2008-01-29

シリーズものを読むこと

エンターテイメント小説のシリーズものには、できるだけ手を出さないようにしていた。これまでの経験から、1作目は掛け値なしに面白く、巻を重ねるにつれて面白くないものも混じるようになるにもかかわらず、僕はそれらを読んでしまうからだ。過去に幾多のシリーズものを読んできた(87分署シリーズに手を出していないのは幸いというべきだろう)が、シリーズすべてが面白いという例は少ない。とは言うものの、シリーズものならではの魅力もあり(例えば登場人物のキャラクターがどんどん厚みを増して行くとか)、悩ましい。

しかし誘惑に負けて、『ボーン・コレクター』を読んでしまった。作者のシリーズものではない小説を読んで面白かったためでもあり、多くの人が惹きつけられているシリーズの登場人物はきっと魅力的だろうと思ったためでもある。で、結局読んでしまったのだが、読後感を書くにはためらわれる。確かに飛びぬけて面白い小説だけど、本の欠点としてはあと大体何ページで終わる、ということがわかることだ。

それにしても、読む本を選ぶ方法ではなく、読まない本を選ぶ方法のほうを、僕は切実に求めている。まったく世の中の面白い本にはきりがないくせに、僕の時間には限りがある。

2008-01-28

畑村氏の著書2冊を続けて読んだ

失敗学で有名な畑村洋太郎氏の『畑村式「わかる」技術』と『数に強くなる』を続けて読んだ。

両方とも似た内容が書かれているので、新幹線で読みながらデジャヴのような感覚に襲われた。行きに読んだ内容だっけ、帰りに読んだ内容だっけ、という感じで。

僕なりに要約すると
・全体を大まかに把握する
・理解のフレームワークを作る
・ざっくりとした概算を行う
・数量で現実のいろいろなことを把握する

といったところで、読む前に予想したとおりのよくある内容だった。これができればよいのだけど(そういえば以前仕事でご一緒したひとは、何につけても数値化する癖を持っていた)、なかなかそれがうまくいかない。

とりあえず読んだ内容を気にはかけてみよう、という感想を持った。

人材募集事情

人材紹介会社の人と話をして、興味深いことを聞いた。現在のIT業界でエンジニアに求められているのは「質よりも量」なのだそうだ。「とにかく人数がほしい」という企業さんが圧倒的に多いのこと。

僕の感覚では、ソフトウェア業界にそれほどエンジニアの人数はいらない。「船頭多くして船山に登る」とはすこしニュアンスが違うが、人数が多くなると管理コストがかかるというのもあるし、人数が多くなると品質を一定水準に保つことが難しくなるというのもある。また僕はぜんぜん優秀ではないが、優秀なプログラマは凡庸なプログラマの10倍以上の生産性を示すうえ、明らかに無能なプログラマ(僕のことかもしれない)は周りのプログラマの生産性を著しく下げる。

それなのにどうして質よりも量なのだろうか。僕の経験では人数を増やすとプロジェクトの進捗は余計に遅くなるというのに。ステレオタイプとしては、

  • 教育コストが安い
  • 大量の退職者がいる
  • 経験や知識はあまり実務に役立たない
  • 単なる頭数として見ている
  • 成果物に対する対価ではなく人月に対する対価なので、人数の多さが直接利益につながる
というあたりだろうか。まさにステレオタイプで、業界を粗っぽくみているが。

人件費を極端に切り詰め、本を数冊渡して「これ読んでおいて」くらいに教育をすれば、とりあえず即席エンジニアが出来上がる。これは実話だが、新卒入社後2週間の研修を受けて「経験2年」として派遣され、さらに派遣された先では「経験5年」として別会社に派遣され、経験豊富なプロジェクトマネージャとして働かされた、という人を知っている。これなら教育コストは安い。

次に大量の退職者がいることだが、激務薄給の上、理不尽な雇用環境にいるとあっという間に人は退職する。それに団塊の世代がたいした知識継承もなくやめていく。するとそこには先に述べたような即席エンジニアが配置されるのだが、「動いているものをいじるな」文化で脈々とメンテナンスされたシステムを前に泣きそうな思いをする。そしてまたあっという間に退職するのだ。

そしてこの業界では「進歩が早い」といわれている。実はそれほどは進歩が早いわけでもないのだが、偉い人や管理者は「最新技術」に弱く、「最新」という言葉がつくと飛びついてしまう習性を持っている(かもしれない)。したがって古い技術でも充分使えるにかかわらず、新しい製品や概念を持ってきて、それらを新しい知識として受け入れなければならないので、経験や知識はあまり実務に役立たなくなる(かもしれない)。

またこの業界では、建設業の考え方を大きく取り入れていたりする。そもそもソフトウェア開発は小説家や脚本家の考え方と似て、人数がいればどうにかなるものでもないし、成果のボリュームがあればよいというものでもない。それにもかかわらず、比較的単純な労働で人材の代替が比較的容易な業界の考え方と同じものを取り入れている。Aさんが1ヶ月かかる作業は、Bさんも1ヶ月かかるし、AさんとBさんでやれば半月でできる、というようなものだ。このようにエンジニアを頭数で数えると、たくさんの人間を投入したほうが工賃は高くなり(製品の価値は変わらないかあるいは落ちるというのに)、派遣した先の企業は利益がでることになる。

上記はもちろん非常に悪いステレオタイプだ。しかしこうしたステレオタイプがあるところを考えると、多少なりとも本当の何かが含まれていることだろう。これらの反対のことを念頭においておけば、あまり幸福ではないソフトウェア産業に従事する人には救いとなりうる。したがってエンジニアを募集するときや応募するときには、不遜な言い方だが「量より質」だ。

2008-01-27

処理速度が違う

とある仕事で、某シンクタンクのシニアリサーチャーと何度もご一緒する機会を持ったが、正直これは、結果としてつらい経験になっている。

僕は比較的(?)不遜な性格をしているためか、「到底かなわない」と思うことがそれほど多くない。大体いつでも「確かにあの人は優れているが、僕に到達できないレベルではない」と考えていたりする。それ以外には「あの人は優れているが、僕はそこに到達しようと思わない」とか、イソップ寓話のすっぱい葡萄のようなことを考えている。まあルサンチマンといってしまえばそれだけだ。

しかし今回ご一緒している人にはまいった。積んでいるCPUの処理速度が違うという感覚を持たされ、到底この人には敵わないと感じてしまった。僕があれこれ悩んで考えたものの構成をさっと眺めて不足している点をあっという間に指摘するし、2日後にははるかに優れた構成案(多少アプローチが違うから単純に比較はできないけど、僕の伝えたいことことをきちんとカバーしているうえに、おそらく僕よりもわかりやすい)を提示された。

こういう優秀な人と仕事ができることは貴重なことだし、その優秀さをどうにかして吸収したいところだ。凡庸な僕にこういう機会をくれた関係者に感謝しているが、それにしても受けたダメージは大きい。

2008-01-25

情報としての「わたし」

あえて書名はあかさないが、ある社会学者の書いた本を読んだ。その本は細部を見るととても面白いのだが、全体を俯瞰するとなんとなくしっくり来ない。

「わたし」という存在が、蓄積された個人情報の方に代表されるようになり、そしてその「情報としてのわたし」があらゆる場所に、わたしを先回りして立ち現れるようになる


こういう文章を読むと「何を当たり前なことを」と思う。情報とは電子記録されたものばかりではなく、他者の五感で感知できて意味をつけることのできるすべてのものと、他者には感知できないけれども個人が発していてそこに意味をつけることのできるすべてのものを指す。そもそもわたしの実態は、他者にとっては情報の集積でしかない。電子情報の比重が重くなったからといって、基本的な図式は変わらないのではないか。

最も確からしい予期は、過去に蓄積された情報からの推測である。したがって過去の情報が参照しやすい状況にあれば未来も推測しやすい。しかし推測するロジックはあくまでも現在の状況に準拠していて、原則的には宿命論や決定論に偏ることはない。

本書では、宿命は「可能性を限定し、それを正当化する根拠」というような定義となっているが、それは電子情報の蓄積された社会でなくとも存在する。例えば代々医者の家系の息子が医学部を受験するのは宿命か。例えば日本に生まれ育ったひとが日本の小学校に入学するのは宿命か。それは宿命の拡大解釈というものだろう。

「わたし」には複数のペルソナがあり、「わたし」は状況に応じて役割を演じるものだ。その「わたし」は統一的な自我をもつと錯覚されつつも、実際には状況によってかなりの部分を規定されている。たとえは僕は社会人として、降りる人を優先して電車に乗る。たとえば僕は一児の父として、子どもと過ごす時間はきちんと遊ぶ。僕は自分の作った仮面によって、わがままを言わないようにしている。その規定を飛び越えることができるのがいわゆる「バーチャル」な世界である。

バーチャルとリアルの境目は、もともと曖昧なものであるが、電子情報として個人情報が蓄積されれば「個人」は以前よりトレースしやすくなる。他者とわたし、国家や自治体とわたし、雇用者とわたし、被雇用者と雇用者であるわたし、生産者と消費者であるわたし、消費者と生産者であるわたしなど、いろいろなケースでわたしをトレースして、それぞれの交渉場面で情報を双方ともに有意義に使うことができるだろう。それは今までも行われてきた「情報によるわたしの特性定位」ことが、形を変えて行われるのではなく、密度を変えて行われるだけだ。

近頃『その数学が戦略を決める』というとても面白い本を読んだが、そこでは大量データ分析による意思決定の話はされていながら、技術決定論のような話はされていない。単に大量のデータを分析して、統計的に確からしいことを導くと意思決定はより確からしくなる、というだけの話であり、社会構造の変容や自我の変容までは語られていない。データの計算結果をどのように社会的に意味づけるか、またはどのようなデータをどのように抽出するかは、これまでどおり人間が考えることであり、もともと可能性は限定されているし、多数の可能性が潜在的には開かれている。

なんて考えたりした。つっこみ無用。

2008-01-23

面接試験

以前から『ビル・ゲイツの面接試験』(ウィリアム・パウンドストーン)のような質問を気まぐれにすることはあったのだけど、近頃は入社のための面接に来てくれる人に、『地頭力を鍛える』(細谷功)のようなものをためしに聞いてみることが多い。

僕自身がかなり理屈ばっているので、自分を尺度に簡単に答えられるだろうと思いきや、ここ1ヶ月は全滅。「僕の気まぐれで雑談ついでにする質問です」ということをきちんと伝えてから質問するので、まじめに考えないのかもしれないけど。

先日面接に来てくれた人にも「日本にガソリンスタンドは何軒あると思いますか」と聞いたところ、いっこうに話が進まない。あまりにも話が弾まないので、まるでぜんぜん面白くない「ウミガメのスープ」ゲームをしているかのようだ。

僕の感覚がおかしいのだろうかと疑問が生じたので、社長とお茶を飲みながら「日本にガソリンスタンドは何軒あると思いますか」と話を振ったら、あれやこれやと仮説をたてて推測して、楽しく話をすることができた。

さて、僕や身の回りの人がおかしいのか、という疑問はまだ晴れていない。

フリーペーパーの目論見

紙媒体の雑誌が読者数減少に悩んでいるそうな。既存紙媒体の広告費用対効果は低いとされている。確かに紙媒体の広告は高い。新聞だと一面広告を出すのに数千万(2千万から5千万くらい?)かかるそうだし。それに比べると高いと評判のテレビ広告も15秒換算で100から200万円くらいだそうだから、安いものだ(換算の仕方に無理があることも承知している。1クール契約とスポット契約と、紛らわしいので一緒くたにしている)。

それに対して広告の効果のほどは、あまり公表できるようなものではないから実際の数字は知らないが、ここのところ特定のセグメントに対して広告を表示するような媒体のほうが伸びているようだから、推して知るべしだろう。たぶんセグメントをはっきりとさせていないマスの広告は、効果が伸び悩んでいると予想される。

紙対ネットという構図だけでもない。フリーペーパーの広告など、地域や年齢層をきっちりと焦点をあわせているではないか、という感想はすぐに持つ。しかしちょっと考えてみると、フリーペーパーの発行部数は読者数ではない。勝手に郵便受けに投函される、あるいは駅などに置かれて読み捨てられるから、やはり広告費用とその効果は不透明なのではないか。

それにしてもコミュニティペーパーやタウン誌などは依然健闘しているではないか。これをどう説明できるのだろう。思うに、そうしたメディアは受け取り手の思惑にかかわらず一方的に提供するものだから、発行部数を水増しして、広告主に対してよい数字を見せているのではないか。疑問は尽きない。

2008-01-22

信頼できる情報

インターネット上の信頼できる情報源ランキングを読んで、つくづく信頼が安売りされていると感じた。

そもそもネット上での情報は眉唾であるというのが僕の前提で、ある程度付き合いを深めてからの情報ならば信頼性が増す、というスタンスを僕は取っている。戦略的にはまずはじめに信頼して、信頼が裏切られた後にしっぺ返し(情報を無視することか)をするのが効果が高いだろうと想像するが。

アンケートの結果

  1. Yahoo! JAPAN
  2. google
  3. 楽天市場
  4. MSN
  5. goo
  6. Wikipedia
  7. NIKKEI NET
  8. asahi.com
  9. BIGLOBE
  10. ECナビ
ということらしい。とりあえずアンケートの方法は妥当だったと仮定しておこう。

結果を見ると、上位に来たのは検索系サイト、新聞社系サイト、CGM系サイトとなっているが、そもそも検索サイトは一次情報を扱っていない。しいて言えばMSNが一次情報としては一番信頼されていることになるが、それにしても、新聞社のサイトを信頼できないのに、検索に引っかかる出所不明のサイトは信頼できるということが不思議だ。またどこの誰ともわからない人による口コミを信頼できるとすることも、僕にとっては謎である。

世界とはそうであることのすべてである。哲学的な意味はとりあえずさておき、現代人はそれぞれ個別の現実を生きていて、それぞれ個別の事実をつかまえている。その事実は事実たりうる根拠をそれほど持たずに、ネット上では事実として存在している。2ちゃんねるの(管理人の)モットーは「うそはうそであると見抜けない人には(以下略)」だったと思うが、それ程うそを見抜ける人が多いとは思えない(少なくとも僕は見抜けない)。

したがって僕の感想は、みんな好き勝手な情報を本当のことにしているんだな、である。ちなみに僕のモットーは「偏っていて当然」である。

2008-01-21

「空気読め」

昨今「KY(空気読め、あるいは空気嫁。間違えても朝日新聞の珊瑚ではない)」という言葉をよく見かける。他にも「JK(常識的に考えて)」あるいはそれを「常考」と書いたものも見かける(ごく一部の世界では、「JK」は「女子高生」という可能性もあるので、くれぐれも注意したい)。

さて、言われるほどに空気を読むことが求められているのはどういうことか、少し考えてみた。「常識」や「世間」や「空気」や「コモンセンス」や「コモンナレッジ」などはいろいろな人が研究をしているので、僕がそれに付け加えることはなにもない。単なる感想があるだけだ。

常識を相手に求めるのは、開かれた会話の場所ではある意味タブーとさえいえる。異なる文化にいる人がお互いに理解するにはお互いのバックグラウンドを理解しなければならない。そのバックグラウンドを理解する労力はとても大きいので、通常ならより普遍的な言葉や概念で話を進める。例えばプロテスタントの人と話をすると、ある部分ではどうしても一神教的なところと僕の多神教的な考え方がかみ合わないことがあるので、そうした話題を避ける、あるいはかみ合わないと思ったときに言葉をつくして説明をする。

同じ文化で社会化されていると感じる人たちでも、実はかなり違う現実を生きているはずだ。「最近の若いもの」という言葉に象徴されるように、世代間では見えている世界が違うし、どのような教育を受けてきたかでも違う。また職業によってもかなり違うだろう(僕の経験で言うと、「ログイン」とか「データベース」という言葉は通じない可能性がある)。

みんながある特定の同じ知識を持っていると想定するのは、かなり危うい橋を渡る行いだ。まず知識の質に関しての意味論を考えなければいけない。それにメタ認知的なところを考えなければならない。前者の意味論はとりあえずさておき、後者のメタ認知に関して少し説明を加えると、仮にみんなが同じ知識を持っている(例えば地球は自転していると知っている)としても、「それをみんなが知っていること」をみんなが知っていなければならない。さらに「みんなが知っていることをみんなが知っていること」をみんなが知っていなければならないので、きりがない。これをどこかに着地させようとしても、無限のストロークがあるのみだ。

現実的にはどこかで妥協をして、なんとなく空気が作られているものだが、きちんと考えるとそれこそ「空気が読めない」状態になってしまう。僕は空気を読まないことに関しては自信を持っているが、「空気読め」といわれたら「きちんと説明しろ」と言い返すくらいのことはしてもよいではないか。

2008-01-16

センスのよい書店とは

某所に書いたことを再掲します。日経ビジネスオンラインに「行きやすい書店ではなく、センスのいい書店に行く」という記事がありました。

あくまでビジネスパーソン向けの記事なので、読書人一般の嗜好とは違うだろうけれど、「総論賛成、各論反対」というのが僕の感想です。

確かにリアル書店にいって本を眺めているのは楽しいし、思わぬ発見があります。それに書店員さんたちのPOPも眺めて飽きません。しかし記者氏の言う、センスのある書店の「基本的な条件」には一部反対です。

記者氏いわく、

  1. 少なくとも週2回は新刊書が入れ替わる (反対)
  2. 新書が選びやすい (賛成)
  3. 客層が知的である (反対)
  4. くつろげる喫茶店が近くにある (反対)
まず、新刊書が頻繁に入れ替わるのは、僕はあまり歓迎しません。話題の本ならばネットでも話題になるし、数日書店のほうが早かろうと、そんなにテンポの速い生活をしているわけでもなし。それよりも書店員さんたちが選んだ新刊をそれなりの期間置いてくれたほうが、その書店に足を運ぶ甲斐があるというものです。

新書が選びやすいことに関しては、自分の好みとしては賛成ですが、人によっては反対することもあると思います(例えば創元推理文庫が充実していない書店を認めない、とかいうスタンスもありだと思っています)。

次に客層。これは書店側が簡単に選べるものではないので反対。棚の傾向によって客層も変わるし、それぞれ自分の好みにあった書店を見つければよいだけの話だと思います。それになんだか読書を「偉いもの」「知的なもの」のように見ている感じがして、ちょっと反発したくなります。読書は悪習であり、背徳的なものであり、実用であり、無用であり、etc. とにかく百人百様の付き合い方があるので、決め付けはよくない、と。

そして喫茶店ですが、これも書店のセンスとは関係ない(ジュンク堂みたいに自前で喫茶室を持っているものを除く)ので反対。

この日記を読む少数の方、ぜひ思うところを教えてください。

2008-01-14

Windowsユーザになりました

これまで長いこと私物PCのOSにはDebian GNU/Linuxを使っていたけれど、この度めでたくWinodwsユーザとなりました。ThinkPad X61を買ったためです。もしもOS無しで売っているならDebianユーザであり続けたと思いますが、Windows Vista Businessがくっついてきているので。

とはいうものの、ノートPCを新調する理由は

  • 軽いノートPCがほしい
  • Vistaでぐりぐり遊んでみたい
  • 今使っているThinkPad X22ではスペック不足になりつつある
  • 2年ほど前からX22のバッテリーがまったく使えない
  • バッテリーだけを買うとけっこう高い
  • 配偶者の使っているPCがかなり時代遅れ(OSはあのWindows Meだ)
といった理由で、Windowsを使ってみたいというのも含まれています。

仕事でWindowsを使うことには慣れているけど、私物としては慣れていないし、これまでのファイルをある程度移そうと思うとちょっと面倒くさいと予想している(特に文字コードあたり)。

使ってみたところ、Windows (95 | 98 | 2000 | XP)の経験とはずいぶん違った使い心地で、戸惑いの午後。
  • アクセス権限が面倒くさくてしょうがない。素直にユーザの権限を制限しておいて、suできればいいのに、と思うのは単なる惰性です。
  • メモリを大量に消費しているので、1ギガでは足りないかも。AmazonでBUFFALO DDR2 667MHz SDRAM(PC2-5300) 200pin SO-DIMM 2GB D2/N667-2Gを購入。
  • 今までコマンドランチャ(xfrun4)を使っていたけれども、Windowsキーでアプリケーション名を検索すれば、それなりに似た操作ができる。
  • ディレクトリ構成がよくわからない。慣れればいいだけの話だけど。
  • XKeymacsが挙動不審。これは死活問題に発展するかも。
  • はじめはフォントが醜くて驚いたけど、表示をClearTypeにしたら綺麗になった。メイリオは好みが分かれると思うので、何も言うまい。
  • Aeroを使うとグラフィック周りがどうも遅いけど、Aeroを使わなければ何のためのVistaかわからなくなってしまうのであえて使う。ちなみにエクスペリエンス インデックスは3です。
  • フリップ3Dとかは楽しい。
  • ネットワークとか共有とかの周りがよくわからない。素直にSambaを使えばよいのに、と思うのは単なる惰性です。

はじめは文句が多いだろうけど、そのうち気に入るのではないかと思います。実のところ、使い慣れているブラウザとemacsのようなエディタがあれば、OSにはあまりこだわりは持たないように心がけているので。

2008-01-12

1たす1はどうして2なのか

配偶者とテレビドラマを見ていて(言い訳するわけではないが、僕は子供の面倒を見ていたついでにドラマを見ていた。決してその逆ではない)、登場人物の小学校1年生が「1たす1はどうして2なの?」といった。

そのドラマの中でも言及されていたけれど、1たす1が2になるのは特定のルールに則った場合であり、2進数で計算したりブール演算したりすれば違う結果になる(ちなみに2進数のときに登場人物は「じゅう」といったけど、僕は「いちぜろ」という。どちらが正しいかは知らない)。では10進数の計算でどうして答えが2になるかを小学校1年生にわかりやすく説明するのはかなり大変だ。

僕が配偶者に説明したのは次のようなやり方だ。まずは空集合φを1と定義して、1とφの集合を2と定義する。その繰り返しで自然数が定義できるので、自然数どうしの和集合は先に定義された自然数と一致する。したがって1たす1は2である。

こんなやり方では小学校1年生には理解しにくいだろうから、違う説明を考えた(といってもノイマンほどの天才ではないので、厳密性には欠ける)。一人の人間はそれ以上分けられないものとします。さて、ここに雅子さんと紀子さんがいます。女の人は何人ですか? そして、ここに小和田さんと川嶋さんがいます。人間は何人ですか? さらに、ここに徳仁親王妃と文仁親王妃がいます。皇族の人は何人ですか? といったことを繰り返すと、ひとつの何かをもうひとつの違う何かと同じ性質でくくることで、一緒に数えることができるので、自然数の足し算というルールができた。そのルールに従って、なおかつ多くの人の指は10本だからとりあえず10を基準にして数えると、1たす1は2になる。

これでもわかりにくい。僕の子どもが将来こうした疑問を持ったときのために、とりあえず心の準備だけしておこう

2008-01-09

中吊りは語る

1月に入ってから、どういうわけだか仕事場に行って仕事している振りをした日が5日となった(もちろんフルに働いたわけではないけど)。そのためか、現在かなりダウン中。

正月休みに電車に乗る機会はこれまであまりなかった。だいたい僕は人ごみが嫌いだし、これまでの正月は山の中で本を読んでいるか、自動車で林道を走ったりしていた。ところが都心の電車に乗ってみて、僕にとっての新しい発見があった。

中吊り広告は「初売り」「パチンコ」「マンガ雑誌」の広告が比率として非常に高かった(そのために毎日車内を3両くらい歩き回った)。こうしたことを定量的に観察すれば、それなりの消費動向などが見えてきて楽しいのではないか、と思ったりしたけど、多分もうだれかがやっているだろうな、と想像する。

定性的調査は僕も熱心に勉強したりしたけど、結局のところ人を動かしたり結果の正しさを反論可能な形で提示するには定量的なもののほうがとっつきやすい。個人的には残念だけど、如実に語っちゃったりするから。

2008-01-06

顔の見えるコミュニティ

三人寄れば文殊の知恵とはいうものの、「みんなの意見」は案外正しいわけでもない場合がある。

日経ビジネスオンラインからの引用だが、

集団思考とは、凝集性の高い(まとまりが強い)内集団で、意見の一致を重視するあまり、取り得る可能性があるすべての行動の現実的な評価を無視する思考様式である
らしい。つまりわかりやすい例で言えばナチスドイツがどのようにして多数の支持者を得て行ったかということだし、良くあげられる例ではケネディ政権のキューバ侵攻だ。

みんなの意見が案外正しいための条件はいくつかある。たとえば各個人が充分に独立していること、各個人の性質はあまり似ていないこと、各個人は充分なばらつきがあることなどで、そのときには各個人の意思決定の集合(統計処理した結果)は案外正しい、ということだ。たとえばビンに1円玉をびっしり詰めて大学生の前におき「いくら入っているか」と聞いたときには答えの平均値がもっとも正しいけど、「支持する政党はどこか」ということを多数決で決めても必ずしももっとも正しいとはいえない。

そうした条件を外れたとき、「集団浅慮」「集団思考」と呼ばれる意思決定が行われたりする。マーシャル・マクルーハンではないが、どのメディアを使うかによって五感の反応は異なり、新しいメディアは感覚の異なる拡張された人間をつくる。そしてマスメディアは「国家」をつくり、「顔の見えない群衆」をつくる。

「顔の見えるコミュニティ」を擁護する(というか復権を叫ぶというか)ことにそれほど異議を唱えるわけではないが、卑近な例で会議を考えると、顔の見える会議からは組織の膿を絞りだすことはできない。というのも一般的に、「顔が見える」と自己開示は抑圧され、「顔が見えない」と自己開示は促進されるからだ。まだ規模の小さかったmixi.jpと2ch.netとを例にとると、mixiは前者で2chは後者だ。組織の内部告発をしたりアイデアだしをするなら圧倒的に後者のほうが適しているし、下手をすると前者では先に書いた集団浅慮の状態になりうる。

「顔の見えるコミュニティ」をつくるときには複数のペルソナを発現させられないと、コンセンサスをむやみに重視する(2chでも空気を読むことが求められるけど)息苦しい世界になりうる。ちょっと前に武蔵野市の調査で、「地域におけるコミュニティへの期待は」という質問に対する答えは、地域の課題解決を求めること(形式知の要求)と地域の親睦を求めること(感情的一体感の要求)が同じくらいの回答数だったことがあった(ソースは失念)。この結果はある意味ではいわゆる社会的紐帯を求める動きとも取れるが、ある意味では集団のコンセンサスを求め、結果として愚かな行動を求める動きとも取れる。

企業内で何らかのコミュニティをつくる場合にも同じことが言える。企業内なら当然顔の見えるコミュニティをと考えるかもしれないが、企業内だからこそみんなの意見が案外正しくなるような、顔の見えないコミュニティを検討しても良いはずだ。

2008-01-05

イントラバースとか

メタバース、イントラバース、エクストラバースということが言われている。それぞれインターネット、イントラネット、エクストラネットと対応する言葉のようだけど、それは何を意図しているのかというと、「ネット」という言葉が限定的な意味を持ってしまうから、もっと広義の用語(universeからの造語)を持ってきたというくらいのものだ。もっと踏み込んでいうと、電子データで構築された3D空間というくらいに考えてよいだろう。

イントラバースについてだが、3D仮想空間を企業のコラボレーションツールとして使うことが一部で検討されている。利点はペルソナ(アバター)を使い分けられること、空間的な制約がなくなることなどが考えられる。具体的な資料としてはIBMの目論見(妄想?)などがある。IBMのは単純にSNSをセカンドライフに結び付けたような感じだが。

その反対に欠点はいくつでもあげられる。現状ではハードウェアの制約が厳しい。セカンドライフを見る限り、今のところ企業内で使われているようなPCでは3Dをぐりぐりと動かせるようなスペックのものは多くはないだろう。またIMとどう違うのか、という疑問もある。うまいことペルソナを使い分けられなければつまるところアバターは社員そのものであり、IMとの差は見られない。それに時間的制約も依然として残る。セカンドライフでボストンの人と社交ダンスをしたければどちらかの時間に合わせなければならないように、会議をするにしても遠隔地のビデオ会議のように決まった時間にPCの前にいなければならない。また情報伝達の多くの要素は、表情やしぐさあるいは見た目などの言語以外に拠っているし、言語でも音声の高低や声色に多くの情報が含まれるが、それらが伝達されない。

それでも今後はこうした試みが実現していくだろう(失敗するかもしれないが)。心の準備だけはしておこうと思う。

2008-01-04

飛び込み営業の理屈

往々にして「飛び込み営業」は不愉快なものである。まさに人間がやってくる飛込みだけではなく、電話でのセールスもたいていの場合は不愉快だ。仕事に没頭しているときに飛び込みの営業や電話が来ると、対応に1分かかったとしても、その作業中断のロスは30分くらいになったりする。僕の仕事の効率が悪いことは、この際棚に上げておこう。

某巨大ECサイトを運営している企業での新人教育では、電話をかけるリストを渡して、1ヶ月以内に5件(これは時期によって変わったりする)の新規出店を達成する、というものがある。もちろん営業的には新規出店数に比例して流通総額が伸びる、という経験則があるのだろうが、見えない部分で失っているものはどれほどか、試算したことはあるのだろうか。もちろん潜在的コストを試算することは難しいから、正確な数字としては見える部分しか計上しないはずだ。しかし企業活動は最終的には数字にするものの、実際には数字で割り切れるほどに簡単なものではない(追記:ほとんどの企業活動は実際には数字で割り切れる。要素をちょっと少なくしてシミュレーションすればかなり正確になるはずだし、意思決定の道具として使っても確からしさは高い)。

飛び込み営業は決して悪いものではないし、営業の基本であるとさえ思う。しかし営業活動の原点は「顧客の利益となるものを提供する」ということである以上、商品やサービスに確固とした自信を持って、なおかつ顧客にとっても良いものであるという確信がなければ、顧客の迷惑になるような行為をむやみに続けることはデメリットとしかならない。

こうした飛び込み営業を愉快なものにする方法がないか、少し考えた。飛び込み営業はどうせ来るのだから、せっかくなら有意義に使おうというわけだ。まだ実践には移していないが、

  1. 反面教師として活用させてもらう
  2. 営業トークを学ぶ
  3. 営業活動サポートツールを作るためのヒアリングとして使う
  4. 気晴らしにする
  5. できるだけ雑談をして、ひょっとしたらどこかでつながるかもしれない情報を入手する
  6. 飛び込み営業の理屈を聞き、議論することで自分の営業感覚をつくる
といったことが思いつける。

営業活動の原点に「顧客の利益となるものを提供する」ということがあるとするなら、営業は売ることにではなく、顧客の利益を知ることに注力するべきである。ならばできるだけ飛び込み営業の人と話をして自分の利益を伝えることで、ひょっとしたら良い結果を迎えることができるかもしれない。

2008-01-03

ブログの不思議なパーツ

ブログのデザイン(というよりも、単なるテンプレート)は、見ていて無意味だと思うものが多いことはどうにかならないものだろうか。無意味だと思うのは、

  • カレンダー
  • 時計
  • 最新のコメント
  • 検索ボックス
だ。

まずはカレンダーと時計。そのポストがいつ投稿されたかは、ポストのわかりやすい場所に年月日が書いてあれば充分だ。今月の何日に「ポストがあった」ことなんて知りたいとも思わないし、ましてや先月(昨年、etc.)においておや。それに、カレンダーなんてものは自分でも持っている。断言するが、僕はブログにカレンダーがあっても活用したことはない。また、時計も同じだ。ブラウザでブログを読むときに時計があることによるメリットはまったく感じられない。その分転送量を少なくしてくれたほうがよっぽど役に立つ。

次に最新のコメント。コメントは文脈の中でようやく意味がつかめるのに、文脈を省略してコメントだけ並べられても意味不明である。トラックバックの一覧も同じようにほとんど使えないが、これはトラックバックの仕方があまり適切ではない場合が多いのだろうと思うので、決して意味不明だとは思わない。

そして検索ボックス。普通ブラウザで閲覧しているのだから、検索はブラウザの機能やユーザの操作に任せたほうがよくはないか、と思う。僕はfirefoxとw3m-elを愛用しているが、どちらもキータッチ2回で検索ができる。そしてその検索(Googleを使うことが多い)の精度はそれなりに良い。ここでも断言しよう。僕はブログに貼り付けられた検索ボックスを使ったことがない。サイト内検索だってsite:example.comなどと入力したほうが、検索ボックスを探して入力するよりもよっぽど効率が良い(とはいうもののこのサイトにも検索ボックスがある)。

上記、極私見だ。たぶんそうしたパーツを使っているひとは、テンプレートにあるからそのまま使っているだけなのだろうと想像する。僕がそうだから。

2008-01-02

Nice boat.な青年

年の瀬の話である。昨年末12月29日に所用があって都心へ出かけたが、帰りの電車に「Nice boat.」とかかれた大きな紙バッグを持った青年が乗っていた。そういえば12月29日は泣く子も黙るその道の祭典初日ではないか。周囲の目を気にしないその姿は実に凛々しく、まっすぐだった。

それだけではない。彼は高齢の女性に席を譲ったり、降りる際にはベビーカーを押したカップルを先に促したり、立ち居振る舞いが実に優しさに満ちていた。やはりオーバーフローのブースを訪れるような猛者は、その強さに優しさを秘めている(人もいる)ものだ。

強くなければアレゲではない。優しくなければアレゲである資格はない。

2008-01-01

クリスマスプレゼント、あるいはお年玉の使い道

ハーバードからの贈り物』という本をベランダでタバコを喫いつつ読んでいたら、気がつけば2008年は明けてしまった。急いで部屋の中に入ると配偶者が子どもにミルクをあげている。良い年になるといいな、と思う。

それはさておきR35的おもちゃが一部で人気だけれども、僕はコレジャナイロボが気に入っている。オフィシャルサイトによると、

「欲しかったのはこれじゃなーい!!」プレゼントを開けた子供から発せられる悲痛の叫び。楽しいはずのクリスマスが突如、修羅場に。こんな経験ありますか?できれば避けたいものです。しかし人生、欲しい物が何のリスクもなしに手に入るなんて話はそうはありません。欲しい物を手に入れる為には努力も必要だという事を何らかの機会に知っておくのも良いでしょう。


とのことだ。クリスマスプレゼントにしてもお年玉の使い道にしても、ジョークとして冴えている。一児の父として「コレジャナイロボ」は子どもに買ってあげたくないが、きょうだいや友達にプレゼントすると、きっと一部のひとは大喜びするだろう。