2009-04-08

『日本語が亡びるとき』

文学作品ではない分野でのよい本を読むと、良きにせよ悪しきにせよ色々な感想を持ちます。逆のことを言えば、散々悪いことを言われる本は実はよい本ではないかと思うわけです。今回読んだ『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(水村美苗)は、僕にとってのよい本でした。どこかの誰かみたいに「すべての日本人が読むべき」とかは思いませんが、日本語や文学や科学や情報流通に興味があるなら、ぜひ読むべき本でしょう。

すでに読んだ人にもまだ読んでいない人にも迷惑でしょうが、僕なりに本書の骨子を要約すると、近代以前にラテン語や漢語が特権的に占めていた「普遍語」による叡智の蓄積は、現在英語によってなされているので、近代を通じて表現力が鍛えられてきた「国語」は否応なしに(亡びるとまでは言わなくとも)変質する、というようなことです。その変質は、著者によると質的衰退なのかも知れません。

もう少し長く言い換えます。この「普遍語」は、歴史的には「現地語」で情報が流通していた時代の後に、ある程度同一な世界で共通言語を用いる必要から選択されたが(これが近代以前のラテン語など)、この言語はおおよそ複数言語を用いる者によって使われてきた。さらに時代がくだると、国民国家の形成と並行して叡智となりうる情報量の増大により、「現地語」をもとにつくられた言語である「国語」で情報が流通するようになり、普遍的な情報も複数の「国語」で語られた(これが英語・フランス語・ドイツ語など)。この時代に様々な歴史的偶然と先人の努力により、日本語も普遍的情報を表現する言語として日本人によって用いられた。しかし現在はかつての単なる「国語」だった英語が「普遍語」として用いられているので、叡智は英語で蓄積されるだろう。かつて日本語など各「国語」が使われてきたのは様々な物理的制約と思想的な恣意性によるものだったが、現在はそうした障壁が低くなっているので、隔絶された言語としての日本語を用いて普遍的情報を語るコストが高くなっている。したがって今後は日本語を用いるよりも英語を用いる方が普遍的情報を扱うには便利になり、日本語の知的・質的水準が低くなるといった内容でした。

著者の議論は論旨が明快で、日本語に関して憂えているところにもいちいち共感してしまうのですが、さてさて、本書に色々なツッコミどころはありそうです。細かなところはさておき、僕は3つくらいの論点に対して違和感を持ちました。

まずは現地語について。僕は、現地語の文学的重要性は薄められたとしても必ず残ると思っています。本書の中でも述べられているように、叡智には文脈に依存しないものとするものがあります。前者を代表するのは科学でしょうし、後者を代表するのは文学でしょう。前者が普遍性や論理性を重視するならば、後者は呪術性や情念を重視するかも知れません。そして現地語のもとになる話し言葉は、共同体の情報伝達に有意義であることを最重視していると僕は思っています。現地語は普遍的な情報を扱うには不向きですが、同一の社会的背景を持っている人とのあいだで情報を伝達させるにはとても便利です。例えば色の名前を翻訳するのはときとして非常に困難が伴うでしょうし、情感の表現は現地語に勝るものはありません。しかしこれらの表現されるものは共通の文脈を持っていなければ他人には理解が難しいものであり、普遍的に流通されるものではありません。

ですから現地語による文学は、なにはともあれその現地語を用いる人たちの生活や社会や環境に根ざしたものとなっていることでしょう。ならば、すでに「大きな物語」の有効性が疑われている現在、そうした「小さな物語」の重要性はさほど減じることはないのではないかと思うのです。問題は優れた知性がそうした現地語による芸術表現をするかという点ですが、日本語が「現地語」と化しても、日本のような社会形態の中で表現される内容ならば、日本語で表現せざるを得ない状況は残るのではないかな、と思うのです。こう考えたときに、日本語で表現せざるを得ない状況がなくなるのは社会形態がフラットになった場合ですが、いくら情報が世界的に流通する環境になったとしても、身体性に由来するような暗黙的な知性は極めて情報伝達が難しいので、まだまだ完全にフラットになる状況は遠いだろうと思うわけです。

次に日本語で使われる文字に関して。著者は日本語の文字について「漢字・ひらがな・カタカナ」があり、それぞれ使い方によって表現される内容は異なるといっています。例として萩原朔太郎の「ふらんすへ行きたしと思へども」を「フランス」に変えたり、現代語にかえたりして見せます。確かに受け取れるもの・表現されるものはおおいに変わるのですが、僕としては文字そのものの持つ呪術性や文化的重層性に触れてくれるとなお嬉しかったです。

日本で使われる文字は中国で使われる文字と同じく、古くは占いのためにつくられました。さらには占いを司り、まつりごと(祭・政)を執り行う権力者の用に益するものとして、その一文字一文字に多くの意味を与えられてきました。この分野に僕は詳しくはありませんが、文字の歴史を繙けば表意文字でなおかつ表音文字であるような存在は他にもあるとして、いまだに象形文字的な性質も持っているものはそう多くはないでしょう。文字自体が異界とのつながりを持つもので、さらにはその文字によって記されたものが発音されたときに呪となるような文字体系は、単に表される内容のみの話ではありません。文字を使うことによって、壮大な言い方をしてしまえば鬼神をも哭かしているのです。

そして書き言葉と手書き文字に関して。著者は日本語が亡びつつあると警鐘を鳴らしていますが、著者が言うように日本語の叡智の主なものが書かれたものだとするならば、すでに亡びています。その証拠に、ほとんどの人は100年昔に手書きで書かれたものさえ読めなくなっているではないですか。なるほど活字ならば100年前の文章でも容易に読めるでしょうが、その頃の肉筆は仮にペンで書かれていようと、ほとんど読めたものではありません。その点アルファベットのような簡単な記号ならばかなり古いものでも判別可能です。

日本語(中国語もそうですが)の素晴らしさとして文字の多様性をあげるならば、その文字を書くことも読むことも日本語の知識でしょう。その日本語の知識は活字に慣らされ、人間の手による芸術的な記号を読めなくなっているのは、すでに言語の伝わり方として不完全なものになっているとしか思えません。明治以降、特に第二次世界大戦後の日本語教育で標準的な活字を学んだことにより、日本語は手書きの文字としては過去と決別しているのです。もしも近代日本文学を芸術の一つの高みとするならば、それはその作家たちが書いた文字を読めることをもってその伝統を受け継いでいると言えるのではないでしょうか。

まとまらないけれど、力尽きたのでこれまで。

0 件のコメント: