2010-11-30

「子どもサッカー」雑感

新聞を読んだら、就職に関するシンポジウムの記事がありました。その中での勝間和代さんの発言に、「子どもサッカーをやめて、大人のサッカーに移行すべきだ」というものがありました。新聞紙上に抄録されたものですから真意はよくわかりませんが、就職活動をする学生が、限られたリソースに全員が集中してしまうのではなく、効率よく目的を達成させるためにフォーメーションや戦術を工夫して、自分のポジションを確立するように、ということだと思います。

比喩が適切かどうかはともかく(僕は不適切だと思います)、勝間さんの日頃の発言もともかく、「子どもサッカー」ということだけを思い返しました。

僕が小学生の頃、やっぱりボールに全員が集中してしまうサッカーをしていました。そうすると個人の能力ばかりが決め手になってしまい、勝てる相手にはいつも勝てるし、負ける相手にはいつも負けます。ですから我々のチームは変な作戦を立てました。その作戦とは、1.自分たちよりも地力の弱い相手ならばいつも通りにする。 2.自分たちより地力の強い相手なら、ボールをすぐに外に蹴り出す。というものでした。

みんなでよってたかって外に蹴り出し、スローインされたボールにもまた群がって外に蹴り出す。これで時間を稼いでPKに持ち込むのです。PKなら、普通に試合をするよりも運任せだったり身体能力に左右される度合いが小さかったりで、勝てる見込みが大きくなりそうだったからです。

対戦相手や学校の先生からは、ものすごい不評でした。試合がとてもつまらないし。でも子どもなりに頭を使い、基礎体力の向上を図ったり戦術的な練習もしなくてすみ(そんなのは充分な時間と指導者が必要です)、しかも実際に勝つ可能性を高めるのですから、やり方としてはよかったと思うのです。これを勝間さんの就職に関する発言に無理矢理絡めると、どういう事になるのでしょうね。

2010-11-29

結婚式と手袋と決闘と

先日、会社の同僚の結婚式に出席しました。新郎(同僚)は40歳で新婦が26歳という年の差に少しびっくりしましたが、出席者の振る舞いの違いにも興味深いものがありました。新郎は会社で役員を務めるせいか、取引先の方も多く出席してくれていました。一方新婦側で仕事関係の出席者は職場の同僚のみで、幼児教育関係ということもあってかあまりギラギラしたところがありません。

結婚の儀式が終わり、偉いひとの祝辞を聞いて乾杯したら、新郎側の出席者(男性ばっかりで、黒々としています)は各々席を立って他のテーブルへ飲み物をついで回り、名刺を交換したりします。その時に新婦側の出席者は(女性ばかりで、色とりどりに鮮やかです)料理に手をつけ、テーブル内で話をしたり、新婦と写真を撮ったりしています。見た目の色の違いも含め、こうも対照的な結婚披露宴は久しぶりでした。

結婚式がプライベートなものだけではないことはわかっているつもりです。血縁関係の同族を認める儀式で、社会的つながりを強化する舞台で、たとえ人前式であっても宗教的な通過儀礼です。経済的に見れば財の交換だったり、離婚コストを高めるための保険だったり、バタイユの言う消尽や蕩尽だったりするかも知れません。様々な習俗が混ざり合ってしまい、昨今の結婚式では「それは一体どんな意味があるのか?」と疑問に思うことも難しくなりがちですし、かなり怪しい曰くをつけることもありますが、由来を辿ればきっとどこかに行き着くことでしょう。

そんなことを気にしながら食事をしていて、新郎の白手袋に目がとまりました。この手袋って、実際には使いませんよね。実に儀礼的で美しいものですが、意味が重すぎます。自衛隊に勤務している友人の結婚式ではサーベルを着用していましたが、それと同じようなもので、宗教的な穢れとかに配慮すると同時に、衣装で上下関係を表すものなのでしょう。そう考えているうちに、決闘の申込みに手袋を使う事を思い出しました。

どうして手袋なのだろうと前から疑問に思っていたのです。手袋を投げつけたり、手袋で叩いたりするには、まずは常時手袋を持っていなければなりませんしね。ところが結婚式における手袋の意味を考えたら、結構すんなりと解釈できそうです。決闘の第一義は個人間のいざこざを解決することでしょうが、法制史の流れと同様、社会的に同意の得られる取り決めとして各人が了解していなければ成り立ちません。

それで、決闘の歴史に興味が湧きました。ひとまず検索して引っかかった、『決闘裁判―ヨーロッパ法精神の原風景』と『図説 決闘全書』に目を通すつもりですが、どなたかおすすめがあったら教えて下さい。

2010-11-19

憎まれっ子、世にはばかる

三十過ぎてガンダムというのも気恥ずかしいものですが、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の19巻を読んで、気になったこと。

コア・ブースター(戦闘機と思って下さい)が被弾したためにホワイトベース(戦艦だと思って下さい)に帰艦したスレッガーのところへ、ミライが操舵を代わってもらってまで会いに来るいい場面(19巻187ページ以降)なのですが、その待機ルームの柱に落書きが。

「BRIGHT IS GAY」






















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ガンダムを知らない人のための余計な解説。このあたりの人間関係は以下のようになっています。
ブライト・ノア:
ホワイトベースの艦長。男性。実はミライのことが気になっているけど、ミライの婚約者のことで煮え切らなかったり、交戦中にもかかわらずスレッガーのところに行けるよう配慮したり。優柔不断。戦後にミライと結婚した事になっている。

ミライ・ヤシマ:
ホワイトベースの操舵手。女性。良家のお嬢様だけどお袋さん的。ブライトが気になっているが、偶然再会した婚約者とは住む世界が違うと見切りをつけ、ただいまスレッガーに心移り中。

スレッガー・ロウ:
パイロット。男性。物語中盤以降ホワイトベースに配属。お調子者で任侠肌でやくざっぽくて人生の達人風で職業軍人。この場面の後、戦死。

2010-11-17

『天才と狂人の間』

なんと言うことなしに、大正時代のベストセラー作家である島田清次郎の事が気になって、青空文庫から『地上 地に潜むもの』をさくさくっと読んだのですが、僕が現代人であるせいか、これという感慨を得ませんでした。いろいろと鼻につくところが多く、何よりも登場人物の誰も彼もが、まるで絵に描いたような(まあ小説に書かれているのですから、絵に描いたようであることは必然とも言えますが)人物であることに閉口しました。わけても主人公の大河平一郎の超人ぶりというか、世間を見下したようなとでもいうか、人類よりも一段高いところにいることに違和感を覚えたのです。

とはいうものの、当時(白樺派とか赤門派とか三田文学とか早稲田文学、後には文藝春秋の執筆陣とか)の作品とは明らかに一線を画しているというのはわかります。どちらかというと文芸作品と言うよりはプロパガンダや説教のようなもので、自然主義とか反自然主義とかいう文学史的流れとは全く違って、強いて言えば(僕の苦手な)人道主義的な性格が見え隠れします。ただし人道主義といってもあまりにも我が強くて、武者小路や志賀や有島といった作家のものとも(あまり多くを読んでいないので偉そうなことは言えませんが)相容れません。

それで島田清次郎の伝記(のような小説のような)である『天才と狂人の間』(杉森久英)を読みました。どうにもよくわからなかったのは、島田は非常な勉強家であったと言うことですが、読書から何を学んだのだろうかということです。当時の小説家にしては珍しく哲学や思想も読み、多くの海外小説も読んだとのことですが、そこから小説についてよりも政治主張を多く学んだとしたら、小説が崇高なプロパガンダになりそうです。『太陽の法』だってベストセラーなのですし。

つきあうとしたら始末におえない奴。傲慢で人とうまく交われず、相手にされないために孤高を貫き、古くからの友人知人は徐々に離れていきました。作品に関しては『地上 地に潜むもの』は完成度はさておきこれまでにない形の小説として成功し、社会主義の勃興する時流に乗り、続編が出れば同業者や批評家には覚えがめでたくなくとも飛ぶように売れるという。また僕には当時の読者層がよくわからないけれども、これを読んで鼓舞されたり熱狂したり熱いため息をついた人もいるのかも知れません(時代というものでしょう)。かなりの部分は時代的な偶然で作品が市場に認められたという印象を受けました。島田清次郎の作品に関しては、ケータイ小説がよく売れたことにどことなく似たものを感じます。

本書のタイトルである「天才」と「狂人」に関しては、行動特性から推測すると、かなり早い時期(少年期でしょうか)からの抑うつ傾向の混じった統合失調症であるとしか思えません(本書では早期痴呆症で収容されたとありました)。彼が早期の治療を受けていたら(といっても当時は薬物療法なんてありませんので、治療=社会的な死ですが)、彼の人生や文学的潮流はどのようになっただろうと考えるとすこし悲しくなります。

なんだかあまり気分の良くない読書をしましたので、楽しくなれるような事を考えました。いま『アミバ天才手帳2011 ん!?スケジュールをまちがったかな…』が世間を賑わせていますが、これをアミバ語録から島田語録に変えれば、本物の「天才手帳」がつくれそうです。熱き青少年にぴったり。

なお、本書を読んでジャーナリズムのあり方に対する警戒心や、幼い頃の貧しい境遇から生じたトラウマティックな功名心や、祖先・一族のかつての繁栄からくる妙な自尊心や高慢などを教訓として読むことも可能ですが、僕はそういう読み方はおすすめしません。どんな本からも教訓は得られますが、教訓とするにはあまりに特殊ケースなので。

2010-11-13

『鍵盤を駆ける手』

鍵盤を駆ける手―社会学者による現象学的ジャズ・ピアノ入門』(デヴィッド・サドナウ)を再読しました。本書は『病院でつくられる死』で有名な社会学者が、ジャズピアノの即興演奏を学ぶ課程を記録したものです。前に読んだのは学部生の頃で、その時には「現象学的社会学の名著」として読んだのですが、なんだかぴんと来なかったのです。

再読してもぴんと来ませんでした。とりあえず社会学の本として読めば、言語化しにくいところを精密に言語化したわけです。ジャズの即興演奏は意識的に行うものではなく、かなりの部分は身体感覚でやりとりするようなものです。こうしたことを内輪にしか通じない言葉では「制度化」とか言ったりましますが、似たものをあげるなら言語や文字を使うようなものです。練習過程で意識的に言語を使ったりしますが、それが道具として個人に定着すると、意識とはあまり関係なく言語を用いるようになります。上手に言葉を使える、というだけでなく、負の側面をあげるなら言語のルール内で思考や表現をするために、一見すると自由な道具を用いているようでその実不自由だったりします。

本書の方法論的なところにまずは疑問を持ちました。試みとして面白いとは思うのです。また、楽譜や音源を出さずに、徹底して「鍵盤の上を動く手のかたち」にこだわっているところも面白いです。ところがなかなか僕はぴんと来ません。果たしてジャズピアノを習得する方法として、サドナウのとったものが適切だったか? 即興演奏の性質はサドナウの個人的体験から一般化できるか? ミクロ社会学につきものの疑問だけれど、ジャズの即興演奏というあまり万人が経験するものではないことをフィールドとして、しかも観察者と被験者が同一人物で(実際こういうのはよくありますが)、まるっきりの見当違いという可能性が払拭できるのか?

また、ジャズの即興演奏というフィールドに関して、分析が適切だったかどうかも気になります。サドナウの「ジャズの即興演奏」に関する記述が、ピアニスト一人で完結できるところに尽きているので、インタープレイはどう分析するのでしょう。それに即興演奏として分析しているものが旋律だけ(つまり、ピアノで言えばほとんど右手だけ)というのも引っかかります。コードについては練習初期に形をたたき込んだことが書かれていましたが、それだけですむとは思えないのです。また即興演奏と言っても、ジャズの巨匠たちの録音を聴くと、別テイクの演奏も似通ったアドリブソロをしていることが多いです。つまり、まるっきりその時その場所でゼロから産み出されるものではなく、レコーディングには何らかの青写真を用意して意識的にコントロールすることが多い、ということです。

という、なんだかぼやけた感想です。

2010-11-12

『奇跡も語る者がいなければ』

奇跡も語る者がいなければ』(ジョン・マクレガー)を読みました。「…で、…で、…で」「…と、…と、…と」という感じで連綿と続く文体にはじめは戸惑いましたが、読み進めると何となく心地よくなってきました。

読み終えてから全体を思い返すと、実に凝った構成をしています。本書には軸がふたつあり、ひとつは夏の終わりの一日(プリンセス・オブ・ウェールズの命日)の、とある通りに生活する人々の描写で、もうひとつがそこの住人だった女性(眼鏡をかけた女の子)の3年後です。

3年前のその日夕刻に事件が起こったことが冒頭でにおわされますが、読み進めるまでは事件は明らかにされずに、未明から淡々と時間順に描かれていきます。そこに登場する人たちのほとんどは名前も明らかにされませんが、それらの人々が織りなす日常が綿密に綴られています。自分が世間を見たときには当然主観のために、自分を主人公と設定しがちです。しかし生活のほんの一時期に線が交差した人たちにもそれぞれの主観があるわけで、どこかひとつの視点というのを排して鳥瞰的に描写すると、どれもがみな物語の主軸となるような、そんな愛らしさが感じられました。

通りにはごく普通の人々が住んでいますが、その普通の人々の出来事がすべて誰か一人の身に起こったこととすると、その出来事は誕生から死までの様々なイベントを含んでいます。例えば不妊に悩んだ夫婦は、双子と一人の女の子に恵まれるといった誕生の物語を含んでいます。出征直前に結婚し、無事帰還した老人は、夫人との出会い・再会から現在に至るまでの恋物語を含んでいます。その同じ老人は病に冒され、遠くないうちに死にゆく苦しみの物語を含んでいます。火事によって手に火傷を負った男性は、幼い娘との生活の物語や、妻を亡くした離別の物語を含んでいます。通りの建物をデッサンしている学生は、風景と人物の関係を示唆しています。その他いろいろあげればきりがありませんが、そうした普通のことの特別さに自覚的だったドライアイの男の子は、自分の住んでいる通りの様々な些細なものを収集し、また写真に収めようとしていました。その姿は本書のひとつの軸とぴったり重なるように感じられます。

もう一つの軸となる眼鏡をかけた女の子の3年後も、予定外の妊娠という問題を抱えてどう対処するか悩んでいたりと、やはりいろいろな物語を含んでいますが、ドライアイの男の子の弟と出会って3年前を振り返ることによって、本書全体としては名もなき種々のかけがえのなさをはっきりとさせています。名前を知ることで人は物事に深くコミットしていきますが、それとは関係なく流れゆくかに見える物事にも、どこかで関わりを持ち繋がっていくことが鮮明になっていくのです。3年後に一人称で描かれる出来事は、3年前に三人称で描かれる出来事と「奇跡的」にリンクして、「名前」「双子」「生死」といったものでふたつの時間軸が捉えなおされ、3年前に起こった事件で結び合わされます。

本書のタイトルにもなっている、火傷を負った男が天使を見たがる幼い娘に語りかける一節を引用します。

娘よ、と彼は言い、そしてこの言葉を口にするときには、彼のありったけの愛が声の調子にこめられていて、娘よ、ものはいつもそのふたつの目で見るように、ものはいつもそのふたつの耳で聴くようにしなければいけない、と彼は言う。この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある、と彼は言う。奇跡のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの目の前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、その素晴らしいものを素晴らしいものとして見なければ、人間の生活はそのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう、と彼は言う。

奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう、と彼は言う。

それを自覚するかどうかはともかく、まさにそのような小さな奇跡の積み重ねが日常で、日常的な奇跡は単なる偶然に過ぎないかも知れないけれども、その確率は考えられないほどに小さなものです。ちっぽけな(けれども一体一体が異なる)人形がたくさん集まって、全体としてひとつの像を結んでいる(ひとつの作品だったり、ひとつの風景だったり)、といった場面が本書のどちらの時間軸にも現れ、形を変えながらふたつを繋げていますが、本書が描いているのは静的にはそうした像であり、動的にはその像が存在し変遷することの奇跡なのだろうと思います。火傷の男が語るように、生活の色が濃くなって豊かになれるような気がする、気持ちの良い小説でした。