2010-12-08

なんちゃって『嵐が丘』

最近は、乗用車で移動することが多くなっています。「多い」というのは、運転している時間が一週間で15時間くらい。2009年3月に買った車の走行距離が、現時点で37,000キロくらい。その運転している時間が何となくもったいなくて、運転中に何かを聞くようにしています。例えばとある講義録を音声だけ流したり、好きな音楽を聴いたり(細かいところまで判らないので、流すだけになります)、Podcastとか落語とか。

そんな風に運転中に聞く王道、オーディオブックを図書館で借りてみました。ひとまずは既読で、ドラマティックなものとして、『嵐が丘』を選びました。『嵐が丘』なら舞台にも映画にもなっているから、オーディオブックも面白かろうと思ったのです。

オーディオブックまたは朗読CDって、原文をそのまま読み上げるタイプのものしか知りませんでした。ところがこの嵐が丘は当然のことながら脚色されたもので、どことなくクスッと笑ってしまいそうな感じなのです。ラジオドラマに似た恥ずかしさというか、舞台役者が体で表現することを禁じられたらこうなるのかな、という恥ずかしさというか。かの『嵐が丘』ではなくて、二昔前のソープオペラのように聞こえ、深夜の運転でも眠気に襲われずにすみました。

俳優に疎い僕にはまったくわかりませんが、「石橋蓮司、広瀬彩、坂本貞美、宮沢彰、前田倫子、中村元則、宇津木真、諏訪善平、二木てるみ」といった面々が出演しています。「サウンド文学館パルナス」というシリーズで他にもたくさんありましたので、怖いもの見たさ半分、また借りてみようと思います。

2010-12-05

『アーキテクチャの生態系』

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』(濱野智史)を読みました。本書はこの手の本にありがちなフォーマットを踏襲し、序論があり、全体の理論的枠組みを説明し、各論を展開し、結論があるというものでしたが、もっとも面白かったのはタイトルにもなっているような総論あるいは理論的枠組みではなく、2ちゃんねるの分析という「各論」にあたるところでした。

本書の出版は2008年なのですが、本書の中でもたくさん言及されている梅田望夫さんの『ウェブ進化論』に対抗している感がひしひしと伝わってきます。梅田さんはアメリカ的なウェブのあり方を称揚して、日本的なあり方を批判(というか、低く見ている)していましたが、濱野さんはそれを相対化します。「生態系」という言葉でうまく言い切れるか微妙だと思いますが、検索可能性の上に乗っかってつくられるウェブサービスの流れと、そうではないものの流れを綺麗に説明しているように感じました。

その中でも2チャンネル、はてなダイアリー、ニコニコ動画のコメント機能の分析は素敵でした。情報のフローを重視してコミュニティの閉鎖性を排するということや、機械的にゆるくリンクされるために匿名的なコミュニティーが形成されるということ、擬似的な同時性を形成することなど、はたと膝を打ちます。

日本のウェブサービスや情報端末製品は、「ガラパゴス」として揶揄されることが多いですが(ガラパゴスに失礼だと僕は思います)、局地的に発展する機能はその中心ユーザのニーズによって変化すると考えれば、日本のサービスや製品は上手く適応していると考えられるのですよね。本書はそんな価値観の逆転というか、多文化主義というか、そんなところが素敵でした。

ただ、もう少し詳細に見ればまた少し違ったことも言えるのではないかな、と僕は思います。本書の視点は基本的に、アメリカ発祥のサービス対日本発祥のサービスというものでしたが、アメリカ発祥のサービスであってもユーザの偏りがあることはすでに知られたことです。Facebookはフランス・ドイツ・イタリア・スペインといった非英語圏でもトップシェアですが、日本ではやっぱりmixiです。中国ではQQだし、もっともSNSのヘビーユーザが多いといわれるロシアではVKontakte、ブラジルでは不思議なことにOrkut。こうしたシェアの偏りは、決してサービス形態(本書の言葉ならアーキテクチャ)に左右されるものだけでもないと思うのです。

2010-12-04

『虐殺器官』

異様なまでに絶賛される(ように僕には思える)『虐殺器官』(伊藤計劃)を、ようやく読みました。といっても読み終えたのは少し前のことなのですが。

どうも上手く感想が書けないのですが、じっくり考えればもやが晴れるようになるかも知れません。とにかく今のところ、僕はあまり好意的な感想を持てませんし、個人として高く評価できません。

非常にドライな世界観だと思うのですよね。単に戦場であるとか、テクノロジーで諸感覚が制御されているとか、主人公がきわめて内省的であるとか、そういったところは二の次に思えるほどに。

(以下、核心に触れるネタバレにつき、白文字)そのドライなところのなかでも特に世界の終末観に関して、どうしてもジョン・ポールと主人公の言動のあたり、作中での整合性が見えません。どこかの会話や独白で、自分でも本当と信じている類の嘘を言っているかも知れませんが、もしそうだとしたら、それはまた主要テーマに近いところでねじれてしまいます。先進諸国の住民やら愛やらを取り上げる事なんて、なにも必要ないはずです。単にそこ(終末、あるいは死)に惹かれていったからそうする。それだけで充分だったはずなのに、妙にそれっぽい理由付けをしています。その理由付けだって一巡りして陳腐なプロパガンダになることくらい、本書の中でも示されています。(ネタバレここまで)

というわけで、ドライに徹し切れていないところを想像で補わないと、僕には納得ができませんでした。既読の方で僕と同じような引っかかりを感じた人はいませんか?

2010-12-01

『正しく決める力』

正しく決める力―「大事なコト」から考え、話し、実行する一番シンプルな方法』(三谷宏治)を読みました。するするっと読めてしまう本でしたが、その理由が平易な文体にあるのか、それとも書かれていることになじみが深いためか、あまり判別したくありません。

本書の要旨といえば、正しく決めるためのフレームワークが書かれていて、その枠組みは
・『重要思考』:差よりも重さに注意し、大事なことから考えること
・『Q&A力』:効率よく正しく理解・説明をして、大事なことを問い、答えること
・『喜捨法』:大事でないことを刈り込み、捨てること
という感じです。

この手の本を読み慣れると、書いてあることは既知のものばかりに感じますが、再確認するのもまたよいものです。しかし僕がいつまでたっても正しく決められないのは、正しく決めて正しく実行する力を正しく身につけていないのではないかと、どこまでもさかのぼってしまいます。ですから欠陥の多い我々(少なくとも僕)に向けて、なぜわかっちゃいるけど変われないのかを平易に解説する本があったら、喜んで読みますね。

あと、どうにも腑に落ちないこととして、本当に正しいと言い切れるのかという疑問がつきまといます。仮に256個の選択肢があるとして、この手の本ではそのうちのただひとつが正しいとされるかのような印象を受けますが、僕の感覚では明らかに正しい選択肢と明らかに正しくないのはそれぞれ26個くらいのように思えます。その26個くらいの選択肢のうちどれかひとつを疑いなく選べるのなら世界は幸せに感じられるでしょう。しかし経験から言えば、顔では自信たっぷりに決定をしていても背中には冷汗がダラダラと流れていて、かといって不安そうにしているわけにもいかないのでやせ我慢している、というのが実情ではないでしょうか。

ものごとを単純化すると気持ちよいし、シンプルな理解は強力な実行力を生みそうな気もします。ですが僕は世界の単純さよりも複雑さを信じていて、大事ではないと思って切り捨てた蝶の羽ばたきがどこでハリケーンを起こすかわからないと思っていたいのです。結果として、自信を持って言いきれないということは自信を持って言える、という変なことになり、こうして韜晦していくのです。