2010-01-13

『グローバリズム出づる処の殺人者より』

グローバリズム出づる処の殺人者より』(アラヴィンド・アディガ)を読みました。話題になっていた本ですが、話題通りにおもしろい。

本書は中国の首相に宛てて、インドの起業家が田舎の貧困家庭での生い立ちから語りおこした手紙(メール?)の形式で進められています。主人公は(以下あらすじなので白字)家庭事情により学校をあきらめさせられ、茶店での単純労働を経て金持ちの運転手となりデリーで生活をします。後にその雇い主を殺して奪ったお金でバンガロールで事業をおこします(白字おわり)。

最近のインドのイメージといえば、ソフトウェア産業の振興で経済的に注目されている地域というものですが、ソフト屋さんばかりではなくてその周辺のサービス産業も様変わりをしていることでしょう。それでも古くからある社会体制はそこまでの変化を見せず、いろいろな場所でそれぞれの「檻」となっているようです。本書のおもしろいのは、その「檻」同士の桎梏を描いている点ではなかろうかと僕は感じました。

かつてインドは世界でもっとも豊かな国だったそうで、その時代にカーストが固定化されました。その方がそれぞれの人にとって都合が良かったからなのでしょうね。それが固定化されているために、経済的な格差が生じてもカースト間の移動が難しくなり、生産形態が農業を中心にしようと工業が盛んになろうと官僚制が導入されようと、ある仕事はある人たちのもの、という状況が続いています。

ヴェーバーがよく書いていたことですが、支配の形態は正当性によるもの、伝統的なもの、カリスマによるものといろいろあります。なぜ個々の人が不利益を被ってまでそうした支配を受け入れるかと考えると、一部には自分で納得したものもあるでしょうし、有無を言わさぬ暴力によって従わされているところもあるでしょう。しかし圧倒的多数はその支配自体を自分に内面化していることで安定を得ているものです。

本書では使用人が雇い主の資産を強奪しないことが「使用人根性」として描かれていましたが、こうしたものは生活のありとあらゆる場面から強化されます。例えば信仰する神からして違います。初等教育課程も家庭環境やら政治状況やらでスムーズに進まないことが多いです。家でも学校でも従うことの正当性や合理性に慣れ、将来の展望も規定され、置かれた状況を当然のものとして受け入れることになります。これは貧困層のみの話ではなく、資産階級も自分よりも上位のヒエラルキーを当然のものとして受け入れることとなります。

本書の登場人物たちはそれぞれ象徴的な役割を持っています。主人公の雇い主はアメリカへ留学していましたのでアメリカ的な考え方も持っていますが、親や親族と結婚についてもめていましたし、利権や税金のために贈賄をすることに絡められています。バスの車掌から政治活動をするようになった登場人物は、比較的新しくインドに現れた政治的エリートとして階層をのぼっていきます。中国の首相だって宛先としてしか登場しませんが、中国の政治や経済の状況をインドと対照させられます。もちろん主人公はもっとも大きな役割を担い、起こりつつある変化を象徴します。

この小説について語る人は往々にして、ルポタージュやノンフィクションとフィクションを対比させたり、「インドの実像」について語りますが、僕はそうした点にはそれほど惹かれませんでした。パール・バックの『大地』や魯迅の『阿Q正伝』に似ていると言えば似ていますし、そうした「フィクションによって現実をよりリアルに伝える」とかいう話はすでにし尽くされている感があります。それよりも僕の目には、登場人物がアイコンのようにちりばめられ、それらの互いの関わり方が現代(インドに限った話ではありません)を戯画化しているように感じられるところが素敵と映りました。受け取りようによっては惨憺たる話ですが、それをうまく軽やかにする主人公の皮肉な語り口も訳文も素敵でした。

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