2007-04-02

正しい日記の書き方

そもそも日記を書く(日記をつける)ということからしてかなり不自然な人間の行いなので、書かないのがもっとも正しい在り方だと思う。

それでも書くとする。正しく日記を書くためには、何のために書くかを明確にしなければならないが、自分に溜っているものを吐き出すためとか、備忘とか、近況報告とか、わかる人にしかわからない暗号通信文とかは、日記としては不純である。では日記の目的はなにかといわれると、僕にはわからないけど。

「しょせん我々はそれほど他人様に知らせるべき日常をおくってはいない」ということが前提となる。知らせて有用な情報ならば、日記という形式とは違う形で知らせるべきである。例えば業務報告、論文、などなど。従ってかりに日記を書くとしたら、他人様に知らせても有用ではない情報が日記の主な内容となる。

他人様に知らせて有用ではない情報をあえて知らせる積極的な理由は、ひとつは自己顕示である。例えば「本日ビル・ゲイツ氏と会食。財団の方向性についてサゼッションを行う」や、「奥田元会長から見舞いの品届く。相変わらずまめな奴だ」など、他人様が読んでも何のおもしろみもないことを書き、自分の存在をアピールする。

しかし我々76世代は、多少なりとも謙譲を美徳とする文化によってソーシャライズされている。その価値観に照らしあわせると、自己顕示など恥ずかしくてできたものではない。

第二の理由は単なる記録である。後世の民俗学者が楽できるように、現代の習俗を残すという崇高な理由がある。しかしこれも、同時代を生きる他人様が読んで面白いわけがない。例えば本日の僕の生活を記録すると、「05:00頃起床、しばらく憂鬱な気分のわるさに苦しむ。06:00頃多少前向きになってきたので、枕元にある愛用のThinkPad X22の電源を入れ、Debianを立ち上げる。自分のアカウントでログインし、emacsをターミナルから実行し、howmを立ち上げる。前日の入眠時間を記録し、思いつくままに現在の状況をメモする。ToDoをチェックし、今日するべきこと(病院に行くこと、某社のモデムを返却すること、定期券の払い戻しをすること、配偶者の食べられる食材を購入すること、配偶者の食べられそうな料理を用意すること、充分な休息をとること)を整理する。w3mのバッファをを立ち上げ、del.icio.usでとあるタグがつけられているサイトをチェックする。現在/.Jでモデレータになっているので、ひととおり流し読みし、三つ程モデレートする。iceweaselを立ち上げ、購読しているRSSフィードをチェックする。購読しているのは……」と、延々と続き(これでもまだ07:00になっていない)、これを他人様が読んでも面白くもなんともない。

したがって、特別有用な情報があるときをのぞき「書くべきことは何もない」と書くのが正しい。

もちろん「現在の日記はコミュニケーションツールである」という反論は予想されるので前もって言っておくが、我々76世代は「沈黙は金」という文化によっても多少なりともソーシャライズされている。無意味なおしゃべりは楽しいものだが、30歳ともなろう大人がおしゃべりに興ずるのは、文化的には美しいことはない。

先ほど「書くべきことは何もない」と書くのが正しいと書いたが、さらに日記ともなれば毎日続けるものである以上、「今日は」と前につけると時系列を記録できて便利である。間違えて「今日も書くべきことは何もない」などと書くと、「今日も何もないのか。それでは明日こそ」などと、生活するうえで日記をつけるという本来の順序が逆になり、日記をつけるために生活するという強迫観念にかられてしまう恐れがある。

以上論じてきたように、日記をつけて他人様に読ませる以上、正しい記述は以下の一文のみである。

「今日は書くべきことはなにもない」

毅然とした態度でこれを一週間、一ヶ月、一年と連続させることにより、没我の境地にいたることのできるひとも中にはいるかもしれないが、日記をつける目的は悟りを開くことではない。あくまで厳然と日々を記すことである。

さて、今日は書くべきことは何もなかった。以上日記を書いたつもりではない。(おそらくまだ続く)

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