2010-08-06

デジタル書籍と読書の記憶

本を読む現代人の例に漏れず、僕も本のデジタル化に凄く興味があります。ですが黎明期に電子ブックを買ったりしたものの、紙の本よりも素敵な読書環境はいまだに想像できません。たまには本を PDF化したり、携帯電話やパソコンで青空文庫形式の本を眺めますが、Kindle(など)を購入しようという気には今のところなりません。

Kindleなどの電子ブックリーダーを使うと、きっと素敵な経験が得られることでしょうが、紙の本よりも読書体験が均一になりそうなので、印象が残りにくいのではないかと思っています。開いたときのインクの匂いとか、カビの匂いだとか、押花・押葉とか、コーヒーのレシートとか(へそくりとか)、虫を叩いた跡とか、本文への書き込みとか、見返しに残した買い物メモとか、手触りとか、重さとか、装丁とか、紙の厚さや質感とか、教科書に描いたパラパラ漫画とか、イライラしたときに投げつけたりとか、エッチな本を隠すスリルとか、紙魚に眉を顰めたりとか、本棚のあちらからこちらへ移したりとか、布団の下に敷いて床冷えをしのいだりとか、いろいろな要素が読書体験の一部になっているような気がするのです。

思い返して下さい。女の子に振られた日に読んでいた本は、内容よりも本の質感と重さが思い出されます。寒い冬の日に田舎の駅で人を待っていたときに読んでいた本は、冷たくなった本が記憶に鮮明です。大水で電車が止まってしまったときに読んでいた本は、読んだことよりもうんざりして本を閉じたことをよく憶えています。小学校の図書室で何度も借りた本は、背表紙が割れてばらばらになりかけていました。プレゼントされた本はラッピングが凝っていました。プレゼントする本をどのように包もうか考えて、雑貨屋さんで包装紙を買いました。雨に濡れてふやけてしまった本を見れば、その時の雨の匂いがよみがえるようです。幼かった兄と奪い合った絵本は、中身よりも表紙をよく思い出します。気になる女の子と書店でばったり会ったときにどの書架の前に立ちどの本を買ったかは、書店がつぶれても店内図を書けますし、その本は彼女の記憶とセットです。

そうした記憶がこれからは一様のものになるとしたら、情景とセットにして記憶されている本の内容も紐づける対象が減ってしまうので、体験は少しだけ平板なものになってしまうのではないかなどと、電子ブックリーダーを使う前から心配しています。使い始めはきっと同じように記憶に残ると思うのです。僕は『ドグラ・マグラ』を携帯電話で再読しました。折口信夫の『死者の書』はパソコンで読みました。それらを読んだときの情景は、まだ珍しいものだから鮮明に覚えていますし、Amazon.comで買った数冊のPDFも、買った経緯から読んだシチュエーションまで比較的よく憶えています。ですがそれは特別だからこそ記憶にあるのであって、当たり前のことになると判別をつけにくくなるのではないでしょうか。

すごく感傷的かも知れませんが、読書って内容が伝わればそれでよいものでもないと思うのですよね。内容の伝達に限ればもっと効率の良いメディアはあるのでしょうが、これまで紙の本が培ってきた、モノに淫するような傾向もまだ捨てがたく感じますし、本の内容ではない感覚の記憶をくすぐるからこそ、これから読む本もおもしろさも増すのではないかと思います。

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