2007-07-16

亡き祖母のために

僕はいい歳ながら、祖母が亡くなったことを書く。30代男がおばあちゃんのことを書くことを笑ってほしい。

祖母はそもそもがお嬢さん育ちだったのだろう。地元有数の資産家で生まれ、三人きょうだいで育った。想像に過ぎないが、祖母の言動からよほど周りから大切にされて育ったように思える。

金銭感覚もちょっと変わっていた。例えば「茸を食べたいから山を買った」「孫が落ちるから池を埋めた」「葡萄を食べたいので葡萄園を作った」など、発想のしかたが僕とは違った。その山で遊んだり、池に落ちたり、葡萄を食べたのは僕だ。

活発かつ活動的な質で、昭和63年に祖母の夫が他界するまでは年中世界中に旅行していた。幼い僕はそのお土産や話を楽しみにしていたものだった。単に旅行をするだけでなく、地域での活動にも盛んに関わっていたようだ。

活発で押しが強いお嬢さん育ちというと、手におえない人に聞こえるかもしれないが、さっぱりとした性格で、明晰な頭と豊富な知識をもとに、あまりにもはっきりとものを言う人だったので、憎まれたりはしていなかったようだ。例えば僕が大学に入学するとき挨拶に伺ったが、そのときに「asm、女には気をつけなさいよ」と周りが驚くほど唐突にきっぱりと言った。それまでは早稲田文学の話をしていたのだ。

そんな性格だから、老いてなお女王様として家族とともに時を過ごし、多くの人を惹きつけた。もちろん祖母は自分の好き嫌いをはっきりと周りに伝え、他人が彼女のために何かをするのは当然のこととして威張っていた。

そんな祖母がある日突然「いいひと」になった。普段のことならば、祖母は食事を食べさせてもらうのが当然で、好きなものを食べるし嫌いなものは食べないから、周りとしてはバランス良く食べてもらいたいために祖母と衝突をし、祖母は怒ってばかりいたのだ。しかし5月28日の朝は何も文句を言わず、しかも「ありがとう」などと珍しいことを言ったという。

5月28日の朝は食事をしながら夢の話をしたという。夢の中では、故人も含めて親族皆でお祭りに出かけたという。お祭りは綺麗で賑やかで、とても楽しかったらしい。そして食事のあとに「ありがとう」といい、「これでゆっくり休めます」といい、その後に脳梗塞で意識不明になった。

治療という治療もせず、点滴と酸素供給のみでしばらく過ごした。度々見舞いにいったが、手も足もつやつやと娘さんのようだった。そんな状態が続いたので、秋まで「生きる」のではないかと話をしたりしたものの、7月13日に家族が見ている中でひっそりと静かに他界した。死顔は非常に穏やかで綺麗だった。

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