと考えると、よく似ています。

ただ、漠然と得られたものは数多くあります。例えば植民地的な歴史観を持つと、明確に区分された領土と国家という視点になりますが、そうではなくてカンボジア史を考える上では東南アジア全域の交易とネットワークで考えるべきではないか、とか。つまり農本的で中央集権的なな性格のアンコール期から、より分散した港市国家的性格のポスト・アンコール期、ということです。

それから通説となっている歴史観では、「アンコール期に栄えた本来の住人であるクメール人が、タイ人やベトナム人に侵略されてきた」ということになっているそうですが、これもカンボジア史研究が主にフランスによって牽引され、植民地期にはフランスによる支配を正当化してきた、とのことです。

本書(に限らずカンボジア史研究では)では大まかな時代区分として「プレ・アンコール」「アンコール」「ポスト・アンコール」と分け、本書ではそれぞれの時代区分の通説を紹介し、それに対する異説を多数紹介する、という体裁をとっています。これまでのカンボジア研究での典拠は、漢籍やサンスクリット碑文を重視してきたようですが、最近の研究方法としては主要な史料とすべきクメール語碑文に重心が移ってきているそうですし、王朝史研究のみではなく、社会経済史にも目を向けているそうです。カンボジア史に対する素養か熱意のある方は手にとってみると面白いかもしれません。

それにしても「素人さんお断り」の本でした。

2008-08-04

P.I.P.―プリズナー・イン・プノンペン

P.I.P.―プリズナー・イン・プノンペン』(沢井鯨)を読みました。「超個人的クメール・ルージュ祭り」の一環として人から教えてもらったのですが、この本は1997年ごろに無実の罪で投獄された著者の体験に基づくフィクションです。

主人公の元教師がプノンペンでいわれのない罪に問われて不条理に投獄されるお話です。淡いロマンスあり、騙し騙されあり、悲惨な獄中生活あり、マッチョなファイトあり、八面六臂の活躍をします。スリリングでスピーディな小説で息も切らせませんが、何かは残りません。ビールで言うと喉ごしは良いけれど味はない、みたいな。

きわめて主観的な感想をいうと、まず主人公が「隠れマッチョ」なのに萎えました。そして多めの誇張(と思われる)で書かれた獄中生活とカンボジア人観に嫌気がさしました。正義の味方のような主人公も最終的には「郷に入れば郷に従え」的に人を欺き、貶め、嬲る様が不快でした。ご都合主義的に展開される終盤のストーリーにはがっかりしました。

僕の最大の疑問としては、一番の売り物であるはずの獄中生活を、どうしてストレートにノンフィクションで書いてくれなかったのでしょうか。わざわざフィクションにする必要が感じられなかったのです。せっかく得がたい経験を不本意にも得てしまったのに、どこまでリアルなのかわからないフィクションよりも、きっちりとしたノンフィクションのほうが世の中の人(少なくとも僕)の知りたい・求めるところではないか、と思うのです。

この本を紹介してくださった方には申し訳ないけれど、「読んでいて痛快である」のは確かですが、カンボジアの姿はどうなっているの? という欲求にはあまり応えてくれませんでした。

映画「キリング・フィールド」

超個人的クメール・ルージュ祭りの一環として「キリング・フィールド」を観ました。事前にいろいろな資料にあたってから観ると、それはそれで面白いものです。映画自体の評価はあくまで単独の作品ということで、面白い面白くないで判断すれば面白いです。友情物語としても、人間がどれだけ残酷になれるかという視点からも。ノンフィクションの皮をかぶったフィクションですね。

で、先日読んだ『わたしが見たポル・ポト』(馬淵直城)の指摘によれば、シャンバーグ(アメリカ人記者)とプロン(カンボジア人記者兼通訳)の間には友情などなかった、との事。また市街戦もポル・ポト派による殺戮も、プノンペン入りするクメール・ルージュの様子も事実とは異なる、とのことです。

僕がこれまでに知った書物によると、馬淵氏の指摘はおおむねあたっているようです。市街戦に関して書かれたものは今のところ知りませんし、集団農場での殺戮についても記述が見つかりません。シャンバーグとプロンの関係はわかりませんが。

ですが、より冷静に殺戮は行われていたということ、市街戦はなくともアメリカ軍による大量の絨毯爆撃や政府・ベトナム軍などとクメール・ルージュ間の森林戦はあったようです。確かに映画ではクメール・ルージュが非常に直接的な極悪人のような写され方をしていますが、クメール・ルージュ組織全体としては、映画で描かれるように野蛮で激情型なのではなく、システマティックで冷静に充分残虐だったのではないかと僕は想像します(たとえ残虐心からでなくとも、結果として残虐だった、といこと)。映画では銃を撃つシーンばかりですが、銃殺されるよりも栄養失調や病気で死んだと思われる人数のほうが圧倒的に多いのですから。

ともあれ、迫真の演技で(特にプロン役)、感動的な映画でした。そしてこれはフィクションとして鑑賞すべきでしょう。

2008-08-03

ハルキ・ムラカミはモテモテだったか

以前から(結婚前から)僕は、配偶者からさかんに「女心がわからない」と非難されてきました。特に配偶者が最近『恋愛小説ふいんき語り』(僕は未読)を読んでからは非難集中です。配偶者からはその本にあげられている作品を全部読んで感想文を書きなさいと宿題を出されたのですが、あっさりと無視します。

配偶者いわく、それというのも僕が中高生のころに村上春樹さんの本に耽溺したためだ、とのことです。いまや世界的文豪のハルキ・ムラカミに文句をつけるのも敵を増やすことになりそうですが、当時は確かに熱狂していましたが、今となってみると彼の著作で描写される女性は、配偶者の言うとおり平板な印象を受けます。

さて、配偶者の非難は的を得ているのでしょうか。ハルキストは女心がわからなくなるか、さらには村上春樹さんは女心がわからないのか。彼のエッセイにはよく「学生時代に女の子とデートしていると……」とか「セックスは好意の交換であって……」とか、よく「女の子とデート」の話が出てきます。はたして彼は本当に頻繁に女の子とデートをしていたのでしょうか。

だって顔はアレだし、人前で話すのも苦手。これといって得意なものはなかったというし、小説に描写される女の子はアレです。

僕の想像では

  • ヒッピー文化の影響もあり、誰でもよかった
  • よく言及される女の子とは彼の奥様で、すべて同一人物である
  • 男は顔ではない(ならば何なのだ?)
  • 女心の理解とデートは無関係である
  • 作品からはよく汲み取れないが、深く女心を理解している
あたりかと思うのですが、いかがでしょう。ハルキストの皆さん、怒らないでください。僕も彼の作品のファンです。

2008-08-02

悲しきアンコール・ワット

「超個人的クメール・ルージュ祭り」の一環として、『悲しきアンコール・ワット』(三留理男)を読みました。

クメール・ルージュがカンボジア-タイ国境間でゲリラ活動をしていた時期に、その資金源となっていたのはルビーなどの鉱物資源とアンコール朝の文化遺産であるという記述が本書にありましたが、前に読んだ『わたしが見たポル・ポト』では、クメール民族愛にあふれたクメール・ルージュがクメール人の誇りであるアンコール朝の文化遺産を盗掘するわけがない、と書かれていました。さて、真偽のほどは。

この本によると、カンボジア発共同通信のニュースとして、クメール・ルージュ幹部の自宅からアンコール朝の文化遺産が押収されたという報道があった、との事。やっぱり資金源のひとつではあったのだろうな、というのが僕の感想です。そもそもクメール・ルージュは過去との訣別を政策として掲げていたくらいだし、仏教寺院も排斥していますから、アンコール朝の遺跡も例外ではなかろうと思うのです。それに軍事上、城郭としても適切だろうし。

それはさておき、本書はアンコール・ワットをはじめとする、旧クメール王朝の支配下にあったカンボジア、タイ、ラオスなどのアンコール朝の文化遺産の盗掘を問題として追及しています。盗掘の現場とまでは踏み込まなくとも、密輸の現場、ブローカーそして買い手まで取材しています。そして調達・輸送・売買のどれかのピースが崩れたら、文化遺産の盗掘は下火になるのではないか、という主張をしています。また復旧に向けての石工の教育やら模造品の生産やらまで描いています。

最近友人がアンコール・ワットに訪れたのですが、中央回廊(というのかな)のほとんどの仏頭がなくなっている写真を見せてくれました。いわくみんな盗まれたとのこと。仏頭ならば持ち運びしやすいし、それ自体だけでも美術的価値や宗教的価値があるかららしいです。その写真を見て、僕はひどく残念な思いをしました。というのも、世界遺産にほとんど興味のない僕でも、アンコール・ワットだけは興味があったのです。

伊丹十三さんは「ロード・ジム」(ピーター・オトゥール主演)の撮影のためにアンコール・ワットを訪れて、世界一上質な時間はアンコール・ワットの周辺を自転車で散策することだ、という事をエッセイに書きました。「ロード・ジム」は1965年の映画だから、シアヌーク殿下が王位を譲って、自身は政治家としてサンクム独裁政権を立てていたころです。まだカンボジアの内戦は激しくなく、きっとアンコール・ワットも静謐な空気が満ちていたことでしょう。そのエッセイを読んで、僕も世界一上質な時間を持とうと思ったのですが、果たせぬ夢となりそうです。

本書を読んでアンコール・ワットに限らず文化遺産の扱いには難しいものがあると考え込んでしまいました。もちろん現在盗掘にせよ密輸にせよ売買にせよ、禁じられたことをするのならばそれは国・地域の法に基づいて犯罪となります。しかし古い文化財はどうでしょう。例えば僕はわざわざ遠くまで出向いて「サモトラケのニケ」や「ミロのヴィーナス」などの古い美術品を眺めたことがありますが、美術品としてよりも文化遺産としての価値が高そうな気がしたのです。そして文化遺産としての価値ならば、そもそも発掘現場の国が保有するべきではないか、と。条約が結ばれる前の話ですから合法ですが。

これは僕などが考えるに余りある話ですね。

わたしが見たポル・ポト

わたしが見たポル・ポト―キリングフィールズを駆けぬけた青春』(馬渕直城)を読みました。一読して、混乱しました。記述は時間も場所も一定せず、民主カンプチア時代のカンボジアには少しも触れられていません。主に伝聞などを基に書かれた、あくまで著者の一人称の視点から見たカンボジア(あるいは元仏領インドシナ)情勢というべきでしょう。

著者の立場はかなり偏向しているように思われます(もちろん、偏向していない人間などいないと思っています)。反米、反ベトナム、時々によって敵対する勢力は変わりますが、一貫して親クメールの立場でファインダーを覗いているようです。親クメールの立場からなら、クメール・ルージュの偏執なまでの民族主義的愛国心は心に訴えるものがあるでしょうが、広く公平にインタビューを行ったり、幅広い歴史資料を参照したりはしていない様子なので、記述を信頼して良いものか悩みます。これもひとつのクメール・ルージュ感である、ということは重々承知していますが、もしもこの本だけを読んだら、片寄った歴史認識になりそうです。

とは言うものの、面白い話も数多くありました。アンコール・ワットの収益はほとんどベトナムに流れているとか、映画「キリング・フィールド」は欺瞞である、などなど。これから「キリング・フィールド」を観る予定ですが、どのように欺瞞であるかよく観察したいと思います。

2008-08-01

ポル・ポトの伝記

ポル・ポト伝』(デービッド・P・チャンドラー)と『ポル・ポト』(フィリップ・ショート)を平行して読みました。両方ともほとんど時系列的に書いてあるので、平行読みしやすいのです。

伝記だから、面白いとか面白くないとか、そういう感想は持っても書きません。ただ、両著者のスタンスの違いと、発行年の違いからか、印象としてはずいぶん違う本のように感じました。ちなみにチャンドラーは歴史家で、『ポル・ポト伝』は原著1992年発行。ショートはジャーナリストで、『ポル・ポト』は原著2004年発行です。

まず記述の量が、後者のほうが圧倒的に多いです。単なるページ数の違いかもしれませんが、『ポル・ポト』は先行研究を踏まえたうえでさらに一次資料によって構成されているので、当然のことでしょう。ショートも謝辞の中でチャンドラーの研究をあげています。

次に学者的想像力なのか、それとも資料不足なのか、チャンドラーの著作にはポル・ポトやクメール・ルージュの取った行動に対して理由付けを試みることが多いです。しかも良心的に慎重に。カンボジアの思想的背景や仏教の影響などから推測しているところで「と思われる」という記述がよく目に付きました。

訳者の違いもあるとは思いますが、固有名詞の表記はずいぶん違いました。というか、前者には固有名詞に限らず「誤訳かな、これ」というようなものもちらほらと見られます。

で、併読して何がわかったか。まだ未消化ですが、クメール・ルージュの成り立ちから現在までの大まかなところがわかったような気がします。周辺諸国や国内の歴史的な偶然や、カンボジアの過去の偉業と民族主義的愛国心や、治世に対する無知・無能や、指導者たちの楽観的歴史観など、複合的な要因からカンボジアの悪夢が現実のものとなった、といってしまうのは単純すぎますね、きっと。

歴史に「if」は禁物ですが、現実となったことを調べ、理解する作業はどうしても評価が付きまとってしまいます。もしもあのときにこうした状況だったら、などなど。未だにクメール・ルージュを国際裁判にかけることができないでいるようですが、関係者が高齢化し、カンボジア人口の多くが民主カンプチア時代を知らずに生きている現在、何らかの評価はしなければならないと強く感じます。

公言はしなくとも、少なくとも自分の中では何らかの評価は作られつつあります。まだまだ「超個人的クメール・ルージュ祭り」は続く予定ですし、きっとこの二冊は再読するでしょう。