2011-01-25

お茶くみを知りそめし頃

これから書くのは煎茶の話で、抹茶はまた別。

いつからかは覚えがないけれど、僕はお茶をくむことができる。しかし今日お茶をいれて、実は大してわかっちゃいないことに気がついた。茶葉の量はどうするか、急須は温めるのか、一人分のお湯はどの程度か、お湯の温度はいかほどか、茶碗の温度はどうするか、茶葉はどのように選ぶのか、茶葉を急須に入れてお湯を注いだらどの程度待つのか。

はじめて煎茶をいれたのは、小学生の頃だと思う。あまりにも日常的に目にする飲み物なのに、小学生の僕は自分でお茶を飲むことはなかった。お茶をいれる必要が生じたのは、大人(親だったか祖父だったか)が留守の時に来客を待たせなければならなかったためだ。その時は見よう見まねでお茶をいれた。茶碗はどこにあったか、茶碗は同じのを揃えた方がよいのか、というか来客用の茶碗がいくつもあるがどれを使ったらよいのか、普段は使わないが受皿は使うべきか、お茶をいれてから持っていくべきか、それとも来客の目の前でお茶をいれるべきか、茶菓子はどうするか、などなど、大いに悩みながら形だけでもお茶を出したものだ。

長じて高校生の頃、年配の知人(どうでもよいことかも知れないが、京都の人である)から「うまいお茶をいれてやる」といわれた。微に入り細をうがつ説明をうけながら、頂いたお茶は確かにうまかった。それを再現しようと自分で何度も試みたが、その時の感動には及ぶことはない。いまだにお茶を飲む習慣がない僕は、たまにお茶をくむときにはその時のことを思い出しながら精進するのだが、いまだ途は遠いようである。

自分の職場でも訪問先でも、飲み物が振る舞われることがあるが、多少飲み物の味がわかるようになってくると、お茶やコーヒーなどをおいしくいれることのできる人はごく少数であることに気づく。そうした達人は、正しい知識を誰かから授かり、自分の舌で試行錯誤しながら現在の技術を身につけたのだろうが、それは厳しくも幸せな修行だったのではないか。

かつては多くの職場で女子社員がお茶くみを担当していた。性別や仕事内容としてその是非はさておき、正しいお茶くみを知ることなく大人になるより、きちんと教わったうえで毎日お茶をくみながらフィードバックを重ねる経験を積んだ方が、ある意味では幸せかも知れない。少なくともお茶くみを知りそめし頃に、なんとなく行うよりは意識しておいしいお茶をいれるようにすべきだろう。潜在的においしいはずのものを、喉を湿らせる程度にしか役立たないものに変えてしまうのは、もったいないことだ。

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