2010-10-30

『ベッドルームで群論を』

「まず、牛を球と仮定しまして……」というジョークがある。数学者がものごとを極度に一般化することを皮肉ったものだけれども、近頃読んだ『ベッドルームで群論を――数学的思考の愉しみ方』(アラン・ヘイズ)は、その一般化する様を楽しむような本でした。本書はタイトルからは想像しにくいけれどもいろいろなジャンルの数学エッセイです。ネタとなるのは日常生活のふとしたところで著者が気になったことで、その理屈や一般形式をあれこれと考え、文献にあたり、コンピュータでプログラムを走らせ、統計処理し、などなど。

話題としては群論、ランダム性、暗号理論、分水界、NP完全、歯車、名前空間、3進法などと続いていくのですが、数学の専門家ではない著者が、その非専門家的な目で見た日常から、抽象的性格を取り出そうとするところに本書の一番のおもしろみを感じました。あらかじめ持っている知識を日常に当てはめるというのではなく、問題や疑問を自分のなかに抱え込み、あれこれ考えてしまうのです。さらにはエッセイを雑誌に発表した後に、読者から寄せられた意見などから、著者があらためて考えてみたら「やっぱりこうかも」と後日譚があるのも素敵です。つまり問いが開かれているというわけで。

いまでもありますが、「できるかな?」というウェブサイトが、2000年頃に大いに話題になりました。そのおもしろさはエロものにもありますが、僕の主観によると、日常のどうでもよい与太話を真剣に検証するところにありました。それが物理学版だとしたら、本書は数学版です。性格はずいぶん違うけれども、どことなく両者に近いものを感じました。

2010-10-28

えっち・アダルト

ふとした気まぐれで『ぼくたち、Hを勉強しています』(鹿島茂、井上章一)を読みました。どうでもよいような中年男性の猥談(自称「性談」)をアカデミックにしたようなもので、「ワイセツ」ではなく「えっち」で、しかも全然エロくない。直接的な表現がないのはおじさんたちがアカデミズムの世界にいることと、はっきり言ってどうでもよい矜持があるためでしょう。目的意識としては、おじさんたちだってモテたい、というところにあろうかと思います。

ある部分には女性から「冗談ではない」といわれそうなところもありますが、ざっくり読んでしまえばパンティと歴史の話、旦那衆が性文化を支えてきた話、かつて文化的な幻想がモテ要素になっていた話、出会いの場所や手段の話、Hをする場所の話など、「ふむふむなるほど」と楽しく読めます。性について大まかに語るとき、垂直的比較つまり歴史と、水平的比較つまり異文化の二軸でものを見るのは素敵なやり方ですが、それを雑談風にできるのも、碩学たる本書の著者たちが積み重ねてきた教養によるもので、読んでためになることは確かです(内容がためになるというわけではなく)。

だからといって読んでもモテるようにはならないと思いますよ。僕もモテたい。

その流れで『アダルト・ピアノ―おじさん、ジャズにいどむ』(井上章一)を読みました。これもまたどうしようももないような内容で(貶しているのではありません。絶賛しているのです)、モテるためにピアノを弾けるようになりたいという野望にとらわれた著者の奮闘が記されています(著者はライブハウスで演奏する腕前にはなりましたが、モテるようになったかは不明です)。

なかなか苦難の道だったようです。いわゆる正統的ピアノ練習を経ることなく、ひたすらにジャズピアノ(やカクテルラウンジピアノ)を目的としたために、クラシック畑の人から見れば指使いがおかしいと指摘されたり、はては指や腕の痛みや痔の発症があるなど。他人の苦難は蜜の味です。この苦難の道は最短ルートだったかと考えれば、決して効率よい練習だったとは思えませんが、「いまさらバイエルなんてやってられるか」という変な意地が「モテたい」という野望と相まってもう一つの柱となっているので、これでよいのでしょう。ピアノ教室に通い、美しいピアノ講師とおしゃべりするという安易な道は採らなかったようです。

しかし、大人の趣味としてピアノを演奏するなら別に正統でなくとも良いですし、ポピュラー音楽にはある種の大雑把さがありえますので、それでよいのだと割り切れます(僕だったら痛いのはいやですけどね)。変な癖があるのもその演奏の個性ということです。で、ピアノを弾けるようになるとモテるのかというと、これもまた疑問です。老人になったときにモテるかも知れません。

楽器をはじめる動機として、有名なジャズフルート奏者であるデイブ・バレンタイン(Dave Valentin)のことを思い出しました。10年以上前のジャズ雑誌(「スイングジャーナル」か「ジャズライフ」)でインタビューに答えていたのですが、彼がフルートをはじめたのは、気になる女の子がフルートをやっていたからだそうです。それでフルートをやったらモテたかというとこれは聞くも涙で、はじめの頃はいい感じにつきあえたのですが、彼がどんどん上手くなってその女の子を圧倒してしまったために、嫌われてしまったというのです。

楽器を演奏する男性諸賢は身に覚えがあることでしょうが、楽器をはじめるにあたってどこかで「モテたい」と思ったことがない人のほうが少数派でしょう(僕は男性なので、女性のことはよくわかりません)。でも冷静に考えればことは楽器に限らず、なにかに打ち込む姿は人によって「モテる」のですから、仕事でも趣味でも子育てでも、大いに下心を基礎にして打ち込めばよいと思います。僕もモテたい。

2010-10-23

『つながり』

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力』(ニコラス・A・クリスタキス、ジェイムズ・H・ファウラー)を読みました。

以前の仕事の絡みで、社会的ネットワークについてはいろいろな論文を読んできました。「スモールワールド実験」以来この分野では実証的な研究が多く行われましたが、基本的には歴史の長い共同体研究にルーツがあるのではないかと思います。本当にルーツをたどるなら、社会関係の成員どうしによるコミュニケーションで、どこかで発せられた情報が他の成員の行動にどのように影響するかを研究するというところから、かの有名な権力の定義である「ある社会関係の中で、抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性」あたりまで行き着くとまで思います。

しかし本書で紹介されている研究の新しさとおもしろさは、従来のように狭い範囲のネットワークを研究するのではなく、数百万人単位にまで及ぶ広範囲のネットワークを扱っているところで、その規模だけからいっても非常に興味深いものでした。

本書を読んで一番おもしろかったのは、伝染病のように社会的影響力が広がること、さらには条件によって広がり方が異なることを説明しているところでした。例えば「幸せ」や肥満や禁煙や趣味や支持政党などが、直接関わりのある(つまり隔たりが1の)人たちに影響を及ぼすだけではなく、隔たりが3の人にまで有意に影響を及ぼすということなどです。また、幸福や笑いといった好ましい特性のほうが、不幸などの好ましくない特性よりもネットワークを広がるのが速い、というのも驚きです。直感的には逆のような気がしましたので。

それにしても本書の途中で、性感染症やセックスパートナーのネットワークを分析対象とするところは、すこし苦笑いを禁じ得ません。そういったネットワークがいかに研究に値するかをこれでもかというほどに書いているのですが、なんだか冷めた目で見れば必死だな、という感じさえ受け取ってしまいました。

2010-10-08

バイエルが楽しい

今週はまだ一冊も本を読み終えていません。『憂鬱と官能を教えた学校』を読んで以来、キーボードで遊びまくっているのです。

ここのところ仕事で大きなプレッシャーを感じていたり、子どもが入院・手術をしたのでその付き添いをしたり、スケジュールがてんこ盛りだったりで、くたくたになっていました。そんなこんなで、配偶者と僕が楽をする目的で、子どもを連れて実家に行きました。家事や子どもの面倒を僕の両親にお任せして、とにかく楽をしているうちにちゃらちゃらとピアノで遊んだら、時間の感覚がなくなるくらいに集中できて、しかも気持ちがよいのです。

はじめはコードとスケールの確認と思ってぽろぽろとやったり、子どもと一緒に「かえるのうた」とかの童謡を歌っていたのですが、
・配偶者はピアノを弾かない
・子どもが今後楽器に触るとしたら、ピアノかな?
・積んである楽譜のうち、一番手軽に弾けるもの
とか考えて、懐かしのバイエルを開いたところ、バイエルってとても楽しくて美しいことに気がつきました。よく聞く話では、バイエルは音楽性が乏しいとか、ピアノのレッスンが嫌いになる子どもはバイエルを苦痛に思うとか言いますが、どうしてなんでしょう。音数が少ないとか、響きもメロディもシンプルとか、親しみにくいとか、いろいろ理屈は思いつきますが、美しさってその曲をさらう難易度には比例しませんよね。ちなみに「さらう」という表現で、音楽的というより機械的な表現を僕は意図しています。さらえるのと演奏できるのは別物で、僕にバイエルを演奏できる自信は今のところありません。

僕が好んで聴くJ.S.バッハのアリアの中には、すごく簡単にさらえる曲もあります。スヴャトスラフ・リヒテルの演奏する平均律クラヴィーア曲集とか、残響のせいかゆったりした曲が本当に素晴らしいのですが、そうした曲は楽譜上ではすごく簡単なものもあります。バイエルをさらってみると、そんなのを連想させてくれました(もちろん僕がリヒテルのように演奏できるわけではありませんし、バイエルはバッハではありません。あくまでイメージです)。

僕がメインでいじる楽器はあくまでもサックスで、ピアノは実に拙いものです。心が痩せてしまったときにサックスを練習すると僕はさらに落ち込む傾向がありましたが、そんなときに苦手な楽器で単純な曲をやってみると、リフレッシュできるのかも知れません。こういう感覚ってなんなのだろうなと考えてみると、「お、僕って結構やるな」という自画自賛とか自惚れとか、そういうことなのだろうなと思いました。楽器はついつい自分に厳しくなってしまいますが、苦手な楽器なら大目に見ますし、単純な響きの曲なら素直に綺麗だなと思えます。よく触っている楽器で単純な曲をやっても当たり前とかもっと上手にという感覚がつきまとってしまうのですが、苦手な楽器だとそれも許せそうです。

もっと指がこなれたら、落ち込んだときに「悲愴」の第2楽章あたりに手を出してみようかと考えている僕がいます。紋切り型表現としては「悲惨」になるはずです。

2010-10-03

『憂鬱と官能を教えた学校』

憂鬱と官能を教えた学校』(菊地成孔・大谷能生)を読みました。以下、音楽好きでも書いてあることが外国語のように聞こえるかも知れません。

大筋としては、いわゆる「バークリー・メソッド」を軸にして、実学にするか教養にするか、講義をしながら模索していったようで、本書はその講義録です。

実学の部分は、演奏者・作曲者・編曲者として必要な技能を身につけることを主眼としていて、講義が短いこともあってか、これははっきり言ってうまくいっていません。音楽の技術って身体化しなければいけないようなところもあるから、数ヶ月で身につくものではありませんしね。すごく駆け足で通り過ぎていく講義録を、僕はいちいち音を鳴らしながら確認していったのですが、やっぱりつらいです。頭でわかっても、演奏しようとしたらすっぽりと頭から抜け落ちますし、感覚的なものを身につけなければいけませんから。

これに関しては苦い記憶もあって、かの記念碑的名著であると同時に悪書で有名な渡辺貞夫さんの『ジャズスタディ』を熟読して、アレンジの幅を持たせようと試みたことがあるのです。結果として僕がいじったサックスソリ(サックスパートで一緒になって、ハーモニーを伴ったソロをするようなものです)では、凝ったものができたと自画自賛しましたが、僕を除く演奏者からは酷評を受けました。

それはともあれ、本書は教養の部分がとっても面白かったのです。それは20世紀中盤からメジャーになった音楽理論体系(体系と言っても柔軟なものです)と、その理論体系がもたらした商業音楽への貢献と、今後の可能性及び限界性を理解することなのですが、著者たちは実に幅広いところから話を持ってくるのですよ。

そもそもバークリーの教程が、倍音の理論からはじまって平均律を基礎としているそうですが、そこからが実に長いのです。平均律自体J.S.バッハの頃にポピュラーになったものだそうですが、それを記号化していったのが後の商業音楽の隆盛につながるというのです(少し怪しいと思います。ギリシャの旋法はそれではどうなるのかというのが疑問です)。記号化することで機械的な操作が可能になり(とはいうものの、結局のところ感覚に帰するものもあり)、機械的に操作することでより複雑に、より幅広く豊かな音響を作り出していくことができた、というのです。

最もこの流れも、現代的な(というのはここ数十年を指します)音楽ではハーモニーの操作をこれでもかと言うほどに複雑にして、一見無調性に聞こえるものもありますし、あえて調性を無くす音楽(現代的クラシックに顕著)もありますし、コード音楽でありながら進行感を無くす音楽もあります。このあたりに僕はなかなかついて行けないのですが。

途中コードやモードやリズムのがちがちに記号的・理論的なところ端折って、商業音楽の歴史や展望をさらうだけでも充分刺激的です。ただその際に、音は鳴らしながら読んだ方が良さそうです(というか、必須だと思います)。

それを読み終えて(図書館から借りたのでやむなく返却し、その後購入しました)、ふと気になったので『絶対音感』(最相葉月)を読みました。この本は出版当時僕の身の回りで多くの人が気になると言っていた本でしたが、読んでみるとなんとなく満足感が少ないです。絶対音感は音楽をする人にとってそう珍しいものではなく、あると便利な能力だけどなければないでどうにかなるもの、というのはわかりきったことです。絶対音感が邪魔になる人もいるし、逆に絶対音感がなくとも1セントの違いを聞き分ける人だってざらでしたし、特定の楽器ならほぼわかる人とか、A音だけ正確に出せる人とか、十人十色です。音感と技術と表現力はリンクはしているかも知れないけれど、案外独立してもいたりして、結局よくわからないものです。というわけで、本書に書かれていることがすごく当たり前なことに感じました。