2009-03-18

声に出せない日本語

ある方がファッション関係の言葉について「声に出せない日本語」と書かれていたのに触発された雑談です。僕が多くの人を敵に回すと割り切ってしまえば、声に出せないのは「スイーツ(笑)」全般に言えることだと思います。

もう少し敷衍するなら、流行やら文化的新しさに関する壮大な考察をしなければならないのですが、簡単に言ってしまうと

  • 新しいモノを追求する
  • モノはそうそう新しくならない
  • モノのかわりに新しい概念を生み出す
  • 新しい概念に名前をつける
という一連の流れが一つにはあると思えます。

もう一つの流れは、
  • 文化的な同一性をもって自己のアイデンティティを確保する
  • 文化的同一性はそうそう持てない
  • 言語的同一性をかわりに持ってくる
  • 同じ言葉を使うひとと同じカテゴリーに自分を置く
  • 同じ言葉を使えないひとと排他的関係になる
というようなものかな、と。例えば「シンボリックインタラクショニズムにおける社会学のリングイスティック・ターンは……」という話し言葉を使う僕の友人(実話です)は、そういう言葉を覚えることで仮の安心を手に入れて、そういう言葉を使うことで自分が何者であるかを暗に表明し、そういう言葉を使えないひとと交わらない生活様式をつくってしまいます。

話を戻して、新しい言葉。それを恥ずかしく感じるような言葉は、恥ずかしさを意味として持っているわけです。つまり新しい言葉といっても造語の由来となるのは既存の言葉で、その言葉がそれまでに持っていた「指し示されるモノ」は捨てきれないままに新しい概念を指し示そうとしているわけですね。あえて古い「指し示されるモノ」を残したままということもありますが、多くの場合は新しい概念を巨人(既存の「指し示されるモノ」)の肩の上にのせるようなものでしょう。だからこそ
  • 古い「指し示されるモノ」と内容的な距離がある
  • 新しい概念の新しさが不明瞭
といったところで恥ずかしさが増すのだと思います。

長々と綴ってきて、ようやく僕のいいたいことになりますが、スイーツ(笑)関連よりも、アダルト映像関連の言葉のほうが声に出せない。それをいいたかっただけなのです。生物が単為生殖をやめて以来続いている行為を、人類が記録を残すようになって以来続いている表現方法を使って言葉にしても何も新しさはありませんから、様々な工夫を凝らしています。それらはとても愛おしい言葉たちなのですが、声に出せない(そもそも読み方がわからなかったり)。

オチがないまま終了。

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