2007-05-08

ほとけごころ

僕は今まで自分の姉について他人に多くを語ったことはないが、姉についてかなり長い独り言を書く。

姉は僕より6歳年上である。父曰く、幼時の姉は平均的な基準から見て明らかに言葉を話し始めるのが遅かったらしい。小学校にあがり、いわゆる特殊学級、つまり障害者クラスに入ることを勧められたらしいが、祖父の働きかけで普通学級に通った。中学校も同様である。障害を分類することにさほどの意味をここでは感じられないが、今でいうところの「学習障害」のようなものだろう。

姉は中学校から不登校を始めた。その真意は僕にはよくわからない。卒業後に極めて自由な私立高校に入学した(その様子が公共放送でも放映された)。高校卒業後は僕にもよく把握できないが、ときたま作業所のようなところにいったりもしたが、ほとんどは家にいたと思う。

僕自身に関する自覚的な決定は、姉の存在によって影響されるところがかなり大きい。大学に入学するときに障害者教育を勉強しようと思ったのもそのためだし(結果として養護学校教員の単位は取得したが、身につけたのは教育社会学的なものだったような気がする)、大学卒業後に実家に戻ったのも両親の事を考えるところもあるが、姉の事を考えたところもある。その後に家業を放り投げて大学院に進んだが、そこで社会学の視点から社会運動、とりわけ障害者運動の研究の真似事をしたのも姉の事が心のどこかに引っかかっていたからだろうと後から思う。

はっきりいっておくが、僕は情け深い人間ではないし、血縁や何かを最重要視することもない(と思う)。僕は僕の主観的判断により明らかに思慮分別のない人間や明らかに無知蒙昧な人間が好きではないうえ、姉は以上のどれにも当てはまる。

ここまでは長い前置き。今朝とある本を読んでいたとき、先月実家に帰った時の事を思い出した。ここからが本題。

どういうわけだか僕の実家ではいわゆる日本の古典的な教養を身につける事が当然となっていた。和服を着るにもさほど困らないし、お茶の席できちんとした作法は心得ていないが、そこそこに振る舞うこともできる。教育期間を通じて、古文などとりたてて勉強しなくともおおよそ読めたし、実家での日常会話にも能や歌舞伎、和歌などがざっくばらんに散りばめられていた。

そうした実家で育っていながら、姉はそうしたものを一切身につけていない。先月母と姉が桜の下での野点に招かれた話を聞いた。姉にとっては初めての席で、一切の作法をわきまえていない。通常なら席に至るまでの主人の心配りをめで、席について菓子や茶をいただき、器をめで、主人にお返しするなり同席の人にお渡しする、という一連の流れを全くわかっていなかった。かくいう僕もさほどわかってはいない(ちなみに僕の配偶者は茶道部だった)。

そこで母は、「私のすることを真似すればいいからね」といい、姉はそれを真似た。その際にも姉は「回すんだよね」といいながら、器をぐるぐると回転させたり面白可笑しい所作をしたらしい。ところが茶を喫した姉は「おいしいね」と大きな声でいったという。

さて、ここからがようやく肝なのだが、様々な理屈や文物をかじり、席についても場を乱さないようにするだろう僕の茶の体験(その他の体験でもよい。例えばおいしいコーヒーを飲んだりとか)と、姉の上記の体験を比較したときに、どちらがより純粋に主人の心配りを楽しんだかというと、間違いなく姉の方に軍配があがるだろう。いくら古人が花を歌ったものを知ろうと、どれほど釉に通じようと、所詮そのようなものは死んだ知識であり、今ここでまさに向き合っている体験を直接的に深めるものではない。姉がこれまでにどのような苦悩に向き合ったか、どのような自己を形成してきたか僕には知りようもないが、その喫茶の直接体験の深さは僕をはるかに凌ぐものであったと想像する。

各人の個性化であれ、コミュニティの連帯であれ、生産活動であれ、社会改革であれ、あるいは社会秩序の維持であれ、その美しさの根源には体験の深さがあると僕は大雑把に思っている。僕から見て完全な愚者であり、ほぼ狂人であり厄介者である姉は、その茶席では僕よりもはるかに輝いていた。ここ数ヶ月、ともすれば生きることを放棄しがちであった僕は、姉のその輝きに今朝になって気がついた。迂闊であったという他はないし、僕のような非情な人間でもふと胸が熱くなった。

0 件のコメント: