2008-12-31

『にせもの美術史』

ちょっとした雑談です。今『にせもの美術史―鑑定家はいかにして贋作を見破ったか』(トマス・ホーヴィング)を読んでいて気になったところがあったので、個人的な備忘録もかねて。

以前『妖女サイベルの呼び声』を読んだ時に、ドラゴンは蛇のような幻想動物だと思いなおしたのですが、メトロポリタン美術館に所蔵されている「Rospigliosi Cup」のドラゴンはどう見ても蛇ではないのです。この美術品は長年16世紀にBenvenuto Celliniによって作成されたと思われていたとのことですが、現在は19世紀の第一四半世紀にフランスかイタリアでつくられたものと見なされているようです。

さて、これが16世紀のイタリアでつくられたと考えられていたということは、ドラゴンはどのような姿をしていたと思われていたのでしょうか。再び僕が以前思っていたようなトカゲに似た幻想動物だったのではないか、という疑問が持ち上がってきました。少なくともこの杯に象られている竜では、とぐろを巻いたり出来ません。

それだけです。

2008-12-26

『夜明けのフロスト』

夜明けのフロスト』(R・D・ウィングフィールド他)を25日に読みました。

各方面で活躍している人たちが揃っていて、お買い得感がたっぷりでした。
・「クリスマスツリー殺人事件」(エドワード・D・ホック)
・「Dr.カウチ、大統領を救う」(ナンシー・ピカード)
・「あの子は誰なの?」(ダグ・アリン)
・「お宝の猿」(レジナルド・ヒル)
・「わかちあう季節」(マーシャ・マラー&ビル・プロンジーニ)
・「殺しのくちづけ」(ピーター・ラヴゼイ)
・「夜明けのフロスト」(R・D・ウィングフィールド)
が収められています。

それぞれの短編では、それぞれの作家によってシリーズ化されている人物が登場します。すべてクリスマスにちなんだ作品で、ハートウォーミングなものもあれば、さみしくさせられるものもあり、バラエティに富んでいます。ディケンズも毎年クリスマスストーリーを発表したり、主宰する雑誌でクリスマス特集をしましたが、こういうクリスマス作品集というのも面白いものだな、と思わされました。僕は異教徒ですが。

中でも「お宝の猿」のダルジール警視と「夜明けのフロスト」のフロスト警部は僕が好むシリーズでもあり、楽しく読めました。しかしやっぱり、シリーズものは短編でも得をしているな、と思いますね。キャラクターの描写が不充分でも、読者にとっては既におなじみの人物ですので、この人ならこうする、というのがよくわかってしまうのです。

ともあれ、一冊でたくさんの有名人に出会えますので、満足でした。

2008-12-22

『フリーランチの時代』

フリーランチの時代』(小川一水)を読みました。

著者の本をそれなりに読んできて、傾向が朧気ながらつかめてきました。少なくとも早川の出版物に関して言えば、その傾向からあまり外れることはないので、ファンならば安心して読めるでしょうし、ファンでなくとも一作品くらいならばプッシュしてみたいです。

作風はあくまで科学技術的にいかにも説明のつきそうな記述がまずは魅力です。そして近年の作品に至るほど、技術や設定に力を注ぐよりも、社会と人間と環境に力点を置いているようです。純粋なSFファンの好みとは離れつつあるかも知れませんが、僕は好きですね。

ただ、本書には「フリーランチの時代」「Live me Me.」「Slowlife in Starship」「千歳の坂も」「アルワラの潮の音」が収められていますが、『時砂の王』のサイドストーリーとなっている「アルワラの潮の音」は出来映えがいまいちのように僕には感じられました(上から目線)。それが少し残念です。

『クリスマス・キャロル』

ここ20年くらいの毎年恒例ですが、この時期になると色々な版の『クリスマス・キャロル』を読みます。今年は今まで未読だった池央耿さんの光文社古典新訳文庫を読みました。

言うまでもない名作ですから話はさておき、翻訳は固いな、という感じがしました。ディケンズの文章は当時としてはとても読みやすい平易な言葉で書かれていますが、それを現代の日本語に置き換えた時にはどういう訳にするか、訳者によって大きく異なります。いわゆる豪傑訳というものもありますが、池さんの翻訳は格調高く、古典を古典として尊重するような翻訳でした。

気に入った訳文と、その原語を引用します。

ああ、冷厳にして非常なる死よ、このところに汝が祭壇をしつらえ、意のままなる恐怖のありたけをもて飾れかし。こは汝が領域なればなり。さりながら、ものを脅さんそのために、まった毀損の意図により、愛され、敬われ、讃えられたる頭に限り、髪一筋たりとも掻き乱すことなかれ。もとより、その手の重く、放せば落つる故ならず。鼓動、脈拍、打たざる故ならず。なにさま、その掌は広く、豊けく、真なりき。心は強く、優しく、深かりき。たぎるは赤き血なりけり。打つがいい。陰鬼よ、打って打ちたたけ! そが善行の傷より噴き出で、地上に永遠不滅なる命の種を蒔くを見よ!


Oh cold, cold, rigid, dreadful Death, set up thine altar here, and dress it with such terrors as thou hast at thy command: for this is thy dominition! But of the loved, revered, and honoured head, thou canst not turn one hair to thy dread purposes, or make one feature odious. It is not that the hand is heavy and will fall down when released; it is not that the heart and pulse are still; but that the hand WAS open, generous, and true; the heart brave, warm and tender; and the pulse a man's. Strike, Shadow, strike! And see his good deeds springing from the wound, to sow the world with life immortal!

2008-12-19

『プルーストとイカ』

プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?』(メアリアン・ウルフ)を読みました。断言しますが名著です。構成も見事だし見地は斬新だし。

本書は大雑把に言えば「文字を読むことによってどのように脳が変化をするか」という事を論じています。マクロなレベルでは人類が文字を発明し、現在の様々な書記体系に至るまでの歴史であり、ミクロなレベルでは人が産まれてから文字を読めるようになるまでの発達史です。面白いことに、人間の脳には文字を読むための専用の機能はない、というのですね。つまりタイトルの一部にもあるように、イカの神経索を研究することが人間が文字を読む際の脳の働きにも洞察を与えるということです。生物は常に、器官の機能を転用することで進化しますが、脳に関しても例外ではないということは、わかってはいるつもりでも本書を読んで納得させられました。

詳細な感想を書くほどに消化していませんが、遅ればせながら今年読んだ本の中では最も面白かったです。

2008-12-15

『くらやみの速さはどれくらい』

くらやみの速さはどれくらい』(エリザベス・ムーン)を読みました。

21世紀版の『アルジャーノンに花束を』だという話を聞いて読んでみたのですが、僕はかなり違う毛色の作品だと感じました。『アルジャーノン』のような知的障害者の知能的成熟とその衰えという曲線を描いてはいません。主に自閉症者である主人公の視点から語られてるところは似ていますが、その主人公を取り巻く環境はまさに現代社会にも見られる様々な障害者に対する態度に満ちています。そして主人公はおそらくサヴァン症候群と思われるように、特定の領域において特異な才能を持っています。

自閉症の治療、ひいては障害の矯正に対して、真摯に向き合った作品であるという点では、僕は『アルジャーノン』よりも本作を推したいです。『アルジャーノン』では知的な成熟は「よいもの」のような描かれ方をしていたような記憶がありますが、本作ではそのような視点はありません。現代の障害者団体がいうように、障害はその人に備わった個性であり、障害そのものを受け入れながら社会や常識との摩擦を少なくしていくというスタンスに立っているように思われます。そのスタンスに立ちながら自閉症者の視点から世界を眺めるというのは実に想像力を刺激されます。

私事ですが、僕は養護学校教員の資格を持っています。社会運動の調査のため、障害者団体に深く関わっていたこともありますし、障害者の介助経験もそれなりにあります。僕の姉はいわゆる知的障害者ですし、僕自身も以前は「障害者」のカテゴリーに属していました。そうした知識や経験を通してみても、本作は近い未来の話として充分に納得のいく記述で、映画の「レインマン」のような現実離れした描き方ではありません。そうした自閉症者の視点から、本作で描かれる「健常者/障害者」という区分へのささやかな疑問も、はたして人間性とはどのようなものかという探求も、そのまなざしを通す事によっていっそう深みを増していると感じました。

隠喩に富むタイトルの「くらやみの速さはどれくらい」という主題も、色々なバリエーションで展開され、それぞれのバリエーションで考えさせられましたし、話の終末も意外とは言えませんがどこなくすっきりはせずに、広がりがもたらされています。とにかくこの本は、僕にとっては読んでよかったと思える作品でした。

2008-12-10

『サイエンス・インポッシブル』

サイエンス・インポッシブル―SF世界は実現可能か』(ミチオ・カク)を読みました。

科学読み物として、実にアレな感じたっぷりでありながら、なおかつものすごく参考にも勉強にもなるという、希有な本でした。本書では様々なSFに登場するような物事を、現代物理学でどのように説明するか、あるいはどのようにしたら実現できるかを真剣に論じた本です。

目次を部分的に引用すると、

不可能レベルI
1. フォース・フィールド
2. 不可視化
3. フェイザーとデス・スター
4. テレポーテーション
5. テレパシー
6. 念力
7. ロボット
8. 地球外生命とUFO
9. スターシップ
10. 反物質と反宇宙

不可能レベルII
11. 光より速く
12. タイムトラベル
13. 並行宇宙

不可能レベルIII
14. 永久機関
15. 予知能力

と、魅力溢れるSF要素を説明しています。ちなみに不可能レベルIは「現時点では不可能だが、既知の物理法則には反していないテクノロジー」、レベルIIは「物理的世界に対するわれわれの理解の辺縁にかろうじて位置するようなテクノロジー」、レベルIIIは「既知の物理法則に反するテクノロジー」ということです。

トンデモ科学に反論するのでもなく、『空想科学読本』のようにお話がいかに現実的ではないかを説明するのでもなく、SF的世界がいかに現実的かを説明する本ですので、じっくり読むとSFの読み方が変わってしまいそうです。というよりも、既に現代物理学が過去の物語に追いつきつつある、とでも言うのでしょうか。

残念なところとしては、数式を一切用いていないところです。著者は有名な超ひも理論の研究者ですが、数学という言語を用いての説明がないと、著者の話が全くのほら話なのかそうでないのかを読者が検討できないところです。まあ普通の読者は現代物理学で使われる数学を理解できませんから(少なくとも僕は理解できません)、それでよしと言えばよいのですが。

蛇足ながら、東京大学の舘研究室が「光学迷彩」(攻殻機動隊に出てくるやつです)を部分的に実現させた時には興奮しました。まさに「充分に進歩したテクノロジーは、魔法と区別がつかない」ですね。

『老ヴォールの惑星』

老ヴォールの惑星』(小川一水)を読みました。

本書には「ギャルナフカの迷宮」「老ヴォールの惑星」「幸せになる箱庭」「漂った男」の4編が収められています。それぞれに違った味わいがありますが、作者はとことんまで楽天的というか、人間性に信頼を置いているのだな、という感想を持ちました。

例えば「ギャルナフカの迷宮」ですが、(以下少しネタバレのため、文字色を変えます)極限状態の環境で相互扶助を基本とした社会秩序を人間が作りあげています。歴史的な人間観からすると、これは大いに反論を招くかも知れません。原始状態の人類社会がはたしてどれほど理性的であったのかは、万人の万人に対する闘争(まあこれだって理性的とも言えます)と位置づける人もいるでしょうし、長期反復型のゲームでは協調行動が最適解という人もいるでしょう(ちなみに僕はこの意見に与します)。その他の短編でも、人間の色々とした理不尽なところがあまり出てこないのです。

読んでいて爽やかな気分になれるのは、当然素直な善人ばかりの物語でしょう。それでもどうしようもなく利己的なのが人間であり、自分の利益のためにはかなりの悪事もはたらくのが歴史的教訓です。暗い話を読みたいわけでもないのですが、徹底的にすっきりとした話ばかりというのも少し考え物だな、と思ってしまいました。

それはさておき、作者のSFは未読作品のほうが多いのですが、いかにも物理学的に説明のつけられそうな、本当にSFっぽいところが好きです(とはいうものの物語ですから無理もそれなりにあります。例えば「漂った男」など、生命反応を探知する方法くらいならたくさんありますし)。きっと入念な取材をなさっているのだろうなと想像させられますし、お若いのに(僕より少しだけ年上です)大したものだと感心させられることしきりです。

2008-12-09

『フロスト気質』

フロスト気質 上』『フロスト気質 下』(R・D・ウィングフィールド)を読みました。

これまで通りのフロスト警部を読んで、安心するというかパターン通りで残念というか、とにかくシリーズのこれまでの作品同様に楽しめました。しかも今回は長い。長いぶんだけ事件も多く、登場人物も複雑で、デントン警察署の混乱もこれまで以上です。

このシリーズの特徴は、事件を解決しないことなのですよね。事件は勝手に解決されるというか、フロスト警部が八面六臂の活躍をしてもしなくても、事件解決にはそれほどの影響を与えない。それだけ間が抜けて見当外れで(でも時として適切で)場当たり的な捜査を進める訳です。

名探偵活躍ものでもなく、論理的に推測可能でもなく、地道な実証調査でもなく、取り立ててアクションもなく、色気らしきものもさほどなく(エロ気ならありますが)、ただただどうしようもないオヤジがドタバタと休まずに仕事をする。そんな話が楽しいのはまことに不思議というものですが、それが面白いのです。多くの事件がひっきりなしに起こり、それらの事件を平行して捜査しながらも、それらの事件は何のつながりもなく、解決されるべき時にしかるべくして解決されるのが。

この面白さは多分、ミステリの面白さではありません。人情話の面白さというか、イギリス風猥談の面白さというか、とにかく正統派ミステリファンからは白眼視されそうなものです。ですが僕はこのシリーズは一作目の翻訳が出た時から好きなので、今回も大いに楽しんで読みました。解説を読んで知ったのですが、残念なことに作者は物故なさっているので、日本語訳はどうやってもあと二点しか刊行されません。本作を読み終えてしまったのは、少し残念な事です。