2010-02-03

『ヒューマニティーズ 外国語学』

外国語学 (ヒューマニティーズ)』(藤本一勇)を読みました。

とっても壮大な論を展開しています。この「ヒューマニティーズ」のシリーズはどうやら論じている学問領域について、

  • どのようにして生まれたか
  • 学ぶ意味は何か
  • 社会の役に立つのか
  • 未来はどうなるか
  • 何を読むべきか
で統一しているようです。この『外国語学』もそのフォーマットに則っていますが、僕の想像していた内容はあっさりと裏切られました。

基本的に、本書は言語と権力の関係について論じています。特に近代以降の話ですが、外国語を学ぶという営みが帝国主義的な性格を帯びていることから始まり、外国語に限らず「国語」さらには言語そのものの持つ権力性を解説し、それを相対化して言語自体を使って言語外のものをあぶり出す行為について論じられています。

いくつか疑問に思うところもありました。「外国語学」という学問分野が作られたのはきわめて新しいことでしょうが、それ以前だって人は外国語を身につけていました。それに仮に日本の外国語教育が英仏独(露中)の技術や法制度や思想を取り入れることを目的として成立したならば、例えば欧米の外国語学はどうなのでしょう。英語の歴史にしてもフランス語の歴史にしても、いわゆる近代国家の成立と同時期に言語が統一されていることは確かですが、それはあくまでも「国民」や「国語」の話。そうした地域での外国語学はちょっと性質が違うのではないかという感想を持ちました。もう少し感想を具体的に言えば、トップダウン型の言語統一ではなく、ボトムアップ型の言語統一(そのようなものがあるかは知りませんが)では、権力のゲームは支配の様相ではなく訓育や合意の様相を示すのではないかな、と。例えばグーテンベルグやルターをきっかけにゲルマン諸語とラテン語の関係はどう変わったのかな、とか。

そんなこんな。難しい話ですが、「権力」という語が使われすぎていて、これをMachtとかpowerとかと読み替えるべきなのか悩みました。単に「力」とでもすべきところではなかろうかとも思いますが、権力論をはじめたらきりがないのでそれはあまり考えず。

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